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第二章
痣姫
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「お義父様!」
大きな音を立てて書斎の扉が開いた。
「ナディ御姉様も!」
続けて聞き間違えようのないきらびやかな声が複数飛び込んでくる。何かはわかっている叔父もナディもそれなりの表情でそちらへ顔を向けた。
「こら、お前達!」
困った様な叔父の叱責。だがナディでなくとも声と表情が緩んだのはわかる。叔父はこの娘達にとことん甘いのだ。
「お義父様ぁっ」
その叔父のちょい太めの身体に少女達が群がっていた左右の腕に絡みついているのがエリザベド六歳、ジゼル四歳だ。見事な連携攻撃であった。
「こ、こらあ。お義父さんはナディと大事な話をしているんだぞお」
口ではそう言っているがもう叔父の顔はでれでれである。怒るとか振り払うとか絶対に出来ないだろう。まったく、『姪との大事な話』とやらはどうなった?
「お取り込み中の処、失礼致します」
そして悠然と――まるで猟犬を仕掛けて猪の足止めをさせている猟師の様な余裕でもう一人が現れた。やはりこの子かとナディは思う。つまりこれはこの家の最高権力者の思し召しなのだ。
「なあに? アレクサンドラ」
ナディから話し掛けた。つまりこれがこの少女の名である。公式にはティンベル男爵家長女の八歳。女傑である母親の薫陶を一番に受けていると噂されていた。
「ナディ御姉様」
その少女は母譲りの作りのはっきりした顔で微笑み、まるで歌劇団の子役のお姫様かの様にドレスの両端を摘まんであげて優雅に一礼した。
「お義父様との御用はお済みですか? 次にお母様が御用との事でお呼びに参りました」
落ち着いた物言いである。八歳とは思えない堂々とした貫禄であり、将来は外交官にでもなれそうだった。
「ええ、いいわ。参りましょう」
ナディからすれば渡りに舟である。どうせここまでの話題を叔父と続けても、ここからは拒絶からの叱責とか説教とか泣き落としくらいしかないのは容易に予想がつく。それなら叔母の元へ移り、甘いお菓子でも頂いた方が良い。
どうせ話題は同じだろうし、あっちの方がむしろ手強いにしても。
「待て! ナディ! 話はまだ言い終わっておらん!」
次女と三女に全身でからまれて身動き出来ない叔父のでれでれ悲鳴を背にナディはアレクサンドラと書斎から逃げ出したのであった。
ティンベル男爵家の屋敷は、この時代の貴族としては慎ましい。それなりの収入相応だとしても。とにかく叔母のエロイーズのいる部屋は叔父の書斎から二つ隣だった。
「お呼びですか。叔母様」
ちょっとだけ緊張してナディは入る。仲の良い大好きな叔母だが、今日は要件がわかっているから。
「ああ、ナディ。呼び出ししてすまないね。ちょっと待って」
夜は夫妻の寝室になるその部屋でエロイーズは夫婦用ベッドの隣にある小さなベッドの傍らの椅子に座っていた。ゆったりとした室内着の胸元が開かれて豊かな膨らみが見える。授乳中だったのだ。メイドがそばに控えている。
「ナディ御姉様。こちらへ」
アレクサンドラがてきぱきと動き、ナディを部屋の真ん中のテーブルに誘導する。ナディは素直に引かれた椅子に座った。すぐにも乳児をメイドに渡し叔母が胸元を直しながらくる。
爵位を誇る貴族ならば例え嫡子でも乳母を雇うものだが、この富商家出身だが平民上がりでもある叔母は気にもしない。ティンベル男爵家そのものが領地を持たない文官のみと言う珍しい家系のせいもあるのだけれども。
「リアーヌは元気そうですね」
「ジェルマに似たんだろうね。いつもたっぷりになるまでおっぱいを離さないのよ」
エロイーズ・ティンベル――ティンベル男爵家の当代の奥方は娘達と同じはっきりとした目鼻立ちの顔で大きく笑った。
「アレクサンドラ。用意を。クッキーには蜂蜜をかけて」
「はい。お母様」
ナディの向かいに座った母に命じられてアレクサンドラはいそいそとおもてなしの用意に引き下がった。一応、義理だとしても貴族の子女になるのだが、一人前になるまではお嬢様扱いしないのが叔母の教育方針である。
「さて、ナディ」
従妹の姿が消えると同時に叔母がナディににっこり笑った。さあ、来るわとナディは身構える。その視界の端ではメイドが生後二か月になる従妹のリアーヌを抱えてそろそろと退室しつつあった。巻き込まれるのを避けるのね。相変わらずこの叔母の躾は完璧だと思う。
「ジェルマから話は聞いたわよね」
ほら、やっぱりその話だとナディは心の中だけでため息をついた。
「東のブレイブの領主様とか騎士様とかについては一通り」
嘘ではない。個人の紹介は聞いた。
「そのカーリャ・リィフェルト君がナディに結婚を申し込んで来た事は?」
ずばり言われた。この叔母が再婚で四人の連れ子と共に男爵家に嫁いできてまだ二年もたっていないが、その短い付き合いだけでも、ナディの面倒臭い性格はほぼ把握されている。
仲良しなだけに。
「初めて聞きました」
嘘である。
「今、ちゃんと言ったからね」
叔父の様に姪の機嫌を伺いながら話す気はないらしい。さすが叔母様。強い。
「おめでとう。ナディ」
それでもナディが叔母を苦手に出来ないのは、彼女が心の底からこの問題のある姪を可愛がっていると知っているからだ。幼い頃に亡くなった実母以外にここまで愛してくれる女性はいない。
「これでお前も花嫁だね」
真顔で言ってくる。困る。その事情を知っている癖に。
「わたしはご返事はしておりません」
叔母の真っ直ぐな視線から心持ち目を背けてナディは答えた。さあ、ここからどう話そうかしら。
「結婚の申し込みでしょう? 『光栄です。喜んで』と応える以外に何があるの?」
何があるかわかっているのだろう。叔母の口元がにやりと笑っている。
「わたし、結婚する気はありませんから」
だからはっきり言ってあげた。声に力が入ったのは心の揺らぎの現れだろう。
「まあ、どうして?」
まるで初めて聞いたかのような叔母も大仰な声。ああ、面白がっているのねとナディは少しムッとする。
「お、女だてらに王立図書館の司書を仰せつかっております。きっと賢らしげな嫌な女だと思われているでしょう」
事実である。現在、聞いている限りにおいては王国唯一の女司書である事と、それを良くは思わない人間があちこちに相当数いる事。ナディは表でも裏でもそう聞いている。わざわざ面と向かって本人に悪評を言いに来た例だって数えきれない。
「それに――この顔ですから」
ナディはそう言って常に顔の左前に下ろしている髪をかきあげる。その下も含めた容貌の全てを叔母に晒して見せた。
北方の血によるであろう淡い金色の髪と薄い青の瞳。亡き母譲りのまあまあ整った顔立ち。雪に花弁をすりこんだかの様な綺麗な肌――
そして左の額から目元を通って頬までを染めた赤紫色の大きな痣。
生まれた時からこうだったと聞く。愛らしい美貌をちょうど左右に色分けするかのようなそれは、特に人目を引くらしい。初めて見る誰もの表情が思わず動くのをナディは物心ついた頃から嫌と言う程に経験していた。陰でもこう言われているそうだ――『男爵家の痣姫』と。
「だから?」
平然と言う叔母。この女性だけは希な例外だった。叔父の結婚相手としての最初の挨拶の時にその笑顔は小揺るぎもしなかった。ありがたく嬉しかった。連れ子達も同じ反応だった事から推測して、事前に聞いて心の準備をしていたのだろうが、それでもいい。この女性なら家族になれると密かに思ったくらいだ。
「あなたの痣の事は知っている人は知っているわよ。今更、それがどうしたって言うのよ?」
ナディの肌の他の部分が父と同じでなければ、きっと母が不貞を決めつけられていたであろう。幸いそうはならなかったが、次には迷信深い連中が『取り換えっこ』ではないかと噂し始めた。この年齢になっても自宅の周辺のみならず王宮にまでも、そんなのがまことしやかに陰口になっている事も知っている。
「女としての価値はねえ、まずは頭が悪いとか性格がひどいとか身持ちが悪いとかじゃなければいいのよ」
唯一、ナディに幸いしたのはこの奇妙な容貌のお陰で、幼少より多少の奇異な振る舞いは仕方ないと周囲に黙認された事である。普通の人と会いたくないと言う理由で、代々のティンベル男爵家が館長を務める王立図書館へは亡父につれられて幼少の頃より毎日自由に出入りしていたし、女はもちろん誰に必要なのだと言われそうな古書奇書を勝手に閲覧し、読みまくっていた。
「あなたは王立図書館の本を一日中読んで、今ではそのほとんどを諳じている『魔女』でしょうが」
叔母の言うのは大袈裟だが間違ってはいない。物心ついた頃から十数年。誰よりも熱心に図書館の蔵書を読み漁った結果、その知識量では王国屈指と自他共に認めている。分野によっては次期館長と噂される叔父すら凌ぐし、現館長のリンツ卿ですらナディに知識の確認を求める事もあるくらいだ。
「それ、きっと誉め言葉じゃありません」
ナディはぷうっと頬を膨らませた。あら可愛いと思った叔母だが、彼女にもわかっている。この時代のこの国は、女の知恵だの知識量だのが純粋に称賛される世間では未だないのだ。
「でも今回、お前に求婚してきた男はそこがいいと思っているのよ」
初耳だ。そんな奇特な男性が本当に存在するのだろうか。小賢しいだの鼻につくだの散々に言われている。誉めてくれたのは身内の亡父や叔父やリンツ卿他少数くらいで、同じ司書でも陰口を叩く人はいるのだから。
「まして騎士様よ? 身近で会った事は少ないかもだけどナディの好きな物語や抒情詩でよく知っているでしょう? 素敵じゃないの」
この叔母ですら『騎士と姫の恋愛譚』に憧れているのだろうかとナディは少し呆れる。恐るべし乙女心であろうか。確かにナディも図書館で(何故か隠れて)その類いの浪漫の神話、叙事詩、叙情詩、物語は読み漁ったものだが。
「でも自由騎士ですよ?」
ナディは嫌そうに言った。
「凶状持ちか御高齢か、身持ちがふしだらかの男なんて嫌です」
特に最後のは大嫌いだった。女を裏切る男なんて死んでしまえと本心から思う。架空の物語でもそう言う展開や結末には震える程に激情するナディである。
それにその程度の男だからこそ、痣付きの問題娘である自分でもいいかと考えているのでは――とまで思うと馬鹿にしないでと顔がひきつる思いだった。
「凶状持ち? え? ジェルマがそんな事言ったの?」
だが、叔母は驚いていた。初めて聞きましたと言う顔である。
「……違うんですか?」
「お手紙はわたしも読んだし、リンツ卿からの説明も教えてもらったけど、そんな事は全く無かったわ」
この叔母にベタ惚れの叔父は、妻に絶対に隠し事なんてできないのはこの屋敷中が知っている。
「そもそもリンツ卿がナディにじいさんとか女たらしとかを紹介するはずがないでしょう」
そう言われてみればとナディは思う。リンツ卿は亡父の親友でもあり、幼少の頃よりナディも可愛がってもらっていた。今は亡父の席を継いで王立図書館長でナディの上司であるが、生真面目で責任感に厚い立派な方だ。ナディに不当な苦労を押し付ける様な真似をするはずはないと改めて思う。
「そうだとしても……」
でも納得はいかなかった。縁談である。ナディの人生にとっては一大事件だ。
この話を持って来てくれたリンツ卿。受けた叔父。勧めてくれる叔母――全てがナディに好意的であり、ナディの幸せを願っている事は疑いようがないのに、何故か、どうしても納得出来ない自分がいる。
それが生まれ持ってついていたこの醜い痣と、意固地に好きな読書に没頭していただけの半生への世間の評価のせいだとはわかっている。『魔女』の双つ名だってある。女で王立図書館の司書なんてベルガエ王国建国以来だそうだし、同じ目標を持つのは密かに文通を続けている北の親友くらいだ。でもあっちはまだなれていないらしいし、さらにちょっと年上だからお嫁入りとかもあるからもう諦めたのかも知れない。寂しい。
とにかくナディは存在そのものが王国唯一と言って良いくらいに独特過ぎるのだ。
そんななんやかんやのその不愉快な事情のせいで、今以上と以外の関わりを世間と持ちたくない。ほっといて下さいと言うのが心の底からの本音だ。これから先もずっと。ええ、一生。
それが、そんな自分が事もあろうに『騎士様』に求愛されて結婚などとは――しかも一度も会った事もない、ナディの事も噂以上には知らないはずの男性に。これで喜ぶのは例え浪漫派乙女でも頭の中身がどっかへ飛びすぎではないだろうか。
さらにどうしても色々問題のある男が『痣姫で妥協するか』とか何とかほざいている図が脳裏に浮かぶ。自分の諸々による僻みもあるのだろうけれども。
「お母様!」
そこでちょうど部屋の扉が大きく開かれた。台所からアレクサンドラが戻ってきたのだ。自分より大きな台車を押している。その上には焼き立ての素朴なパイと蜂蜜の入った陶器のボトルや食器やらが並べられている。本来、これをお持ちする役目のメイドが従妹の後ろに立って困った顔で恐縮しているのも見えた。
「申し訳ありません。奥様。お嬢様がどうしてもと」
「ありがとう。あとはアレクサンドラがするわ。ポリーヌ」
叔母は優しく言ってメイドを下がらせた。ナディも椅子に座り直す。この場はここで休止だ。まだ八歳の従妹の前で具体的に話す内容ではないし。
「ナディ御姉様は蜂蜜いっぱいですよね?」
可愛いアレクサンドラがパイを切り分け、グラスからの蜂蜜をかけていく。美味しそう。でもそれで誤魔化されそうな気もしている。色々と不愉快な求婚者なんかよりこっちが優先ではあるのだが。
半刻後、大きめのパイと瓶いっぱいの蜂蜜を淑女三人で平らげたナディであったが、その不機嫌は半分くらいしかなおらなかった。
大きな音を立てて書斎の扉が開いた。
「ナディ御姉様も!」
続けて聞き間違えようのないきらびやかな声が複数飛び込んでくる。何かはわかっている叔父もナディもそれなりの表情でそちらへ顔を向けた。
「こら、お前達!」
困った様な叔父の叱責。だがナディでなくとも声と表情が緩んだのはわかる。叔父はこの娘達にとことん甘いのだ。
「お義父様ぁっ」
その叔父のちょい太めの身体に少女達が群がっていた左右の腕に絡みついているのがエリザベド六歳、ジゼル四歳だ。見事な連携攻撃であった。
「こ、こらあ。お義父さんはナディと大事な話をしているんだぞお」
口ではそう言っているがもう叔父の顔はでれでれである。怒るとか振り払うとか絶対に出来ないだろう。まったく、『姪との大事な話』とやらはどうなった?
「お取り込み中の処、失礼致します」
そして悠然と――まるで猟犬を仕掛けて猪の足止めをさせている猟師の様な余裕でもう一人が現れた。やはりこの子かとナディは思う。つまりこれはこの家の最高権力者の思し召しなのだ。
「なあに? アレクサンドラ」
ナディから話し掛けた。つまりこれがこの少女の名である。公式にはティンベル男爵家長女の八歳。女傑である母親の薫陶を一番に受けていると噂されていた。
「ナディ御姉様」
その少女は母譲りの作りのはっきりした顔で微笑み、まるで歌劇団の子役のお姫様かの様にドレスの両端を摘まんであげて優雅に一礼した。
「お義父様との御用はお済みですか? 次にお母様が御用との事でお呼びに参りました」
落ち着いた物言いである。八歳とは思えない堂々とした貫禄であり、将来は外交官にでもなれそうだった。
「ええ、いいわ。参りましょう」
ナディからすれば渡りに舟である。どうせここまでの話題を叔父と続けても、ここからは拒絶からの叱責とか説教とか泣き落としくらいしかないのは容易に予想がつく。それなら叔母の元へ移り、甘いお菓子でも頂いた方が良い。
どうせ話題は同じだろうし、あっちの方がむしろ手強いにしても。
「待て! ナディ! 話はまだ言い終わっておらん!」
次女と三女に全身でからまれて身動き出来ない叔父のでれでれ悲鳴を背にナディはアレクサンドラと書斎から逃げ出したのであった。
ティンベル男爵家の屋敷は、この時代の貴族としては慎ましい。それなりの収入相応だとしても。とにかく叔母のエロイーズのいる部屋は叔父の書斎から二つ隣だった。
「お呼びですか。叔母様」
ちょっとだけ緊張してナディは入る。仲の良い大好きな叔母だが、今日は要件がわかっているから。
「ああ、ナディ。呼び出ししてすまないね。ちょっと待って」
夜は夫妻の寝室になるその部屋でエロイーズは夫婦用ベッドの隣にある小さなベッドの傍らの椅子に座っていた。ゆったりとした室内着の胸元が開かれて豊かな膨らみが見える。授乳中だったのだ。メイドがそばに控えている。
「ナディ御姉様。こちらへ」
アレクサンドラがてきぱきと動き、ナディを部屋の真ん中のテーブルに誘導する。ナディは素直に引かれた椅子に座った。すぐにも乳児をメイドに渡し叔母が胸元を直しながらくる。
爵位を誇る貴族ならば例え嫡子でも乳母を雇うものだが、この富商家出身だが平民上がりでもある叔母は気にもしない。ティンベル男爵家そのものが領地を持たない文官のみと言う珍しい家系のせいもあるのだけれども。
「リアーヌは元気そうですね」
「ジェルマに似たんだろうね。いつもたっぷりになるまでおっぱいを離さないのよ」
エロイーズ・ティンベル――ティンベル男爵家の当代の奥方は娘達と同じはっきりとした目鼻立ちの顔で大きく笑った。
「アレクサンドラ。用意を。クッキーには蜂蜜をかけて」
「はい。お母様」
ナディの向かいに座った母に命じられてアレクサンドラはいそいそとおもてなしの用意に引き下がった。一応、義理だとしても貴族の子女になるのだが、一人前になるまではお嬢様扱いしないのが叔母の教育方針である。
「さて、ナディ」
従妹の姿が消えると同時に叔母がナディににっこり笑った。さあ、来るわとナディは身構える。その視界の端ではメイドが生後二か月になる従妹のリアーヌを抱えてそろそろと退室しつつあった。巻き込まれるのを避けるのね。相変わらずこの叔母の躾は完璧だと思う。
「ジェルマから話は聞いたわよね」
ほら、やっぱりその話だとナディは心の中だけでため息をついた。
「東のブレイブの領主様とか騎士様とかについては一通り」
嘘ではない。個人の紹介は聞いた。
「そのカーリャ・リィフェルト君がナディに結婚を申し込んで来た事は?」
ずばり言われた。この叔母が再婚で四人の連れ子と共に男爵家に嫁いできてまだ二年もたっていないが、その短い付き合いだけでも、ナディの面倒臭い性格はほぼ把握されている。
仲良しなだけに。
「初めて聞きました」
嘘である。
「今、ちゃんと言ったからね」
叔父の様に姪の機嫌を伺いながら話す気はないらしい。さすが叔母様。強い。
「おめでとう。ナディ」
それでもナディが叔母を苦手に出来ないのは、彼女が心の底からこの問題のある姪を可愛がっていると知っているからだ。幼い頃に亡くなった実母以外にここまで愛してくれる女性はいない。
「これでお前も花嫁だね」
真顔で言ってくる。困る。その事情を知っている癖に。
「わたしはご返事はしておりません」
叔母の真っ直ぐな視線から心持ち目を背けてナディは答えた。さあ、ここからどう話そうかしら。
「結婚の申し込みでしょう? 『光栄です。喜んで』と応える以外に何があるの?」
何があるかわかっているのだろう。叔母の口元がにやりと笑っている。
「わたし、結婚する気はありませんから」
だからはっきり言ってあげた。声に力が入ったのは心の揺らぎの現れだろう。
「まあ、どうして?」
まるで初めて聞いたかのような叔母も大仰な声。ああ、面白がっているのねとナディは少しムッとする。
「お、女だてらに王立図書館の司書を仰せつかっております。きっと賢らしげな嫌な女だと思われているでしょう」
事実である。現在、聞いている限りにおいては王国唯一の女司書である事と、それを良くは思わない人間があちこちに相当数いる事。ナディは表でも裏でもそう聞いている。わざわざ面と向かって本人に悪評を言いに来た例だって数えきれない。
「それに――この顔ですから」
ナディはそう言って常に顔の左前に下ろしている髪をかきあげる。その下も含めた容貌の全てを叔母に晒して見せた。
北方の血によるであろう淡い金色の髪と薄い青の瞳。亡き母譲りのまあまあ整った顔立ち。雪に花弁をすりこんだかの様な綺麗な肌――
そして左の額から目元を通って頬までを染めた赤紫色の大きな痣。
生まれた時からこうだったと聞く。愛らしい美貌をちょうど左右に色分けするかのようなそれは、特に人目を引くらしい。初めて見る誰もの表情が思わず動くのをナディは物心ついた頃から嫌と言う程に経験していた。陰でもこう言われているそうだ――『男爵家の痣姫』と。
「だから?」
平然と言う叔母。この女性だけは希な例外だった。叔父の結婚相手としての最初の挨拶の時にその笑顔は小揺るぎもしなかった。ありがたく嬉しかった。連れ子達も同じ反応だった事から推測して、事前に聞いて心の準備をしていたのだろうが、それでもいい。この女性なら家族になれると密かに思ったくらいだ。
「あなたの痣の事は知っている人は知っているわよ。今更、それがどうしたって言うのよ?」
ナディの肌の他の部分が父と同じでなければ、きっと母が不貞を決めつけられていたであろう。幸いそうはならなかったが、次には迷信深い連中が『取り換えっこ』ではないかと噂し始めた。この年齢になっても自宅の周辺のみならず王宮にまでも、そんなのがまことしやかに陰口になっている事も知っている。
「女としての価値はねえ、まずは頭が悪いとか性格がひどいとか身持ちが悪いとかじゃなければいいのよ」
唯一、ナディに幸いしたのはこの奇妙な容貌のお陰で、幼少より多少の奇異な振る舞いは仕方ないと周囲に黙認された事である。普通の人と会いたくないと言う理由で、代々のティンベル男爵家が館長を務める王立図書館へは亡父につれられて幼少の頃より毎日自由に出入りしていたし、女はもちろん誰に必要なのだと言われそうな古書奇書を勝手に閲覧し、読みまくっていた。
「あなたは王立図書館の本を一日中読んで、今ではそのほとんどを諳じている『魔女』でしょうが」
叔母の言うのは大袈裟だが間違ってはいない。物心ついた頃から十数年。誰よりも熱心に図書館の蔵書を読み漁った結果、その知識量では王国屈指と自他共に認めている。分野によっては次期館長と噂される叔父すら凌ぐし、現館長のリンツ卿ですらナディに知識の確認を求める事もあるくらいだ。
「それ、きっと誉め言葉じゃありません」
ナディはぷうっと頬を膨らませた。あら可愛いと思った叔母だが、彼女にもわかっている。この時代のこの国は、女の知恵だの知識量だのが純粋に称賛される世間では未だないのだ。
「でも今回、お前に求婚してきた男はそこがいいと思っているのよ」
初耳だ。そんな奇特な男性が本当に存在するのだろうか。小賢しいだの鼻につくだの散々に言われている。誉めてくれたのは身内の亡父や叔父やリンツ卿他少数くらいで、同じ司書でも陰口を叩く人はいるのだから。
「まして騎士様よ? 身近で会った事は少ないかもだけどナディの好きな物語や抒情詩でよく知っているでしょう? 素敵じゃないの」
この叔母ですら『騎士と姫の恋愛譚』に憧れているのだろうかとナディは少し呆れる。恐るべし乙女心であろうか。確かにナディも図書館で(何故か隠れて)その類いの浪漫の神話、叙事詩、叙情詩、物語は読み漁ったものだが。
「でも自由騎士ですよ?」
ナディは嫌そうに言った。
「凶状持ちか御高齢か、身持ちがふしだらかの男なんて嫌です」
特に最後のは大嫌いだった。女を裏切る男なんて死んでしまえと本心から思う。架空の物語でもそう言う展開や結末には震える程に激情するナディである。
それにその程度の男だからこそ、痣付きの問題娘である自分でもいいかと考えているのでは――とまで思うと馬鹿にしないでと顔がひきつる思いだった。
「凶状持ち? え? ジェルマがそんな事言ったの?」
だが、叔母は驚いていた。初めて聞きましたと言う顔である。
「……違うんですか?」
「お手紙はわたしも読んだし、リンツ卿からの説明も教えてもらったけど、そんな事は全く無かったわ」
この叔母にベタ惚れの叔父は、妻に絶対に隠し事なんてできないのはこの屋敷中が知っている。
「そもそもリンツ卿がナディにじいさんとか女たらしとかを紹介するはずがないでしょう」
そう言われてみればとナディは思う。リンツ卿は亡父の親友でもあり、幼少の頃よりナディも可愛がってもらっていた。今は亡父の席を継いで王立図書館長でナディの上司であるが、生真面目で責任感に厚い立派な方だ。ナディに不当な苦労を押し付ける様な真似をするはずはないと改めて思う。
「そうだとしても……」
でも納得はいかなかった。縁談である。ナディの人生にとっては一大事件だ。
この話を持って来てくれたリンツ卿。受けた叔父。勧めてくれる叔母――全てがナディに好意的であり、ナディの幸せを願っている事は疑いようがないのに、何故か、どうしても納得出来ない自分がいる。
それが生まれ持ってついていたこの醜い痣と、意固地に好きな読書に没頭していただけの半生への世間の評価のせいだとはわかっている。『魔女』の双つ名だってある。女で王立図書館の司書なんてベルガエ王国建国以来だそうだし、同じ目標を持つのは密かに文通を続けている北の親友くらいだ。でもあっちはまだなれていないらしいし、さらにちょっと年上だからお嫁入りとかもあるからもう諦めたのかも知れない。寂しい。
とにかくナディは存在そのものが王国唯一と言って良いくらいに独特過ぎるのだ。
そんななんやかんやのその不愉快な事情のせいで、今以上と以外の関わりを世間と持ちたくない。ほっといて下さいと言うのが心の底からの本音だ。これから先もずっと。ええ、一生。
それが、そんな自分が事もあろうに『騎士様』に求愛されて結婚などとは――しかも一度も会った事もない、ナディの事も噂以上には知らないはずの男性に。これで喜ぶのは例え浪漫派乙女でも頭の中身がどっかへ飛びすぎではないだろうか。
さらにどうしても色々問題のある男が『痣姫で妥協するか』とか何とかほざいている図が脳裏に浮かぶ。自分の諸々による僻みもあるのだろうけれども。
「お母様!」
そこでちょうど部屋の扉が大きく開かれた。台所からアレクサンドラが戻ってきたのだ。自分より大きな台車を押している。その上には焼き立ての素朴なパイと蜂蜜の入った陶器のボトルや食器やらが並べられている。本来、これをお持ちする役目のメイドが従妹の後ろに立って困った顔で恐縮しているのも見えた。
「申し訳ありません。奥様。お嬢様がどうしてもと」
「ありがとう。あとはアレクサンドラがするわ。ポリーヌ」
叔母は優しく言ってメイドを下がらせた。ナディも椅子に座り直す。この場はここで休止だ。まだ八歳の従妹の前で具体的に話す内容ではないし。
「ナディ御姉様は蜂蜜いっぱいですよね?」
可愛いアレクサンドラがパイを切り分け、グラスからの蜂蜜をかけていく。美味しそう。でもそれで誤魔化されそうな気もしている。色々と不愉快な求婚者なんかよりこっちが優先ではあるのだが。
半刻後、大きめのパイと瓶いっぱいの蜂蜜を淑女三人で平らげたナディであったが、その不機嫌は半分くらいしかなおらなかった。
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