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第七章

拒絶

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「……」

 返って来たのは沈黙だった。騎士は表情を彫刻の様に固定させ、ただまざまざとナディを見つめている。一声大きく叫んだ衝撃で、わずかにでも我にかえったナディはその視線にさらに狼狽えた。
「こ、この様なふ、ふつつかものですし、あの、本が大好きで……綺麗じゃありませんし」
 気付いてみれば言い訳まがいの事をぺらぺらと熱弁していた。
「甘いものは好きですけど、えっとワインも好きで、猫もいいです。苦いお薬と、あの司書なんですけど、本の修復は苦手で、あと裁縫とかも。暗いとは言われます。いや、言われる程に友達もいなくて、舞踏会とか呼ばれた事もないし、呼ばれても行きませんけど、き、木登りは得意でしたけど――」
 言い訳をしているはずだったのだが、思考も論理も狂想曲状態である。錯乱しているのと変わらない。相手の騎士が辛抱強く無言で聞いてくれている事にすら気付かずにナディはまくし立てた。
「そう言う訳で、あの、ええと……」 
 ようやく喉が渇れてきて言葉が止まる。やっとかと言わんばかりに騎士がほっと息をつく。
「すみませんでしたあっ!」
 とにかくナディはもう一度叫んで深々と頭を下げた。もういい。言った。断った。終わって。これで終わりにして。そう胸の内に言葉が悲鳴のように七転八倒している。
「ああ」
 ナディが静かになったのを確認する程の時間をおいて、ようやく騎士が声を出した。
「お顔をお上げください。ナディージュ殿」
 柔らかい声だった。怒りは感じられない。でもまだ怖い。しかしそうはっきり言われた手前もある。ナディは恐る恐る顔を上げる。
「色々仰られたが、わたくしにはさっぱりわかりません」
 そう言う騎士の口元は緩んでいる。苦笑、だろうか
「何か誤解があるようですね」
 口調は子供に話しかけるかの様に優しい。思わずナディも反応してしまう。
「誤解?」
「ええ、誤解です」
 騎士は微笑んだ。
「先日、我が父が馴染みの隊商から珍しい東方の巻物を手に入れまして。と言っても我らはブレイブの田舎者。身近に読める教養のある者などおりませぬ。
 そこで父の意思でかような珍品は王立図書館に寄贈すべしと言う事になりまして、その代理としてわたくしが今回、王都へ他の寄付も持参して上ってきた次第でございます」
すらすらと言葉が出ている。本当の事みたいに聞こえた。
「幸いわたしの修業時代の師が現在の王立図書館長のリンツ卿の知己であり、そちらのご紹介でこちらのティンベル男爵様が東方文化の御権威と聞きましたので、本日、持参した次第にございます」
 初耳だった。ナディはぽかんと口を開ける。そんな事だったのか。男爵家側の勘違いだったのか。あの叔父が東方文化に特に詳しいと言うのも初めて聞いた。
「ですので何かの行き違いです。ナディージュ殿にはいらぬ気遣いをおかけした様で申し訳ない」
 騎士はそう言って軽く一礼する。その声が自分に聞かせるだけにしては些か大きすぎる事にナディは気付かない。同時に騎士がすすっと後退っていくのもぽかんと見ている。
「男爵様への御挨拶の後、帰るつもりでしたが、通路を間違えまして、ついこちらへ。お嬢様の御平穏をお邪魔したようですね。お詫びします」
 この程度の屋敷で迷うとはなんと純朴な田舎者だろう。
「ではわたしは」
 その時だった。頭上で何か鳴った。まるで木が揺れた様な音に、ナディは、え? と顔を半分上げる。視界に影が飛んだのが映った。
「ラージャ!」
 さっきの猫だった。司書と騎士の会話を無言で見下ろしていたあの不思議な猫が枝から跳躍したのである。その一跳びで騎士の胸へ飛び込んだのである。
「お前、なんでここにいるんだ? 宿で待てと言っただろう」
 騎士の反応にナディは「え」と漏らす。その目の前で猫は騎士の首にまとわりつき、見るからに『抱っこ!』とせがんでいた。
「あ、あの騎士様の?」
 その甘い光景に、目の前の騎士への様々な思いを一瞬忘れて、ナディは思わず聞いてしまった。
「ええ、わたしが飼っています。『ラージャ』と言う名で」
 愛玩獣なら別腹なのか騎士は機嫌良く応えた。ナディとしてもこの話題なら乗りやすい。
「め、珍しい猫ですね」
「正直、猫かどうかはわからないのですが」
 笑顔で不穏な事を言う騎士。猫でなければなんなのとナディは不思議に思う。 
 その表情を見たせいであろうか。騎士はああと思い出したように続けた。
「ナディージュ殿。申し訳ないが伝言をお願いしたい」
「はい?」
「お恥ずかしいながら昨日の宿の支払いをまだ受け取ってもらっておりません。宿の主人の娘御がこのラージャを気に入って離さないので、その代わりと言われて置いてきて迎えに行く時に支払うつもりでした。ですが、ここにラージャがいると言う事は宿も驚いているでしょう」
 にこやかに言う。だからどうだなのだろうとナディは不審に思う。あとラージャのふさふさの尻尾ならわたしも触りたい。
「至急、戻って支払いを済ませねば、誤解されるかも知れません。実に残念ですが、わたくしはここで失礼します」 
 これにはさすがにナディも驚いた。
「い、今からですか?」
 確かこの後、リンツ卿も同席して昼食会のはずだ。しかもこの騎士が主賓のはずで。
「ええ。支払いを誤魔化したとでも思われては騎士の名折れにございますので。ラージャが逃げ出した以上、ここは大至急です」
 ああ、騎士ならそう言う事を気にするのかとナディは他人事の様に思う。
「では男爵様、リンツ卿と皆様によろしく。事情と御挨拶をお伝え願いします」
「お、お気をつけて」
 かくして騎士は風のように去っていった。その胸に抱き抱えられた猫――ラージャが主の肩越しに、何か言いたそうに最後までナディの方を見ていたのだけが印象的だった。


「はあ」
 慌ただしく騎士が帰り、庭園にナディは一人となった。半ば呆然と椅子に座っている。向こうの低木の茂みが不自然にざわめいた事にすら気付いていない。
「……なんだったのよ」
 呟くしかない。事前の鬱屈や不安やらのせいであろうか、身体に力が入らない。あれ程迄に緊張させられ悩ませられたと言うのに、つまりは叔父の早合点で叔母の思い込みだったと言う訳か。喜劇にもならない気分である。
 もちろんそんな事はない。
「ナディ様っ!」
 呆然と時間の経過もわからないナディの元へいきなり何者かが怒鳴り込んできた。
「あ、モルガン」 
 男爵家に先代から仕える忠実かつ有能な執事である。その初老の見事な白髪を振り乱してこちらへ速足で来る。背後にはメイドのポリーヌとカチャも続いていた。
「ど、どうしたの?」
 そのいつもの穏やかさとは一変した空気にナディは怯え半ば腰が浮く。執事はその目の前に巌の様に立ち塞がった。
「なんて事をしたんです!」
 最っ初から叱責である。赤子の頃から面倒をみてもらっている執事の怒声にナディは小さく悲鳴をあげた。
「な、なんてって?」
「騎士様の事です!」
 怖い。本気でモルガンが怒っている。怖い怖い怖い。
「せっかく名誉あるお申し出をナディ様になさったあの方に、あんな態度がありますか!」 
 どうやらさっきの騎士との問答について怒っているらしい。ナディは慌てて両掌を振り、弁明をした。
「あ、あのね。モルガン。叔父様はそう騒いでいたけれど、そう言う話じゃなかったの。本当はあの方は御当主のお使いで王立図書館に寄贈する巻物とやらをうちに届けに来ただけで」 
 だからわたしに結婚の申し込みに来た訳ではなく、叔父の誤解を真に受けたわたしが勘違いのままに勝手にお断りをしてしまって、でも誤解は解けて、騎士様は宿の支払いの為に急遽お帰りになられたと――ナディは慌てたしどろもどろの口調で何とか説明し終えた。

 第一、 あの方――女性でしょ?

「騎士様がそうお話されたとはカチャから聞いています」
 モルガンは重々しくうなずいた。その後ろでカチャも何度もこくこくと首肯する。何故、ここでこの小柄なメイドが出てくるのだろうとナディは不思議に思った。まさかこの庭園の何処かの茂みにでも隠れて一部始終でも窺っていたとでも言うのだろうか。
「で、ナディ様はその騎士様のお話を真に受けられたので?」
 モルガンの口調は質問と言うよりも確認に聞こえた――『馬鹿ですか?』とでも言うかのように。
「真にって……違うの?」
 ここまで来るとさすがのナディでも、モルガンだけでなくメイド達の視線にも責められているのはわかる。その恐れで椅子の上で小さくなって恐々と回りを見上げた。
「幾つか御伺いしますが」
 そう言うモルガンのこめかみがぴくぴく震えている。
「ただの寄贈の使いが、わざわざ奥様へ真珠の贈り物まで持参しますか?」
 モルガンの質問にナディもああと思った。
「それにリンツ様にご縁の方です。寄贈品なら現在の図書館長にそのままお渡しになればよいだけ。何故、わざわざ当家に持参するのです? 旦那様は別に東方文化の研究などこれっぽっちもしておりませんし」
 ああ、やっぱり。あの騎士様の勘違いだったのねとナディは納得し――モルガンとメイド達の氷の視線に硬直した。
「あ、あの、つまり」
 どういう事でしょうか? と上目遣いに問うナディにモルガンは言った。
「全て作り話です。ナディ様のお立場と評判をお守りする為の」
 長年手塩にかけてお世話した令嬢がしでかした惨劇に、すでに怒りを通り越したのか、モルガンはもう情けなさを込めきった様な口調になっていた。
「よろしいですか? ナディ様は騎士様のお顔を見てすぐにはっきりお断りになられたでしょう? 検討どころか挨拶もろくになさらずに。さらに騎士様からの声での正式な申し出すら待たずに。結婚は平民であってもそんないい加減な子供のお遊びではないのですよ? ましてそれが貴族としてどれ程迄に無礼で失礼な事かわかりますか? お相手の騎士様も世間の大笑い者ですが、それ以上にナディ様の評判は地に堕ちるのです。ティンベル男爵家の非常識で不躾な令嬢として」
 一気に言われる。ナディは青ざめた。自分はそんな事は仕出かしたのか。いや、でもだって叔母様は嫌なら断っていいって……
「ですから騎士様はとぼけたのですよ。自分は使いで来ただけ。勘違いなされたナディ様にふられた。恥はかいたけど、勘違いだから男爵家に非はない。リンツ様も勘違いなので、どんなひどい拒絶でも顔は潰れない。リィフェルト家も勘違いされただけだから恥にはならない」 
 モルガンの目がナディから小揺るぎもしない。
「ただ一瞥だけで何も言わせてもらう前にお断りされたカーリャ様が騎士として恥をかくだけのお話でございます」
 忠実な執事は深々とため息をついた。
「幸い今回は政略などは関わっておりませぬ。ただの縁談と聞いています。ですが双方にとっては人生がかかった申し出である事は、男爵家であれ領主であれ、それこそ平民であれ変わらぬはず」
 もうナディは声も出ない。
「お断りが悪いと申しているのではありませぬ。ただそれにも礼儀と作法があるのです。あちらはちゃんと筋目を通して来ておられるのですから尚更に」
「ど、どうしよう……」
 それでも何とか絞り出す様に言った。自分が何をしたかはまだ実感はない。だが何か仕出かした事だけはモルガンの声音と表情で理解できた。
「もう一度申し上げますが、カーリャ様は騎士でございます。名誉には人一倍気を使わねばならない御身分。礼儀を尽くした結婚の申し出をこのように門前払いとあっては、世間のいい笑い物でしょう」 
 まだ言うモルガン。これはナディにもわかった。たくさん読んだ騎士物語では、騎士たる者は一片の名誉の為にも命をかけるのだ。些細な侮辱から決闘くらいは日常茶飯事で、だからこそ互いに礼儀作法から言動の端々にまで気を使う事を求められているのであって。
「だからモルガン。これは――」
「まずは外に知られない事です」 
 ついにはカタカタと震えだしたナディに有能な執事はてきぱきと説明した。
「幸いまだこの家の者しか事の経緯を知りませぬ。今の段階できちんと命じますので使用人の口から漏れる事はございませぬ」
 そこは使用人の長である執事の管理能力であり、主であるティンベル男爵家への信用と敬愛であろう。この点についてはモルガンへは万全の信頼はあった。
「ですが求婚の件については我等以外の周囲の者には知られているでしょう。例えばリィフェルト家のご領地とかにも」
 少なくともリンツ卿の屋敷では『痣姫と美貌の自由騎士との縁談』はしっかり噂になっている事をモルガンは前日に確認している。
「ですから、今すぐにでも先程のナディ様のご対応を『無かった』事にして縁談の交渉を続けるのです」 
 そんなの出来るの? とナディは震える。だってあんなにはっきり――
「わ、わたしかなりひどい事を言った気もするんだけれども……」
「無かった事にするんです」
 モルガンはきっぱりと言い切った。内容は知っている顔だったにも関わらず。
「今更、謝った処でカーリャ様が機嫌を直されるとは思わない方がいいでしょう。それだけの無礼を騎士様にしたのですから。ですがここは今日の予定だけは滞りなく何とかお付き合い頂き、その上での――交渉条件なり両家の事情なりで同意には至らなかったと言う形にすれば、双方の顔も立ちましょう」
 なる程とナディは思った。そうか。交渉か。そう言うのなら史書にもよくある。戦争での和平の様に対抗する勢力が何とかどちらの面子も立つようにと困難な交渉を積み重ねる例として。
「そ、それで何とかなるかしら?」
「大丈夫です。わたくしからも旦那様奥様リンツ様にはお願い致しますし」
 ああ、良かったお願いと正直に安堵するナディにモルガンもほっとした。本当にうちのナディ様は賢くて聡明な才媛なのに、王立図書館の本の中の知識以外には子供の様に幼いのだから。
「そうとお分かり頂けたのならすぐに行動に移りましょう」
 安心させる様に落ち着いて言うモルガンだが、ナディに全てを説明はしていない。この縁談をこのまま終わらせた場合、ナディの悪評につながる危険性もあるのだ。曰く『田舎領主にすら一瞥で逃げられた醜い痣姫』とか。
「幸いカチャの御注進が早かったお陰で馬屋で既に騎士様も足止めは出来ています。さらに奥様の指示でアレクサンドラ様らが広間に引き戻そうとされていますから、そちらは大丈夫でしょう」
 良かったとナディはほっとしつつも、うわ、あの従妹達に捕まったのかと心配する。八歳以下の幼女らがしがみついて甘え攻撃に泣き落としまでやるのだ。まともな人間なら断られる代物ではない。
「そしてナディ様です」
 モルガンは厳かに言った。
「至急、お化粧を直されて広間の方へ。もうそろそろ昼食会の刻限です」
「わたしがあっ?」
 驚くナディ。凛々しいモルガンの説明にいつの間にか何となく誰かがしてくれる気になっていたのだ。
「何を聞いておられたのです? 縁談を続けるのですよ。予定通りに」
「で、でもわたし……あの、ひどい事をあの方に言ったみたいで」
 どの顔で会えと言うのとナディは両掌の指を組んでふるふる震える。そんな事わかっていますと顔に書いてモルガンは許さなかった。
「親睦の意味でもある会食に花嫁候補がいなくてどうするのです? ナディ様も主賓なんですよ?」
「でも、でもでもあの方すごく怒っておられるのでしょう?」
 当たり前です――とモルガンは言わなかった。何を今更、全力で謝るのが前提でしょうが――とも。これは執事としての立場のせいもあったろう。
 ただ敬愛する前主の娘で自分も可愛がっていたこの少女が本当に世間知らずな事を再認識させられて少し頭が痛かった。
「わ、わたしは遠慮した方がいいと思うの」
 ああ、もうこの期に及んで誰の為に皆がこうも! と本気でモルガンは頭痛を感じる。しかもナディがそろそろと腰を浮かして後退り気味なのを認めて舌打ちしそうになった。
「もういいです。お前達。ナディ様をお連れしなさい」
 モルガンがメイド二人に命じる。本心では『絶対に逃がすな』と付け加えたかっただろう。幸い、同じ思いだったらしいポリーヌとカチャがナディの両脇をがっちり固め、有無を言わさずに引きずっていった。


「あ~れ~~」
 連れ去られるナディの情けない悲鳴を遠くで聞きながら、モルガンはようやく一人になった庭園で、ふう とため息をつく。まったくあんなに良いお話をここまで悪くしてしまうとは――やはり自分のお世話が甘かったか。一人娘を託してくれた亡き旦那様と奥様に申し訳ない。
「さて」
 ここでモルガンは考えねばならぬ。この縁談をどう上手く納めるか。ないしは誤魔化すか。
 彼は執事である。これは使用人の長と言う意味だけではない。お家の内側からの責任者と言う以上に社会に対しては、内側すなわちお家の本音の執行者と言う一面もある。
 そもそもティンベル家が男爵程度だからモルガンは『執事』なのであって、この立場が伯爵級なら『家令』、公爵級なら『家宰』となる。世間も無視出来ない重要な役職なのだ。
 よってこれからの事を考え、対策を立て、提案をしなければならない。今の旦那様はとてもいいお人でその分頼りない。だから執事の責任は重い。しっかりせねばと自分に言い聞かす。幸い今の奥様は女傑ではあらせられるが
「……どうするか」
 まずはナディの体面である。この縁談を『円満に破談』と言う矛盾する結末に導くには、どうしても騎士様のご機嫌を直して頂き、最悪でも口裏を合わせてもらわなければなるまい。二人の初対面でナディの対応を隠れて監視していたカチャの報告から推測すると大難事であろう。
「ここはやはり……」
 取り敢えずこれから行われる昼食会での接待が重要点だろう。モルガンも入るがあくまで給仕としてである。出来る事は知れている。ここはやはり奥様の手腕に頼るしかないだろう。
「後は――」
 執事として出来るのは騎士様、ないしはその実家のリィフェルト家との交渉の条件を整える事だ。
 あちらの御要望はティンベル男爵家との婚姻である。一応、ナディ様を御指名ではあったが、その交渉が折り合わなかったとした上で、別の花嫁候補を提案出来る様にしておく必要がある。そうしておけば最終的に話が流れても、男爵家としては前向きだったと言う事が出来、お互いに残念な破談として互いに面子を保つ事は出来よう。
「身内……」
 モルガンがすべきはその二番目三番目の花嫁候補を形だけでも提案する事である。それ自体は難しい事ではない。幼少より男爵家に仕え、貴族社会の表も裏も知り尽くしている執事なら容易に幾つも思い付く。
 まず一つ目は養女を取る事である。貴族にはよくある手で、手頃な娘がいない場合、親類筋や友好的な他家、場合によっては臣下から適齢期の娘を養女に迎え、自家の娘として縁組みさせるのだ。
 ティンベル男爵家は学究の家柄であり、権勢とは余り縁はないが、その分、学者や芸術関係には知己は多い。そこから探してもいい。
 また臣下からと言うのなら、数は少ないが当家の使用人達は皆、躾はしっかりしている。ちょっと礼儀作法を改めて仕込めば何処に出しても恥ずかしくないだろう。身近で言うとポリーヌは先々代までは騎士の家柄の娘だし、カチャは働き者の上に機転も回る。爵位を持つ家は嫌がるだろうが、リィフェルト家の様に田舎の領主ならば実務的な分、むしろお勧めではないだろうか。
「ないしは――」 
 ナディと別の娘を出すかだ。旦那様には奥様の連れ子が四人。先月生まれた旦那様の娘が一人いる。珍しい程の娘持ちなのだ。この娘の誰かを不興を買ったナディ様の変わりとリィフェルト家に提案する。
 もちろんまだ結婚ではない。長女のアレクサンドラ様ですら八歳である。無理。
 だから婚約である。今は婚約として、例えばアレクサンドラ様なら十年後くらいに結婚させるとする。とにかくその約束だけはしておくのだ。あの騎士様の年齢ならそう無理筋でもない。
 これは貴族社会では珍しい事ではなかった。むしろ何年も先の話だから、途中変更も解消もある。適齢期迄に何人も婚約者がいた令嬢とか、婚約者がその兄弟に変更になったとかも珍しくはない。現にうちの奥様も十にならぬ頃に子爵家と婚約をなさったと聞いている。
「それらのどちらかで今回だけは乗りきって……」
 ようやく考えがまとまったモルガンは歩きだした。昼食会がもうそろそろだ。せめてその前に奥様だけには意見を伝えておかねば。
「それにしても」
 庭園から建物に入る辺りでモルガンはもう一度ため息をついた。
「あんな立派な騎士様からの有難い申し込みなのに、うちのナディ様はどうして……」
 悔やんでも悔やみきれない。元には戻せないだけに尚更に。縁談をもったいないと責める思いだけではない。
努力なされて『王国唯一の女司書』と吟われる程の才媛になったのに。ああしてしまわざるを得ない程に可愛い少女の心には克服出来ない’影’があるのだとまざまざと知らされたのだから。


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