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第十八章

夕食

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 日暮れ前に湯浴みの案内がきた。騎士様はナディに準備する様に言う。
「さすがに『赤死疫』以来の習慣ですね」
 うんうんとナディは納得している。我が国でならこんな宿場町の宿屋でもお金を出せば入浴出来るのだ。本で得た知識の再確認が出来て嬉しい。
「『鼠退治と清潔な身体』ですね。あちこち旅はしていますが、ベルガエならば普通ですよ」
 騎士様はさっきのシャツ姿に剣を一本だけ持った。護衛のつもりだろう。宿の中と言うのに大袈裟にも思える。
「でも亜大陸でも珍しい方なんですよ。西のフランゼ王国でも貴族ですら月に一度あるかないかで、後は香水で誤魔化すのですって」
「あの大国でも? 信じられませんね。東のゲルカッセン帝国も入浴の習慣はありませんが」
「ああ、あの野蛮国ならば。あと北方は湯気で身体を濡らすのだそうです」
「へえ、パン焼き窯を使うみたいに?」
 湯浴みは専用の個室があった。湯を張った浴槽が用意されている。ナディが先に譲られた。騎士様はその間、扉の向こうで待っていてくれた。男と言う設定を通す気かしら? とナディは思い出す。もうこの一日だけで性別不明(女性?)から華麗な姫騎士と認識を進化させている。料理も上手そうだし。逆に女同士だからいいのにとも思った。馴れ馴れし過ぎだろう。
 一応、気を使って急いで身体を洗い、騎士様と代わる。こっちはもっと早く出てきた。髪からうなじまでまだ濡れているくらいだ。
「もっとごゆっくりなされば。お待ちしますのに」
「騎士ですから」
 そう言うものらしい。二人で部屋に戻る。もう薄暗い。
 と見ると騎士様が壁にかけておいたマントから何か小さな筒を取り出した。先を開ける。赤い点が見える。
「それは?」
「火種です」
 騎士様はその筒先に息を吹き掛けた。次にそれを部屋の燭台に持っていく。蝋燭がぽっと炎あげる。灯されたのだ。部屋がぼんやりと明るくなる。
「便利ですねえ」
「銃を射つのに火縄がいりますから。これは炭と火薬で火を消えないように持ち歩く道具です」
 騎士様はそのまま部屋にある三本の燭台に火を灯していく。燃え立ちゆらゆらと揺れる炎に部屋が静かに明るくなる。
「お持ちしました」
 それを待っていた様に女が大盆で夕食を持ってきた。騎士様が扉を開けて入れ、剣や拳銃を片付けた机に女が料理を並べる。ナディは興味津々で眺める。宿屋の夕食とはどんな料理が並ぶのだろうか。
「おお、それは」
「ナディ殿」
 何か叫びそうなナディを騎士様が小声で制す。お行儀が悪いと思われたのかも知れない。女は二人を見ないようにして仕事を続けた。中々真面目である。
「ありがとう」
 終えてから騎士様は短く言い、女の手に手で触れた。まあ、とナディは目をしかめたが、銅貨を数枚渡しただけである。無礼を働いた訳ではない。有料の奉仕と言うのをほとんど経験した事による誤解である。
「夕食なんですね」
 嬉しそうに女が一礼して出ていった後にはもう忘れて料理に好奇心を盛んにしていたのだが。
「……これがあ?」
 でもナディはちょっと不満げになった。なんと言うか雑だったのだ。机には一枚の板が置かれ、炙ったらしい何物かの肉がどんと置かれている。皿ですらない。隣に大きめの壺が一つ。籠もあってパンらしき塊が一つそのまま入っていた。さらに水差しっぽい木の大きな器も一つあった。
「こう言うものですよ。宿屋の食事は」
 騎士様はそう言うがいくらなんでも大雑把過ぎないだろうかとナディは思う。彩りに欠けると言うか、何かの餌っぽいと言うか。
「ナイフもないじゃないですか」
 手掴みで食べろとでも言うのだろうか。
「手掴みで食べるんですよ。平民は」
 ……そうだった。そう生活史の本には書いてあったわねとナディは思い出した。知識では確かにそうだ。ベルガエでも食器をちゃんと使うのは貴族か裕福な層に限られる。ティンベル男爵家の様に使用人にも使わせる場合もあるが、教会などはお金持ちでもその教えで手掴みが義務のはずだった。
「ちなみにそれは皿ではありませんからね」
 騎士様が言っているのは肉を置いている板だ。ナディにもわかった。これは堅焼きのパンである。食器を持てない民に皿代わりに使われる。齧るにはむかない固さで、料理の汁気でふやけてから食べるらしい。飼い犬などにも食べさせてあげるとか。
「あの……」
「大丈夫ですよ」
 騎士様は部屋の隅に措いてある自分の荷物を探り、二組のナイフとスプーンと取り皿を取り出した。一組をナディに渡してくれる。昨日の昼食会の経験もあって、貴族のお嬢様には無理と思っていたのだろう。
「さすがカーリャ様。騎士様は違いますね」
「騎士と言っても皆がこうではありません。教会に近い騎士団とか僧籍を持つ修道騎士はこの類の食器を忌み嫌いますから」
 あの『神より賜った食べ物を道具で食するなど不敬!』と言う理屈だろう。ナディは馬鹿らしいと思う。それだと熱い料理が食べられないではないか。
「わたしも戦に出ていた時は砂の付いた肉や泥の飛んだスープをそのまま食べていましたし」
「カーリャ様は戦場に行かれた経験がおありですか!」
「国境の砦を半年守備していた事があります。まだ従騎士の頃ですが」
 騎士様は荷物からあの角杯も取り出した。ナディに一つ手渡し、机の上の水差しっぽい木の器を持った。かなり大きいが片手で握られる取っ手がついている。
「どうぞ」
 勧められた。飲み物らしい。ナディは受ける。器を傾け、濃い麦色の液体がとくとくと注がれた。
「これは?」
麦酒ビールです」
 これが! とナディは目を見張った。もちろん知っている。本の知識だけではなく、屋敷でも見た事があった。執事のモルガンの妻である料理長が浴槽より大きな樽でいつも造っていたのだ。
「これが麦酒ビールですかあ」
 わくわくして角杯を覗き込む。茶色く濁っていた。匂いもワインとは違う。
「ナディ殿。お好きですか?」
「初めて飲みます」
 飲ませて貰えなかったのだ。モルガンは「淑女の飲み物ではございません」と頑なだったし、叔母ですら許してくれなかった。屋敷ではもっぱら使用人達が楽しむ用で、ポリーヌ達メイドもこっそり飲んでいたのに。あとモルガンも叔父ですらも陰でよく飲んでいたのも知っている。悔しい。なんでわたしだけ。
「お口にあえばよろしいのですが」
 騎士様は自分の角杯に自分で注いでいた。そこまでナディはまだ気が回らない。
「では乾杯」
「乾杯!」
 またも食前のお祈り無しに乾杯である。ナディには都合のいい騎士様だ。ナディはすぐにもごくごくと飲む。苦味からの酒の味が口から喉へ流し込まれていった。
「美味しい!」
 あっという間に一息で飲み干してナディは声をあげた。美味しい。ワインとは全然違うが美味しい。生のワイン程に酒精は強くなさそうだが、その分、喉に入りやすく、渇きにはこちらの方がいいのではないか。
「お代わりは?」
 すぐにも騎士様が器を差し出す。ナディは喜んで受けた。いやあ麦酒も旨い。ごくごく飲む。
うん、美味しい。モルガンの意地悪。
「ではこちらも」
 騎士様が肉を小さく切り分け、取り皿に移してくれる。食べてみると硬かった。何のお肉? と聞いたら牛なのだそうだ。珍しい。豚と違い、色々使役される家畜なので、滅多に食用にはされないはずなのだが。
「使えなくなったのでしょうね」
 そう聞くとわびしくもある。でも食べた。よく噛むと麦酒には合う。塩気の強めた肉汁のソースもいい。
「こちらも」
 壺にはシチューが入っていた。スプーンを突っ込んで食べる。野菜多めで食べではある。なんの野菜かはわからなかったが、騎士様も同じようにして交互に食べているからいいのだろう。
「でも、これはスプーン無しではどうやって?」
「廻し飲みですね」
 騎士様がそう言って親指で部屋の扉を示す。その向こうの一階の大広間からはさっきから賑やかな喧騒が聞こえている。
「別に彼らが無作法な訳ではありませんよ。普通の宿屋です」
 平然と言う騎士様。この方はその中に混じっても平気なのだろうか。酔っている放歌高吟やどたばた騒ぐ音も聞こえる。いやいやこんな美人があんな巷に。危ない危ない。
「だから個室で食べるのですね」
「隣でナイフやスプーンを使うのすらを嫌がる平民もおりますし」
 信心深いとそうらしい。面倒な事だ。
 黒パンも騎士様が切り分けてくれる。でもシチューにひたして食べた。ここら辺は平民と一緒だろう。
「ささ、どうぞどうぞ」
 実質、騎士様の給仕でどんどん食べた。味よりも量なのだろう。平らげる頃にはナディはお腹いっぱいになる。騎士様はずっとにこにことしていた。まだ残った麦酒もたっぷりいただく。にこにこの騎士様は自分の分もナディに飲ませていた。
 実は昨日の昼食会でばれたように酒が苦手だからだが、ナディは気付かない。勧められるままに飲み干していく。
「御馳走様でした」
 ようやく器も空になった。ああ満足とナディはにんまり笑う。いやあ旅に出て良かった。こんな自由に出来るなんて――と思った瞬間だった。
「あ、れ」
「おっと」
 視界が傾いだ。素早く騎士様の手が支えてくれる。
「あれあれ」
 だが世界がくらんくらん揺れている。まずい。酔った。昨日と同じだ。
「大丈夫ですか?」
 騎士様に言われても大丈夫じゃない。何よりも気分がいい。もう一杯欲しい。
「昼のワインもかなり飲まれましたから」
 騎士様はやれやれと肩を揺らした。笑っているのかもしれない。
「だいじょうぶですぅ」
「はいはい」
 ナディはなんとか背筋を真っ直ぐしようとするが上手くいかない。世界が揺れている。騎士様は相手にせず、両手を回し、ひょいとナディを抱き上げた。
「へ? え? い?」
 酩酊状態でもナディは驚いたが、何も出来ない。そのまま運ばれた。抱き抱えられるなど亡き父以来の大事件だが、本人はさっぱりわかっていない。
「初めての旅でしょう。お疲れのはずです」
 そう言われて運ばれた。気分がいい。騎士様の言う通りなのだろう。酔いと疲労で急速に眠くなってきた。
「ラージャ。空けてくれ」

 しかたない。

 飼い主に頼まれたラージャがベッドの真ん中から退いてあげる。そこへナディはゆっくり下ろされた。ごろんと寝転がる。まるで猫の様に丸くなり、すぐにも寝息が聞こえ出した。
「やれやれ」
 騎士様は苦笑していた。驚いてもいる。昼間の博識ぶりに対して、なんて無邪気なお嬢様だろうかと。『知識を鼻にかけた礼儀知らずのお転婆』なんては露とも思っていない。もう熟睡しているナディは知るよしもないのだが。
「ナディ様を頼むぞ。ラージャ」
 騎士様は自分の取り皿に残しておいた大きめの肉の切り身を報酬としてラージャに与えた。賢い友人はそれをしっかり咥えてから眠るナディの隣に移動して寝そべる。
 それを確認してから騎士様は店の女を呼んで机の上の食べた跡を片付けさせた。終わったらまた銅貨を数枚渡す。ほくほく顔になった女だが、蝋燭の灯りに照らされた騎士様の容貌には念を押すように興味津々で見ている。夕食を渡された時にもう見せているから仕方はない。仲間の元に戻って楽しい話題になるのだろう。
 騎士様としては顔を見られるの嫌だった。以前、ここには宿泊した事がある友からの推薦だ。信用出来る宿だとわかってはいるのだが。
「……」
 騎士様は扉を閉めてから荷物の一部をその前に持ってくる。さらに二本の剣を抱き抱える様にして扉を背に床に直接座った。
 今宵はこのままで寝る。警戒の為だ。この旅の間はこの面白いお嬢様をちゃんと守護する事こそ、騎士としての自分の務めだと決めている。

 それがこの『図書館の魔女』殿との貴重な時間を過ごさせてもらう自分が支払うせめてものお礼なのだから。


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