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両国悲喜こもごも
しおりを挟む女房のたえが、この世を去ってから六年が経った。
「おとっつあん、おきなよ」
はるよの声が、又吉の耳に快く響いた。
「おう、もう朝か」
又吉は、土間を下りて井戸端に行き顔を洗った。
はるよが、小松菜のみそ汁と香の物と飯を膳にととのえていた。
「はるよ、料理がうまくなったな」
はるよは、嬉しそうに飯を食べていた。
「ごちそうさん、じゃいってくる。お前も寺でしっかり学んできな」
「おとっつあん、気をつけて。いってらっしゃい」
又吉は、石仏を彫るのを職としていた。
ひんやりとした風が長屋を吹き抜け始めた朝、又吉は、真章寺の和尚に呼ばれた。
小僧に客間へ案内され、すぐに和尚を呼んでくるといって部屋を出たかと思うや、すぐに和尚が、やってきた。
「和尚さま、何のお話で」
「たえさんが亡くなって六年が過ぎた。そろそろ又吉、嫁を貰ってはどうかな。もう、たえさんも許してくれるだろう。いい話が、あるのだ」
「もう女房を貰う気はありません。はるよもいますんで」
「そう、はるよは、そのおなごを気に入っているようなのだが」
「そのひとは、だれですかい」
「はるよたちを教えているあきさんだ」
「ちょっとまって下せえ、なんでおいらを」
「はるよの親父だからよ」
「そんな」
「あきさんは、武家の出で、一度二百石の旗本の家に嫁いだのだが、わけあってその家を出て仁助長屋に一人で住んでいる」
「だから読み書きもできるんですね。おいらは読み書きそろばんもできねえ。無理に決まってる」
「そんなこと、あきさんに教えてもらえばいい」
あまり和尚がしつこかったので、
「はるよに相談してみます」と又吉は、いって寺を後にした。
又吉は、はるよに和尚の話をした。
「いい話だわ、でも、おとっつあんの好きなようにしたら」とはるよは、答えた。
「そうか、あきさんにあってみるか」
数日後。
又吉は、仕事を早く引きあげ、あきと真章寺の本堂で会った。
二人は、はるよの話に終始していた。
「ふたりともはるよが大好きなことはわかった、そうだったら、三人で一緒に生活したらどうかな。毎日がきっと楽しいぞ」
あきは頬を染めた。
「すぐに決めなくてもよい。しばらくつきあったらどうかな」
話は進み、一か月後、大川端の小料理屋で、又吉とあきの祝言が行われた。
「めでたい、めでたい」
顔を真っ赤にした和尚が、又吉とあきの前に座った。
「又吉、あきさんをいつまでも大事にするんだぞ」
「はい」
又吉は、和尚に酒を勧めた。
和尚が席を立つのを見計らって、又吉とあきはそれぞれの長屋の連中に銚子をもって挨拶に回った。
はるよは、長屋の子供たちと楽しそうにしゃべり続けていた。
又吉の親方が謡を披露し始めた。
♪高砂や
♪この浦舟に帆を上げて ♪月もろともに出で汐の ♪波の淡路の島蔭や遠く鳴尾の沖過ぎて ♪はや住の江に着きにけり~
盛大な拍手が、沸き起こった。
「次は、おいらの番だ」といって、鳶の弥助が立ち上がり木遣りを唄い始めた。
弥助が唄い終わると、おすみが三味線をもって都都逸を唄う。
長兵衛が尺八を吹いた。
にぎやかに祝言はつづいたが、とうとう、あきの両親は、来なかった。
「そろそろ中締めをしますので静粛に」といって、長屋の大家が立ち上がった。
「又吉とあきさんそしてはるよちゃん三人とここにる皆様のご多幸を祈念して、三本で締めるで」
皆が立ち上がって、手拍子を打った。
又吉たち家族は、幸せの日々をおくっていた。
あきは、はるよに読み書きそろばん、作法はもとより琴など楽曲についても、あらゆる方法を使用して教えていた。
多くのことを身につけたはるよは、十五歳に成長していた。
はるよの心に、ほのかな恋が芽生えた。
今日も朝六ツ、棒手振りの正助が長屋にやってきた。
「青物はいらんかねえ~、新鮮な青物、新鮮な青物はいらんかねえ~」
「はるよさん、今日は大根がいいよ。練馬だ」と一番に出てきたはるよに笑顔でいった。
はるよ、正助のこの笑顔が好きだった。
「おいくら」
「十五文だ」
「じゃあ大根いただくわ。はい」といって、十五文を差し出したが、正助は十文を受け取り、はるよの掌に五文を残した。
「いいの」
正助は、うなずいた。
数日後の朝、五ツ半ごろ。
あきの母が、訪ねてきた。
「お母様、何ごとですか」
「あき、のどが渇いたからお水を頂戴」
「はい、はい」
「はいは、一度でいいの」
あきの母は、水を飲み終わるとしげしげと部屋中を見まわした。
「狭いですけど、おあがりください」
あきの母は、布団に腰を下ろしていった。
「はるよは?」
「三味線の稽古に行っています」
「まあ、三味線も習っているの」
「最近からですが、お師匠さんから筋が良いといわれているんですよ」
「又吉さんは、お仕事」
「はい。お母様、今日は」
「実は、知り合いから大奥に奉公する女を探しているの。はるよは、どうかと思って。花嫁修業にもなり、末は旗本の奥方様になれます。いいお話だとおもうけど」
「お母様、はるよに聞いてみます」
半刻ほど話をして、あきの母は、帰って行った。
はるよが、帰ってくるや、早速あきの母の話を伝えた。
はるよは、うつむいた。
「そう、気乗りしないの。わかったわ、晩御飯の支度をしましょう」
あきは、かまどに火を入れ、はるよは、水を汲みに外に出た。
二人は、一言も話さずに四半刻が過ぎた。
部屋が暗くなったのに気付いたはるよは、行灯に火をつけた。
はるよは、三味線の稽古を、あきは、縫物を始めた。
五ツの捨て鐘が打たれた時、
「あきさん、たいへんだよ、たいへんだ」
又吉の親方の女房のかねが、息を切って障子戸を開けた。
「おかみさん・・・」
「又吉さんが、大八車に轢かれたて、けがをしたんだ。今亭主と若いのが、戸板に乗せて来るから」
「なんですって」
「おとっつあんが」
騒ぎを聞きつけた弥助の女房が、障子戸を開けて、心配そうに顔を出した。
「どうしたんだ、あきさん」
「又吉さんが、大けがをしたんですって。とよさん、すみませんが玄庵先生を呼んできてもらえませんか」
「わかった」
とよは、空いた障子戸に戻って、一杯やっている弥助に玄庵をすぐに呼びに行くようにいった。
又吉が、戸板に乗せられて運ばれてきた。
「あなた、大丈夫」
又吉に声をかけたが、又吉の目は閉じられたままだった。
「あきさん、早く布団をひいとくれ」
親方がいった。
又吉の診察を終えた玄庵が、あきにいった
「命は、とりとめたが、意識をいつ取り戻すかわしにもわからん。意識を取り戻しても、今までのような生活を送ることは難しいかもしれぬ」
あきとはるよは、悲痛にくれた。
一年過ぎて、春を迎えた。
大けがをした又吉は、あきとはるよの看病の甲斐あって、意識を取り戻していたが、まだ立ち上がることもままならず寝たきりの生活を送っていた。
又吉の家は、医者代や薬代もかさみ、次第に蓄えも底をついてきた。
あきの寺子屋の収入だけでは心もとないので、あきは、着物直しの内職も始めて一日中働き続けた。
はるよは、あらゆる稽古を止め、あきの内職を手伝った。
あきの母が、訪ねてきた。
「お母様」
障子戸を開けたあきは母親の顔を見るや、取り留めもなく涙が流れ続けた。
「どうしたの」
あきは、又吉のけがを話した。
「あき、誰かきたのか」
又吉の声がした。
「はい、お母様が」
又吉からの返事は、なかった。
「はるよは」と心配そうにあきの母が、小声でいった。
「今買い物に行っています」
「三味線も上手になったろうね」
「いいえ、もうやめてしまいました」
「そこまで困っているのですか」
あきは下を向いた。
「あき、上がってもらえ」
「もう帰りますので。又吉さん、早く元気になってくださいね」
あきの母が、答えた。
そして、心配そうに、「またくるわ」といって、一両を置いて帰って行った。
入れ違いに、はるよが、帰ってきた。
「どうだった」
「これだけだったわ」と答えて、はるよは、あきに巾着を渡した。
「ありがとう」
はるよは、目に涙をためながら、あきにやっぱり大奥の奉公に行くから、おばあ様に掛け合ってくれないかといった。
そして、「おとっつあん、あたし奉公にいくよ。そうすれば、私の食い扶持もいらなくなるし、、作法も身に着けて、いいところのお嫁さんになって、おっかさんとおとっつあんを楽にさせるよ」
数日後。
「青物や~、青物はいらんかね~」といつもの時間に正助が、長屋にやってきた。
最初に出てきたのは独り身のおすみだった。
「この筍ちょうだい」
「切りましょうか」
「切らなくていいわ。人に分けるから」といって十五文を正助に渡した。
「最近、はるよちゃんが来ないけどどうかしたんですか」
「又吉さんのけががなかなか良くならなくて、医者や薬で台所が火の車のようよ」
「そうですか」正助は寂しそうに下を向いた。
(正助さん、はるよちゃんを恋い慕っているんだわ。なんとか、はるよちゃんが、奉公に行く前に)とおすみに、何とかしてあげようといつものお節介心が起きた。
八つの鐘が鳴ると、はるよは、又吉にちょっと買い物に出かけてくるといって、おすみからいわれていた近くの神社に行った。
もうすでに、正助は銀杏の木に寄りかかってはるよを待っていた。
そして、はるよと正助の二人は緊張しながら歩いて、寛永寺の山門吉祥閣を通り過ぎた。
清水堂の山裾の桜が目の前に広がった。
「きれい」とはるよはいった。
「はるよちゃん、秋はもみじが真っ赤にそまるんだ。きれいだよ」と、正助はいったが、話は続かなかった。
半刻(一時間)ほど、二人は歩いた。
「正助さん、ちょっと休みませんか」と、はるよが疲れた顔でいった。
「そうだね、おいらも疲れた」と、正助は答えた。
寺の鐘が八つを打ち始めた。
二人は不忍池の畔にある水茶屋に入った。
「いらっしゃいませ」
店の女は二人を迎え、水辺に近い席に案内し、すぐに、女は茶を運んできた。
「はるよちゃん、お腹すいていない」
「ええ、ちょと」
女が、行こうとする時に、正助がいった。
「おねえさん、何か食べるものない」
「穴子の天麩羅丼か蕎麦ならありますが」
「天麩羅丼と蕎麦。あとお酒を頼みます」
二人は、食事を取った後も黙っていた。
暮れ七つの鐘が、打たれ始めた。
女が行燈に火を入れに来た時、正助は勘定を頼んだ。
「はるよちゃん、秋は、ここに紅葉狩りに来よう。奉公が明けるまで、ずうっと待っているから」と正助が涙目でいった。
そして、
「これ」といって、先ほどはるよに気づかれないで買ったお守りの二つのうち赤色のものを手渡した。
「ありがとう」
「俺のは紺色だよ」
はるよは息が詰まって、俯くのが精いっぱいだった。
一番鶏の鳴き声が、長屋じゅうに響いた。
はるよが、水を汲みに井戸に行くと、すでにおすみが水をくみ終わっていた。
「はるよちゃん、おはよう。いよいよお母さんとお別れね」
はるよは嗚咽した。
「はるよちゃんならきっと立派に勤められるわ」
「ありがとう、おばさん」
真章寺の鐘が、六ツを打ち始めた。
「あっ、いけない。ご飯の支度をしないと」
はるよも麦を洗い、水を汲んで家に戻った。
あきははるよが洗ってきた麦を鍋に入れ、竈にかけた。
「はるよ、許してくれ」
又吉が、寝床から声をかけた。
あきは、かまどに向かって、涙を流していた。
朝餉を終えると、あきと又吉の前に座った。
「おとうさま、おかあさま、行ってきます」
「はるよ、おとうさまは、私がしっかり面倒を見ますから心配しないでお勤めするのですよ。これを何か困った時、お金に替えなさい」
あきは、髪にさしていた簪を抜いて、はるよに渡した。
はるよは、納戸頭取の旗本小島丈太郎のもとで養女になり、丈太郎の妻から半年ほど教育を受けて、大奥に入った。
「ここが、あなたと私の部屋です」
はるよはふねという女から指導を受けた。
「はるよ、これからあなたの名は大奥では都留という名です。いいですか」
「はい、ふね様」
大奥で決められた着物に着替え、髪も結いなおされた。
都留の前にふねが座り、小声で話し始めた。
「、大奥では立身出世が大切です。そのためにお年寄の菊様に気に入られなければなりません。都留は、旗本の小島丈太郎様の養女ですから、御目見以上のの職です。上手に対応されれば出世は私などとは比較にならないほど早いはずです。ただ、大奥での出世は御年寄の後ろ盾が必要で、また、運が強く、器量が良くなければなりません。都留は器量が良い方だから、御年寄りに気に入られるよう努めることです。出世は、給金に反映されます。都留も給金は、多いほうがよいでしょ」
そして、御広座敷の都留の役目は、表使の下働きで、御三卿や大名の女使が登城の際の世話をする役であると説明した。
はるよは、無難に大奥の仕事をこなした。
一年後の冬。
小僧が、長局に都留を呼びにやって来た。
「お都留様、菊様がお呼びです」
都留は、御年寄の菊が常時詰めている千鳥之間に案内された。
「都留、上様が、おまえをお見染めしました。光栄なことです」
(なんでわたしを)都留は頭が真っ白になった。
返答する間もなく、菊が、小僧に合図を送った。
「都留様、居間から新しいお部屋を案内いたします」
「ちょっとお待ちください。菊様」
「なにか」
「私は、たとえ上様の思し召しであろうと意に従うことはできません」
「おまえは、いまなにをいっているのか分かっているのかい」
「いやです」
頑なにお伽を拒否する都留の態度に、菊も困りはてた。
(折檻してでも・・・・)
「下がれ。都留、決して許しませんぞ」
都留は、涙をこらえながら、頭を下げて部屋を出て行った。
翌日、菊は北町奉行の山川宗十郎に相談に出かけた。
すでに、菊が来ることの連絡を受けていた山川は、すぐに対応した。
「わざわざお越しいただき、いかがなされましたか」
菊は、都留の話を手短に話した。
「お菊様、某にお任せください」
「よろしく頼みます」
翌日。
山川から頼まれた町年寄の奈良屋と大家の長兵衛が、又吉の家を訪れた
「又吉はいるか、長兵衛だ」
「待っておくんなせえ」
又吉が障子戸を開けると、大家の長兵衛と町年寄の奈良屋がさしている蛇の目傘に、簾のように雪が降っていた。
「何ですか、みんなで。何かあったんですか」
「中に入れてもらってもいいかい」と長兵衛がいった。
「ええ」
「あきさん、夜分申し訳ないね」奈良屋がすまなそうにいった。
「かけさせてもらうよ」長兵衛がいい、そして二人は、傘の雪を払って窄め中に入り、上り框に腰を下ろした。
あきが火鉢にかけていた鉄瓶から茶碗に湯を注ぎ、緊張しながらどうぞといって二人の横に置いた。
「年も押し詰まってきましたな。今年は、特にさむい」
奈良屋が白い息を吐きながら独り言のようにいった。
「年も押し詰まってくるとせわしくていけません」
長兵衛は、奈良屋に顔を向けていった。
「何か御用ですかい」又吉が口をはさんだ。
長兵衛が又吉に顔を向けた。
「実は、はるよさんのことなんだが・・・・」
「はるよがどうかしたんですかい」
長兵衛が、はるよが、将軍に気に入られたがはるよは固辞しており、大奥の偉い方が困っているといった。
「なんですって」
あきが、声を大きくしていった。
奈良屋が咳払いをしていった。
「おまえたちにとっては辛いだろうが、お上の側室になるかもしれん」
「それで、あっしは、どうしたらいいんですか」
「はるよさんが、お上を拒ばんでもどうしょうもないのだ。そんなことをしていたら、はるよさんの身が危なくなる。拒むとあきさんと離縁することになると伝えて何とか説得しなさい。それも、忠義の一つだ。そのために、説得の文を書いてはるよさんに渡してほしいのだ。お前たちのこと、悪いようにはしないからそうしなさい」
あきは嗚咽した。
「しかたがねえ、泣く子と地頭にはかなわねえというが、将軍様じゃだめだ」
又吉は、あきらめ顔でいった。
小春日和の日。
増上寺への代参として、御年寄の供にはるよがやって来る日を迎えた。
文を持ったあきは奈良屋と長兵衛に従って、増上寺の門外ではるよが来るのを待った。
沿道は、多くの人で埋まっていた。
半刻ほどたって、大奥の女中たち列の先頭が、あきの前を通り過ぎ、三解脱門に入って行った。
「すごい行列だわ。はるよを見つけられるかな」あきが心配そうにいった。
しばらくして、列半ばにいたはるよが、あきを見つけた。
「あっ、お母様」はるよは声を押し殺していった。
「はるよ」
あきも気が付いた。
(はるよ、ゆるして)心で詫び、あきははるよに近づき、周りに悟られぬよう何気なく、文を手渡した。
はるよは素早く文を懐に入れてから、呆然としていると、奥女中の一人がそばに来ていった。
「都留様、早く」
都留はすぐ我に返り、わき目も降らずに門をくぐって行った。
参道の脇に並んだ大勢の僧たちが、奥女中たちを迎えた。
しばらくして、駕籠から降りたお年寄りを先頭に数人が、大殿の中にに入っていった。
大奥の局に戻って、都留はあきからの文を読んだ。
(なぜ)
書状は、涙で濡れ文字が滲んだ。
(上様の件で)
二日後、夜五つの鐘が打ち終わろうとした時、長屋が、大きく揺れた。
「あなた。起きて、地震よ」
あきが、又吉をゆすった。
「なに、おお、かなりでかいぞ。あき、箪笥を抑えろ。心配するな、すぐやむ」
といって、這って、又吉は土間に下り、障子戸を開けた。
「又吉さん・・。この世の最期かと思ったよ」
近治にしがみついていたおたねが、又吉の顔を見ていった。
「けがはないか」
近治がいった。
「大丈夫だ」
「あきさんは」おすみが、心配そうにいった。
「なかにいます、大丈夫です」
「又吉さん、立てるじゃないの」
又吉も驚いた。
あき、出てきた。
「あきさん、又吉さん立てるようになったわよ」
「あなた、よかったわね」
「火柱があがってら。あき、あっちはお城の方だ」
又吉が、あきの肩に寄りかかっていった。
「はるよは、だいじょうぶかしら」
城の太鼓の音が地をはって伝わってきた。そして、それを受けて、半鐘が鳴り始めた。
弥助が火消装束を身にまとい、長鳶を持って出てきた。
弥助の後から出てきたとよが、大声でいった。
「あんた、しっかり消しておいで」
「弥助さん、気をつけて」
おすみが、いい終わる前に、飛ぶように路地から消え去った。
揺れが、繰り返し続いた。
半鐘の音がさらに大きくなってきた。
一方、城中では。
吉宗は、町奉行所に火事場泥棒を取り締まるとともに、勘定及び普請奉行にお救い小屋を被害が甚大な町内に建てるように命じた。
さっそく、長屋の大工の近治と鳶の弥助たちが、奉行所に呼び出されて、説明を受けた。
まずは、弥助や近治は焼け跡に行って黒焦げになった柱や梁そして箪笥などの家財道具を撤去することから始めた。
焦げくさいにおいが充満していた、近くで五、六歳に見える娘が泣きじゃくっていた。
「どうした」と弥助が声をかけた。
「おっかあがこんなかに入ってでてこないんだ」と娘ががれきの山を指さした。
「なに」と今度は近治が声を上げた。
「わかった、おじちゃんがこれからおっかさんを探してやろう。それまでおじちゃんの所で待ってな」といって弥助は娘を長屋に連れて行って、おかねに面倒を見るように伝えた。
「かわいそうに、名は何というの」とおかねは娘に聞いた。
娘は、はなとだけ答えて、また泣き出した。
「おかね、頼んだぞ」といって、弥助は現場に戻っていった。
地震から一か月ほど過ぎて、江戸府内もだいぶ落ち着いてきたようだった。
石屋の親方が、ボチボチでいいから仕事に戻ってきてほしいと頼まれた又吉は、石屋での仏像制作の仕事に戻った。
まだ、体を慣らすために、皆より早めに仕事を切り上げた。
大工の近治が長屋の修理に精を出していた。
「近治さん、ありがとうよ」帰ってきた又吉が屋根の上の近治に声をかけた。
「又吉さん、これで雨が降っても大丈夫さ」
「ただいま」あきが、帰ってきた。
又吉が突っ張り棒をはずしていった。
「どうだった」
「火は消えていたようですが、中の様子までは・・・」
「そうか」
「はるよは、きっと大丈夫ですわ」
「そうだ、はるよはあきに似てしっかりしているから、きっと大丈夫だ」
「それはそうと、仕事はどうでしたか」
「体力が落ちていて、なかなかはかどらなかったよ」
「そう、あまり無理はしないでくださいね」
「わるいな」
「何か食べたの」
「いや」
「すぐに湯を沸かしますから」
あきは土間に降りて、甕から水を柄杓で鍋に移した。
早いもので、蝉の声が、長屋の敷地の木々から聞こえ始めていた。
「あなた、行ってきます」あきは子らを教えに寺に出かけて行った。
又吉は地震で亡くなった人々を埋葬した真章寺から親方が請け負った六地蔵を彫りこんでいたが、なかなかはかどらなかった。
(くそ暑い)又吉は、自分自身に苛立ちをおぼえた。
ほかにも、娘を失った親たちからの数多くの如意輪観音も親方は請け負っていた。
「親方、あっしにはもうこの仕事は無理です。昔のようにはできませんし、親方にも迷惑をおかけしてしまいます」と又吉は石屋の親方にいった。
「そうか、お前の身体では仕事はもう無理か。分かった、お前も飯を食っていくためには何か仕事をしなければなるめえ。お前にあった仕事を探してみる」
一方、お城では、吉宗から菊たち年寄に奥女中を減らす旨が伝えられ、大奥は大騒ぎになっていた。
その施策で、はるよにも城を出るように命じられた。
(これでお母様やお父様と一緒に過ごすことができる)嬉しさがこみあがってくるのを抑えながら部屋に戻った。
はるよは、心配して待っていたふねにいった。
「ふねさま、菊様よりお城を去るように命じられました。ふねさまには長い間いろいろお世話になり、ありがとうございました」
「やはりそうでしたか」と元気なくいったふねの顔には、涙が流れていた。
昼九つの鐘が、鳴った。
「さあ、みんなお昼よ。ここまで。又午後からよ」
あきが子供たちに声をかけ、あきも長屋に戻り、障子戸を開けた。
「ただいま。あっ、はるよ」
「おかあさま」
顔半分を包帯で覆ったはるよが、框から腰を浮かしていった。
「おとうさまも、お元気」
「元気よ。今までのお仕事は体力的にきついので、木彫りのお仕事に変えるようよ」
「そう、それはよかったわ」
「はるよ、顔どうしたの」
「この間の地震でけがをしたの、大したことないわ」
「お医者様に見せたの」
「お城で診てもらいましたところ、時がたてば傷は消えるといってました」
「それはよかったわ。ところで、きょうはなに」
「ええ、後で話すわ」
「そう。すぐ、昼食の支度をするから上がって」
しばらくして、あきははるよの前に湯漬と香の物を載せた食膳を置いた。
二人は無言で食べた。そして、食べ終わるとあきはいった。
「あたし、真章寺に出かけてくるので、ゆっくりしていって。だいじょうぶでしょ、きっとおとう様も喜ぶわ」
七つ時にあきが、戻ってきてから、しばらくして、
「あき、帰ったぞ」
又吉が、障子戸を開けて驚いた。。
「はるよ、宿下がりか」
「いいえ。実はおとうさま、おかあさま、上様が幕府の倹約の一環として、多くの大奥女中に御殿下がりを命じたの」
「おまえもそのひとりか」
「はい」
又吉は、次の言葉が出てこない。
「その顔は」
「あの地震でけがをしたの」
といって、はるよは包帯を取った。
額には大きな傷が化粧したにもかかわらず浮き出ていた。
「大丈夫か」
「あなた、お医者様に見てもらったら傷跡は残らないといわれたそうよ」
「そうか」
又吉は、ほっとした。
「おとうさま、またここにおいてもらっていい」
「あたりまえよ。ここはお前のうちだ、なあ、あき」
はるよとあきは、むせび泣き続けた。
しばらくすると、障子戸の向こうから声がした。
「又吉さん、帰ってきたかい」
おすみが、障子戸を開け、三人の様子に驚いた。
あきから話を聞いたおすみは、いった。
「又吉さん、はるよちゃん、あきさん、よかったね」
(そうだ、正助さんに知らせないと)とおすみはまた来るわといってすぐ出て行った。
半刻ほど過ぎて、とよたちは手料理を盛った皿を、そして近治たち男連中は酒を持って入ってきた。
「はるよちゃんが帰ってきたんだって。又吉さん、あきさん、よかったね」
「又吉さん、あきさん、そしてはるよちゃん、おめでとう」
翌朝。
「あおものはいらんかねえ、あおものはいらんかねえ 」
に正助の声が響き渡った。
はるよは土間で麦をといていた手をとめ、すぐにざるを持って外に飛び出した。
「はるよちゃん、戻ってきたんだって」と正助の声は、はずんだ。
「きのう戻ってきました」
「すっかり、品がよくなったみたいだ。顔、どうしたんだ」
「この間の地震でけがしたの。でもたいしたことはないのよ」
「そうか」
「おはよう」とおすみがいって、二人の横に立った。
二人の返事を待たずに、おたねそして、おかねも正助たちを囲んだ。
「正助さん、久しぶりに会うはるよちゃん、どう」とおたねがいった。
しばらく、はるよと正助は皆にからかわれた。
家に戻ったはるよは飯を炊いているあきに声をかけた。
「おかあさま、きょうおばあさまにあいさつに行ってきます」
「そうね、納戸頭取の小島様の所にも行ってきなさい」
おたねが、今買ってきた瓦版をもって、井戸端で洗濯しているおかねとおすみのところに息を切らせてやってきた。
「みんな、見て。花火大会は八月の二十日に行われるんだって」
「今年は、鍵屋か玉屋かどちらだろうね」とおかねは褌を洗っている手を休めていった。
「今年もみんなで、両国橋へ行こうかね」とおたねがいった。
「いいわね」とおすみが答えた。
一方、正助とはるよは、二人で両国橋に行って観ようと約束した。久しぶりに二人で出かけるのを楽しみにその日を待っていた。
花火大会の二日前の早晩、突然、町年寄の奈良屋が又吉を訪ねてきた。
あきは何用かと心配げに奈良屋を迎えた。
「忙しいところすまないね、皆居たんでちょうどいい」
といって、煙管に煙草を詰めた。
「どうぞ」と又吉は煙草盆を奈良屋の前に寄せた。
「実は今日来たのははるよさんのことなんだ」
「わたしのことで」あきの後ろにいたはるよは驚いて声を出した。
「そうなんだ。お前さんたちも知っている古着屋の山越屋さんが、はるよさんを息子の嫁に欲しいといってきたんだ。息子の長介はおいおい店を継ぐことになっているので、将来は安泰、はるよさんにとっては、申し分ない話だと思うんだが」と一方的に話して、十日後に返事を聞きに来るといって、ちょっとと又吉がいおうとしたときには奈良屋は背を向け障子戸を開けていた。
数日後、あきの母から小島丈太郎の紹介ではるよの婿に書院番頭の佐田和之進はどうかと薦めてきた。
それからというものはるよは毎夜眠れずに過ごしていた。
(うちも貧乏だけど、長屋の人たちも同じ。でも毎日楽しく暮らしている)
次の夜は、
(おとっつあんとおかあさまには少しでも楽させたい。あたしをここまで育ててくれた少しでもの恩返しに)と悩んだ。
「はるよ、寝れないの」隣で寝ていたあきが声をかけてきた。
「はい」
「結婚のことで悩んでいるのね」
はるよの結婚相手が、いつの間にか長屋に知れ渡り、山越屋の息子の長介と書院番頭の佐田和之進の噂もはるよの耳に入ってきた。
長介は遊び人でまた大酒飲みで家業を手伝うこともなく、毎日吉原に入り浸っているようだとおかねが見てきたみたいにはるよにいいにくそうにいってから、
「はるよちゃん、噂だからね。本当かどうかわからないので、確かめた方がいいよ」と。
また、おすみは和之進について調べて来て、はるよに知らせた。
「はるよちゃん、佐田さま、四十の齢に入っていて、三年前に奥様をなくしているそうよ。子供も三人いるんですって」
はるよは、どうすればいいのか分からなくなってきた。
今日の朝も、正助の声が長屋に響き渡ってきた。
おすみ、おたねそしておかねがいつも通り笊を持って、井戸端の前にいる正助の所にやってきた。
「おはようございます。今日は白菜と葱がいいですよ」
「この葱ちょうだい」とおすみが指をさしながらいった。
「あたしは、この白菜の四つ切を一つちょうだい」と、おたね。
「あたしもそれ一つね」おかねがいった。
「あたしは、それを二つお願い」とおすみが、頼んだ。
「おすみさん、二つもどうするの」と不審そうにおたねが訊ねた。
「はるよちゃんに一つ渡すの」
「そういえば、はるよちゃん最近出てこないけどどうかしたんですか」正助が心配顔でいった。
「あんた知らないの。はるよちゃんに最近縁談の話が次々ときているんだよ」
「あっ」とおすみが声を出すと、おたねはまずいといった顔で話をとめた。
「どうしたんですか、おすみさん」と正助が、不審そうに聞いた。
「いや、ちょっと。なんでもないわ、虫が飛んできたもんだから」
「あたしも見たわ」おかねが苦みつぶした顔でいった。
「じゃあ」おたねは、バツの悪そうな顔をして、笊を持ちあげて家に帰っていった。
はるよは奥女中の暮らしに馴染んでしまっていたので、長屋の生活にはなかなか戻れないでいた。
はるよは、嫁ぎ先を決めた。
「おとうさま、おかあさま。わたし、山越屋の長介さんの所にお嫁に行きます。大家さんによろしくお伝えください」
「はるよ、本当にそれでいいの。私たちを楽にさせようと思って決めたのではないの」とあきがいった。
「そんなこと、ありません」
「わかった。はるよ、後悔するんじゃねえぞ」と又吉がいった。
その日から、はるよは、正助と顔を合わせるのを避け続けた。
祝言は春の大安吉日の九つ時、浅草にある料亭花筏で始まった。
はるよの隣にはすでに赤ら顔の長介が座っていた。
ざわめきが消え、一同が一点に集中した。
三々九度が無事すみ、 仲人の奈良屋が立って挨拶が始まり、長介とはるよをほめちぎって話を終えた。
参席の者たちは、料理を口にしたり、酒をお互いに酌をしながらしゃべり始めたりで騒めいてきた。
長屋の連中たちは、緊張しながらも出てくる料理に目を見張った。
「おっかあ、これはなんだ。茄子か」大工の近治がおたねに聞いた。
「これは、瓜よ」
「瓜と茄子の粕漬けだわ」とおすみが口をはさんだ。
「おすみさん、これはなに」とおかねが身を乗り出していった。
「かつおの浅煮よ、このお店だけしか食べられないの」とおすみが答えた。
「かつおか」といって、近治が箸を取り上げて、
「この箸は檜でできているぞ、見たことがねえ」と大きな声を出した。
「この器は、有田焼だぞ」と弥助も声をあげた。
「早くおたべよ、はずかしいじゃないか」とおたねがぶっきらぼうにいった。
近治は、恐る恐る口に運んだ。
「うめえ」
おすみは笑いをこらえた。
一方、山越屋の縁者たちは、皆手酌で静かに飲んでいた。
越後屋が座の中に入って歌い出した。
「♪高砂や この浦舟に 帆を上げて この浦舟に帆を上げて 月もろともに 出潮の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて はやすみのえに 着きにけり は やすみのえに 着きにけり♪♪」
. 越後屋の歌が終わるやいなや、顔を真っ赤にした鳶の弥助が急に立ち上がって木遣りを唄い始めた。
「今日はめでたい~、えんや―、よいやー、こんやー、いよいよやーえいやー」
それが終わると、次は、近治が歌い始めた。
山越屋の縁者たちの顔に不快の色が表れてきた。
長介は、銚子話持って、ふらつきながらやって来て、又吉の前に座り込んでいった。
「又吉さん、さあ一杯」
「すまねえ」又吉は、盃を長介の前に差し出した。
隣の席で、あきが神妙な面持ちでふたりを見ていた。
「長介さんよ、はるよを泣かすことのねえように頼むぜ」といって、又吉は空けた盃を長介に渡そうとした。
「そんなに、俺を信用していないのかい。酒飲みで遊び人だと噂を信じているんだな」
「そういうわけでもないんだが」
「貧乏人の分際で、山越屋に嫁ぐことができるなんて夢のような話じゃないか。奈良屋さんから頼まれたから嫁にしたまでだ」長介は、又吉の手にある盃を振り切った。
「あっ、何をするんだ」と又吉が、大声をあげた。
皆が又吉に視線を投じた。長介の両親の顔は真っ青になっていた。
仲人の奈良屋が、長介たちの険悪な雰囲気をかぎつけてやってきた。
「長介さん、もう酒は控えなさい。又吉さん、申し訳ない。長介さんは、飲みすぎたようだ」
奈良屋は、長介をもとの席に連れて行った。
はるよと長介の祝言が終わってから三か月後に山越屋の主、宗助が持病の胸の病が悪化して鬼籍に入った
宗助の妻は、入れ込んでいた歌舞伎役者に貢ぐために、店の金銭をもって、家を出て行ってしまった。
少しはおとなしくしていた長介は、毎晩酒を飲んで朝帰りのすさんだ生活を送り始めていた。
はるよは、長介は両親を失った寂しさを紛らわしていると思っていたが、数か月後、長介が、外から女を連れ込んできた。
どこかの茶屋の女だった。
そのような時、はるよの相談相手でもあった母のあきが突然の病で危篤になったとおたねが連絡しにやってきた。
「おたねさん、ありがとうすぐ支度していきます」
「はるよちゃん、待ってるわ」
はるよは家に入って、あきのそばでうなだれている又吉の横に座ってあきの顔を覗き見た。
「おかあさま」
あきは、すでに息を引き取っていた。
「はるよ、通夜は明日七つ時からだ」と又吉ははるよにいった。
「うっ・・・」はるよは咽び泣いた。
「はるよちゃん、泊まっていきなさいよ」と帰ろうとするはるよにおすみが声をかけた。
「泊りたいけれど、お店に何もいっていないから」
はるよは、泣き泣き家を離れた。
はるよは店に戻って、長介に明日通夜と野辺の送りで店をこの二日間空けたいと申し出た。
「お前の好きにするがいい」と薄笑いを浮かべながら長介はそういうだけであった。
はるよは、番頭の文太郎にも明日留守をするといってから軽い夕餉を取ってから寝床に入ったが、とうとう朝まで泣き続けていた。
あきの通夜と野辺送りを終えて、はるよは店に戻った。
店は、長介が連れ込んだ女が取り仕切っていた。
「おかえりなさい、はるよさん。昨日からあたしがこのお店の女将になりましたので、よろしく」と女が薄笑いを浮かべながらいった。
「なんですって」といって、はるよは、居間に駆け込んで酒を飲んでいた長介に怒鳴った。
「あなた、もうお酒と女はやめてくださいといっているのに。これは一体どういうことですの」
「うるせえ、これはだめ、あれはだめ、いつもそればっかりいって。大奥勤めを鼻にかけやがって、もうお前にはうんざりだ。おくみが、昨日から山越屋の女将になったんで、お前は今から女中だ。分かったな。いやなら家を出て行ってもいいんだぞ」
「あなた」
「分かったわね。はるよ」とくみが長介にまとわりつきながらいった。
「これからはおくみのいうことをよく聞くんだぞ」
はるよは、三畳一間の薄暗い部屋で毎夜を過ごした。
三日後、はるよは長介に会っていった。
「あなた、私と離縁してください」
「そんなことできるわけねえ。店の名に傷がつくことぐらいお前ならわかるだろう」
はるよは、何も答えずに、裏口からそっと店を出て長屋に行った。
「あれ、はるよちゃんじゃない。どうしたの」ちょうど家から出てきたおすみに声をかけられた。
「おとっつあんの様子を見に来たの」
「又吉さん、だいじょうぶよ」
「おすみさん、おとっつあんに何かあったら連絡お願いします」
「又吉さんに会わないの」
「お店が忙しいので、帰ります」
「そう」とおすみは怪訝そうにいった。
(山越屋でうまくいっていないのかしら。かわいそうに)と心配そうに、おすみははるよの後ろ姿を見送った。
長介は、はるよに一切店の仕事をやらせなかった。
はるよは、あきの墓参りに真章寺に行くのが日課だった。
長介は相変わらず仕事をせずに朝から家でくみと酒を飲み、夜になると岡場所に出かけていた。
一年ほど過ぎた夏。
山越屋は借金をするようになり、店には、ほとんど客が、来なくなった。
くみがいなくなり、新しい女に代わった。
「おかみさん」と朝、部屋へ番頭がやってきた。
「文太郎さん、何か」
「はい、この店早々につぶれます。申し訳ありませんが、店を出ていきます」
「あなたがいなくなったら、山越屋は明日にも潰れてしまいます」
「おかみさん。あんな旦那さん、早く見限った方がいいですよ」
はるよは、だまってしまった。
翌朝、文太郎は、はるよに挨拶もせずに店を出て行った。
それから間もなく、山越屋は潰れ、長介は女を連れて行方をくらませた。
はるよ一人が、毎日借金取りに頭を下げ続け、
「何とかしますので、しばらく待ってください」と当てもなくいった。
ある日の昼下がり。借金取りがいなくなった時期を見はからったように、正助が、突然山越屋に現れた。
「正助さん」
「はるよちゃん、お店、潰れたんだって」
正助は、やつれたはるよを見て不憫に思った。
「ええ」
こらえきれずに、はるよの目から大粒の涙がこぼれた。
「借金は、どのくらいあるの」
「百両ほど」なんとかはるよは答えた。
「百両か」といって、正助が帰って行った。
数日後、正助が二人の手代を伴って、はるよを訪ねてきた。
はるよは、正助たちを居間に案内した。
座った正助は、手代から風呂敷包みを受け取り、それを解いた。
「はるよちゃん、ここに二百両あるからこれでお店を復活させてください」
「こんなに」
「遠慮なんかいらないよ。俺、今は表店で八百屋やってるんだ」
「正助さん・・・」
正助は、手代の一人を置いていくから使ってくれといって、店を出て行った。
はるよは、三日で借金をすべて返済した。
そして、手代の勧めで、すぐに古着買取のため複数の問屋から入札を行い、一番札の問屋から多くの品を現金で購入し、店を開いた。
客は、まばらではあったが、まずまずのでだしであった。
はるよは、手代ともども、毎日朝から晩まで、忙しく立ち振る舞った。店を閉めその日の売り上げを大福帳に書き上げると疲れがどっとはるよの身体を襲った。
「おかみさん、おかみさん」と風呂屋から戻ってきた手代の一太が居間で居眠りをしているはるよに声をかけた。
「あら、寝てしまったわ」
品物が良質で、安いとの噂が広まり多くの客が毎日やってきて、山越屋の売り上げはどんどん上がった。
一年ほどで、正助から借りたお金を返せるほど利益を上げることができた。
はるよは、手代の一太を伴って正助の店を訪ねた。
紺の下地に黒の縦縞の小袖に茶の前懸をした女が出てきた。
「一太じゃないの。このお方は」
「山越屋のおかみさんです」
はるよは、名をいって頭を下げた。
「はい、主人を呼んできます」といって、女は奥に行った。
(えっ。あの方、正助さんの奥様!)はるよは、呆然とした。
一太は、はるよが驚いている様子を不思議そうに見ていた。
しばらくすると、正助が女と一緒に店に現れた。
「はるよちゃん、どうしたの」
「お借りしたお金を返しに来ましたの」
はるよは、改めて、二人に頭を下げた。
二百両を返した足で、久しぶりに又吉のいる長屋にいった。
「あれ、はるよちゃん、お久しぶりね」と井戸端で洗濯しているおすみに声をかけられた。
「おすみさん、ご無沙汰しています」
「又吉さん、最近元気ないわよ。早く会ってやって」
はるよは心配顔で頷き、又吉の家の前で、おとっつあん、はるよですといった。
すぐに障子戸が開いて、又吉が顔を出した。
「おお、はるよ、元気そうだな。中へ入れや」
はるよは又吉のやつれた姿を見て、言葉を失ってしまった。
中に入ったとたん、魚が腐ったような臭いにはるよは顔をそむけた。布団は、万年床のようで、又吉はそこに横たわった。
「おとっつあん、ここを出て、私の家に来ない」とはるよがいった。
「ありがたいが、俺はここが一番だ。長屋の連中もよくしてくれる」
「どうしても」
「そうだ。お前はこれから一人で店をやっていくのか」
「まだ、先のことは考えていないわ」
はるよは、部屋の掃除をして、湯を沸かし、飯を炊いてから外に出た。
空は茜色に染まっていた。
山越屋の繁盛を聞いて、昔働いていた店員が何人か戻ってきて、はるよは多少楽になった。
「はるよちゃん、大変よ」とおすみが、店に駆け込んできた。
店にいた客たちが、一斉におすみに目を向けた。
手代の一人が、おすみの前に行っていった。
「どちらさまですか」
「はるよちゃんにおすみがきたといっておくれ、早く」と息切れ切れにおすみが答えた。
手代が、戻ってきて、おすみに向かってこちらへどうぞといって客間に案内した。
はるよが、障子を開けて待っていた。
「おすみさん、どうしたんですか」
「何いってんのよ、又吉さんが、危ないのよ。早くいかないと」
「えっ」
はるよは、おすみの先に立って、店を飛び出した。
(おとっつあん、待って。死んじゃいや)
はるよは、祈りながら、長屋に入り家の障子戸を開けた。
「又吉さん、はるよちゃんが来たわよ」とおかねがいった。
はるよは、又吉の顔を覗き込んだ。
又吉の目は開くことなく、閉じたままであった。
はるよが医者をみた。医者は首を横に振った。
はるよが、泣き崩れた。周りにいる長屋の連中もすすり泣きだした。
「すみません」と声がして、障子戸が開いた。
おすみが、気がついていった。
「正助さん、又吉さんが今亡くなったの」
正助は、はるよのそばに行って声をかけた。
「はるよちゃん」
又吉の初盆供養が真章寺にて、はるよと長屋の連中そして、正助たちで行われた。
蝉の声を打ち消すように住職の読経が始まった。
「なんまいだ、なんまいだ」
「 ~」
(とうとう一人になってしまったわ)はるよの目から涙がこぼれた。
悲しみを忘れようとはるよが、商いに没頭した結果、山越屋は古着屋で江戸でも有数の大店になった。
目がくぼみ、右ほほに刃物の傷を持った身なりの薄汚い男が店に入ってきた。
「いらっしゃいませ」手代が恐る恐る男に声をかけた。
「おかみはいるかい」
「どちらさまですか」
「この店の主の長介だ。早く呼んで来い」
「なんですって、お戯れをいって」
「うるせえ、早く呼んでこねえとこっちから行くぜ」
「しばらく、お待ちください」
手代は困った顔していって、男から離れた。
はるよは、手代から話を聞いていった。
「男は、昔の主人です。ここに案内してください」とはるよは不快な顔をしていった。
手代が、長介を部屋に連れてきた。
「昔と変わらねえな、はるよ、元気そうじゃねえか」
長介は、部屋に入ると舐めるようにはるよを見た。
はるよは、手代に店に戻るように目配せした。
「繁盛しているようだな」
「おかげさまで」
「実は十両ばかり貸してほしいんだが」
(貸してくれって、返す気はないんじゃないの)
「そんな大金、何に使われるんですか」
「いちいちお前に説明する必要なんかない」
「あなたは、もう他人ですから、申し訳ありませんが、簡単にお貸しするわけにはいきません」
「そうかい、もうお前には頼まねえ」と長介は障子戸を力いっぱい開けて部屋を出て行った。
はるよは、怒りに震えた。
新しい年を迎えた。
はるよは、喪中のため初詣や挨拶は控えた。三が日はほとんど家の中で一人静に過ごした。
四日、朝から山越屋の前には列ができた。朝四つ、店を開き、昨年準備していた福袋を売り出したが、半刻ほどですべてを売りつくした。
店を閉め、手代たちにお年玉をやって、その日を終えた。
翌日からいつもと変わらない商いを始めた。
正助の店八百助の野菜は、女房のやえの実家の村から仕入れていたが、一昨年からの日照りで次第に量が少なくなってきていたため、他の業者から回してもらって店の切り盛りをしていた。
それは実家の村のものより高く、利益を得ようとすると客数が減るため、安売りをし続けたところ、借金が増え続けていた。
やえの両親は、やえたちに心配かけまいと連絡もなく二か月前の十一月にすでに栄養失調で亡くなっていたことを村のものから聞いたやえはすぐに村に帰った。
その間、正助は、五歳の息子と三歳の娘の面倒をみながら店を開いていたが、数日後、やえはすっかりやつれて戻ってきた。
「やえ、どうだった」と正助は聞いた。
「村の人たちは飢えに苦しんで、草木やバッタやネズミまでも食べていたわ」
「そうか、江戸はまだいいほうか」
そうはいっても、店の棚にはほとんど野菜が並べられていないことに、やえにはつらかった。
翌日の午後八ツ時頃、やえは娘のゆきを背負って、着物売るために山越屋へ出かけて行った。
夕方六ツ時の鐘が打ち終わった。
(おそいなあ、なにかあったのか)正助は煙草盆に煙管を打った。
「正太、ちょっくら母ちゃんを見てくるから留守番していてくれ」
「わかった」手習いの手を休めて正太がいった。
火を入れた提灯を持って、正助は山越屋へ向かう道を辿っていった。
四半刻ほど行くと、三十間ほど先に数多くの提灯の灯りの塊を見た。
近づいて、その中の一人に何があったのかと聞いた。
「先ほど坂道を下ってきたあの大八車が、赤ん坊を背負った女の人にぶつかったんですよ。今、八丁堀が現場改めをしているようです」
「えっ・・・。その女の人はどうなったんですか」
「よくわからないですが、たぶん医者に運ばれたんじゃないかな」
(まさか)正助は現場改めをしているところに近づいて、なわばりの近くにいる岡っ引きに聞いた。
「すみません。先ほど大八車に轢かれた女は、どんな女でしたか」
「なぜそんなことを聞くんだ」
「ええ、もしかしたらおいらの女房かもと思ったもんで」
「女も赤ん坊ももう死んでいたよ、向こうにある自身番に運んだから確かめてくるがいい」
「へい、ありがとうござんす」
自身番の障子戸を開けた。
医者が手を合わせて立ち上がろうとしていた。
「誰だい」と番太が正助の顔を見て行った。
「正助といいます、先ほど大八車に・・・。やえ、しっかりしろ」
正助は、歯を食いしばったやえの顔に近づき、やえの身体をゆすった。
「ゆき、早く起きるんだ、ゆき」
隣に横になっているゆきの顔を叩き続けた。
「正助さんとやら、この方の旦那ですか、ご愁傷様です」と医者はいって、頭を下げた。
「なぜこんなことに」
「今それを八丁堀の旦那が調べているんだ」
「いったい誰が」
「それもだ。おまえ、これからどうする」
「息子を店に待たしているんで、一度帰って、また息子を連れて戻ってきます」
「そうか」
大八車は、越後屋のものであったことを、同心が、自身番に戻ってきた正助に伝えた。
「おっかさん、いつ起きるの」と息子の正太が、正助に何度も聞いてきたが、正助は何も答えられずに、ただ手拭いを顔にあてているだけだった。
やえとゆきの野辺送りは、店の者たちだけでささやかに行われ、真章寺の墓に埋葬された。
本堂で正助と住職が、一服しているところに越後屋の主が手代を連れてやってきた。
「正助さん、この度は本当に申し訳ありませんでした」と二人が板の間に頭をこすりつけて詫びた。
「越後屋さん、そんなことしなくてもいい、すぐに女房と娘を返してくれ」
「先日、お奉行所からの命でこれをと」主は風呂敷をといて金子を正助の前に差し出した。
「これぽっちか、女房と娘の命は」と正助は嘆いた。
「正助、南町のお裁きだ。無念だろうが受け取りなさい」と住職が、空しそうにいった。
数日後、はるよが、やえとゆきが亡くなったことを知って、正助の店を訪ね、花と線香を手向けた。
はるよは、正助に挨拶以外の言葉をかけることをためらって、早々と引き上げた。
夏を迎えた。
この年の冬に長介が他界したことをはるよは噂で知った。
両国近辺の店は、盆休みに入り、山越屋も店を閉めた。
翌日、はるよは真章寺に墓参りに行った。
住職に挨拶をしようと本堂に上がろうとすると、住職が男の子に何かを教えている様子であったので、静かに出入り口戸の前に腰を下ろした。
(あの子、どこかで見たことがあるわ。だれだったかなあ)はるよは記憶を蒸し返していたところ、
「おう、はるよさんか、ご苦労」
「ご住職、いつもお世話になっています。これは些少ですが」といって、はるよはお布施を住職の前に差し出した。
「いつも、いつもかたじけない。店は、繁盛しているようで結構だな」
「はい、おかげさまで」
「ところで、はるよさん、この子は正太というんだ。よろしくな」
「正太です」とぺこりと頭を下げた。
「はるよです、こちらこそよろしく。あっ」
「どうした」
「正太ちゃん、正助さんの息子じゃない」
「その通り、正助の息子だ。会ったことがあるようだな」
「御新造のやえさんと娘のゆきちゃんが亡くなってから、一度花を手向けに行った時会いました」
「ああ、あの時のおばちゃん」と正太も思い出したようであった。
「正助さんは、今どうしているの」
「二人を亡くしてからというもの、仕事をせずに酒ばかり飲んでいるようだ。気持ちはわかるが困ったものだ。この子が哀れでならぬ。先ほどから正太に親鸞聖人の教えを説いていたのだ」
(正助さん、可哀そうに)
「さあ、二人ともご本尊様に向かっておくれ」と住職はいった。
はるよと正太は座りなおして、手を合わせた。
「なんまいだ、なんまいだ・・・・」
蝉の鳴き声が、二人には聞こえなくなった。
四半刻して、読経は終わった。
「はるよさん、正太、墓参りが終わったら、ここに戻ってきなさい、昼食をとろう」
「はい、ありがとうございます」はるよたちは、礼をいって本堂を出て行った。
(仏さま、あの二人にご加護を)住職は手を合わせた。
一時酒におぼれていた正助は、息子のためにと気を取り直していた。
「正太、この店をたたんで長屋に引っ越そう。八百屋はもうだめだ、他に仕事を探す」
「いいよ」
引っ越した長屋は、昔はるよが、住んでいたところであった。
店子のほとんどは昔と変わらずいて、引越しの手伝いをしてくれた。
「正助さん、元気そうで何よりだわ。正太ちゃん、おなかすいたでしょ。食べてちょうだい」と引っ越しが終わった家におすみが、にぎりを持ってきた。
「おすみさん、ありがとう」
「おねえちゃん、いただきます」
「おねえちゃんなんて、正太ちゃん、いい子ね。正助さん、男連中が帰ってきたら皆で引っ越し祝いをしますからね」といっておすみは、家に戻っていった。
七ツ半時、湯屋に行った男連中も揃って、正助の家で祝いが始まった。
皆、酒が回ってくると昔話に酔いしれてきた。
「おそいわね」とおすみが独り言をいったのを聞いて、おたねが何が遅いのと聞き返した。
「なんでもないわ」といった時、
「こんばんは」といって、はるよが入ってきた。
「はるよちゃん」と驚いたのは正助ばかりではなかった。
「正助さん、引っ越し祝いです。正助さんと正太ちゃんの着物です」といって、風呂敷に包んだものを差し出した。
「ありがとうございます」と正助がいった。
「おばちゃん、ありがとう」と正太は、大きな声で礼をいった。
「はるよちゃんも立派な女将になったもんだ。さあ、飲んだ、飲んだ」といって、近治がはるよに湯のみを渡そうとしたとき、
「あんた、はるよちゃんは、お酒だめなの忘れたの」と女房のおたねがいった。
「じゃあ、正助が代わりに飲めや」といった時、正助は湯飲みを飲み干して、近治の前に差し出した。
「ありがとうございます」正助は、湯のみに口をつけた。
「正助も一時は大店になったんだから、俺と違って、頑張ればきっといいことあるよ」と弥助が慰めた。
「それにしても、正助さんもはるよちゃんもいろいろ苦労が多かったわね。これからはきっといいことが、たくさんあるわよ」とおかねがいった。
正助もはるよも下を向いてしまった。
「正助さん、これから仕事は、どうするの」とおすみがいって、ちろりを持って正助に酒をすすめた。
「野菜売り以外で何かと思っているのですが、まだ何がいいか考えているところなんです」
「そうなの、じゃあ、はるよちゃんの店手伝わせてもらったらどう」とおすみが、間髪を入れずに行った。
「おすみさん、はるよちゃんの思いも聞かないで勝手に決めたられないでしょうに。お節介なんだから、でも、はるよちゃんも正助さんもどうかしら」とおかねが話を継いだ。
「私は、正助さんには昔からお世話になっていますので、いいんですけれど」
「正助は、どうなんだ」と弥助が湯のみを置いていった。
「おいらは、古着のことなんか何も知らないんで」
「そんなことは気にしなくても、お前ならすぐに覚えるよ、昔から客にも人気があったし。昔からの馴染みのはるよちゃんがついているんだ。そうだろう、はるよちゃん」と近治がいった。
「はい、大丈夫です」
「はるよちゃんが、せっかくそういってくれてるんだ、見習いでいいからまずお願いしてみたら」とおたねが正助に向かっていった。
正助は、しばらく考えてから、はるよに向かって頭を下げた。
「はるよさん、見習いで結構ですのでよろしくお願いします」
「よかった、よかった。はるよちゃん、正助さんをよろしくね」とおすみは、正助に酒を注いだ。
翌日から、山越屋の番頭は、昔、借金で苦しんでいた時に正助が、雇っていた手代をはるよの手伝いとして派遣した男で、正助が、山越屋に来ることを知り大喜びした。
はるよだけでなく、番頭からも正助に着く手代には昔大変お世話になった方なので、丁重に対応するようにと命じていた。
その手代と一緒に正助は古着買いに町々の家、寺社や武家屋敷を朝から日が暮れるまで毎日周った。
半年も過ぎると、その手代よりも買い方がうまくなっていた。
そして、二年後には、山越屋の売り上げにも大きく貢献するようになった。
桜が散り始めたころ、正助ははるよの部屋に呼ばれた。
「正助さん、山越屋の主になってくれませんか」
「はるよちゃん、急にいったいどうしたんだい」
「こんなに大きくなってしまった山越屋を私では差配する自信がありません、暖簾分けもしなければいけないし。女では情に流されることも多いので、やはり男の主がよいと思っていました、そこで、気心知れた正助さんにお願いしたいの。そのあとは、正太ちゃんが後を継いでくれれば山越屋も万々歳。どうですか」
「どなたかに相談されたんですか」
「番頭さんと相談しました」
「何といわれましたか」
はるよは番頭との会話を正助に伝えた。
「正助さんが来てからこの二年間で山越屋の売り上げが倍になりました。彼の商売の手腕は、私も含めてだれよりも優れていると思います。番頭さんには悪いけど、私はこの店から身を引いて正助さんに店主を任そうかと思うけれどどうかしら」
「私は主になる器ではありません。正助さんはその器を持っていますので、主にされるのは賛成ですが、できれば女将さんにも店に残ってほしいのです」
「主が二人いたら、皆さんやりにくくなってしまいますよ」
「お二人が夫婦になったらどうでしょうか。お互い昔から気心知れていますし、今はもう連れ合いもおふたりにはいない。誰も文句をいう人はいません、それどころか、私だけでなく皆きっと喜ぶに違いありません。正助さんの息子の正太さんは、読み書きそろばんができてなかなか優秀です。次の主には、うってつけです。山越屋の先のことを考えるとこれが一番です」
と番頭が真剣にいったとはるよが、話を終えた時には顔が赤く染まっていた。
正助も恥ずかしそうに俯いてしまった。
祝言の話は進み、両国の花火大会のその日、大川のほとりの小料理屋で山越屋の店員と長屋の連中だけでつつましく行われた。
‘ドーン、ドドーン’
はるよも正助も遠い日を思い出しながら、空に大きく放たれた花火を仰ぎ見た。
「はるよちゃん、これ覚えている」と正助ははるよが奉公に行く前に買ったお守りを出した。
はるよもすぐに正助からその時にもらったお守りを手にした。
了
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そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
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