初恋ー昭和四十年

沢藤南湘

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薔薇色の人生

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 調布駅を出発したバスの中で、浅野浩之は、牧子との出会いから今日までの人生を思い出していた。
 高校三年の浅野浩之は、夏休みに入った日から、学校に通った。 五階の自分の教室に入り、窓側に席を移した。 数人が、鉛筆を走らせていた。
 特に仲のいい片倉哲夫が、日本史の参考書にラインを引いていた。
「おはよう」と声を落として言って浩之は、片倉の右隣に机と椅子を運んだ。
 浩之がいつもの席で、数学の問題を解き終わった時に、ちょうど十二時のチャイムが鳴った。 浩之は、母親が作ってくれた弁当を広げた。
 周りの連中も、席を立って食事に出かけたり、浩之と同じように弁当を食べ始めていた。
 浩之は、いつもと同じ十五分で、弁当をかばんにしまった。
「気分転換に図書室に行ってみるか」と独り言を言って、一階にある図書室に向かった。
 夏休みでも図書室は開いていたが、人気は、感じられなかった。
 浩之は、夏目漱石全集のひとつを手に取って、近くの椅子に腰かけて、ページをめくっていると奥から椅子を引く音が耳に入った。本から目を離して、音のした方に目をやった。  
 いつの間に入ってきた女子生徒が、本を読み始めていた。
 浩之は、再び本に目を戻した。
 その時以来、浩之は夏目漱石に熱中し、毎昼の時間に図書室に入った。
 女子生徒は、いつも浩之の後に来ていた。
 夏休みもあと数日を残すある日、いつもの通り、浩之が漱石の本を元の場所に戻そうと席を立った時、偶然彼女と顔を合わせた。 浩之は、顔が赤くなったのを悟られないよう彼女に向かって軽く頭を下げ、図書室を出た。席に戻ると、
「浅野、最近楽しそうだな。何があったんだ」片倉哲夫が、羨ましそうに言った。
「別になんでもないよ」
「そういえば、昼めしを終えるとしばらくいなくなるが、どこに行っているんだ」
「図書室に行っている。最近、漱石にはまっているんだ」
 夏休みが終わる前に、彼女が、三年一組で名前は、中山牧子だと浩之は知った。
 二学期の始業式を過ぎると毎日、授業前に図書室に行った。
 夏目漱石の全集もだいぶ読んだが、中山牧子とは、まだ一度も口を聞いてはいない。
 ある朝、浩之は図書室で、それからを読み終わった。 牧子が、先に図書室を出て行ったの見て、彼女が先ほど読んでいた本を棚に戻したところに行った。
 棚の中の一冊が、つい先ほど戻されたかのように、きちんと納められていた。
「ヘミングウェイの老人と海か」 浩之は、ますます牧子に魅かれるようになった。
 秋の文化祭を迎えた。 浅野浩之は、部活動は何もやっていなかったので、ただ文化祭当日いろいろ展示や発表を見るだけだったが、オーケストラ部に所属している彼女の演奏を聞くのが一番の目的だった。 中山牧子は、バイオリン演奏だ。
 演奏会場の講堂は、すでに八分がた席が埋まっていた。 浩之は、前の席が空いているのを見つけ、そこに腰をおろして、開園を待った。 緞帳が、開くと周りから拍手が起こった。浩之の目が、一列目の右側に座っている牧子に注がれた。
 司会が、最後の曲、ドヴォルザークの交響曲第九番「新世界より」を紹介して、演奏が始まった。
 無事演奏が終わり、満場からの拍手喝采が起こった。 浩之も手が痛くなるほど拍手を続けた後、講堂を出ると、片倉哲夫に偶然出くわした。
「浅野、お前も聞いていたのか。クラッシックには全く興味がないと思っていたよ」
「最近、興味を持つようになったんだ」
「どういう風の吹き回しだ?」
 校内放送が流れた。
「文化祭実行委員会から連絡します。四時から校庭で、文化祭の最後の催しであるフォークダンスの集いを開催しますので、皆さん、ふるって参加ください」
「浅野、どうする?」
「片倉、お前は?」
「俺は、帰るよ」
「俺、少し見ていく」
 校舎から出たすぐ道の下のグランドに生徒が集まり始めていた。
 浩之は、中山牧子を探した。
 彼女は、まだ踊りの輪に入っていなかったので、意を決して彼女のそばに行き誘った。
 オクラホマミキサー、マイムマイムそして、ジェンカを何回か繰り返し、私たちは踊った。
 踊りが終わった時には、浅野浩之は、中山牧子と二人並んでいた。
 実行委員会の委員長が、マイクを持って登壇した。
「皆さん、楽しんでいただけましたか。いよいよ最後になりました。この三曲を歌って今年の文化祭を終わりにします。では、最初に♪今日の日はさようなら から歌いましょう」
 混声合唱クラブの連中が、壇の前に整列した。 その前にタクトを持った男子生徒が立った。二番まで皆で歌った。
「では、次に、今回の文化祭が最後になります三年生へ、♪高校三年生 を歌いましょう」
 浩之は、牧子の声を耳にしながら歌った。最後に効果を斉唱して、文化祭は終えた。 
  ふたりは、それぞれ第一志望校に合格した。五月の連休が終わった頃、浩之は牧子を誘って、深大寺界隈を歩いていた。
「どうして、ここを選んだの?」
「牧子さんはバラが好きだと言っていたから、神代植物公園のバラを見に行こうと思っていたんだ」
「そう、覚えてくれていたんだ」
 浩之は照れていた。
「まず、お蕎麦でも食べないか。この辺は蕎麦がうまいことで有名なんだ」
 ふたりは、甚大に前の蕎麦屋に入った。
「麺にこしがあってほんと美味しいわ」
 浩之は牧子を誘ってよかったと思った。
「深大寺にお参りしてから植物園に行こうか」
 店を出ての直ぐの階段を上って、茅葺の屋根を持つ山門をくぐると本堂が正面にどっしりと構えていた。
 ふたりは本堂の前で手を合わせた。
 浩之は、これからも牧子と長く付き合えるようにと祈った。
 神代植物公園に入って、バラ園に行った。
「なんて綺麗なこと」
 シンメトリックに設計された庭園の色とりどりのバラを見て、牧子が感動したようだった。
「庭園の構成とバラがよくマッチしているね」
 浩之言葉を出さずにはいられなかった。
 浩之は、牧子を秋の大学祭に誘ったが、都合がつかないと断れてしまった。
 牧子に彼氏ができたという噂を耳にした。
 十二月、クリスマスイブにコンサートに行かないかと電話をしたが、はっきりと断られた。
 浩之は、牧子のことを忘れようと勉学に専念して、大学四年で司法試験に合格した。卒業後に司法修習生を一年四か月を終え、検察官の道を歩んだ。
 三十歳で、上司の紹介で結婚したが、この組織、転勤が多く、また、捜査、公判および裁判の執行と忙しく帰宅も深夜に及び、まともな夫婦生活を送ることができずに、たった三年で夫婦生活は破綻した。その後は、独身生活を送り続け、一昨年六十歳で検察庁を定年退職した。 友人の弁護士事務所に来てくれないかと懇願されたが、弁護士が嫌で検察官の道を選んだ浩之は、それを断った。
 時たま、寂しさを紛らわせるために、淡い高校三年の思い出に浸りながら酒を飲んだ。
 暇に任せて、ネットサーフィンをしていると、SNSで大人世代が趣味や仲間を探すためのコミュニティサイトとのうたい文句のD倶楽部を知り、その中の一つのSKコミュニティに参加した。
 一年ほど過ぎた五月、コミュニティの掲示板に、深大寺及び神代植物公園の散策参加者の募集があり、浩之は、すぐ参加申請した。
 浩之は、集合場所の京王線調布駅中央口の改札口に、集合時間の十時の三十分前に着いた。コミュの管理人の猫大好きさんが、改札口から数メートル離れたところにいた。
「おはようございます」
「おはようございます。バラ色さん、早いですね」
 D倶楽部は、ハンドルネームで呼び合うように定められており、浩之はバラ色と名のっていた。
 定刻の五分前になり、残すは、晴ちゃんという初参加の女性一人となった。
 常連の浩之は、すべて顔見知りで、皆といろいろ話しながら待った。 改札口から出てきた女性が、恐るおそる我々に近づいた。
「SKコミュニティですか」
「はい、晴ちゃんですか」
「ええ、そうです。よろしくお願いいたします」
 その声を聞いた浩之は、話をやめて晴ちゃんのほうを見やった。
 昔の彼女の面影が残っていた。
「皆さん、揃いましたので、バス乗り場に行きます。自己紹介は、深大寺で行います」
 猫大好きさんが、歩き始めた。浩之は、晴ちゃんに近づいて、
「バラ色です」と名のった。
「えっ、もしかして浅野君?」
「牧子さん・・」

 浩之は、言葉が続かなかった。 牧子が、先にバスに乗って後部の座席に腰をおろした。

「隣に座っていいですか」浩之は牧子に声をかけた。

 牧子は頷いた。

 バスは、終点深大寺に向かって動き出した。
 
 ふたりは終始無言で、浩之は目を閉じていた。
 
 終点の深大寺に着いたとのアナウンスに、浩之は我に返った。
 隣の牧子が笑顔で浩之の顔をのぞいて言った。
「バラ園、きっと美しいでしょうね」
                                   了
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