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03-お飲み物はこちらでよろしいですか

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「ヒナちゃんおはよー」
 背後からの挨拶に、渡貫は毎度のことながら脱力しそうになる。しかしながら、毎度のこととは言え注意しなければならないのが渡貫の仕事だ。
「……おはよう。ちゃんと『先生』付けて」
「はーい。ヒナちゃんセンセー」
 渡貫は、からからと笑う女子生徒たちを何とも言えない気持ちで見送り、校門前で次々に登校してくる生徒たちを迎える。
 渡貫の勤める職場である私立藍江学園は、中高一貫の共学校で、全国的にも高偏差値私立校として、たびたび新聞などで取り上げられている。特筆すべきは、各界の名だたる家柄の御子息御息女の在籍率の高さだ。右を向いても左を向いても、誰もが一度は聞いたことのある、企業や団体のトップに立つような親を持ち、またその輝かしい未来を約束された金の卵である。
 そして、保護者の行事ごとへの関心度も高く、学校と保護者の双方から生徒たちをバックアップすることが出来るため、非常に心強い存在だ。ただし、中には熱が入りすぎてマイノリティには厳しい一面もあり、渡貫のような若手教師には荷が重いこともある。
「渡貫先生、そろそろ職員室に戻りましょう」
「分かりました。水本さん、僕は職員室に戻るから後はお願いね」
 一緒に週番の校門前チェックをしていた教師の上野に呼ばれ、渡貫は風紀委員の水本に職員室に戻る旨を伝えた。腕時計を翳して確認すれば、普段より余裕のある時間だった。
 二人並んで職員室へ戻る途中、周りに人が居ないことを確認すると、上野は渡貫を肘で突く。
「渡貫先生って、ほんっと女子生徒に対してソフトっていうか、王子様的というか」
「え、何ですか? ダメですか? ソフトにしないと後が怖いじゃないですか」
「ソダネー。パパママが怖いもんねー。ってそうじゃなくて!」
 上野は器用にノリ突っ込みをしたと思えば、渡貫の腕を引き寄せ声を落とす。
「水本さん、ガチ目の感じするから、あんまり深入りしないようにね。先生好きですオーラ半端なくって、私が隣に居ることも不快って顔するし」
「ええ? そんな顔してました? 水本さんあまり馴れ合わない感じの人だから、ちょっと取っ付きにくそうかもですけど、話すと面白い子ですよ」
「そんなの大好きな渡貫先生の前だからでしょ? いずれにしても、生徒と深く関わりすぎないように、です」
「はい」
 素直に頷く渡貫を見て、上野はよく出来ましたとばかりににっこりと微笑んだ。
 上野は渡貫の一年先輩の英語教師であり、大学の先輩でもある。ただし、大学では学部もサークルも違ったため、学園で歓迎会を開かれたときに初めて知ったのだが、それで幾分かは肩の力が抜けほっとしたのも事実だ。
 その時も彼女は、先ほどのように渡貫を肘で突いてきた。
 宴もたけなわな頃。自分の席に行儀良く座っている者もあらかた居なくなり、皆好き好きに移動して会話を楽しんでいた。隣に座っていた同期がトイレに立った後、先輩教師に捕まり酌を受けながら神妙な顔で頷いてるのを見て、「可哀想に」と心の中で拝んだ。きっとご指導ご鞭撻をいただいているのだろう、そんなことを考えているときだった。
「渡貫先生、捕まらなくて良かったですね」
「…ぅえ?!」
 完全に気を抜いているときに脇腹を突かれ、驚いて変な声が出た。そんな渡貫を気にした様子もなく、上野は酒の入ったグラスを持ってにこにこと上機嫌だ。
「実は渡貫先生と私、大学一緒なんですよ。新人挨拶の自己紹介で言ってたでしょ? 勝手に親近感湧いちゃって」
「そうだったんですね。友人は民間就職ばかりで教員志望が居なかったから、同じ大学出身なんて奇跡ですね」
「やっぱり現実的に考えるとね。ところで学部は…」
 そんな風に会話をしていくうちに打ち解け、気がつけば上野とは先輩後輩としては比較的良好な関係を築けていた。
 今現在も上野は何かと心配して渡貫に助言や忠告、裏情報(これは処世術のためと言って一方的に聞かされている)なども横流ししてくれている。教師生活も三年目になるのだが、いまだに頼りないと思われているのだろう。
「今日の職員会、憂鬱ですね」
 職員室の近くまで来たところで、ふと渡貫が溢す。
「わかる。模試の結果なんて年度によって違うの当たり前だし」
 上野は渡貫の意図をすぐに察して頷く。
 先月に実施した大手進学塾の模擬試験の結果が芳しくなかったため、急遽全教員揃っての職員会議が開かれることとなった。副教科の教師は授業の配分や、部活の顧問であれば活動時間等の調整なども議題に上る。
「ですよね。そもそも毎年同じ内容ならともかく、違う内容、難易度も変わるってなったら点数だけの判断はちょっと…」
「政財界御用達とはいえ、進学実績出さないと生徒の囲い込み厳しいからね。ただでさえ少子化でどこも子供の争奪戦してるし、名門と言えど世知辛いわ」
 二人でぼやいているうちに、職員室まですぐ側まで来ていた。その時、
「上野先生」
 職員室手前にある階段から降りてきた、高等部の男子生徒が上野を呼び止める。この学園の制服は男女ともにブレザーであるが、中等部と高等部でネクタイの色が違うため見分けやすい。
 だが、生徒の顔を確認した途端、渡貫ははっと息を呑んだ。まさかこんなところで会うなんて、と動揺と緊張でどっと冷や汗が噴き出す。
 理知的なシルバーフレーム眼鏡に隠れてはいるが、じっと渡貫を見据える目を忘れるわけがない。件の恋人の息子だ。長めの前髪ではあるものの制服を着崩したりせず至って真面目な生徒に見えるが、渡貫を上手く丸め込みホテルの部屋へと連れ込んで暴行未遂に及んだ最も関わりたくない人物である。
「僕、先に行ってます」
「はーい。池田くん、最近提出物出すの遅いよ?───」
 渡貫は足早に二人から離れ、駆け込むように職員室の自分の席へ向かう。周りの教師への挨拶もそこそこに、自席に辿り着くと机に突っ伏した。心臓がまだ早鐘を打っている。
 咄嗟のことすぎて上手く取り繕っていただろうかと心配になる。どういう態度が正解なのかもわからないが、さまざまな要素が絡まり合ってアインシュタインでも裸足で逃げ出すレベルで難問だ。そもそも恋人が恋人ではなく不倫関係であったり、なぜかその息子(高校生)に襲われ、しかも国内では知らない人は居ないと言われる財閥鴻之池家とくれば、渡貫個人がどう声を上げようと太刀打ちできる相手ではない。そして息子である彼の名字が鴻之池ではなく池田を名乗っている事情───おそらくセキュリティ対策だろう───も、こんな事にならなければ知る由もなかった。
「ややこしいぃ……」
「どしたの? ヒナちゃん先生、今日は一段とぐずってるじゃん」 
 隣席の同期、清原に揶揄われながら声をかけられる。清原は同い年の同性ということもあり、比較的気心はしれた気安い関係だ。
 渡貫は顔を上げて正面を見据えたまま、これ見よがしに大きなため息を吐く。
「ぐずってない。悩ましいだけ。あと、ヒナちゃん言うな」
「まあまあ、そうカリカリしなさんな。これやるから機嫌直せって」
 そう言って渡貫の机に、コンビニ袋から取り出したエナジードリンク缶を置く。
「いや、飲まないから。勝手に置かないで」
 エナジー缶を丁重に清原の机に戻す。
「えー? どうせ今日も残業でしょ? 飲まないとやってらんないって」
「酒みたいに言うのやめてくれる? 職員会終わったら秒で帰るつもりだし」
「ははは。帰れたためしねぇじゃん」
 その言葉を合図に二人とも真顔に戻り、しばし沈黙が流れる。
 清原はふたたびエナジー缶を差し出した。渡貫は無言で受け取り、またもや大きなため息を吐いた。
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