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 二杯目のコーヒーも飲み終わり、ようやく腰を上げた昴星は、帰るのかと思いきやいつの間に置いたのか、キッチンカウンターの角にあったボディバッグの中をがさがさ漁り始めた。それをぼんやり眺めていると、正方形の革のアクセサリーケースを取り出し、テーブルに置くと恭しく蓋を開ける。あらわれたのは昴星が壊したという台座の欠けた、五百円硬貨ほどの大きさはありそうな、赤い石が填められたブローチだった。
「これは……」
 と言ったきり、櫻川は言葉が続かなかった。
 アクセサリーケースを取り出したときには、昨日交渉成立した修理品だろうと予想はしていたものの、昴星の手のひらの品は、あきらかに学生が気軽に持ち歩いて良いものではない。趣味ではあるものの、彫金をメインに学んでいた櫻川でさえ、一度は見てみたいと思っていた石が嵌め込まれていたのだ。
 普段なら年代物の台座の方にしか目がいかないが、その上に鎮座している赤い石──レッドベリル──は別格である。
「これは、確かに持って来れねえな……」
「……はい」
 昴星が躊躇いながも頷き、二人の間にしばし沈黙が流れる。
 櫻川は頭を抱え、激しく悩んだ。いや、実際には腕を組んでいただけなので、傍目からは普段と変わらず尊大な態度にしか見えないだろう。
 櫻川が頭を抱えようが、尊大な態度であろうが些末なことに変わりないが、この石の存在は重大だ。規格外すぎる。
「お前、この石は持ち出せねえって言っただろ」
 溜息を吐きつつそう問えば、昴星はくちびるを尖らせる。
「またお前って言ってるし……。石を持ち出せないのは祖母の持ち物だし、身に付けたりしないし、基本、宝石箱から出さないようにしてたから、単純にそういう物なんだと思ってただけです。だとしても、実際に見た方が作業のイメージが」
「いや、そうじゃねえ」
 櫻川はまだ喋っている昴星に被せるように割って入り、視線を合わせた。すぐに視線を外して立ち上がり、昨日と同様に奥の部屋からルーペを手に携えてきた。念のため、貴重品に触れるときに使用する白い手袋も用意した。
 櫻川はソファに座り、慣れた手つきで手袋をはめると、台座の欠けたブローチを慎重に持ち上げ、ルーペで石の状態を確認する。
 ベリルはエメラルドの一種で、ベリリウムを基本としたアルミニウム珪酸塩鉱物だ。その代表的な鉱物が緑色のエメラルドである。
 純粋なベリルは無色透明だが、異金属元素が混入することによって様々な色味の鉱物となる。クロム、もしくはバナジウムが混入するとグリーン・エメラルド。そして、マンガンが混入するとレッドベリルとなる。だからベリル自体はさほど珍しい鉱物ではない。しかし───、
「……レッドベリルは、世界で一か所しか採掘されないと言われてて、その場所ももう採掘され尽くした。だからこれは本当に稀少石だ」
 櫻川は言いながらルーペを外し、ブローチをそっと革箱に戻した。
「これが意味することは?」
 初歩的であり、重要な問いである。答えられなければ、丁重にお帰り願うところだ。
「ええと……、もう採掘が出来ないから、流通してるのは過去に採れたものだけ。だから今は……新たに石は市場に出回らない……?」
「おおよそそうだ。そしてこの規格外サイズ。ほいほい家から持ち出しているが、今、このサイズの石を手に入れることはまず不可能だろう」
「……不可能」
「俺が危惧していることは、ふたつある。まずひとつ目。台座を修理するときに、石に傷をつけてしまったときのこと。保険というか補償の問題だ」
 櫻川は一度話を区切ると、ブローチから昴星へ視線を移した。
「ふたつ目。この持ち主は修理に対して、どういう心構えなのかを確認してないこと」
 言い終えると、昴星は徐々に俯いて、どんな表情をしているか分からなくなった。
「修理はそう難しいことじゃない。だがな、ベリル自体さほど硬度は高くないうえ、インクルージョンやクラック……、液体や結晶といった内包物、傷が当たり前にある石なんだ。そしておそらく、石は未トリートメント、もしくは経年で元の状態に戻っているはず。そうなると当然硬度なんか当てにならんし、石を外して台座だけ修理しようとして、逆に壊れる可能性もある」
「それは、困ります」
 顔を俯けたまま、けれどしっかり主張をする昴星を一瞥し、櫻川はずっと気になっていた、重要なことを尋ねる。
「お前のお祖母さんは、このことを知ってんのか? 勝手に持ち出して、勝手に修理しようとしてるんじゃねぇのか?」
 昴星は微動だにしない。言葉が出ないのは肯定ととらえても良いのか、それともまだ何か説明すべきことがあるのだろうか。
 櫻川は出方を窺っていると、俯いていた昴星は不意に顔を上げる。その表情は驚くほど感情が抜け落ちていた。
「……祖母は、知らないです。こんなこと……。知らせられません」
 視線を落とし静かに話し始めた昴星に、櫻川は頷くだけにとどめ、続きを待つ。
「祖母は……イギリスの伯爵家の生まれなんですが、ブローチは代々女性が受け継いでいて、祖母の母……曽祖母から譲り受けたと聞きました」
 語る言葉に感情の起伏をなくすと、王子と持て囃されていた昴星は、途端に印象ががらりと変わる。瞳の色もそう見える一因かもしれないが、人を寄せ付けない冷たさを感じる。喋るマネキンのようだ。
「受け継いだ経緯は、祖父の帰国を機に結婚し、譲り受けたみたいです。それから約五十年ほど祖母の元にあったブローチなんですが、突然祖母の妹の代理人という人から、ブローチを返せという手紙が届いて」
 昴星はそこまで説明すると、口を閉ざしてまた俯いてしまった。筆舌に尽くし難いような内容だったのだろうか。
「……で、お前が件のブローチを確認していて、うっかり落として壊した、ってことか」
 櫻川は無理に聞き出そうとせず、そう結論づけると、話を振り出しに戻す。
「とはいえ、持ち主はお祖母さんなんだ。お前が勝手に持ち出して、修理しました、で済む話じゃねえだろ。これはそこらに転がってるような石とは全然違うんだ。コレクター価値や受け継いできた人の思いだって込められてる。値段なんか付けられない代物じゃねえのか」
 櫻川は正論を述べながら、自分の言葉に「いや、待てよ」と、違和感に目を向けた。
 昨日の昴星との取り引きでは、指輪を櫻川に返還することとブローチの修理はワンセットになっている。これでは昴星から石だけ巻き上げて説教し、仕事をしない悪徳業者のようなやり口だ。教育者どころか、人として終わっている。
 そんな自分をありえないと思いつつも、指輪を返す、の一言が喉の奥で留まって出てこなかった。自分の意思と体が見事に相反している。何故なら、脳内では『昴星に指輪を返せと主張する善人の櫻川と、元々は自分の物だと主張する悪人の櫻川』が、お互いの言い分が正しいとどちらも一歩も引かないのだ。善と悪の戦いは激化するばかりだが、如何ともし難い。
 石は、それだけ櫻川にとって大切なものなのだ。
 そんな脳内葛藤を繰り広げる櫻川は、眉間を揉みほぐし、一度深呼吸をした。
 その昔、まだ大学生だった櫻川が、その場で作った指輪をまだ小学生だった昴星にプレゼントしたのは遠い過去のことだ。しかしその時、指輪に嵌め込んだ石が稀少な石と取り違えていたことに気付かず、そのまま十数年、昴星の存在と共に行方不明になっていた。
 そしてそれは昨晩のまでの話であり、今は昴星の持っていた指輪の返還と、櫻川がブローチの台座を修理するという交換条件で交渉成立している。
 こうして櫻川の元に指輪ごと石は戻ってきたのだが、この流れでいくと昴星との交渉は無効になる。とは言え、手元に戻ってきた石はもう手放せない。台座の修理との交換条件だとしても、石の価値を理解していない人間の元にあったのでは、河原の石ころと同等の扱いになるだろう。たとえ石の価値を理解していたとしても、そこに何かしらの感情が含まれていなければ、やはりただの石だ。
 石の価値は、その価値が分かる人間が決めるのではなく、その石を愛している人間が決めるべきだろう。
 脳内の戦いを無理やり終息させれば、善と悪の櫻川は、雲が消えるようにすっかり無くなった。
 やはり自分が持っていた方がいい。そう思い直し昴星を見れば、早々に帰り支度を済ませバッグを掛けて立ち上がっていた。
「帰ります。修理の件も含めて、少し考えます」
「あ…ああ、分かった」
 櫻川が戸惑いながら返事をすると、昴星はあっさり部屋を出て行った。
 拍子抜けしてしまう。
 もっとごねるのかと思っていたが杞憂に終わり、色々考えすぎて損した気分だ。
 冷めてしまったコーヒーを入れ直そうとキッチンへ向かうと、昴星の使ったマグが綺麗に洗われてシンクの水切りスペースに置いてあった。いつの間に洗ったのか謎だ。手際が良い。
 昴星の居た片鱗を横目に、ふと先ほどの言葉を思い出す。
「あいつ、さっきなんつった……?」
 修理を含めて考えるということは、つまり、振り出しに戻ることになるかもしれないということだ。
 櫻川はマグを持ったまま裸足で玄関を飛び出す。コンクリートの共用通路にはすでに昴星の姿はなく、二部屋隣の少年が部活へ行くのか、ジャージ姿で大きな荷物を背負って歩いていた。
 物音に驚いて振り返った彼は、律儀に会釈してエレベーターホールへ向かう。引き換え櫻川は呆然と立ち尽くし、エレベーターホールを見つめることしか出来なかった。
 これは、詰んだかもしれない。
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