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せつなときずな 31
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「せつなときずな」 31
かつて、ギャラリー「尾張アートギルド」の付属カフェ「白猫」で働いていた美緒さゆりから、刹那にショートメールが届いた。
ギャラリーは、2年ほど前に廃業してしまい、「白猫」も無くなってしまった。
刹那は絆が生まれてから、絆を連れて公彦やサキと数回「白猫」を訪れていた。
それは、刹那が人生で初めて自分自身を変えようとしたきっかけの場所であり、パートナーとのなれそめの場所でもあった。
刹那が家族との新たな関係を作り、また、新たな家族があの場所を起点として生まれた。
それ故に大切な場所の喪失は、刹那が以前のように社会から遠ざかっていく、静かなトリガーになってしまった。
同窓に親しい関係を築こうとしなかった刹那には、少し年上の、カフェのスタッフだった美緒がほぼ唯一の心を開ける ―それもほんのわずかではあったが― 存在で、「白猫」の閉店を聞いた時に連絡先を交換していたのだ。
美緒は、夢だった自身のカフェをオープンするらしく、メールはその開店記念の招待であった。
「黒猫」という店名に苦笑したが、貼ってあったホームページのリンクを開けると、それは「白猫」とは真逆の意匠の店であった。
天井も壁も黒く塗装された店は、妖しいシャンデリアに照らされ、突き当たりの壁のみ、深いえんじ色に染められている。
「鏡の国のアリス」のうさぎのような、擬人化された猫らしき絵が嵌められた金色の額が、いくつも店を飾っていた。
美緒のしらざれる一面を垣間見た刹那は、久しぶりに自分の中にある虚構の血が騒ぐ感触を覚えた。
そう、あの冬の日に、サキにメイクを頼み、着飾って「白猫」に向かった、あの感じだ…
近頃は、外界との接触を断ったままの刹那を思い、サキは週に幾度か、刹那や絆を連れ出して買い出しや外食に連れていた。
ある晩、近所のファミレスで食事を囲んでいた時を見計らい、刹那はサキに「黒猫」のことを話した。
「お願いがあるの」
刹那の言葉に、サキは気持ちが昂るのを感じた。
そんな言葉一つでも、林が捕まってから投げ遣りにも思えた娘の、久しぶりの誰かへの働きかけだったからだ。
「開店のパーティの夜、もう一度、私をシンデレラにして。
王子さまに会うためじゃないの。私自身のために。
ただ、それだけのために。
私にそれができるのは、お母さんだけなの」
サキは、言葉にできないほどの幸福を感じ、思わず泣きそうになった。
きっかけが欲しかった。
刹那が社会と繋がる、何かしらの理由なり、好奇心なり、それを考えあぐねて苦しい日々を過ごしていた。
「お母さんだけなの」
刹那は私にそう言った。
私は娘に、今までどれだけのことをできたのだろう。
どれだけのことをしてこれたのだろう。
私は、刹那に同じことが言えただろうか。
私は、不実な母親ではなかったのだろうか…
「刹那、ありがとう」
それだけ言うのが、サキの精一杯だった。
それ以上何かを言おうものなら、きっと涙を堪えきれないに違いない。
「お母さん、私は…」
刹那は外の夜景に目をやりながら、横に座る絆の肩を抱き寄せた。
絆は刹那を見上げたが、よくわからないままにドリンクバーで入れてきたメロンソーダを再び飲み始めた。
「多分、以前と一緒の人間ではいられないと思う。
助けが必要かどうかも、私自身わからない。
そもそも、助かりたいのかもわからない。
それでも、ゆるして欲しい」
「自分の子をゆるせない親はいない」
サキは、自分の口から出た言葉に自分で驚いた。
それは本能的だった。
しかし、動物の本能とはきっと、この言葉そのものだろう。
「私に刹那が助けられるかは、正直わからない。
でも、私が諦めることはないわ」
刹那はもう一度絆を抱き寄せた。
メロンソーダを飲み干した絆は、甘えたように刹那にもたれかかった。
「ありがとう」
それはとても小さな声で、それでもサキには十分だった。
かつて、ギャラリー「尾張アートギルド」の付属カフェ「白猫」で働いていた美緒さゆりから、刹那にショートメールが届いた。
ギャラリーは、2年ほど前に廃業してしまい、「白猫」も無くなってしまった。
刹那は絆が生まれてから、絆を連れて公彦やサキと数回「白猫」を訪れていた。
それは、刹那が人生で初めて自分自身を変えようとしたきっかけの場所であり、パートナーとのなれそめの場所でもあった。
刹那が家族との新たな関係を作り、また、新たな家族があの場所を起点として生まれた。
それ故に大切な場所の喪失は、刹那が以前のように社会から遠ざかっていく、静かなトリガーになってしまった。
同窓に親しい関係を築こうとしなかった刹那には、少し年上の、カフェのスタッフだった美緒がほぼ唯一の心を開ける ―それもほんのわずかではあったが― 存在で、「白猫」の閉店を聞いた時に連絡先を交換していたのだ。
美緒は、夢だった自身のカフェをオープンするらしく、メールはその開店記念の招待であった。
「黒猫」という店名に苦笑したが、貼ってあったホームページのリンクを開けると、それは「白猫」とは真逆の意匠の店であった。
天井も壁も黒く塗装された店は、妖しいシャンデリアに照らされ、突き当たりの壁のみ、深いえんじ色に染められている。
「鏡の国のアリス」のうさぎのような、擬人化された猫らしき絵が嵌められた金色の額が、いくつも店を飾っていた。
美緒のしらざれる一面を垣間見た刹那は、久しぶりに自分の中にある虚構の血が騒ぐ感触を覚えた。
そう、あの冬の日に、サキにメイクを頼み、着飾って「白猫」に向かった、あの感じだ…
近頃は、外界との接触を断ったままの刹那を思い、サキは週に幾度か、刹那や絆を連れ出して買い出しや外食に連れていた。
ある晩、近所のファミレスで食事を囲んでいた時を見計らい、刹那はサキに「黒猫」のことを話した。
「お願いがあるの」
刹那の言葉に、サキは気持ちが昂るのを感じた。
そんな言葉一つでも、林が捕まってから投げ遣りにも思えた娘の、久しぶりの誰かへの働きかけだったからだ。
「開店のパーティの夜、もう一度、私をシンデレラにして。
王子さまに会うためじゃないの。私自身のために。
ただ、それだけのために。
私にそれができるのは、お母さんだけなの」
サキは、言葉にできないほどの幸福を感じ、思わず泣きそうになった。
きっかけが欲しかった。
刹那が社会と繋がる、何かしらの理由なり、好奇心なり、それを考えあぐねて苦しい日々を過ごしていた。
「お母さんだけなの」
刹那は私にそう言った。
私は娘に、今までどれだけのことをできたのだろう。
どれだけのことをしてこれたのだろう。
私は、刹那に同じことが言えただろうか。
私は、不実な母親ではなかったのだろうか…
「刹那、ありがとう」
それだけ言うのが、サキの精一杯だった。
それ以上何かを言おうものなら、きっと涙を堪えきれないに違いない。
「お母さん、私は…」
刹那は外の夜景に目をやりながら、横に座る絆の肩を抱き寄せた。
絆は刹那を見上げたが、よくわからないままにドリンクバーで入れてきたメロンソーダを再び飲み始めた。
「多分、以前と一緒の人間ではいられないと思う。
助けが必要かどうかも、私自身わからない。
そもそも、助かりたいのかもわからない。
それでも、ゆるして欲しい」
「自分の子をゆるせない親はいない」
サキは、自分の口から出た言葉に自分で驚いた。
それは本能的だった。
しかし、動物の本能とはきっと、この言葉そのものだろう。
「私に刹那が助けられるかは、正直わからない。
でも、私が諦めることはないわ」
刹那はもう一度絆を抱き寄せた。
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「ありがとう」
それはとても小さな声で、それでもサキには十分だった。
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