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第三話「腰痛が?」
朝日がエルザート家の屋敷に差し込む頃、リリアナは目を覚ました。
少しうとうとして、目が覚めてくると昨夜の事を思い出した。
「いけない!キッチンあのままだった!」
使いっぱなしにしていたのを片付けようとキッチンに向かうと、窓からの光がテーブルの上に置かれたレモンタルトを照らしていた。切り分けた跡が残るものの、半分以上がそのまま残っている。
彼女は椅子に座ってぼんやりとそれを見つめ、昨夜の不思議な感覚を思い出した。タルトを食べた瞬間、疲れが消え、心が温かくなった。あれは夢だったのだろうか。
「リリアナ様! ここにいらしたんですか」
突然の声にリリアナが驚きながら顔を上げると、メイドのソフィアがキッチンの入り口に立っていた。
30歳になるソフィアは、エルザート家に長く仕える優しい女性で、リリアナを妹のように可愛がってくれていた。彼女はエプロンを手に持ったまま、驚いたように目を丸くしている。
「あぁ、ソフィア……おはよう。ごめん、勝手にキッチン使っちゃって」
リリアナは慌てて立ち上がり、寝間着のしわを伸ばそうとした。
「いえ、そんなことより……これ、リリアナ様が作ったんですか?」
ソフィアはテーブルに近づき、タルトをじっと見つめた。その視線に何か熱っぽいものが混じっている気がして、リリアナは少し戸惑った。
「うん、昨夜眠れなくて……レモンタルトを作ってみたの。残っちゃったから、よかったら食べてみて」
リリアナは気まずそうに笑った。貴族の令嬢がキッチンに立つなんて、ソフィアに笑われるかもしれないと思ったのだ。
だが、ソフィアの反応は予想外だった。
「実は……今朝、庭師のトムと一緒に少し味見させてもらったんです。それで、どうしても作った人にお礼を言いたくて」
彼女の声が震え、瞳に涙が浮かんでいる。
「お礼? どうして?」
リリアナは首をかしげた。タルトは確かに美味しかったけれど、ただのお菓子だ。お礼を言われるようなものではないはずだ。
ソフィアは深呼吸して話し始めた。
「昨夜、夫と喧嘩してしまって……私が稼ぎが少ないって文句を言ったら、彼が怒って出て行っちゃったんです。ずっと落ち込んでて、朝も涙が止まらなかった。でも、このタルトを食べたら、気持ちがふわっと軽くなって……夫に謝ろうって思えたんです。今朝、彼が帰ってきて、仲直りできました」
彼女はハンカチで目を拭きながら、リリアナの手を握った。
「ありがとうございます、リリアナ様。このタルトのおかげです」
リリアナは目を丸くした。
「え、でも……そんなことって」
言葉がうまく出てこない。彼女が作ったタルトが、ソフィアの心を変えた? 偶然だ、きっとそうに違いない。そう思うのに、胸の奥で何か温かいものが動き始めた。
そこへ、庭師のトムがキッチンに顔を出した。50代の頑丈な男で、いつも無口な彼が珍しく口を開く。
「お嬢様、俺もそのタルトを一口もらったんだが……長年の腰痛が和らいだ気がする。こんなこと初めてだよ」
トムは照れくさそうに頭をかき、リリアナに軽く頭を下げた。
「腰痛が?」
リリアナの混乱はさらに深まった。ソフィアの話だけでも驚きだったのに、トムまでそんなことを言うなんて。
彼女はタルトを手に取り、じっと見つめた。黄金色の生地とレモンクリームは、確かに昨夜の自分の手で作ったものだ。
でも、特別な材料も魔法も使っていない。ただ、気持ちを込めて作っただけなのに。
その時、両親が食堂からキッチンへとやってきた。父のギルバートは厳格な顔つきの50歳、母のエレノアは穏やかな笑顔の45歳だ。
「リリアナ、朝から騒がしいと思ったら……何だ、これは?」
ギルバートがタルトを見て眉を上げた。
「……私が昨夜作ったの。お父様、お母様も食べてみて」
リリアナは少し緊張しながら、タルトを切り分けて両親に差し出した。二人とも訝しげな顔をしたが、一口食べてみると、表情がみるみる柔らかくなった。
「これは……美味しいわね。心が癒される味」
エレノアが目を細めて微笑んだ。ギルバートも珍しく頷き、「確かに。疲れが取れるようだ。リリアナ、お前がこんな才能を持っていたとはな」と呟いた。
その言葉に、リリアナの心が大きく揺れた。才能? 自分が? カルディスに「無能だ」と言われたばかりなのに、両親がそんなことを言うなんて。彼女はテーブルの端を握り、目を伏せた。
「でも、私の魔力は弱いし……ただのお菓子だよ。偶然だと思う」
「偶然じゃないよ。まるで魔法みたいだもの」
ソフィアが笑顔で言い切るも、リリアナは反射的に否定した。
「私の魔力は弱いから、そんなわけないよ」
貴族として生まれながら、彼女の魔力は平均以下だった。幼い頃からそのことでからかわれ、努力で補ってきたのだ。魔法なんて、ありえない。
でも、ソフィアの笑顔も、トムの感謝も、両親の言葉も、嘘じゃないように見えた。リリアナはもう一度タルトを見た。
自分が作ったものが、誰かを幸せにできるなんて。カルディスに否定された自分に、そんな価値があるのだろうか。頭では信じられないと思っても、心のどこかで小さな希望が芽生えていた。
「じゃあ……もう少し作ってみようかな」
リリアナは呟き、棚からチョコレートの塊を取り出した。ソフィアが「手伝います!」と笑い、トムが「次は俺も楽しみにしとるよ」と言う中、リリアナの唇に初めて小さな笑みが浮かんだ。窓から差し込む朝日が、彼女の手元を優しく照らしていた。
少しうとうとして、目が覚めてくると昨夜の事を思い出した。
「いけない!キッチンあのままだった!」
使いっぱなしにしていたのを片付けようとキッチンに向かうと、窓からの光がテーブルの上に置かれたレモンタルトを照らしていた。切り分けた跡が残るものの、半分以上がそのまま残っている。
彼女は椅子に座ってぼんやりとそれを見つめ、昨夜の不思議な感覚を思い出した。タルトを食べた瞬間、疲れが消え、心が温かくなった。あれは夢だったのだろうか。
「リリアナ様! ここにいらしたんですか」
突然の声にリリアナが驚きながら顔を上げると、メイドのソフィアがキッチンの入り口に立っていた。
30歳になるソフィアは、エルザート家に長く仕える優しい女性で、リリアナを妹のように可愛がってくれていた。彼女はエプロンを手に持ったまま、驚いたように目を丸くしている。
「あぁ、ソフィア……おはよう。ごめん、勝手にキッチン使っちゃって」
リリアナは慌てて立ち上がり、寝間着のしわを伸ばそうとした。
「いえ、そんなことより……これ、リリアナ様が作ったんですか?」
ソフィアはテーブルに近づき、タルトをじっと見つめた。その視線に何か熱っぽいものが混じっている気がして、リリアナは少し戸惑った。
「うん、昨夜眠れなくて……レモンタルトを作ってみたの。残っちゃったから、よかったら食べてみて」
リリアナは気まずそうに笑った。貴族の令嬢がキッチンに立つなんて、ソフィアに笑われるかもしれないと思ったのだ。
だが、ソフィアの反応は予想外だった。
「実は……今朝、庭師のトムと一緒に少し味見させてもらったんです。それで、どうしても作った人にお礼を言いたくて」
彼女の声が震え、瞳に涙が浮かんでいる。
「お礼? どうして?」
リリアナは首をかしげた。タルトは確かに美味しかったけれど、ただのお菓子だ。お礼を言われるようなものではないはずだ。
ソフィアは深呼吸して話し始めた。
「昨夜、夫と喧嘩してしまって……私が稼ぎが少ないって文句を言ったら、彼が怒って出て行っちゃったんです。ずっと落ち込んでて、朝も涙が止まらなかった。でも、このタルトを食べたら、気持ちがふわっと軽くなって……夫に謝ろうって思えたんです。今朝、彼が帰ってきて、仲直りできました」
彼女はハンカチで目を拭きながら、リリアナの手を握った。
「ありがとうございます、リリアナ様。このタルトのおかげです」
リリアナは目を丸くした。
「え、でも……そんなことって」
言葉がうまく出てこない。彼女が作ったタルトが、ソフィアの心を変えた? 偶然だ、きっとそうに違いない。そう思うのに、胸の奥で何か温かいものが動き始めた。
そこへ、庭師のトムがキッチンに顔を出した。50代の頑丈な男で、いつも無口な彼が珍しく口を開く。
「お嬢様、俺もそのタルトを一口もらったんだが……長年の腰痛が和らいだ気がする。こんなこと初めてだよ」
トムは照れくさそうに頭をかき、リリアナに軽く頭を下げた。
「腰痛が?」
リリアナの混乱はさらに深まった。ソフィアの話だけでも驚きだったのに、トムまでそんなことを言うなんて。
彼女はタルトを手に取り、じっと見つめた。黄金色の生地とレモンクリームは、確かに昨夜の自分の手で作ったものだ。
でも、特別な材料も魔法も使っていない。ただ、気持ちを込めて作っただけなのに。
その時、両親が食堂からキッチンへとやってきた。父のギルバートは厳格な顔つきの50歳、母のエレノアは穏やかな笑顔の45歳だ。
「リリアナ、朝から騒がしいと思ったら……何だ、これは?」
ギルバートがタルトを見て眉を上げた。
「……私が昨夜作ったの。お父様、お母様も食べてみて」
リリアナは少し緊張しながら、タルトを切り分けて両親に差し出した。二人とも訝しげな顔をしたが、一口食べてみると、表情がみるみる柔らかくなった。
「これは……美味しいわね。心が癒される味」
エレノアが目を細めて微笑んだ。ギルバートも珍しく頷き、「確かに。疲れが取れるようだ。リリアナ、お前がこんな才能を持っていたとはな」と呟いた。
その言葉に、リリアナの心が大きく揺れた。才能? 自分が? カルディスに「無能だ」と言われたばかりなのに、両親がそんなことを言うなんて。彼女はテーブルの端を握り、目を伏せた。
「でも、私の魔力は弱いし……ただのお菓子だよ。偶然だと思う」
「偶然じゃないよ。まるで魔法みたいだもの」
ソフィアが笑顔で言い切るも、リリアナは反射的に否定した。
「私の魔力は弱いから、そんなわけないよ」
貴族として生まれながら、彼女の魔力は平均以下だった。幼い頃からそのことでからかわれ、努力で補ってきたのだ。魔法なんて、ありえない。
でも、ソフィアの笑顔も、トムの感謝も、両親の言葉も、嘘じゃないように見えた。リリアナはもう一度タルトを見た。
自分が作ったものが、誰かを幸せにできるなんて。カルディスに否定された自分に、そんな価値があるのだろうか。頭では信じられないと思っても、心のどこかで小さな希望が芽生えていた。
「じゃあ……もう少し作ってみようかな」
リリアナは呟き、棚からチョコレートの塊を取り出した。ソフィアが「手伝います!」と笑い、トムが「次は俺も楽しみにしとるよ」と言う中、リリアナの唇に初めて小さな笑みが浮かんだ。窓から差し込む朝日が、彼女の手元を優しく照らしていた。
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