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壱 『発端』
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もどき、それは人と獣の間に生まれた禁忌の子。人の血肉を好み、人里離れた山に住み着き、訪れた修行僧や農民を食らった。
やがてその味を忘れられなくなった彼らは人肉を求め、山の中から江戸の街におりた。
それはかれこれ何十年も前の事。
今や江戸の街ではもどきが夜な夜な現れ、多くの商人や武士を殺している。
彼らは徐々に数を増やし、犠牲者は増えるばかりだった。
これを見かねた十三代目将軍、徳川家定は"もどき狩りの令"を出し、殺した者には多額の賞金を出した。当然、もどきの子を産んだ女やもどきを娶った男もその例外ではなく処罰の対象だ。
もどきは人に、また獣にも化ける。見分けるのは至難の業だ。人に化け、営みにすら入り込んだ彼らを見つけるなど……普通の人間には到底無理な話だ。
しかし、金に目がくらみかつて刀を捨てた侍や武士達は血眼で江戸を彷徨いた。
その多くはもどきの餌食となるのだが……
ーーーーーーそうとも知らず、今日も悲鳴は響き渡る。
春一番。そんな言葉が似合う今日の日和。
桜の花が舞い、川では鴨と共に花びらが泳いでいる。
しかし、引きこもりがちな老人でさえ桜を一目見ようと外へ出ているのにも関わらず、鶴屋の一人娘、雪路は自室で机に向かい、紙に何かを書いては
「あぁ、これも違う」
とくしゃくしゃにして自分の後に放り投げた。
すでにそこには似たような紙屑が山になっている。
彼女は着物屋、鶴屋の娘である大鶴雪路。あまり感情を表に出さない彼女だが、将来は物書きになりたいという夢を抱いており、十六歳にして紙と筆を手に取っていた。
黒く長い髪を簪で留め、藤色の着物に深緑の帯を締めた彼女は一見おしとやか近所でも美しいと名物になっているものだが、武士である父の影響で剣術を習得しており、大和撫子という事でも名を馳せている。
そんな彼女は毎日のように部屋にひきこもり、物語を書き綴っていた。
「先が思いやられるなぁ」
と書き終えた分の紙の束をぺらぺらとめくる。
出来終えている物語だ。
雪路自身、とても気に入っている作品だ。
しかし、なかなか筆が進まないのはそれ故、内容に凝ってしまっていたのだ。
「瓦版でも見に行こうか……。」
肩を回して気分転換に、と立ち上がる。
最近家から出なかっただけでも、長年見てきた外の風景を思い出せない彼女はもはや病気だろう。
自室の麩(ふすま)を明け、店の方に回ると色鮮やかな着物とともに母の初川が立っていた。
「お母さん。」
声をかければ、いずれ来るであろう客人の着物を選んでいた初川が振り返る。
「あら、雪路。どうしたの?」
「ううん、最近詰めすぎたから外でも行こうかと思って。」
「それがいいわ。たまには気分を入れ替えてきなさい。」
雪路はうん、と返事をしつつ下駄をつっかける。そして外に出ようとした時だ。
「ああ!雪路」
初川に呼び止められた。
「なぁに?」
「そういえば、棗くんがあなたに用事があるって。一旦ここにも来たのだけど、雪路の邪魔しちゃ悪いって帰ってしまったの。」
「棗が……分かった。帰りにでも家に寄ってくるよ。」
「ええ、そうしてちょうだい。」
棗は小さい頃から雪路と一緒の幼馴染みだ。商家の息子で十年前、彼が七歳の時に父親を亡くしている。
何の用事だろうか。
そう思うも雪路は
「じゃあ、行ってくるね」
そう言い残して鶴屋を出た。
外は見事な桜が咲き乱れていて、人で溢れかえっている。
たかが花ごときで、なんて思っていたが目の当たりにするとそうも言えなくなるから儚い命の放つものは不思議だ。
「瓦版は……横丁を抜けたところだ。」
と、朱塗りのされた橋を渡り、川沿いの横丁へと向かう。葦河原横丁という隅田川が真横に流れている横丁だ。
しばらく外に出ていなかった雪路は新鮮な風景に心奪われるも、横丁に近づくにつれ顔を曇らせた。
「人が……」
多い。
花見もあるのだろう。
貴族、商人、庶民。
様々な人が横丁の中をせわしなく動いている。
朝から酒を開ける男がいる。
こぞって商品を舐めるように見る女がいる。
桜を眺める老人がいる。
それを邪魔そうに見る若者がいる。
金持ちが威張り散らしている。
盗みを働く奴がいる。
雪路は自分の目がちかちかしてくるのを感じた。
「遠回りすれば良かった……。」
しかし今から戻る体力もない。仕方なく雪路は足を踏み入れた。
中は想像以上だった。
人が壁のように押し寄せてくる。
「すみません……!」
人がごった返しており、無理やり通ることになる。その度睨まれた。
「邪魔だ邪魔だ!」
「おい!どうなってるんだ!」
自分に当てられた言葉ではないはずなのに心がズキズキとする。
怖い。
突き刺すような視線や口の悪さは己を惨めにさせる。
この場所は人の汚い所がたくさん現れすぎるのだ。
欲がそうさせるのかもしれない。
雪路は肩をちぢこめ、顔を見せないように俯いていたがやがて堰を切ったように走り出した。
早く出たい。
その思いが通じたのか派手な装飾のされた出口が近づいてきた。
あと少し。
そして横丁を出る、その時だった。
「っ!?」
出口に面する道の右手から何かが飛び出してきた。
それが人だと認識するには時間がなさすぎた。
「おっ!?」
「いっ!!」
案の定ぶつかる。ごちぃんという鈍い音と共に地面に当たる衝撃が全身に伝わった。
「いったぁ……」
腰をさする。他にも体の至るところがひりひりしていた。特に痛いのは右の頬。
指で恐る恐る触れるとびりっと痛みが走り、皮が剥けているということが分かった。
「悪い……大丈夫か?」
雪路とぶつかったその人に声をかけられる。男の声だ。彼は転ばなかったらしいが、ばたばたと着物についた土埃を払っていた。
(背の高い人だ。)
とどうでもいいことを思っていると顔を覗き込まれた。
「あ、はい。おかまいなく。」
「かまうに決まってんだろ。まあ、立てよ。」
と、手を差し伸べられる。
目の焦点が合い、相手の顔がよく分かった。
不思議な外見をした青年だった。
やがてその味を忘れられなくなった彼らは人肉を求め、山の中から江戸の街におりた。
それはかれこれ何十年も前の事。
今や江戸の街ではもどきが夜な夜な現れ、多くの商人や武士を殺している。
彼らは徐々に数を増やし、犠牲者は増えるばかりだった。
これを見かねた十三代目将軍、徳川家定は"もどき狩りの令"を出し、殺した者には多額の賞金を出した。当然、もどきの子を産んだ女やもどきを娶った男もその例外ではなく処罰の対象だ。
もどきは人に、また獣にも化ける。見分けるのは至難の業だ。人に化け、営みにすら入り込んだ彼らを見つけるなど……普通の人間には到底無理な話だ。
しかし、金に目がくらみかつて刀を捨てた侍や武士達は血眼で江戸を彷徨いた。
その多くはもどきの餌食となるのだが……
ーーーーーーそうとも知らず、今日も悲鳴は響き渡る。
春一番。そんな言葉が似合う今日の日和。
桜の花が舞い、川では鴨と共に花びらが泳いでいる。
しかし、引きこもりがちな老人でさえ桜を一目見ようと外へ出ているのにも関わらず、鶴屋の一人娘、雪路は自室で机に向かい、紙に何かを書いては
「あぁ、これも違う」
とくしゃくしゃにして自分の後に放り投げた。
すでにそこには似たような紙屑が山になっている。
彼女は着物屋、鶴屋の娘である大鶴雪路。あまり感情を表に出さない彼女だが、将来は物書きになりたいという夢を抱いており、十六歳にして紙と筆を手に取っていた。
黒く長い髪を簪で留め、藤色の着物に深緑の帯を締めた彼女は一見おしとやか近所でも美しいと名物になっているものだが、武士である父の影響で剣術を習得しており、大和撫子という事でも名を馳せている。
そんな彼女は毎日のように部屋にひきこもり、物語を書き綴っていた。
「先が思いやられるなぁ」
と書き終えた分の紙の束をぺらぺらとめくる。
出来終えている物語だ。
雪路自身、とても気に入っている作品だ。
しかし、なかなか筆が進まないのはそれ故、内容に凝ってしまっていたのだ。
「瓦版でも見に行こうか……。」
肩を回して気分転換に、と立ち上がる。
最近家から出なかっただけでも、長年見てきた外の風景を思い出せない彼女はもはや病気だろう。
自室の麩(ふすま)を明け、店の方に回ると色鮮やかな着物とともに母の初川が立っていた。
「お母さん。」
声をかければ、いずれ来るであろう客人の着物を選んでいた初川が振り返る。
「あら、雪路。どうしたの?」
「ううん、最近詰めすぎたから外でも行こうかと思って。」
「それがいいわ。たまには気分を入れ替えてきなさい。」
雪路はうん、と返事をしつつ下駄をつっかける。そして外に出ようとした時だ。
「ああ!雪路」
初川に呼び止められた。
「なぁに?」
「そういえば、棗くんがあなたに用事があるって。一旦ここにも来たのだけど、雪路の邪魔しちゃ悪いって帰ってしまったの。」
「棗が……分かった。帰りにでも家に寄ってくるよ。」
「ええ、そうしてちょうだい。」
棗は小さい頃から雪路と一緒の幼馴染みだ。商家の息子で十年前、彼が七歳の時に父親を亡くしている。
何の用事だろうか。
そう思うも雪路は
「じゃあ、行ってくるね」
そう言い残して鶴屋を出た。
外は見事な桜が咲き乱れていて、人で溢れかえっている。
たかが花ごときで、なんて思っていたが目の当たりにするとそうも言えなくなるから儚い命の放つものは不思議だ。
「瓦版は……横丁を抜けたところだ。」
と、朱塗りのされた橋を渡り、川沿いの横丁へと向かう。葦河原横丁という隅田川が真横に流れている横丁だ。
しばらく外に出ていなかった雪路は新鮮な風景に心奪われるも、横丁に近づくにつれ顔を曇らせた。
「人が……」
多い。
花見もあるのだろう。
貴族、商人、庶民。
様々な人が横丁の中をせわしなく動いている。
朝から酒を開ける男がいる。
こぞって商品を舐めるように見る女がいる。
桜を眺める老人がいる。
それを邪魔そうに見る若者がいる。
金持ちが威張り散らしている。
盗みを働く奴がいる。
雪路は自分の目がちかちかしてくるのを感じた。
「遠回りすれば良かった……。」
しかし今から戻る体力もない。仕方なく雪路は足を踏み入れた。
中は想像以上だった。
人が壁のように押し寄せてくる。
「すみません……!」
人がごった返しており、無理やり通ることになる。その度睨まれた。
「邪魔だ邪魔だ!」
「おい!どうなってるんだ!」
自分に当てられた言葉ではないはずなのに心がズキズキとする。
怖い。
突き刺すような視線や口の悪さは己を惨めにさせる。
この場所は人の汚い所がたくさん現れすぎるのだ。
欲がそうさせるのかもしれない。
雪路は肩をちぢこめ、顔を見せないように俯いていたがやがて堰を切ったように走り出した。
早く出たい。
その思いが通じたのか派手な装飾のされた出口が近づいてきた。
あと少し。
そして横丁を出る、その時だった。
「っ!?」
出口に面する道の右手から何かが飛び出してきた。
それが人だと認識するには時間がなさすぎた。
「おっ!?」
「いっ!!」
案の定ぶつかる。ごちぃんという鈍い音と共に地面に当たる衝撃が全身に伝わった。
「いったぁ……」
腰をさする。他にも体の至るところがひりひりしていた。特に痛いのは右の頬。
指で恐る恐る触れるとびりっと痛みが走り、皮が剥けているということが分かった。
「悪い……大丈夫か?」
雪路とぶつかったその人に声をかけられる。男の声だ。彼は転ばなかったらしいが、ばたばたと着物についた土埃を払っていた。
(背の高い人だ。)
とどうでもいいことを思っていると顔を覗き込まれた。
「あ、はい。おかまいなく。」
「かまうに決まってんだろ。まあ、立てよ。」
と、手を差し伸べられる。
目の焦点が合い、相手の顔がよく分かった。
不思議な外見をした青年だった。
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