ぼく、パンダ

山城木緑

文字の大きさ
5 / 49
2.ごめんよ

しおりを挟む
 ひどく怯えている。
 早坂祐吾はその子パンダをひと目見て、これは難しいと感じた。
 白髪が目立つ髪をかき上げ、祐吾は汚れたベージュのキャップに白髪をおさめた。ふうぅと腰に手をあて大きく息を吐いた。
 この動物園で動物たちの飼育に携わって、もう三十年になる。
 人という生きものへの怯えや、車や船に揺られる恐怖、体感したことのない気候への不安。どんな動物でも、少なからずそうしたストレスを抱えている。
 それにどれだけの愛情を注いであげられるか。体裁ではなく、心からの愛情を注いであげられるかどうかで、動物たちは唯一の拠りどころとして、祐吾を頼ってくれることになる。その愛によってやがて、動物たちはこの堂ヶ芝動物園を我が家として認識して、次第に笑顔を溢すようになるのだ。
 だが、この子パンダは不安や恐怖に加えて、大きな悲しみにくれている。こんなに小さな子が頭を混乱させて、心の病気にかかっている。
 人間でいえば、重度の鬱病にて社会生活を送れない状態。そう表現したら分かりやすいだろうか。それも三歳児が……と想像してもらうと、切迫さは伝わるだろうか。
 信頼してもらう以前に、祐吾はこの子パンダの心の病気を治してあげたかった。
 時間があれば、時間を長く取ることができれば、ひょっとしたらこの子パンダは笑顔を浮かべてくれるかもしれない。
 けれども、時間がない。
 この堂ヶ芝動物園には、その時間がないのだ。
 早坂祐吾が難しい、と感じたのはそこだった。

『大阪にパンダがやってくる』

 堂ヶ芝動物園にとって一世一代の大勝負であった。
 戦後に誕生したこの堂ヶ芝動物園は来年で開園から百二十周年を迎える。
 細かなリニューアルや改築は行ってきたが、少子化の影響も大きく、大規模改修を行うほどの資金はない。
 ただ、このままでは未来ある大阪の子供たちに動物を見せてあげられなくなってしまう。経営は正直、そこまで考えざるを得ない状況に陥っていた。
 そこへ、渡りに舟と言うべき話が堂ヶ芝動物園に舞い込む。

「子パンダを買わないか」
 という中国民間団体からの営業であった。
 祐吾はもちろん、園長も他の飼育員たちも首を傾げた。

「子供だけ? 何で?」

 その疑問をもう少しその場で詰めていたら、未来はすこし変わっていたのかもしれない。
 だが、園に勤めるものは皆、経営危機で頭がいっぱいであった。園を守れるならば……。どうしても頭はそちらに流れがちで、動物という命を預かるリスクにたいしてヘッジがなされていなかったと言える。

「堂ヶ芝動物園は失礼ながら、経営も厳しいと聞く。親パンダは移送費もばかにならないし、それに、二頭となるとその金額までは出せないでしょう。だから、親のいない保護している子パンダ一匹をどうかと。どうしますか?」

 売り手のそんな文句に堂ヶ芝動物園は首を縦に振るしかなかった。
 下世話な言い方をすれば、パンダは客を呼べる。
 それで園にいる動物たちも、もちろん必死で働く職員たちも救われる。大阪の子供たちに動物をこれからも見せてあげられるのだ。
 堂ヶ芝動物園は子パンダを買う話に乗った。融資をとりつけるため、園長は駆け回った。
 広報に『堂ヶ芝動物園にパンダが来る』を宣伝させ、マスコミはこぞってその話題を取り上げてくれた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

老聖女の政略結婚

那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。 六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。 しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。 相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。 子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。 穏やかな余生か、嵐の老後か―― 四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。

離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。

しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。 私たち夫婦には娘が1人。 愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。 だけど娘が選んだのは夫の方だった。 失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。 事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。 再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

処理中です...