アイロニー

啞ルカ

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 「アイロニー」


 時は21世紀後半、世紀のはじめに流行したウイルスによりそれまでの生活様式は大きく変化した。

人々はここから家の外で自分の口元を露出することはなくなった。それまでは普通、もはや当たり前すぎるがゆえに気にかけていなかったことだ。しかしウイルスの流行により感染拡大を防ぐために「マスク」と呼ばれる不織布、または布やその他人体に害のない、長時間装着していても疲れや違和感のない素材で作られた「一種の仮面」で口元を隠した。
「マスク」を装着することにより感染拡大を収束、そしてウイルスを根絶させることに成功したものの、一度変革した世界はもとには戻らないのである。正確には、戻るべき「元」が更新されているから、何かしらで口元を隠すことがそれまでの「普通」にとって代わっていたのである。
感染が広がり始めたころに生まれた世代ですら、すでに人生を終えようとしている枯れ木になりつつある今、生まれたその瞬間から口元を隠して生活してきた人間が世界を支配している。
さらに言うと、隠すことは口元だけにとどまらず顔全体にまで広がる動きを見せている。

「マスク」をつけていた時代、感染の拡大を防ぐという本来の使用用途の他に「自分の口元に自信のない者が、他人に口元を露出しない」ように装着していたのが始まりとされているこの動きは、自らの醜い部分を簡単に隠すことができると広まった。

それから時代は巡り、モデルなどの顔や体を自らの商売道具として用いる者以外は、最大の外見的特徴である顔を隠すようになった。顔に劣等感を抱くものが最初は行っていたことなのだが、次第に「自らの顔を不特定多数の人にさらけ出すことは性器を露出することと同じ程度に恥ずべき行為である」との認識が広まり、結果的に仮面をつける文化が世界へ広まった。

神は人間の顔を醜いものとして作ったわけではないだろう。しかしいつの時代からか、人の顔には優劣がつけられるようになりそれが他人からつけられたもの、自分で評価するものに限らず醜いとされると隠したがるようになった。そうして美しいとされる顔を持つ人までもが隠し始めるようになってしまった。

 地球で生活する人たちが仮面で顔を覆い始める前、顔の「表情」で内なる感情を推測していたという。古びた資料やデータから読み取ることのできるこれらの行動は、感情のかけたこの世界に驚きをもたらした。
仮面をしていないのならクスリと自然に「笑う」ことができたであろう映像をみたとしても、今の人々は笑ったのか、怒ったのか、はたまた泣いたのかを自分で判断することすら難しくなってしまった。なぜなら他人が笑ったり怒ったり泣いたりするところを見たことがないからだ。

しぶしぶ仮面をつけているという老人に話を聞いたことがある。老人は、「昔は仮面もせずに皆、生まれたままの顔で街を歩いていたものだ。それに「化粧」という文化もあった。自分の顔に色を付け、より「美しく」みえるようにすることだ。とにかく、顔が見えることがどれだけ大切か、ここまで気づかされるとはな。」と話した。その老人は話し終わるととっさに外そうと仮面のふちに手をかけるがヘルパーによって阻止されてしまう。迂闊に顔をさらすような真似をすれば高齢者であろうと犯罪者として扱われることになる。
認知症で仮面のことを忘れてしまう高齢者がいるらしい、との話を聞いた時には「常識の違い」を痛感させられた。仮面をつけないでも生活できる世界に生きていたのだ、と。
感染症の流行以後に生まれた私たちには想像することすら難しい日常が続いていたのだと考えるが、なかなか脳裏にその光景は映し出されない。

個性を映し出すところが顔から仮面に変わっただけで、仮面で自己を表現しようとしているものは多い。しかし標準型の仮面を装備している人がほとんどのこの社会の中、一人だけみんなと異なるデザインを施した仮面をつけることは精神的に強くないとできない芸当になっていた。
人と違うことをしようとすればいつだって好奇の目を向けられる。一番深いところの国民性は依然として進化していないらしい。

そんな世界を生きる、ある人の物語。

 不変を愛してはいけない。しかし流動を愛することもまた、いけない。



 ある日、私はおかしな噂を耳にした。
「おかしな仮面をしている人がいる。」
毎朝毎朝、通学の時にちょっと変わった仮面をつけている人を見かけるが、その人のことを言っているのだろうか。
こんな感じの人だよね、とノートを一ページをちぎりサラサラと仮面を描く。
クラスメイトは違う違うと首を振る。もっとこう、変な感じ。おかしいの。流れるような模様がたくさんあって。
鉛筆を仮面の上から下に、右から左に。水の流れを意識して鉛筆を動かす。芯は的確に何かの流れを描き出す。
うーんまあ、こんな感じかな?どうもしっくり来ていない様子。とても気になるがここまでにしておこう。
背は高かった?性別は?荷物とか持ってた?どこで見たの?質問をさまざま浴びせる。
ちょっと高かった。たぶん男。大きいに手提げかばんを持ってた。学校の最寄り駅で。有力情報を得ることができた。
ありがとうね。気を付けたほうがいいかもよ。襲われるかも。
素性も知らないのに少し失礼だと思わないのだろうか。なんて口にしたらどうなるかわからない。黙っておくことは最善の防衛策となる。

仮面のデザイン性は装着する文化が当たり前のように定着した今でも全くと言っていいほど広まっていない。一部の常人には理解できない芸術センスを持った人たちが自分の仮面に独自性を持たせるためにドローしているくらいしか知らない。そのようなことをしている人はたいてい服装も奇抜だから一目でわかる。
しかしさっきの「おかしな仮面の大男」は服装には目立った特徴は無いようだった。

仮面にドローを施している人は本当に決まって服装までこだわっている人しかいない。服装が普通なのにも関わらず仮面だけにおかしな模様を施していると考えると。
思考が及ばなかった。所詮は私の常人のために作られた脳みそだ。突拍子もない行動をする人の思考に合わせられる設計はしていないようだった。

その話を聞いた後の授業は全く集中することができなかった。普段なら何枚もペラペラとめくってはガリガリひたすら書き込んでいくノートを全然消費することがなかった。上の空というべき私になっていた。
ノートの片隅に授業に関係のないことを書き込んだのはいつぶりだろうか。小学校の一年から実に十年ぶりとかだろう。
メモ程度にしよう、と思っていたメモはだんだんと上からノートのページを侵食していき、果ては一つの見開きをびっしりと文字で覆いつくしてしまった。
次のページに書き込もうとめくる手を動かしている最中に、これだけやったのだと私の中で初めて意識した。とても普段の私とはかけ離れた何かが自らの手を動かしていたに違いない。そう信じるか、悪魔に手を乗っ取られていたとしか説明しようがないほどの空想で見開きがうまる。

「おかしな仮面の大男」の何が私をここまでしたのか。自分で考えてみても何も出てこない。
いや、そもそも仮面にドローをすることが普通ではないのだ。普通ではないことをしている人のことが気になるのは当たり前のことなのだから、私がしていることも至極当然のことなのだ。と自分に言い聞かせる。
改めて何を夢中になって書いていたのかと細かい文字たちを必死に眺める。
ある一つの説を展開していた。
「おかしな仮面の大男」はとある宗教にのめりこんでいることにより、仮面におかしなデザインを施さざるを得ないのではないか。
私は見開きのノート、二枚のノート紙をばりばりと本体から裂いた。
くしゃくしゃにしてから筆箱にしまってある折り畳みのはさみで、シュレッダーのごとく細かく細かく切り刻んだ。この時もまた、自分の意識が飛んでいたような気がした。
あっという間に陰謀論を書き記してあったノートの一部はごみに成り下がってしまった。

あのまま読み続けていたら何かがおかしくなっていたかもしれない。自分で自分が何をしているのかをうまく把握できないという恐ろしい出来事を通して、私はそれらを「おかしな仮面の大男」のせいにした。
何もかも、見たことのないそいつのせいで起きているのだ。と。
早く授業が終わらないか、と夏休み前日であるような気持ちでチャイムを待った。しかしこのように今か今かと待ち構えていてもチャイムは意地悪な奴だから鳴ろうとはしてくれない。もっと、何も意識しないようにすれば早くなるのだが。
結局これまで一番長いのではないかと思う授業を四つも受けさせられた。いずれも内容は入ってこないままだったが。どうにか学生としての責務を果たすことができた。

帰りの支度が終わると一目散に私は帰路についた。正確には学校の最寄り駅へと急いだ。
噂の男がいつ現れるかわからない。一刻も早くその姿を拝みたいと、仕掛けた罠にカブトムシがかかっていないか見に行く子供のような心境で駅へと急いだ。本当に私はどうしてしまったのだろう。

しかしまあ、よくもこんなにも多くの人が何処からとも無く湧いてくるものだ。湧いてくるうちの一人となりつつ、駅に併設されているカフェへと足を踏み入れた。人の流れを見るならここが一番だと思う。すでにちらほらと、帰宅する学生に紛れて大人が帰宅し始めているようだった。コートまで着込み、おしゃれなハットまでかぶる暗殺稼業でも営んでいそうな人。とぼとぼ重そうな足取りで出口へと向かうサラリーマンと思しき人。旅行帰りなのか、スーツケースを引く人。いろんな人が交差するその駅の出口を見張る。
こんなにいるとは思いもせず、人の波に目を回して飛び込みそうになってしまいそうだった。

それからいくばくかの時間が経過した。私はお菓子工場で不良品がないかの確認をする品質チェック用ロボットのように、ただひたすら流れ作業のごとく流れゆく人を見ていた。
上から下に上から下に微妙に眼球を動かすことがこんなにも疲れるのかと驚くくらいだ。
しょうもない驚き以外に得られたものはない。いや、お代わりの紅茶を四杯ほど、添えてはスコーンもか。
イギリス気分を味わっているところに突然その時はやってくるのだ。
頭二つ分以上は突き抜けて、そして最大の特徴であるおかしな仮面をつけている男と思われる人が歩いていた。
そして気づいた、どうして私は人探しをしているのにこんなにくつろいでいたのだろう。大急ぎで荷物を手に取り店を後にする。初めて釣りはいらないといった。電子決済なので釣りも何もないのだが。

顔見知りの人ならば位置情報サービスを利用して現在位置を特定できる。しかし今回はそうもいかない、が、利器しか知らないとは恐ろしく、私はすぐに「おかしな仮面の大男」を見失ってしまった。
追跡は失敗に終わってしまったが、それ以外に得られた情報は多い。百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、あのまま同級生からいくら情報を聞き出そうとしていたとしても知りえることのなかったであろう情報を入手することができた。

視覚情報を生体デバイスを用いて手元のタブレットに転送する。金のない学生の身分、使えるのは何世代も型落ちの温かみすら感じる古さのデバイスだけだ。転送速度など気にしてはいけないと自分に言い聞かせるが好奇心が言うことを聞こうとしない。
焦る心が爆発する前にどうにか転送が終わった。首より下の姿は雑踏に溶け込み、ほとんど移っていないものの、仮面は高画質で記録されている。
帰宅の途につく。

 鉄道とは太古の昔からあるものだが、この時代になっても姿形をほとんど変えずに存在しつつ、民衆の足となっている点は素晴らしいと思う。未発達だった民間レベルの航空法が細かく整備され手からというもの、それまでは未来の技術などわけのわからない文句で売り出していた浮遊式自動車はパタリとその姿を消した。地上で車に乗ろうにも爆発的に増加した通信の需要に応えるために整備された通信ケーブルが、使われなくなった道に敷設されているため走るところがない。
移動手段に困った民衆に、ほそぼそと物質的荷物を輸送していた貨物列車の路線が目を付けられるのはそう突拍子もない流れではなかった。
すぐさま各鉄道貨物事業者は四半世紀以上も前に全廃した旅客輸送を再開した。そうしてこの、二十一世紀だというのに一九〇〇年代末期のような混雑の風景を世界的大都市、東京で広げることとなった。
建築物は雲を突き破り、人々の生活スタイルも激変したこの時代に、地を削り渓谷を作り出した川のように列車はビル樹林の間をくねりくねりと走行する。

今日はどうしてか、この狭い鉄の箱の中にどうしたらこれだけの質量を押し込めるのだろうと思わざるを得ないほどの人が押し込まれていた。一両一両がたくさんの情報を保持したパケットのように、あっちへこっちへと曲がりながら走行する。
そんな混雑の中、さっき転送した映像を早速見てみようと私は手元の端末に視線を落とした。
大男はしっかりと映っていた。自らの仮面の異様さに周囲の人間が少し物理的距離を置いていることに気がつかないどころか、自らの仮面がおかしいと微塵も思っていないのだろうと感じさせる。
肝心の仮面はというと、赤と黒のツートンカラーが実に禍々しく何かしらの呪術の儀式を思わせるようなドローだった。
拡大したり縮小したりと「おかしな仮面の大男」の動画を何べんも見ていたが、そこから得られる情報はそれだけだった。少なくとも私には。

家に帰ると荷物を部屋のベッドに放り出し、すぐさまコンピューターを起動する。
センサーが私の指で電源ボタンを押そうとしていることを感知してコンピューターの電源をいれる。
すぐさま稼働し始めた本体からふわりと温かい風が吹き出してくる。冷えた指先を温めてくれたおかげで、いつもよりちょっと早くパスワードを入力できた。いい加減生体認証方式に変更しようかとかれこれ一年は悩んでいる。

ファイルソフトを開き、すぐさま件の映像を取り込む。
同時にブラウザを立ち上げ、いつも入り浸っている掲示板の住所へ飛ぶ。パッと画面は切り替わり、すぐさま文字であふれたサイトへと移動した。
今日も今日とて有名人へのひがみ、罵詈雑言、少しも面白くない大喜利、自分の好きなゲームについて語り合う、国際情勢についてなど様々なトピックが文字によって話されている。一時代前の、文字がずらずらと流れてくる形式からは進化したとはいえ、最新鋭の仮想現実技術とは程遠い、古代の遺跡のようなスペースがそこにはあった。
その中の一つ、私がいつもいる「雑談掲示板」に移動する。今日は金曜日ということもあって少し早めの時間からにぎわっているようで、一日でどれだけのコメントがなされたかを示す「総com数」は二万を記録していた。
「ただいま!」
旧式の物理キーをカタカタと軽快にたたき帰宅報告をする。すぐさま「おかえり」「おつ」「おー」などの反応が返ってくる。
私は早速、「おかしな仮面の大男」について書き込むことにした。
「今からちょっと不思議な話するから待ってて!」
みんなに共有できる興奮と、去年最新式にしてもらった空調装置の調子が良いのもあり、仮面の下は蒸れていた。慎重に外してから大胆にベッドの上へと投げる。家族の前でも外さない仮面をこう、外してみると自分の部屋だというのになんだか少し興奮してしまうのは私のおかしなところかもしれない。

画面には「何ごと」「何それ面白そう」「夏はまだだよー」など様々なコメントが流れていく様子が映し出される。それらを気にすることなく、私はキーをたたき続け、奇妙な噂話と実際の「おかしな仮面の大男」の印象について記述していく。

「最近聞いた噂話。私の中では『おかしな仮面の大男』って呼んでるんだけど。
普通の仮面とは違う、なんか変な仮面をつけた人、しかも大男を最近何度も見かけるって友達がいて。
ちょっとおかしい人ならそこら中にもいるし、ここにいる人もそうかもしれないけど。それは冗談として、明らかに何かおかしい人がいるって話を聞いたの。」
長くなりそうだったので短く区切ってコメントする。
「それ普通におかしい人じゃないの」「たぶん最近のファッション」「ファッションにしては仮面にドローなんて攻めすぎ」「それだけで攻めすぎとか外でなさすぎさすがオタク」
何を言っても争いがおこるのがこの掲示板らしいと言えばらしい。
「ちょっとしょぼくない?」「確かに」「報告するほどのことでもなくね」
そういわれるとそうかもしれない。急激に、わくわくしていた心が萎んでいくのが分かった。
「ごめん、やっぱり何でもない」
「ほら、釣りオツ」「まあそういうこともあるって」「何でもないんかーい!」
加速したコメントにひとつづつ反応していく気にはならなかった。なんだか自分だけ興奮していたみたいで恥ずかしくなってきてしまった。なんなの、自分。
もう一度再生しようとしていた「おかしな仮面の大男」の動画を閉じる。端末もベッドへ投げる。
パキン、と嫌な音がした。
まさかな、と思い浮かべた最悪の事態を思考から排除しようとする。しかし現実はそうもいかないらしい。恐る恐る自分のベッドに目を向ける。
仮面が、割れていた。私の顔面をさらさないように守ってくれている仮面が割れた。これがなくては私は自分の部屋から出ることすらもあまり許されない。

そもそも毎日使うものなのに、どうしてここまで耐久性がないのか。この間、心機一転と自分に向けてちょっと奮発してちょっといい素材を使った統一規格の仮面を買ったのに。すぐにこんなことになってしまうとは。私の二万円が。外に出れない恐怖よりも一瞬にして私にしてはの大金を失ってしまったことの悲しみのほうが大きい。

ひとまず破片を全部回収してベッドでの安全を確保する。そして悩む。さて、ここからどうしよう。
仮面をしないでたとえ家族だとしても人に会う、それは性器を露出していることとほとんど同じかそれ以上の行為とされる。家の中だとしても迂闊に行動すればカメラを経由して親に伝わってしまうかもしれない。いきなりまずい状況へと放り込まれてしまった。

取り急ぎ、親にメッセージを送る。
「かめん、割れた」
「何してるのあんた。今日はちょっと新調できそうにないから、とりあえず自分の部屋の中にいなさい。」
「わかった」
意図せず引きこもり生活が始まってしまった。仮面を外したまま、二十三階の窓から下をみる。蟻のように小さい一人ひとりが仮面を顔として、普通に生活している。歩く人、歩く人すべての人が仮面をしている。つける根本的な原因となったウイルスなどもうとっくの昔に根絶されたというのに、顔を隠す文化のみが残ってしまった結果をまじまじを見せつけられている。改めてそう意識して人の仮面をみると、こみ上げてくるものがあった。胃の内容物が。
豪快にスコーンやら紅茶やらが混じったドロドロの汚物を口からまき散らした。ベッドがひどく汚れた。すえたにおい、自分が出したものと分かっていながらもそれにつられて第二波が襲ってきそうだった。

クリップで鼻をつまみ、部屋にあるものを最大限活用して生成した汚物を除去することに成功した。のどにひりひりする感覚が残る。それにすっかり部屋に嫌なにおいが染みついてしまった。私の部屋で唯一陽の光を取り入れることのできる窓の近くにベッドがある。そしてそのうえで吐いてしまったということは。
蒸発してしまうのだ。それに無駄に高層階ということもあり、窓を開けることができない。ダイナミックな換気ができないということはこの不快な空気たちに私の部屋から大挙してもらう方法がないことを示している。

換気扇は一応恐ろしいほど小型化されたものが設置されているが、それだけでは直ちに解決とはならない。時間が過ぎるのをただ待つだけだ。

 こんなにも仮面をつけない時間が人生の中で発生するとは思わなかった。事件発生から二時間程度が経過した。窓の外には夜景が広がり始めたこの時間になっても親はどちらも帰宅してこない。帰ってきたらまず水を要求しよう。自分の部屋で砂漠にいる気分を味わうことができるだなんて想像すらしなかった。
部屋の外に置いてもらって、いなくなったのを確認してから受け取らねば。いや、親くらいなら顔をみられても大丈夫か、と一瞬考えたが思いのほか思春期を迎えていた私自身が否定する。
そもそも生まれてからずっと仮面をしているせいで、成長した子供の素顔さえ知らない親がほとんどだろう。私の家もその大抵にもれず含まれていると思われる。
本当に不思議なものだ。ほんの百年ほど前まではみな素顔をさらして生活していたというのに。生活スタイルというよりも、人間の生き方の割と深いところからの無理やりの改革を強いられたような。

たまに仮面を外して自分の部屋で過ごす時間はあるものの、その時は「つける」選択肢があるから自由にできるのであってこうも「つけられない」となると不思議なことに不安で大きな力に踏みつぶされそうになる。

とぼとぼとコンピューターの画面の前に戻り、課題でもこなそうかと思い立った矢先、親からの連絡が入った。
「今家着いたから、ドアの前に色々おいておくね。それと色々気をつけてね。」
とのこと。ぱたぱたとスリッパで歩く音、カサカサと袋がこすれる音が聞こえる。
一応中からドアをノックして外に誰かいないかを確認する。返事は帰ってこない。誰もいないようだ。
袋を手に取り、とりあえず部屋に引き返す。それから膀胱と相談してとりあえずトイレに行っておく。尿はインターネットで転送できないから。

袋の中には食料と水が入っていた。生きるための最低限のみを支給された。
どうして私は自分の部屋でサバイバルをしなくてはいけないのだろう。不思議で不思議で仕方ない。
たかがこの素顔を人にさらすかさらさないかだけでここまで厳重にされるとは。それも家族同士だというのに。
勉強をしようにもやる気が出ない上になんだかおなかもすいてきた。普段なら絶対に許してくれない自室での食事に加え、食事中にコンピューターで動画をみるという悪行を重ねる。
普段できないことをするというのはやはりわくわくするものだ。小さいころに骨折した時もそうだった。とにかく普段とは違う、特別扱いを周りの人が躊躇もなく遠慮もなくしてくれるのが、とてもうれしく愉快でどこかおかしかった。
ひとしきり気になる動画をチェックし、おなかも膨れてきた。

こういう隙間時間に課題でもしていれば優等生まっしぐらなのだろうが残念ながら私はそこまで優秀ではない。画面に向かっていて、なおかつ少しでも時間があれば脳は掲示板での交流を欲する。
そこから掲示板に接続する流れはもう無意識のうちに行われていた。気づいたら掲示板の雑談板、いつもいる場所へまたやってきていた。

総com数の伸びはさっき私が入った時からあまり伸びていないようだった。
それならこのちょっとおかしな現状を報告して刺激を与えてみよう。キーは勝手にたたかれ始めていた。
つらつらと文字を連ねる。うぉオン、私はまるで紀貫之だ。
いつもよりも文字数の伸びがスムーズだ。私の帰還を察知した住民たちが今度は何を言い出すのかと待ち構えているようだった。

 飲み物に二、三回口をつけたところで文は完成した。タターンと強めにキーを叩いて電子の海へと手紙付きボトルを送り出す。すぐさま反応が返ってくる。これがあるかやらやめられないのだ。
「ただいま。またもや(?)事件を起こしたので報告します。仮面、割っちゃいました。ベッドに適当に放り出しておいたら運悪くほかの端末と当たって割れちゃったみたいで。そのせいで自分の部屋でサバイバルをすることに。ほんと最悪。暇すぎるし外の空気吸えないのきつい。せめて私の暇をつぶせるような楽しいことを言ってくれ。」

「何それ」「またこの人訳も分からず面白いことしてるよ」「またこの人だ」「どうしてこう不思議なことが立て続けに起こるのか」「なんで」「な ぜ な の か」
まちまち、そこそこの反応が得られた。適当に質問に答えたり、状況を報告するだけで盛り上がる。いつかあこがれた、掲示板で話題にされる人になりたいという子供にしては濁った夢がかなった瞬間になってしまった。こんなことで。

いつ代わりの仮面が容易できるのか親にチャットを飛ばす。料理をしていたのかデバイスに触れるのが面倒くさかったのか、音声メッセージが返ってきた。
「明日何の用事もないからとりあえずのやつ買ってくるね。サイズ昔と変わってないでしょ。そのまま買ってくるからね。」
「りょうかい」
サバイバル生活はそうそうに幕を閉じそうな予感だ。とりあえずは安心した。

割れた仮面の破片を手に取る。すべすべとしていて白色の塗装がなされているのが統一規格だ。たくさんの会社から統一規格の仮面が流通しているけれども、微妙に着け心地が異なるらしく、それぞれの会社にファンがいるらしい。私は別にどこのでもいいと思うタイプでこだわりはしない。
仮面作りをしている会社は特に化粧品を製造していたところが多いという話を聞いたことがある。仮面の台頭により社会全体で化粧をする人が激減した結果、化粧品の売り上げが地の底に落ち廃業してしまったせいだという。自社の製品が突然全く売れなくなっていくのはとても恐ろしいことだっただろう。調べていて化粧品会社に同乗してしまった。
今でもひそかに、仮面の下の素顔に化粧をしている人はいるらしい。半ば嗜好品と化した化粧品を販売している会社が現存するという。それでもどのように使えばいいのかを新たに教えてくれる人はいないから、わざわざ自分で昔の雑誌などを大枚はたいて購入して勉強しなくてはいけない。簡単に人の顔を見ることができないからだ。

 鏡で自分の顔を見てみる。頬に数か所、赤い腫れを見つける。おや、と思う。割れてしまった仮面はかなりいいやつだったはずなのだが、珍しいことに強靭な私の肌に合わなかったらしい。やはり高すぎるものを使っても所詮は庶民の私には合わないということか。悲しいことを知ってしまった。


 割れた破片の中でも比較的大きいものを目の下あたりにあてがってみる。顔の一部が仮面になってだいぶシャープな印象を受ける。少なくともすべて素顔の自分と、すべて仮面の時よりもクールだ。
これは案外行けるのではないか、と思う。小さな破片で腫れている部分だけを隠してみたり、大きな破片をつないで顔の半分を隠してみたり。どれも顔を覆ってしまうよりかははるかにシャープ、かっこいい、おしゃれ。そんな印象を受けた。
しかしこれを外でやることは許されることではない。たちまち変人扱いされ、警察の御用になってしまうだろう。こんなにいいのだけどなあ。だが自分の仮面を割ってみようと思いつく人などはもうとっくにドローなりを施したりして自分なりの表現方法を試しているだろうから。

いやしかし、人に見えないところで自己を表現するとはどういうことなのか。人に見せることで初めて表現とされるのではないか、いや違うのか、どうなのか。
考えなくてもわかることだが、仮面は自己を他人に見せないように済むからという理由で広まった。
ならどうして仮面の下で、誰にも見られないのだと分かっているのに化粧をしたり、肌を整えたり「見栄えを良く」しようとするのか。

 会話をしていても相手の顔が見えないと不安になることが昔から幾度となくあった。相手が今どんな反応をしているのか。声色で判断することもできるのだけれど、それでも時には声の表情の受け取りを間違えることもある。その時は気まずい雰囲気になったり、会話が途切れてしまったり。関係に良くない方向へと進んでしまう。しかしだ、顔を見ることができたらどうだろうか。物心ついた後に自分以外の人の顔を見たことはないが、昔の小説にも書いてあるように人の顔は様々な「表情」を通して心のうちを外に伝える、という。それなら声色からは推測しきることのできない心の深いところまでも、表情で推測することができるのではないか、そのほうが感情の齟齬が生じずにいいのではないか。
しかしそれを拒んでもなお、人と人のコミュニケーションはどうにか成り立ってしまっているから、これがいけない。
仮面は情報を遮断しつつも新たな発信の仕方を生み出してきた。それまでもだいぶ話し言葉とは異なる進化をしてきた書き言葉を、もはや話し言葉に近いところまで押し上げたのも仮面の成果というか働きによる結果だと私は思う。
仮面をつける文化が定着する前、インターネットが普及するより前から書き言葉は厳重にしきたりに則ったものと、ある程度意味が伝わればよく、程よい省略などが挟まれるラフな形の書き言葉の二つがあったという。この違いがあるからこそ、法律の原本は一般人に理解しがたいような言葉で書かれているように思えるし、友達や親しい人とのチャットは瞬時に内容を把握できるものとなっているはずだ。しかし友達や親しい人と、本当に緊急の連絡をするときは通話をして、書く動作を挟むことなく直接ものごとを伝えたりしないだろうか。その場にいないが割と的確に、素早く伝えることがあるのならそのほうがいいだろう。
だがインターネットが限りなく発達し、地球の裏側だろうがすぐ隣の部屋にいる人とだろうが、数ミリ秒しか差は発生しなくなった現代、そして連絡先に存在しない、リアルを知らない人と話すとき。もし互いに感情をぶつけ合う、討論とはいいがたい言葉と言葉の殴り合いのような状態に陥った時、一から十まで頼ることができる意思疎通手段は文字を用いることだ。
文字を使って、仮面がない時代のように自分の思うことすべてを表していく。怒り、殺意。文字を見ているだけなのに画面越し、ホログラム越しに相手が足をじたばたさせて赤子のように悔しがる様をしかと想像することができる。人の顔を見たことがないのに、「顔文字」を用いる。顔文字から相手が怒っているか、嬉しさを隠しきれないのか、考えることを放棄したのか。様々な様子をくみ取ることができる。
結果、身近な人よりも、インターネットを通して知り合った人と話している時間のほうがリラックスすることができているような感覚を、もつ。
顔を見ることができて、しっかりと腹の中までそれほどの礼儀を持たずして率直な反応を得られるから、家族は大事にされてきたし、しろと言われてきた。けれども、その家族でのコミュニケーションが世界で一番巣の感情を探りづらく気まずいものとなってしまっているのことは、言葉では表しきれないほど危険をはらんでいるのではないか。

どうにも難しいことを考えすぎた。レベルの低い話をしなくては、私が疲れていく一方になってしまう。
一人の世界に入り込んでしまって、まったく話していなかった雑談の掲示板を離れる。
疲れてはいるのだけれども、だれかと話したり、誰かがまた誰かと話しているのをみたい。教室でほかの人達が話している声がBGMとして聞こえるように、目にBGMを摂取させたい。
たどり着いたのは「今日のSNS面白投稿板」。板の名前に「面白」と入っている場合はたいていつまらない。だけども、ごく稀にとてつもないセンスを持った人が現れるからやめられないのだ。病みつきになってしまう。
今日も今日とてつまらない話題で盛り上がっているようにも見えない。がそこそこのcom数があるのでそこそこ人は集まっているらしい。カタ、カタと数秒おきの自動ページ更新がかかるごとにコメントが何件か増えていく。顔、仮面、姿を見たこともない画面の先の誰かの文をちらちら見ながら、本棚から抜き取った本を読む。あくまでメインは本なのだ。掲示板に時間を吸い取られる気分ではなくなった。

わりかし長い時間、活字に集中していたようだった。目にBGMを、など関係なく普通に脳みそと眼球を酷使していた。しかし程よい疲れは快感をもたらす、とは誰が言ったものか。その通りに体は満ち満ちている。

文学作品は良い。画面を見て、自分のタイミングを逃し巻き戻すことも、速さで見失ってスローにすることもない。とにかく自分のペースで話を、情景を、心情を描写できる。応援として自分を登場させることもできるし、傍観者のままでもいられる。自分の意見を挟むこともできるし、いやになったら逃げられる。
何より昔のことをより細かに知ることができるのが楽しくて面白くて、たまらない。映像だとどんなに現代で頑張ったとしても当時撮影されたレベルを軽々と越していくような高精細な映像に変換することは難しい。しかし文字は、意味さえ知っていればすぐさま超高精細の映像を頭の中に展開することができるし、自由に調整ができる。色褪せないところ、不変がそこにはある。
加えて、今では当たり前ではないことが、当たり前の世界としてそこには展開されている。今ではどんなに頑張って当時を再現しようとしても、必ず仮面は着用しなくてはいけない。人間を使用しない3Dモデルなどでも同じだ。仮面はして当たり前。そんな常識にいちいち従わなくても、羞恥を強制されなくてもいい。そこが好きだ。
当たり前すぎて書かれていないことも、現代では当たり前ではなくなっている。当たり前ではなくなりすぎて結果書かれていない。
当たり前、の時代による変遷を感じることができるところが良い。手軽にタイムスリップができる。


 仮面をつける文化がない、そんな時代に思いをはせる。皆がみな、自分の顔を恐れることも恥じることもなく堂々とさらして歩く、話す、惚れる。
相手の表情をみて期限をうかがい、安心、恐怖する。
今はないその光景を何度この目で見たいと思ったことか。

少なくとも今建材の人達の中で、人のことを好きになった理由として「顔に一目ぼれ」を挙げる人はいないだろう。仮面をする文化は恋愛の一つを奪い去った。
ずっと手紙を交わすだけで顔をみない。少し時代が進んで、ずっとチャットをしているだけで顔写真は送ってくれない。相手の顔を知りたいとやきもきする、この時間が無くなった。何も奪われたのはこれだけではないが。

なのにどうして皆は疑問に思うこともなく、ただただ仮面をつけ続けているのだろう。私も含めて。
どうして外そうという考えが出てこないのだろうか。小さい、物心つく前からずっとつけてきたからだろうか。それともみんながしているから自分だけ外すのもおかしな話だと思っているからか。あまり派手に独自性、存在を主張してしまうと不都合だからか。
全部わかる。分かってしまうほどに私は仮面になれた。

けども、主張のない仮面をつけていて個人を主張してはいけないのか、顔に関しての独創性を発信してはいけないのか。そういうわけではない気がするが。

顔を出してはいけないという共通認識がある今、破ればどうなるかわからないが主張したい。そうなればドローを施すようになるのも時間の問題か。
話は「おかしな仮面の大男」に飛ぶ。彼はそこをうまく、自分の心と仮面でやりくりしている実はかなり優秀な人なのでは。
中身がどんな人かを知らないというのにこの謎の上から目線である。

 正直、ここまでして顔を隠す必要があるのか、とは常に小さく心の隅で思っている。過去での当たり前であったのに今では当たり前の片隅にすらない。本当に不思議だ。
顔は個人を識別する上でとても分かりやすい材料だったと思う。識別することを嫌って仮面にしたのならどうして徹底的にやらないのかと問いたい。顔を見せなければ外見的での識別は難しくなる。けれども内面的な識別など、自分の持つ個人識別番号や分かりやすいところで言えば名前で至極簡単に判別できる。
名前まで捨てないのは人間の、個人としての最後の主張をしたいからといったところか。
最後まで振り切れないのがいかにも、中途半端に変革を望んでその後を想像しない無能のようでおもしろい。

仮面をしたって、名前を捨てたって何をしたとしても人間が集団として生活をしなくてはいけない以上、その中で自分のことを周りにアピールしたくなる人が生まれるのも仕方がないことだ。
「おかしな仮面の大男」も仮面をしていて顔を隠して決定的な外見的特徴を隠しているとはいえ、仮面が新たな外見的特徴として完成されてしまっているから、結果的に個人を外に対してアピールすることとなっている。
自分がここにいるぞ、など言わなくても周りの人からは見えていればわかるのだが、それ以上のアピールをしたくなるのは人の性か、それ以外か。
目立ちたいとは異なる。

 むしろ仮面を外さなくてはいけない法律とかができたらどうなるんだろうな、と思う。今までひた隠しにしてきた素顔を再びさらさなくてはならなくなったとき、どのような反応をするか。もちろんひたすらに賛成しない人もいると思う。
しかし大半の人はほとんど抵抗もなく、するりと外すだろう。そして何事もなかったかのようにその瞬間から、次の日から、生活を続けるだろう。
ここで反対にまわる人は確実に自分の芯を持っている。周りに流されない何かを持っている。
しかし社会では周りに合わせたほうがいいのだ。大多数に合わせたほうが結果的に得になる。どのようなことであれ、この仕組みはそう簡単に変わるものではない。
それが意識、無意識関係なくそちらに行動できる人が残り、少数の自我は消滅する。
結局は奇怪としていなくなってしまう。しかし自分を主張し続けることが本当に賢いか、と言われればそうでもないだろう、と。
自分をひた隠しにしなくてはいけない場面というのもあるし、逆に自分を積極的に売り込んでいかなくてはいけない場面もある。
ほどほどに理解して、ほどほどに流れ、ほどほどに行動するのが一番なのだ。そう作られている。割り切れるか割り切れないか。

 「おかしな仮面の大男」は、見かけだけの判断だがどうにも柔軟に流れて生活してくような気がする。
ある程度までは自分のことを尊重するし、ラインを越えたら流れる。信念をひた隠しにできる信念を持つ人のような気がする。勝手な自分の考察で、見ず知らずの人を尊敬している。よく意味の分からない状況になってきた。


皆が仮面を外したらどうなるのだろう。
その一文を中心としてどんどんと思考が広がる。いずれはこの世界も「元通り」に仮面をしないのが普通になるのだろうか。

今、どうして仮面をしていない状態のことを「元通り」と。
鳥肌がたってきた。なぜだ。自分自身に問う。今の私にとっての「元通り」は仮面をしている状態ではないのか。違うか。そうか。いや。どうなんだ。

今日はどうも、おかしなことばかり考えてしまう。一度寝て、気分をいつも通りに戻そう。
また何か壊さないように、と物を置いていないか入念に確認してからベッドにもぐりこむ。
夜景もすっかり暗くなってきていた。おとなしくなった街を月明かりが照らす。


 ブラインドを下すのを忘れていたせいで、せっかくの私の休日は平日よりも早い時間に、暴力的な陽の光に起こされ始まった。
一度目を覚ましてしまうと二度寝は出来ない体、とことん不便だと思いつつ水を口に含み、コンピューターの電源ボタンを押す。

通知の量がいつもに比べてびっくりするくらい多かった。探りつつ飛んでいくと掲示板でメンションされた通知らしかった。はて、そこまでおかしなことを昨日言ったかなと頑張って思い出してみるが特に何も思い出せることはしていないはずだ。
いつもの雑談板からだった。ショートカットからページへと飛ぶ。いつもの顔ぶれがこんな朝から、いや夜通しで話しているらしかった。
眠気からか、普段のふざけからか誤字がたくさんあるものの何を言いたいのかは大体わかる。
「おかしな仮面の大男」についての話をしているらしい。それは私も加わるしかない、準備運動なしで指を動かし文を書く。
「お、本人じゃん」「あれだけ呼んでも来なったのに」「今かよ寝ようとしてたにに」「なんddddd」
眠気がうつりそうなコメントが返ってくる。
「なんかあった?」
少しの間があってから時系列順に何があったかを整理したコメントが複数流れてくる。そのうちの一つに目を通す。

-「おかしな仮面の大男」について私がコメントをしてすぐにいなくなった後、どうやらほかの人からも目撃情報が出てきたのだという。そこから掲示板の伝統芸ともいえる「特定作業」に入り夜が更けていって今になった。-
と。やっぱりこの人達は恐ろしいことをする。私が色々悩んでいるときに悩む人が増えそうなことを平然としていた。
「なんかわかったこととかあるの?」
そんなに知りたいわけではないのだけれども、一応聞いてみた。聞いてくれと言わんばかりの書き方と流れだったから。個人の情報を手に入れて何かするわけではないのだけれども、ね。
「それがね、目撃情報は結構昔から多くあるっぽいんだけど、そのほかの詳しい情報が全然なくて。」
ここまではっきりと「情報が全然ない」と言い切るのは珍しい。
「ふーん。また勝手に大変なことしてるね。」
「そんな言い方ないだろ」「おうこら、こちとら寝ずにざ行しとるんじゃい」「言い出しっぺの法則」
「また色々わかったら呼んで、戻ってくるから」
「おいこら」「参加しなさい」「なげるな」
私は彼について詳しく知りたいわけではないのだ。彼についてではなく、彼の仮面に対する考え方を知りたいのだ。それ以外を知ったところで私に得などあまりないから。

朝ごはんを食べる。動画をみつつ。ニュース、それから普通の投稿者があげているものを。
どうしても見たいというわけではないけど、壁を見てモチャモチャ食べるよりかはいいかなと。人といるわけでもないし、悲しくならないために。
画面にはやはり、服装は違えど同じ仮面をつけた人ばかりがいる。声では聞き取りやすい抑揚や緩急をつけたりして入るものの、話している人の顔が微動だにせず、さらに同じだともう誰が話しているかなどわかるわけがない。
またもや体に不具合が出そうだった。すぐにサイトを離れた。
気分転換に漫画を読もうとお気に入りのシリーズの一冊を手に取り、ベッドで横になりながら読む。
が、しかし。またもやダメだった。単に食事のあとに横になったから、ではないと思う。
顔、正確には仮面を見ることがダメになってしまったかもしれない。
現代に生きる人間にとってもはや死を宣告されたかのごとき結論を短時間で受け入れることは出来なかった。
試しに自分の顔を鏡で見てみる。吐き気はしない。
仮面の破片、大きめなものを顔にあてがってみた。少々不快、程度。
タッチがリアルな漫画の表紙を眺める。胃が危ないと言っている。食道が怖いと言っている。

さて、大変なことになった。
「大変なことになったなあ、なあおい。」
大事なことなので二度、自分に言い聞かせました。

心の風邪かもしれない。最近寝不足気味だったせいで自律神経だか交感神経だかのバランスが乱れてしまったのかもしれない。
もしそうでないとしたら本当に私はどうにもできない、一生この部屋から出られない囚われの身となったのかもしれない。
かもしれない、かもしれない、かもしれないとマイナスに思考が広がるたびに私の心は不安に蝕まれ、ついばまれ、喰われる。

こん、こん、とドアがノックされる。
「なーにー」
「色々買ってきたから、おいておくね。ネットに入り浸ってないでちゃんと勉強しなさいよ。」
とは親からだった。
「言われなくてもわかってるって。」
「それならいいんだけど。それと、今日みんなお休みだし久々に夜ご飯、外食にしようと思うんだけど。あんたどこがいい?」
それはまずい。が、打ち明ければどんな反応をするか分からない。
「んー、特にないから決めちゃっていいよ。」
「あら、珍しいね。じゃ、こっちで決めておくから。」
あらいやだ、焦がしちゃったわ。と小走りで台所へかけていく母親だった。

廊下には紙袋に入った新しい、ソレ、とネットで買った商品が置いてあった。
紙袋に入った仮面を見るだけでも少し危うい。新品が入ったまま使用済みエチケット袋になる未来もありそうだ。しかしいつまでもつけられないわけにもいかない。
着けられないまま外に出れば、罵詈雑言、個人を特定されて一生生活できなくなってしまう。

 どうして皆が、ウイルスが根絶された後もこうして延々と仮面をつけているのか。
本来は感染予防のために顔全体を覆ってしまおうという考えのもと作られ、そして顔を見せなくてもよいという利点のもと広まった。
だがウイルスが根絶したと宣言されたとき、人々は外す選択を選ばなかった。否、選ぶことができなかった。
それは悲しくも、連携をもとに社会を構築してきた人間ならではの習性とも呼べるものによるもの。

『あるところで、ある人が「ウイルスが根絶したのなら仮面を外して、元の通りに生活できるんだ」と仮面を外して街を歩いたそうな。すると街の住人はウイルス根絶のニュースを知っていたのにも関わらず、その人を非難したという。そしてそのニュースは電子の海を驚くべき速さで駆け抜け、世界中に広まった。
その人は世界中から非難を受けることになった。
世界中のみんなが、ウイルスにおびえることもなくなり、仮面をしなくても生活できる世の中になったはずなのにどうして。答えは簡単、今までの文化をそう簡単に変えたくなかったのだ。
根絶するまでに要した時間は、文化がウイルスに寄り添うように形態を変化させるのに十分だった。そしてまた、定着するのにも十分だった。
元に戻ろう、とその人は昔を思い出し、そして昔に戻りたいとの思いで言ったのだと思う。
だが賛同する人はほとんどいなかった。居たとしても、その一件を見てしまえばたちまち主張する気は失せてしまうだろう。先の流行で、このような場面でも自分の意見を曲げずに主張できる人は減った。それは、皆、知見が足りずにウイルスは無害だと主張し、そして侵され倒れたから。
発信と知識の両立をできる人が減った今、もはや文化を変えていくことは不可能だろう。

「どんな愚かな者でも他人の短所を指摘できる。そして、たいていの愚かな者がそれをやりたがる。」
とは今にも残る格言だ。しかしこれもまた、時代の流れに乗ることは出来なかった。今では「愚か者」に加えて「知識のあるもの」もまた行ってしまうからだ。本当に、心が見透かせない時代になった。』
とは私が読んだことのある本による。
定着してしまった文化をそう簡単に人々から引きはがすことは難しい以上の何かがあるということだ。

仮面をつけることが常識、となっているなら、常識を受け入れられない私自身は非常識となるのだろうか。
非常識とまで言われなくても、例外、とくらいは言われるようになるのだろうか。
自分の思考の中でだんだんとことを大きくしようと意識が働いている気がする。
これは、これはこれはただの心の不調なのだ。事実、昨日の家に帰ってくるまでは仮面をしていても、街中で無数の仮面を見ていても全然平気どころか気にも留めなかったではないか。と言われればそこまでだ。だが、私の中で起きたエラーは生活の根幹を揺るがす致命的なエラーだった。

そもそも今の私が何におびえているのかを、自分なりに整理してみよう。分からないものにおびえているとは、ただただ滑稽の極みだ。
改めて仮面を眺める。すべての人にある程度フィットするような形、というところがそもそも怖い。思えば確かに怖い。個人差、なる言葉があるというのに人を表す代表的なところには差がないのか。人に合わせて仮面を作るのではなくて、人が仮面に合わせていったと、いうことなのだろうか。

何より怖いと思わせ、不気味さを演出し、精神的嫌悪をふつふつぐらぐらと湧きあがらせ、突沸させるのはその表面の滑らかさだと思う。鏡で見ればわかるだろうが、人の顔の表面、皮膚は陶磁器のようにつるつるとはしていない。触ればつるつるとしているかもしれないが、いじらない見た目はそうつるりとした印象を持たせてはくれない。
様々な、ざらざら、もちもち、時にはべとべとしたりとする様々な形態を、見せてくれることがない。
最大のものとしては、笑いや悲しみ、怒りが見えない、ただただ微笑と真顔のはざまにあるような今いる人間が唯一もつ「表情」にある。「モナ・リザ」は真顔か微笑かと問われればほとんどの知っている人は微笑という。
統一規格の仮面は、そうではない。単に人が寝るときに見せる表情体がすべて休まった際の、本当に何とも言い難いその、それだ。
何を話してもその顔だし、どれだけ内面や声が怒っているとしても、暴力を振るっていても、だ。
暴力に訴えかけようとしてくるときはまだ耐えられるかもしれない。なぜなら現実よりも仮面のほうが柔和だから。しかし喜びを表すとなれば話は別だ。声は非常にウキウキしていたとしても仮面をひとたび見てしまえば「本心では喜んでおらず、ただ目の前にいる人を喜ばせようと作り物の喜びをできるだけ表現しましたよ。さあどうですか。」とでも言いたげな顔に見える。
パーツの一つも動いていないのが怖い。声と顔に乖離が生じていると脳が判断すると、恐怖を感じる。そんな感性が皆共通のものとしてあるのかもしれない。

完全な滑らか、とは欠けもなく凹凸もなく、ただひたすらに滑らかなこと。欠けがない、完璧な状態のこと。
人に完璧はないのに、どこかで必ず失敗を犯すものだというのに、顔で完璧を表現されてしまったらなんといえばいいのか。
それと、個性が消えるところが嫌だ。統一と名前についているだけあってサイズから曲がり方まで統一されている。皆がつけている。
なんだか人の海に溺れてしまいそうだ。木を隠すなら森の中、個性を隠すなら仮面の中。語感はしっくりこないけれどこんなところじゃないだろうか。

やっぱり着けるのがとても難しくなってしまったかもしれない。
人の海に溺れてしまいそう、なんて詩的な表現ができるようになっていた。

やはり、「おかしな仮面の大男」は「正解」だったのかもしれないな。ふと、思う。
自分をほどほどに収まらないが迷惑をかけない程度に主張して、それがあたかも、ではなくそれこそが自分であると主張して、自然に生活する。それが追い求めなくてはいけない者ではないのか。
あの仮面を「おかしな」と形容したのは大いに間違いだった。「素敵な仮面の男」と改名しよう。
「素敵な仮面の男」はいつ、仮面に個性を出そうと思いついたのか。元の仮面が嫌になってしまったからか、それともファッションのような。いずれにしても自分をきちんと表現しようとした結果、あのような仮面をつけるに至ったのだから私にとっての尊敬する人と言えるのかもしれない。

私も仮面に何かしてみようかな。
仮面そのものに対して恐怖しているのではなく、つるつるで私を何も表現できないような仮面が嫌になっただけだ。きっと変われば私として、新しい仮面をつけて生活することができるに違いない。
「やっぱり今日の外食、私パスで。」
デバイスに話かけ、メッセージを送信。数秒後、「了解。これで適当に買うなりなんなりしなさい」とのメッセージとともにいくらかが送金された音が聞こえた。
今はその金額で今夜何を食べようか悩んでいる場合ではない。これからの私がかかっているのだ。思い立ったら吉日とは昔から言われていることわざ。今まさにそれだ。
理想の自分を表現することのできるのはどんなデザインか、悩み悩み抜き調べ考える。

「じゃあ私たち行ってくるからね。」
と音声メッセージには反応せず、反応するほど外の音を拾いきれていなかった。「これこそが私」と堂々といえるものを順々に言葉に、絵にして視覚化していく。
端末用のペンは初日から本当によく働かされた。
着けている少し未来の自分の姿を想像してみた。なるほど、これは良い。いいや、これは似合わない。自分の中で意見をぶつけ、粗削りがだんだんと繊細みを帯びてきた。


最後に筆を動かし、色を塗り保存して「できた」と声を張ったとき、端末の電池がちょうど切れた。画面が真っ黒になり、代わりに昔のように絵具にまみれた私の「素顔」をうつす。
自分で言うのはかなり恥ずかしいのだが、そこには書籍に載っていたどの昔の人の顔写真よりも透き通る、輝く目をした私がいた。満足そうに数瞬前まで表示されていた未来の私に満足していた、自分の顔。
まだ実際にやったわけではないけども、好しとされていないドローにひたすら熱を入れるというのは何とも、こう言い難い満足感が湧く。昨日の今日でこれだけ考えることが変わるか。変わりように自分でもたぶん驚いている。でも、きっとこれが本来の自分で、今までは周りに合わせすぎていたのかもしれないと考えるとかなり楽になる。

随分と時間がたっていた。しかしまだ外へ食事に行った親は帰ってくる様子はない。私がいないから、きっと高い外国の料理屋にでも入って優雅な時間を過ごしているのだろう。壁に飾られた民族の、儀式用の仮面をみて野蛮ねえ、とでも言いながら。
自分を変えてみるのはこれほどに楽しいものかと思う、が変わっているのは自分ではなく仮面だ。けども、もはや仮面が自分となりつつある今においては仮面と自分に等号が掛かる。
難しい話のように聞こえて存外にも簡単だ。

「素敵な仮面の男」は普段、何を思って生活しているのだろうか。まだまだ、というのかもうこれ以上発展しないのかは知らないが、社会の目はまだまだ仮面へのドローに厳しい。それにも関わらず私がデザインした以上の奇抜で、自分を丁寧に表現したであろう仮面を着けて生活している事実に対して。格好がいいと思う心は今ではどこかへ霧散しており、規則に従ったうえでの最高の表現だとむしろ誇らしげにしているかもしれない。近いうちにこのドローを自分の仮面に施してもらおう。

 特段仲のいいクラスメイトに報告する。
「私、ドローしてみようと思うんだけどさ」
すぐに返事は寄越さなかった。だがしっかりと読んではいる。課題でもしておこうか。私は未来を考えられる。

たまには、と気分転換で引っ張り出してきたシャープで紙で課題を解いた。昔、気に入ってひたすらに蒐集していた。我ながらいいものを集めたと過去の自分をほめてやりたい。

机に置いたデバイスが通知でブルブルと震えた。
手に取り、ロックを解除している間もずっとブルブルと震えていた。短いメッセージを大量に送り付けるいたずらかと思うほど通知は止まらないままだった。
しかしクラスメイトの名前が表示されている。私は何を言われているのだろうと少し不安になってしまった。が、別に何を言われても私は私だから、対して傷つく気がしない気持ちもしている。
「いいな、それ」「やってみたくなった」「どんな感じのデザインにした?」
感涙、と言えばいいか。現実では泣いていなかったが、心の自分は確かに泣いていた。自分を否定しないでくれる人がこんなにも近くにいるなんて。
「ほんと、ありがたい」
一言返すと「なんで」との返答。まあそうなるよね。でも本当にありがとう。

 特に生活に不自由しない家庭で育ってきたつもりだ。誕生日も、年末の例の時も毎年プレゼントは自分の欲しいもの。習い事もこれがしたいあれがしたいと話せばすぐにやらせてもらえた。しかし何も長続きしなかった。
昔から少し、ではないかもしれないが大人びた思考をしていたと思う。どうにかして個性を出さなくてはいけない。そればかり考えていた。何か習って身につければ自分だけの個性になるかな、勉強をたくさんしてかしこくなれば、それも自分の個性になるかな。そう思ってとにかく行動してみていた。
しかしそれが自分の満足のいく「個性」とはならなかった。何事もそれなりにできるようになった私を、親は褒めてくれた。平均的に何でもできる人は重宝されるぞ、と。でも私は平均を求めていたわけではない。ただ、私だ、と分かるような何かが欲しかった。技術、身体的特徴、思考。調べてもそれらを得るための的確な方法はどこにもない。
結局、どこかの年齢でそれは諦めた。自分は一つの歯車として社会という大きな機械仕掛けの中の一つの歯車となるんだろうな、とおぼろげに思った。似たような人もいるし全然違う人もいる。どちらかと言えば似た人のほうが多いが。
だけれども、心のどこかでまだ個性を出せる人間になりたいという火は消えていなかった。そうしてネットにもぐりこんでいくうちに、掲示板という楽園を見つけた。そこは誰しもが最初はただの人。秀逸な発言をしたり、面白いことを言うとどんどんと目立っていくことができる。現実の世界ではできなかったことがここで出来るのだと心を躍らせた。

出来るだけ注目されるように、と自分が考えうる最大の効果を持つ動きをずっとし続けた。
有名にはなった。名前を固定して、覚えてもらえるようになった。
だが、私が持つ個性に何か言うわけではなく、私の書く言葉に注目しているだけだった。所詮は文字だけの場所だから、個性など感じ取ってくれるはずがないと自分を守ろうとした。そしてほかの人を見て、挫折した。そこで自問した。「なぜ個性を持ちたいの?」
一瞬で解凍できるはずだった。

「自分を自分だと、自信を持って言えるようにしたいから」とは、言えなかった。

 買ってきてもらった仮面をもう一度眺める。やはりこのままでは個性など表現できそうにもない。けども、これにドローを施せば。私を私と表現できる。それだけでだいぶ心が弾んだような気がした。
だが、ここまで来て一つの問題がある。仮面にドローを施すのは危ない人だ、と言われている。実際そんなことはないのだが、大多数に従わない者を「はみ出している者」として悪く扱うことは遠く遠く昔からされてきたことで、今更変えられるはずもない。要は自分を表して社会を捨てるか、と問われているのだ。世捨て人がやるならまだしも、私のような社会的にまだまだ弱い立場の人がやるなど、と言われても仕方のない。けどそれでは意味がない。つぶされるから自分を表すのをやめるか、そうではない。つぶされそうになっても、そこにはれっきとした自分がいる。はっきりしない相手からの攻撃にも、個性を持つ屈強な自分の心でどうにか対峙を。やめよう、この話は。頭が痛くなってくる。

 浮いた気分をそのまま浮かせておきたい。ホログラムでドローを投影してみることにした。
とても綺麗としか言えない。これが、私の個性。


 しばらくののち、施された仮面が届いた。作品の中でしか見たことのないような奇抜なドローをまとっている。それが私の手の中にある、着けることができる。抑えきれない興奮が襲う。
鏡を見る。

「これが、新しい私。」
涙を流した。仮面の中をつたい、ポタリと床に落ちる。仮面の中で笑顔になり、写真を撮る。
決して仮面が笑顔になっているわけではないけれども、本当の私は笑っている。
「あはは!」


「アイロニー」-おわり-
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