myself

啞ルカ

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マイセルフ

 自分に羽が生えたら、なんて考えたりしたことが一度くらいはあると思います。たぶん便利ですよね、羽があったら。歩かなくていいですし、徒歩よりも行動範囲が広がります。
けれども飛ぶという行為はとても大変なリスクを背負っているということを知る人は意外と少ないのです。鳥は飛ぶといえばの動物ですが「鳥頭」という言葉はあまり頭のよろしくない人のことを指すように脳みそがとても小さいのです。飛ぶ行為のために脳みそを小さくしてしまってはどうしてこの姿になったのかもわからなくなってしまうかもしれません。それでは残念過ぎますね。
おっと、話がそれてしまいました。とにかく、羽があれば、なんて想像してしまいますよね。

 私の背中にそれが生えてきたのは突然のことだった。朝起きて、姿見に映る自分の姿に驚いて危うく顎が外れそうになった。羽が、羽が生えてる。それも立派な白鳥のような羽が。バッサバッサと音をたてて羽ばたいている鳥についているようなものが自分についている。その事実を飲み込むためにはこの朝の時間はあまりにも短すぎる。どうすればいいのかと行動に迷う。まず誰かに相談すること。なんか囃し立てられそうで嫌だな。除外。まずい、それ以外の選択肢が出てこない。とにかく今日は学校には行けなさそうだ。金曜日で助かった。それで外に出ないとして、家族にはどう説明しよう。普通に生活しててこんなに頭を抱えることになるなんて思わないでしょ。もっと頭を抱える訓練をしておけばよかった。わけのわからないことを考えつつもとりあえずベッドのへりに置いた携帯を手にする。まずはお母さんにどうにかコンタクトを取らねばならない。メッセージアプリを開いてお母さんあてにテキストを送ろうとキーボードを開いたところで手が止まる。羽が生えたときの文の書き方を知らない。どうしよう。

-安心してほしい。誰もそんな事態を想定した文の書き方など知らない。せいぜい妖精に教わるんだな。-

「ちょっといろいろあって、とにかく今日は学校に行けないから連絡お願い。あとご飯と飲み物を私の部屋の前に置いておいてください。」
急に怪しいけどとりあえずこれ通りに行動してくれることを願う。そうでもしないと現時点で一番ばれたら面倒くさいことになることが確定している人に情報が渡ってしまう。

-ちょっと待ってみたけど返信が来ないようだ。朝だから忙しいんだろうけどもうちょっと気軽に携帯見てよ、と言いそうになってる。戦場のように忙しいんだろうからそんなことは言わないで上げてよ。カップラーメンにお湯を注いでから待つ時間のように短いのだけど本人からすればとても長く感じるような感覚なのだと。待ち遠しいねえ。ドキドキとはしないけど。いや、してるかも。-

反応してもらえないということは、この部屋に突入されてしまうかもしれない。そうなったらこの立派な羽を見られて、そして騒がれて病院に担ぎ込まれて。最悪だ。たぶんこの想像したことを本当にやろうにも悪意を持ってやっているわけではないから止められないのが余計に負担になる。さあどうしたものなのか。
そもそもこの羽は自分の意志で動かすことのできるものなのだろうか。ここにきてただの飾りでした、なんてなんだかひどいような気もするけど。初めてそのビジュアルだけでなく機能面に注目した。こうやるのか。とにかく動かそうと腕をぶんぶん振り回してみる。肩の近くに生えてるんだからつられて動くだろうと考えたのだが特にそんなことはなかった。白い羽はピクリとも動かない。未知の筋肉を動かさなくてはいけないらしい。そんなことすぐにできるわけがない。とりあえず肩甲骨の近くに動け動けとめちゃくちゃに念をおくる。同時にたぶん肩甲骨付近であろう筋肉を動かすイメージをする。バサバサと羽が風を起こし机の上に置いてあったプリントたちが舞い上がる。おお、と感動していられるのもつかの間、リビングから「早く起きなさーい」との声が聞こえる。これはまずい。今しがたちゃんと動かすことのできた羽がとたんに言うことを聞かずに暴走し始め、部屋の中は台風の日に窓を閉め忘れたかのごとき惨状を呈す。まずは深呼吸をして自分自身を落ち着かせよう。そうこうしている間にも母親の足音は確実に近づいてきている。鼻から大きく息を吸って、口から吐く。三回ほど繰り返したところで羽の暴走は止まった。もう母親は階段をのぼり私の部屋の前まで来ているだろう。階段を上るときの軋む音が聞こえなくなった。慌ててベッドに飛び込む。厚い布団の時期でよかった。もぞもぞと布団の中で丸くなる。
「起きなさーい。」
この声に反応しないとたぶん布団を引っぺがされる。すかさず返答する。
「ちょっと今日は学校に行けそうにないから休むー。」
するとノックもせずに荒れた部屋へ母親が入ってくる。どうして。いつもノックするのに。散らかる紙や服に驚きつつも布団にくるまり団子のようになった私に言う。
「なに、なんかあったの?」
「いや、別にちょっと。とにかく今日はいけないの。」
顔だけを布団から出して足利義満の肖像画のようになりつつ話す。
「そうなの。ごはんリビングで食べる?それともここで食べる?」
なんと飲み込みの早い母親なんだ。思わず「お母さま!」と口にしてしまいそうだった。もちろんここで食べるといい、母親が朝食を取りにリビングへ下りたのを確認してから布団から這い出る。大きなミッションをやり遂げたと汗をぬぐう。冷や汗といっても暖かいらしい。

運んでもらった朝ごはんを食べつつ考える。これからどうしよう。友達に話したとしても本当のことかどうか信じてもらえるかわからないし、そもそもこの羽をばれない程度に収納できるのかという問題もある。目下最大の課題はこの羽を目立たないように折りたたむ技術を習得することだ。まともに動かす前にまずは収納を考えなくてはいけない。現代社会は鳥人間にそれほど寛容ではないらしい。当たり前だが。
「いってきまーす。」元気な声とともに弟が学校へ行った。母親も父親も出勤した後、最後に家を出るのが弟らしい。一人でも独り言が止まらずにいつまでこんなにうるさいのが続くのだろうと頭と耳を抱える時間は終わった。ちなみに私はいつも早めに登校して朝のホームルームまで友達と話したりしている。勉強はしない。
食器を載せたお盆をもってリビングへ下りる。まず部屋を出るのに少し手間取った。まっすぐ部屋を出ようとするとドアに羽が突っかかる。てっきりこれくらい通れるものだと思っていたから勢いよく引っ掛かり危うく腕と羽がもげるところだった。いや、現時点でいろいろ障害にはなってるけどせっかくどこからか授かったものなんだから羽も大事にしていきたい。そーっと慎重に横を向いて部屋を出る。横幅は1.5倍くらいになっているらしい。さっきあれだけの風を部屋の中で巻き起こしたからやはりそれだけの大きさはあるのかと改めて実感する。しかしいろいろなところの幅を意識しながら生活しなくてはいけないなんて、なんだか急に何十キロも太ってしまったかのようだ。
無事にリビングまでやってくる。一応誰もいないかどうかきょろきょろとドアから確認した。
背の高い観葉植物やら首の長い照明、壁にかかっているどこかのお土産や写真など意識してみると結構いろいろな危ないものがある。最大限腕を絞って歩いても大して羽の横幅は変わらない。これはだいぶまずいことになってしまったのかもしれない。純粋に喜べるのは小学生までだろうか。
弟が消し忘れたテレビを見つつ食器を洗う。みんな会社とか学校にいるんだ。なのに自分は家にいて何もしてない。ひどくぼーっとしていても誰にも注意されることのない、なおかつ妙な背徳感を得ることのできるこの時間が好きなのかもしれないと気づく。気を抜いて食器を洗っていたからか、手から茶碗が滑り落ちた。水を無駄にするまいと小さな桶を置いて正解だった。ぼちゃんと音をたて茶碗が着水する。茶碗には何事もなかったが大きくはねた水が私にかかろうと宙を舞った。あ、びちゃびちゃになる。まあいいかと受け入れようとしたとき、羽が無意識に私の前に出てくる。宙を舞った水は羽にはじかれビタビタと床を濡らす。あれまあとキッチンペーパーで拭く。それにしても熱いお湯に触れると勝手に手が引っ込むように羽にも脊髄反射とかがあるのか。数少ない生物の知識を持ち出して新たに自分の体になった羽に感心する。
小さなハプニングと大きな発見をしたところでもっと羽について研究してみることにした。いまのままでは使いづらいのもあるがそもそも生活に支障が出るから。そこらへんに散らばっている小物を戸棚の中にしまい、部屋で動かしたときのように念をおくる。動け動け。しかし動かない。動け動け動け。しかししかし動かない。大きなカブか。肩甲骨あたりから生えているらしいからそこら辺を動かすイメージなのだろうか。でも普段意識して使うような筋肉じゃないからできるかどうかわからないけど。とりあえず突破の糸口をしらみつぶしに探す。
ここか、ここか。何度も何度も動かしてみた。いきなりバサバサと動き小さな台風が発生する。なるほど、これでいいのか。飲み込みが早い自分に拍手をしたい。ちょっと洗濯物が散らばってしまったけれどそれは見逃してほしいかも。成功した時の感覚を忘れないようにどんどんと羽を自分の制御下にいれる。これで私も鳥のように、大空に羽ばたくことができるかも。期待を胸にリビングを荒らす私。なんだかとってもおかしいな。でも気にしないでいこう。

-それを誰が片付けるのかって話だけど、まあ今は何を言っても聞きそうにないから放っておくしかないかも。-

自分の部屋に戻り、今度は羽をたたむ練習をする。これ以上動かす練習を家の中ですると両親のせっかくの持ち家が壊れかねない。娘のはばたきのせいで家が壊れました、なんてそんなファンタジーな理由でおりる保険なんて聞いたことがない。
動かすことが比較的簡単にできた代わりに収納するのは結構大変なようだ。どう動かせばいいのか全く分からない。そもそも自分の目の届く範囲じゃないからうまくいっているのか確認することすらできない。ファンタジーが現実になると途端に不便になる。やっぱり想像を現実に引き出してきてはいけないというのは本当なのかもしれない。四苦八苦しながらもどうにか鏡を調整して背中を見れるようにした。おお、付け根が結構マッチョになってる。腕とは比べ物にならないくらいの大きな筋肉のついた肩甲骨周りから私の目指す華奢な女子の面影を探し出すことは不可能だった。今はそんな見た目の話をしている場合ではないのだけど。どうすればいいのかわからず、力をセーブして自分へ風を送る。ドライヤーの強くらいの風が吹きつけ、髪を乱す。口に髪が入る。まだまだ制御しきれるとはいい難い。

根本からどうこうする以前に羽の畳み方を知らない。そもそもである。とりあえず「鳥 羽 畳み方」で検索をかける。本当に鳥と同じかどうかなどわかるはずもない。とりあえず参考になれば万々歳という感じで。
結局ボクシングの構えのようにしてから脇をしめてそのまま肘の高さが肩より少し下になるくらいまでもっていくことができれば自然とパタパタ閉じることが分かった。そこから少し手で押してやれば割と背中にフィットしたような形に収まる。これで普段の姿の問題も解決したか。背中に触れる羽根がこそばゆい。汗疹とか何某にならないといいけど。それと最後に押し込むのも意外と腕にくる。
幸い私はブラジャーのホックを一人で止めることができるくらいにはそこら辺の関節の柔軟性があるから心配は無用か。たぶん普通だけど。
ベッドに腰かけ、んー、とめいっぱい腕を伸ばす。せっかく収納した羽根も窮屈はイヤだと言わんばかりに背中から飛び出してきてしまう。しまうことを忘れていつもの癖で後ろに倒れこむ。あっ、と気づいたころには遅かった。慣性力にあらがえるほど鍛えられていなかった腹筋は抗おうと力を入れてもお腹に溜まったガスをひりだすだけで何も仕事はしてくれなかった。ロケットでもあるまいし、ガスだけで体勢を立て直すことはできない。むしろ少し加速してしまったかもしれない。思わず耳をふさぐ。ポキ、とか聞きたくもないからね。バサァ、よりもヴァサア!と表記するべきであろう風をたてながら羽がひらき天使のような姿になりつつ背中がついた。まあ、いろいろと便利な脊髄反射の機能も追加されているらしい。いきなり使えなくなることはなかったようで安心した。
もうなんか、どっと疲れた。まだ昼までいくらか時間があったが横になるやいなや眠気が襲ってくる。なるがままにしてしまおうか。久しぶりの晴天は太陽の温かみを十分に届けてくれた。ぽかぽかとした陽気のなか、布団にくるまってから意識が遠ざかるのはすぐだった。

 はっ、と目を覚ませばもう空はオレンジ色に染まっていた。何もしないで一日が終わってしまったと時計を見るがまだ夕方の四時だ。そうでもなかった、と安心しそうになるが昼ごはんの前から寝ていたとなるとだいぶぐっすりだったようだ。どこからか豆腐屋の力の抜けるラッパの音が聞こえる。もうじき夕方のニュース番組が始まるころだ。そして母親も帰ってくる。なんだか一人で羽の動かし方の練習をしていた夢のような、非日常的な時間が過ぎ去りオレンジ色に染まる夕方とともに少し哀愁を帯びた現実の空気がすぐそこにまでやってきていた。弟は友達の家かどこかに遊びに行ってしまったのか声が聞こえない。まだ醒めきらずぼーっとしている脳を起こしに階段をおりる。そうだそうだと背中をさする。寝る前の非日常が現実なら羽をきちんとしまえているかどうかを確認するための動きだし、夢ならばそれが現実の出来事ではないことを証明するために羽がないことを確認するための動きだった。そこには羽があった。安心と高揚、悲しみをひと摘み。
特に理由もなく、というか朝は大変な理由だったものがたいしたことではなくなったおかげでただただ学校をずる休みした人になった私はたくさん寝て気分がよかった。普段しない鼻歌を歌いながら携帯をみてみるとパラパラとメッセージが来ているらしかった。宿題とか時間割とか。授業の内容まで。私って、実は割と大切に思われてる人間なのかもしれない。少しうぬぼれてみるほどに心には余裕があった。了解、ありがとうなどと返し終わると久々に追い詰められるでもなく自ら勉強しようという気になる。と言っても出されていた課題を少し終わらせるだけの。
数分で終わる課題をこなしただけだというのに私はもう今にもスキップで宇宙へ飛び出せそうなほどにルンルンだった。そこら辺の歩行者に変な目で見られるくらいには。なんだろう、なんだかとっても気分がいい。好調な理由をどこかに書きとどめておきたい、そんな気持ち。
親が帰宅する。駅で合流したらしく二人してスーパーの大きなビニール袋をもって帰ってきた。すぐご飯にするから待っててね。何も言わずに休みにしてくれた女神こと母親はそう言う。自分の部屋に戻る。ベッドに倒れこむ。羽の心配はしない。バサバサと音をたて羽が開く。これで何かできないのかな。羽をなでる。触り心地は最高だ。
妙に気分がホワホワしたまま夕飯に呼ばれる。今日は何もしなかったんだー、と報告。家事の一つでもしてくれてもよかったのよ。と母。まあまあ、と変な返しをする。ハンバーグはおいしかった。明日は普通に登校しなきゃ。

雨戸を閉めるのを忘れたおかげで無駄に早く目が覚めてしまった。まだ家族のだれも起きている様子はない。それどころか近所から物音ひとつ聞こえてこない。まだ寝静まっているらしいこの時間帯、家の中でできないことを外で試すには最適の時間帯ではないか。階段をきしませないように、玄関の閉める音から衣擦れまでとことん注意を払って外へ。新聞だけはポストに刺さっていた。寝巻きのまま、まるで新聞を取りに出てきた人を装って出てきて背伸びをしたところで気が付いた。羽を伸ばそうにも脱げないから意味なくないか。
新聞だけをもってしぶしぶ家に入る。朝のリビングにコポコポ湯を沸かす音だけがあった。コーヒーは苦い。それで目が覚める。父親のルーティーンを真似て飲み始めたのももうかなり前のことになるかもしれない。それにしてもさっきふと浮かんでしまった考えはひどいものだった。上半身裸になれば羽だってのばせるだろう。自分のどこにそんな露出癖があったのかと自分でも驚くが。いやこれは仕方のないことなのだ。昨日自分の部屋やリビングでひたすらその「使い方」を学んでいるとき、実は上半身裸だったのだ。別に家に誰もいないからとやっていたが普通に考えて普段は服を着ていなくてはならないのだ。そうなると背中の一部を切り裂いてロックな感じにしつつ実用性をも取るかおしゃれと羽の機能性という前代未聞の二つを融合させるか。それとも普通に使わずに生活するか。一番現実的なのはロックになっちゃうことかなー。使わないという選択肢が一番に来ないところに自分の中での存在の大きさを改めて実感できる。飛んだりとかにはまだ使っていないから何とも言えないのだけど、急に私の一部になった羽に対しても普通に接していきたいから、とわけのわからないことを自分自身に対して言い訳する。それはさておき。朝から少し不完全燃焼気味でもあり昨日学校を休んでしまった私がスムーズに授業の内容をかみ砕けるはずもなく...。昼食のころにはあえなく机に突っ伏していた。

-本当にびっくりするくらい授業が早く進むんだよね。私こんなに進むと思ってなかったんだけどなあ。みんながやさしくなかったらもっと大変なことになってたかもしれないや。-

大丈夫か、どうしたんだ。まだ疲れがぬけてないのか。ほんのすこーしの警戒と哀れみ、それに大きな慈悲をもってきたのはもちろん友達。昨日休んだのは体調不良という言ことになっているらしい。まあ確かにそうかも...?
「あー全然大丈夫だよ。」と取り繕うものの多少の猜疑心を含んだ目が向けられる。
「それならいいんだけどさー。今までほとんど休んだことないのにここにきていきなり休むんだもん。何事かと思っちゃったよ。」
それについては本当にごめんと思ってるよ。でも事実を話すとそれはそれで大変なことになりそうだから体調不良として処理してもらって。
「いやーちょっと本当にいきなり体調悪くなっちゃってさ。お腹下しちゃって。」
ならよかったといわんばかりの顔と頷きが得られた。よかった。適当にテレビの話などで盛り上がるなどして昼休みは終わる。そういえば今日は金曜日だ。自分の時間割を取り出して確認、そしてガッツポーズ。
「いやー今日金曜日だからお先失礼しますわー。」
多少の京都人、または関西人ぽい口調で言うとブーイングが起こる。「なんでー、自習室で勉強しててくれー。」
生憎にも私はそんなに真面目ではないのだ。それに楽しいことが生えてきてしまっているからな。「それじゃあね。」と机の中のものをすべてリュックに詰めて帰宅する。思いがけずの日常の幸せ。うーん、良い。足取りも軽い。こうなると羽までのばしたくなる。やっぱりずっと畳んでいると窮屈なのだ。ずっと腕や足を折りたたんでいる感覚に近い。でも痺れるわけではない。いつの間にかスキップは軽い走りへと移行していた。髪とスカートが風になびく。とっても気持ちがいい金曜の午後って感じ!両手を広げて、その無邪気なさまは小学生にも見えたかもしれない。

帰宅。何もすることないなあ、どこか遊びに行こうかなあ。小学生の下校時間と同じ金曜日は毎回こんな、小学生の活発さを持った思考になりがちになる。でもやっぱりいいや、なんか疲れたし。残念なことに体力は帰宅部の高校生のままなのだ。
そうだ、とベッドに大の字になって天井を見ながら声を上げる。想像していた以上の声量で自分もびくっとしてしまった。それでしようとしちるのは「夜中に羽を使う訓練をする」ことについて。いろいろ目視での確認ができなくなってしまうかもしれないが誰にも見られないでという点は軽々クリアできる。それになんだかとっても気持ちがよさそうなのだ。早速今夜からやってみるか。そのまま布団をかぶるとストンと眠りに落ちた。

起きるとまたもや夕方だった。相当長い昼寝になってしまったようだった。それでも夜の活動時間が増えたと考えればまだプラスか。夜の活動時間という言葉の響きになぜか少し興奮してしまう私は厨二病をいまだに心の奥底で患っているのかもしれない。

この間買ってから読もうよもうと思いつつも机の上に放置されていた本を読んでいた。泣ける話なのかただただ悲しい話なのかよく分からなかった。若者に人気の小説、と積まれていたはずなのだが私の完成にはまだ早いのかもう遅いのか。すっきりしない気持ちになっているともう外はどっぷりと暗くなり、そして窓から漏れる明かりも数えるほどになっていた。コチコチと小さい音で時を刻み続ける時計を見てみればそろそろ針が二つ重なるころだった。そろそろじゃないかな。ガラッと豪快に窓を開けると電気ストーブをつけていた部屋の風はどこへやら。一気に冷え切った冬の空気が入り込んでくる。体を寒さが体を震わせさらにわくわくで震わせる。なんと楽しそうな。ロングコートを羽織ってさて外へ、窓の淵に足をかける。冷たい空気に透き通る月光。たぶん今の一瞬を切り取ればすごく良い写真になるはず。折りたたんだ羽をひらく。巻き上げたかすかな暖かい空気が頬を触れていく。バッサバッサと車のエンジンをふかすように幾度か動かす。足元をちらりと見る。二階でも意外と怖いんだなあ。またここで震えてしまった。

よし、行くか。タイミングなんてなかった。なんとなく行こうと思ったそのときにはもう足が窓枠をけって宙に浮いていた。意識を足から羽にシフトする。ふわり、そんな気軽な印象はもののいち羽ばたき目でぶち壊された。ガグンガグン上下に動く。このまま続けたらいずれ脳みそがカスタードクリームのようになってしまうこと間違いない。これはいかんこれはいかん。すぐさま近くの家の太陽光パネルの上にお邪魔する。なんだか壊れてしまいそうな予感がするけど。
かなりつらいのはこの上下の振動だけなのが一握の希望と言ってもいいか。付け根が案外痛くならないのと動かす動作に関してはこのままでも大丈夫そうなことも追加か。ひとまず部屋に戻ろう。開け放ったまま空き巣を歓迎してしまいそうな自分の部屋を目指して脳を揺さぶられながら飛ぶ。それにしても本当に飛んでいるのだ。いつの間にか電柱よりも高い位置にいた。自分の力で空を飛ぶことができるなんてアニメーションの中だけだと思ってたんだけどな。まさか私が。どこからかこみあげてくるものがあった。月の光に照らされてその雫は静かに真夜中のアスファルトへと落ちていった。

すっかり冷え込んだ空気で満たされた部屋に戻ってくるなり音のことなど気にせずに勢いよく雨戸をと窓を閉める。うう、寒い。それでも感動は確かに心を熱くした。布団にくるまり、羽を収めるのも忘れて強烈な体験を脳に刻みながら寝た。度のサンタクロースからの贈り物よりも興奮し、喜んだその体験はのちの私を大きく変えた。

マイセルフ 本章

 私には人と違うところがある。羽、だ。羽が生えている。その、こうなんというかメルヘンチックな天使のような、幻想的な羽ではなく質量をもった羽がしっかりと私の体にある。動かすことだって飛ぶことだって、もちろん畳んでおくこともできる。そんな羽。

 いったん飛ぶことはできたけれどもまだまだ何もかもが足りないようだった。それに、この羽をいつまで周りの人に隠し通せるか、という問題。これが本当に大きい。ただ話だけしてもきっと精神科に担ぎ込まれてしまうのがせいぜいのオチだと頭の足りない私でも予測はできる。学校を休み、そして休日に突入したのはいいが、週明けが来るまでに背中の厄介が消える気配など微塵もない。少しくらいは枯れそうになったり、細ったりしてもいいのよ、と半ば祈るような思いを向けるも、悲しいことにそう簡単にはどかないと意固地になるのが分かるような気がする。
しかしすべてが全て、私の心を原点より左に連れていく要素ということでもない。実用性のない飾りでないことはすでにこの身で証明したのだ。いつ使うのだ、とは聞かないでは欲しいが有用性は認めてほしい。本当にいつ使えばいいのか分からないが。大事なことは復唱しなくてはならない。
たとえ親友だと思っている人達にでさえこのことは秘密にしておきたい。しかしそれを邪魔するのは他の誰でもない私の心だ。近頃たびたび耳にし、目にする言葉、承認欲求ではないが何かの欲求が私の中で渦巻いているのだ。これは非常にまずい傾向にあると言わざるを得ない。ずっとそう思っているならば、私は人間だから必ずどこかでヘマをする。かばうことのできないヘマをしでかしたときに正常な判断を下すことができるかどうかについては折り紙付きにダメだという結果。過去、さんざんしでかしてきた事からいえることはそれくらいか。口外しないためには自ら家に引きこもるか、くらいの案しか私一人だと出すことができないのだ。第三者に知られてはならない事を持つのがどれだけ現代社会での生活を困難にするかは、これまた今までの生活で満腹になるくらいには体験してきた。街ゆく一人ひとりがテレビ局だと、そんな時代に今の自分のような奇天烈人間が姿を現したとなるとそれはもう、ありとあらゆる人が反応し、研究の対象にするためにどこかに連れ去られてしまうかもしれないし今後一生普通の生活ができなくなるかもしれない。
重すぎるテーマを自分の頭の中で扱おうとした自分がいけなかった。これ以上話を転がしていても大した結論は出ないし、それこそどこかおかしくなって裸のまま外に飛び出してしまうかもしれない。機械のように明確な危険領域がない人間にはすべてが誤動作の元となる。うーん。唸るくらいの議題でもいつしか人類はどうして環境に負荷を与え続けているのか、に匹敵するくらいまでには膨らむだろう。
ダメだ、ダメだ。頭に考えが浮かんでは現実の腕を振り霧散させる。
いやでも、この「あり得ない現実」自体が実際はよくできた夢であってほんの少し眠ってしまえば視覚聴覚感覚その他すべての知覚がもとに戻って現実を見せてくれるのではないか。眠るためにすらいちいち高尚な理由が必要になってしまった私はベッドに横たわる。なるべくプラスな気持ちで、なるべくプラスのことを考えて。自分で自分に催眠をかけつつ、意識はだんだんとどこか遠くへと旅立つのであった。


 高所から落下する感覚とともにスプリングに足がはじき返されて目が覚める。天高いところから自分の魂が自由落下の限界速度をも振り切り体に帰還した。嫌な感覚、と思うも脳内の話題は常に先を行く。腕をもぞもぞと動かし、軋みそうなところまで伸ばしてさっきまでは羽を触ることができた。どうなのか。若いけれども軋みそうな腕をのばしてみるとそこにはしっかりと自分の体から気持ちの良いカーブを作り窮屈な睡眠の市井から解放された羽がしっかりとあった。なんと残念な。自分の中の口調はすっかり女子高生のきゃぴきゃぴとしたそれではなく、適度に年をとった男性のような口調に変化していた。性別はともかく、羽のせいで加齢のスピードが今まで以上の加速度を持ってしまったのかもしれない。もう何でも来い。自暴自棄になってしまいそうだ。
現状、生まれた時から私の一部であったかのように付いている羽を取り除く方法は考え付かない。それならいっそこのまま暮らしてみてしまおう。ポジティブな結果になるまでにだいぶかかった。それにもうそうしている。結局何も変わらないのかー。現状を取り戻そう計画は「現状」が羽の生えた状態になるまで生まれてくることはないだろう。

 さて、休みだというのに昼まで寝てばっかりの私もさすがに時間を無駄にしていると思い始める時間の午後一時。家族で出かける計画があるわけではないが皆、休みの日は家にいないことが多い。しかし一人だけ家を好む私はその限りではない。自室にこもり、ほぼ毎日本屋に寄る私には愛しの積まれた本たちがいる。そのうちの一つに手を伸ばすともう丸一日つぶれることが決定したようなものだ。「見た目に寄らず」なり「意外にも」など言われるが割と同年代の中では本を読むほうの人種なのだ。
そんな私も「事実は小説より奇なり」と言わざるを得ない現象が自分の体に降りかかるなど微塵も思っていなかった。しかし、「いつか羽をもってお空を飛べることができたらな」など考えたことはあった。だがこれもその時読んでいた本が黄ばんでしまうほど昔の話であって、高校生にもなった今でもそんなフワフワな考えを持っているわけではないと断言しておかなければなるまい。
何はともあれ、休日のほとんどを自室で過ごすことが自他ともに不思議なことではないことが幸いにも家族にばれることだけは防いでくれる。もう何も考えずに本の世界に浸ることにしよう。購入してから数日ぶりに手に取る本たちを眺めてどれにしようか選ぶこの時間もまた至福なのだ。

どっぷりと本の世界に浸ってた私は差し込んでくる光が橙に変わるかどうかのところで作者からの一言を読み終える。火曜日に見つけた本だ。昔よく読んでいたシリーズの、数年ぶりの新刊とのことで作りこまれたポップをじっくりと見ることはせずに即、手に取った一冊だった。当時は主人公たちが最後どうなってしまうのかを知りたいがために早く終わってくれないかとずっと願っていたのだが、今、最後に向かう流れを察したところで文字を追うスピードが大幅に下がるくらいには終わることが寂しく感じられるようになっていた。大人に感じられた主人公たちが自分よりも年下になってみると憧れから見守るような視点から見るようになるのか。せめてずっと同じ年齢のまま読みたい、と思った作品だった。なんだか本を読み終わった時の感覚がいつもと違うような気がする。疲れてしまっている。次の本に手を伸ばす力が出ない。スマートフォンに触れロックを解除する。表示されるたくさんの通知の中からSNSのものを探してタップする。ズラリと並んだ通知を一つずつ見ていく。
話題のニュースについて自分の思うことをストレートにぶつけ合ったり、好きなジャンルのことで気が合う、顔を知らない友人と盛り上がったり。そこもまた、私にとって本と同じくらい夢中になれる場所だった。
返信を打ち込もうとキーを表示させたところでメッセージアプリからの通知が友人の「声」を隠す。非表示にしていない通知ということは家族か友達からだ。メッセージの内容を表示する設定にすることもできるのだが、そこはほんの少しのわくわくを毎回味わいたいという昔の私により見れなくなっている。そんな数秒に変なこだわり持っちゃって。
メッセージは母親からだった。父親と一緒に泊りがけの旅行だから適当に晩御飯は済ませて、とのこと。弟も友達の家に泊まりに行っているらしい。なんだか私以外はとっても充実しているような。そこまで心の口に出したところで黙れと言う。充実してないわけじゃないんだ、そうだそうだ。封筒にお金入ってるから、好きに使いなさいとのこと。
逃げることもないのに急いでリビングに下り、テーブルの上の封筒をひったくる。小遣い一か月分とは豪勢な。多めの臨時収入に負の感情がフッと消える。わかりやすい心をしているんだな、私。素直に喜んでとりあえず、とスキップをしてコンビニへと向かう。もうすっかり夜になっている。近くをはしる電車の音、部活帰りジャージ姿の中学生が友達と一緒に話しながら帰るところ。一人スマホを眺めながら歩くサラリーマンらしき人。何もしていない私とは対照的に今日一日活動していた人たちとすれ違う。
何もしていない、というのは人を焦らせる。課題を期日の前日まで引き延ばしにしていた時とも、試験の直前まで何も対策していないのとも微妙に異なるニュアンスの焦りがある。何か活動をしないと自分が世界から取り残されてしまうような感覚に陥るのは私だけなのだろうか。本を読み、少しだけ感性が鋭くなっている私の考えに共感してくれる人はいるのだろうか。大通りに出ると看板の光が昼をつくりだしていた。時間の感覚が巻き戻されて、まだ無駄にしていないような感覚にさせてくれる。
最近テレビCMでもよく耳にする妙に耳に残る商品販促の短いフレーズを口ずさむ。するすると紡ぎだされた単語たちは口から出され、音になった直後から車の往来にかき消される。羽ばたいてすぐに襲われてしまう小鳥のようだ。相変わらず詩的表現の苦手な私はコンビニに入ってすぐに飲料コーナーへと向かう。右手にずらっと並ぶ雑誌の中でも成人向け雑誌を横目でちらりと見るのに少しだけハマっている。小学生男子のようだけども、なんだかいけない事をしている感覚が手軽に得られてとてもわくわくぞくぞくする。多分健康に良い。
大きなガラスの扉を開く前にサイダーにするかジンジャエールにするか、それとも果汁百パーセントジュースにするか悩んでおく。あ、新発売のカフェオレもいい。抹茶ラテもいい。結局選択肢は増える。先客ならぬ後客が怪訝な顔で私を見る。そんな顔でみないでください、私はただ最高の一人飯のお供を決めあぐねているだけで盗むタイミングを見計らっている不審者ではありません。心の中で小さい私が声を張り上げる。大きい私はただただ、えへへと笑いながら頭を下げて後ずさりをしている。なんという不審者の動きだろうか。
結局新発売の文言に好奇心が勝てずカフェオレを手に取る。冷気が紅潮した頬を撫でる。もう次にとるものは決まっている。サラダチキンとおにぎり、それにサラダ。サラダを冠する商品を二つも買うことで意識が高い大人の女性に。意味の分からない妄想をしていた。
さっき道ですれ違った元気いっぱいの中学生たちと同じジャージを着た、いかにも運動部ですよな雰囲気の日に焼けた肌をさらしているのが何人か、同じような格好をしたこっちは高校生くらいのが合わせて十人ほど、レジの列に並んでいた。軽いスナック菓子に決まってコーラを持っているのはもはや決まりだと言われても納得してしまうほど。炭酸で腹が膨れる感覚苦手なんだよなー、などと友達がいたら話しているのだろう。一人の私はスマホに視線を落とすのだが。
不意に心に沸く好奇心というのは抑えるのがとても大変だ。抑えるのが大変なくせに実行したら織のある所に入れられてしまうかもしれないことまでありとあらゆることを思いついてしまう。そんなときばっかりは自分の奇才さが少し恨めしいとも思う。実際は奇才なんかではないけど。
不意とは予期していない、突然などといった意味を持つ。SNSをのぞいている今この瞬間も不意、に該当していたらしい。脳みそが恐ろしいことを考え付いてしまった。ここで羽を広げたらどうなっちゃうんだろうなあ。列に並んでいる人は私を悪魔かと見間違え、私自身は自分の脳みそを悪魔だと確信する。そして世間ではまるで私が本当に悪魔であるかのように認識されてしまう。いたるところに悪魔が出現している。これは怖い怖い。
無事に好奇心を抑えることに成功したものの、マークしていなかった食欲が暴れてしまった。あの、レジの近くにおいてあるなんというのか、その、欲望を掻き立てる温かい食べ物たちが私を読んでいたのだ。これは紛れもない事実だ。私はコロッケ、などの声がよーく聞こえた。なるべく節約してほとんどを本につぎ込んでしまおうとした過去の私に謝罪をしておく。差額は大したものではないのだけど、それでも救える本への執念があったかもしれない。ああ、私はなんと罪深いのでしょう。
大通りは相変わらず飛ばす車で溢れている。地面の白くのっぺりとした制限速度を示す数字は、駅の知覚の広場にある一般人にはまるで意図が分からないオブジェと同じ役割しか果たしていないようだった。しかし本当に気持ちよさそうに飛ばしていく高級外車をみかけると義憤に駆られることもいくらかはましになる。綺麗な残像を残して走り去っていくさまにはあまり興味を抱かない私も見とれてしまう。
一本大通りから家に向かう道に入ってしまえば音だけがごうごうと聞こえるただの住宅街になる。それほど人のいない夜になりたての住宅街を歩く人は少ない。私の持つコンビニのビニール袋の中でおにぎりやサラダがガサガサぶつかり合う以外の音が聞こえない。車も除く。これなら大丈夫か。今度は不意ではなく完全に意図した好奇心である。好奇心へのステップ、一つ目はこの時期にぴったりの中途半端な丈の服を脱ぐことだった。いきなり警察沙汰である。どこかで検査をしてもらった方がいいのではないか。羽ではなく頭の。
一応、本当に犯罪者になるわけにはいかないので念入りにあたりを見回して人がいないかどうかを確認する。服を脱ぐといっても露出狂になってしまったわけではなく羽を動かしたいからだ。どうせ空中にいるわけだから地上からなんて見えやしないはず。空の暗さにすべてを委ねる。思ったよりも見えたら私本当に逮捕されてしまうから。逮捕されてしまうから。
ビニール袋の口を結ぶ。輪を手首にかけて、そして裾に手をかける。たったった、と音がした。振り返るとおじさんがランニングをしてこっちへ向かってくるところだった。伸びをしてごまかす。追い抜いて行ったおじさんは汗をびっしょり書いていたが私は冷や汗でびっしょりだ。
本当に誰もいないことを確認する。じっとりと全身から汗が噴き出して下着を湿らせていく。汗疹になってしまいそうだ。裾に手をかける。バッ、とまくり上げた。胸もそんなに大きくはないので突っかからずに脱ぐことができた。さて、私は道路で上半身ブラジャー姿になってしまった。さあ大変だ。なんだか少し興奮してきたのは羽を動かすことができるから、だと信じたい。どうか目覚めないでくれ、自分。羽を広げる。付け根の肩甲骨付近が少し痛んだ。しかし少し動かしてみれば慣れてもきて、動かせるようになる。早いとこ飛び去ってしまおう。中二病くさい発言も今では実現できることなのだと思うと来るものがある。ジャンプすると同時に羽を動かす。落ちていた誰のものとも分からないレシートが舞い上がり、そして私の足もふわりと地面から離れる。かすかに秋の訪れを感じることのできる鳥肌が立たない程度の空気よりも、体感のほんの数度だけ温かい空気に包まれる。普段よりもかなり多く肌を晒していることも相まってちょうどいい気温に感じられる。
自分のいた位置から目安はつけて飛んだけども空を堪能しているうちにどこを飛んでいるか分からなくなってしまった。いくら空中と言えどここも国の一部なので公然わいせつが適用されてしまう。一刻も早く帰宅しなくてはならない。街灯って意外と照らす範囲狭いのね、とほとんどの人が抱いたことのない感想とともに高度を下げて家を探す。あそこかな。めどがつけばまた高度を少しだけ上げる。この時期ならまだまだ窓を開けてる人はいるだろうし。見つかるのが怖すぎる。飛ぶのにあたってこのビビり気味な性格は治した方がよかったりするのだろうか、と少し真剣なトーンで脳内議論をしつつ玄関前へと到着する。羽の羽ばたきをだんだん弱めて、足をつけて、それから完全に止めてから、たたむ。服を急いで着る。どっと疲れに襲われる。

袋の結び目をほどき、いびつな形になってしまったおにぎり、サラダチキン、何かの汁を袋中にまき散らしているサラダを取り出す。テレビをつけて、ひとりで夜ご飯を食べる。あったかいスープでも用意すればよかったかな。意外と体が冷えてしまった。空気はぬるくても風を切れば冷える。それに冷や汗がさらに冷えた。
今度は家だから、と気にせずに羽を広げる。比喩としてではなく事実を述べているだけなのに違和感があり面白い。
現状どこにも傷などはなく、また痛みもない。羽にもきちんと筋肉があり、そして神経もある。これだけしっかりとしたものが付いているのだからそれはそれはこれまたしっかりと手入れをしなくてはいけないのかと思うが、そもそもどうすればいいのか。インターネットの隅の隅まで調べてもどこにも掲載されていないだろう。それか公園の池で見かける鴨のように首をぐねりと捻って口でちょんちょんといじればいいのか。それほど私の唇はとがってもいないし大きくもない、はずだ。何かあるまで放置しておいても大丈夫そうな気がする。自分自身をどうにかおさめて話題を逸らす。
短い中にも面白さが詰め込まれたネットの動画を見慣れているとテレビの番組がやけにつまらなく感じる。求めてもいない感想、乾燥。そしてCM。バラエティ番組をあまり好きではなくなってしまったのかもしれない。リモコンのボタンを順番に押していきニュースがやっているチャンネルを探す。自分から進んでニュースを見るようになるなんてなんだか大人になったのかも。そう思うということはまだまだ子供だ。半分しか理解できないニュース番組をみつつおにぎりを咀嚼する。一人だからまだお風呂も沸いていない。沸かしておかなきゃ。
食器を洗わなくてもいいのは楽だ。

まあ腹八分目くらいかな、といったところで部屋へ戻る。デスクライトのみをつけてベッドにうつぶせになりつつ未読の山から適当につかんだタイトルのページをはらりはらりとめくる。秒針が必死に存在感を出そうとコチコチ鳴らしているのもいつしか耳に入らなくなった。また、完全に自分だけの世界に入った。

一息つこうと顔を上げるころにはテレビのゴールデン帯はとっくに終わっていた。
「ありゃま、こんなに読んでたか。」
ちょうどいいところまで、と自分の中で決めても手が止まらない。結局、うつ伏せで読んでいたから変に首が痛くなってしまって起きただけだ。窓の外を見れば電気がついている窓も少なくなっている。雨戸を閉じているだけかもしれないが。これならもう一回、飛んでも大丈夫かな。くるりとターンをしてリビングへ向かう。喉が渇いた。空への興味は渇くことはない。
ごくりごくりと喉を鳴らして飲む冷えたお茶はとってもおいしいのだ。水分が抜け気味だった体に染み渡る感覚。そこでふと思う。上半身、やばい。さっきは「羽の邪魔になる」と思い勢いも相まって脱いでしまったが何度も何度もそうリスクを冒すわけにはいかない。けども少しくらいは冒険をしても。相反する二つの思考に自分が振り回される。少し、そういう趣味にはしってしまうかもしれない、とは自分への評価だ。
空にいるときくらい、地面に足をつけていない時くらい、頭を空っぽにして行動したいものだ。楽しむための準備を怠るのは厳禁だ。
結局、ちびちびとおかわりのお茶を飲みつつ、このままでも大丈夫だと結論付ける。別に私が大丈夫なのだから、大丈夫なのだ。大丈夫なのだ。たぶん、大丈夫ではないのだけど。

肌寒いとまではいかないくらいの、本当に心地よいと感じる程度の風をうける、上は下着だけの女がいた。私だ。もう、いい。玄関の扉をそーっと閉める。気づかれないように。鍵をかけて、ポケットにしまう。背伸びをしてみればこきこきと背中から音がする。羽からだろうか。以前なら天地がひっくり返ってもしなかっただろう行為をしている自分を、どこか遠くから気にしていないふりをして凝視しているクラスメイトのような視点で眺めている感覚。自分が自分でないみたい。羽を広げる。肩甲骨付近が大きく動く。なんだかくすぐったい感覚。動物の図鑑でみた鳥のように、あるいはいつか見た博物館の鳥の剥製のように、持てる者は持たざる者を気にも留めずに悠々と振る舞う。今、この姿を写真に収めることができるのならばそれは万人に美しいと言わせられるものになるだろう、と本気で思う。月光、羽をもつ人間、普通ではないものがさも当然のようにそこに存在しているとき、人はそれを紛れもない現実だと処理する。そんな解説のつく写真が撮れるのではないか。素人ながらにそんなことを考える。
あまり物思いにふけっていてもリスクが高まるだけだ。さっと思考を切り替え、羽に神経を集中させる。両方を、動かす、動かす、動かす。まだ青い葉が舞う。舞う。そして私も空に舞う。
現実世界に非現実を叩きつける。ああ、なんて気持ちがいいんだろう。どこまでも、どこまでも飛んでいくことができてしまいそうな空だった。いったん羽を休め、グライダーのように空を滑る。ジェットコースターの下りよりも速度が出る。目を開けていられないほどだった。家が文庫本よりも小さく見えるくらいの高度からすでに電柱の先っぽくらいの高さまで下りてきていた。また意識を羽に戻し、ヴァッサ、ヴァッサ、疲れないように一度に大きく空気を叩く。すいー、すいーと前に押し出される感覚。仰向けだが自然と足は下がらない。靴紐がこれでもかとピシピシ私のくるぶしに容赦なく叩きつけられる。蚯蚓腫れになってしまうかも。
ほんの少ししか飛んでないけれど、もう自分の好きなように方向、速度を変えることができる。映像を見るよりもはるかに鮮明な記憶として刻まれる。気分は爽快、悩みなんてなんのその。しかし気を抜きすぎると落ちてしまう。程よい集中も必要とされる。最高の刺激を得ている。

 そろそろ羽を動かすのに疲れてきた。しかし快感のままにアクロバティックな飛行を繰り返した私に家の方角など分かるはずがなかった。ストレートなことを言ってしまえば、迷子になった。やっぱり夜に飛ぶべきじゃなかったのかもしれない。地上では迷いやすいけど飛んでしまえば道なんて一発で分かるわ、なんて甘い思考をしていたちょっと前の私を引っ叩きたい。もう一度言う。夜は想像以上に暗く、先が見えない。
光の集まる公園にとりあえずの着地。誰も人がいないことを祈るばかり。逆噴射のように着地前に羽ばたいて勢いを殺そうとしたけどもそこまでの高等技術はまだ身についていなかった。膝で衝撃を和らげてもなお転んでしまいそうなほどのショックがつま先から脳天までを駆ける。ズシンと腹の底が揺れたような気がした。一瞬、酸っぱいものが口の中に広がる。嫌な感覚。幸い後続は来なかった。まだこの公園の電気は夜を昼間のように照らすLEDにはなっていないようだ。温かさ、はたまた古さを醸し出すボヤっとした光に酷使した羽が照らされる。つやつやとした羽を触ってみる。自分の、薄い体毛とは全く異なる手触り。すべすべとしている。さて、と羽をたたみ、そして気づく。そういえば上半身にはブラジャーしか身に着けていない。さあ、警察に捕まるまであとどれくらいかな。逃げようにも羽を展開できない。動きを止めた途端に押し寄せる強烈な疲れにあらがえず羽を開くことすらままならない。これで私の人生おしまいか。空を見上げた。憧れなんて、なかったんだ。涙はすぐに乾いてしまう。
「ちょっと、そこの君。ベンチに座ってるキミ。」
女性の声が背後から飛んでくる。女性警官か。男の人じゃなくて良かった。これが最後の救いなのかな。思考はもうあきらめの方向へと走り、停止していた。だんだんザリザリと公園の砂利なのか砂なのか分からない地面を歩く足音が近づいてくる。ひえ、完全に私のことだ。ここで逃げてしまおうと考えなかったのは、どうしてだろう。

ぽんと肩を叩かれる。それからちょっとだけずれたブラジャーの肩紐を痕の位置になおしてくれる。こんな優しい人なら安心だな。変なことまで考えだす。追いつめられるとおかしくなってしまうのはどうも本当らしい。
「こっち向いてよ。」
恐る恐る振り向く。腰がゴリゴリと場をわきまえず遠慮なく鳴る。
「お疲れのところごめんね。」
銀髪に縁の細い角ばった眼鏡、知的な雰囲気を醸し出しつつも豊満な胸の圧倒的包容力にすべてが飲み込まれる。細身の体にまとっている服は明らかに日本の警察組織のものではない。確か、アオザイというのだったか。チャイナドレスにも似ている。ともかく、よくボディラインがでる。返事もせずに曲線美に見惚れる。
むんず、と羽を掴まれる。
「あう。」
鋭い痛みがはしる。思わず声を漏らす。
「なんだ、話せるじゃん。ちょっとは反応してくれないと強硬手段に出ちゃうよ。」
笑ってはいるのだが、ただ唇を一文字にしつつ口角を上げているだけで目は私の体に穴を開けんとばかりの視線を放っている。
「ごめんなさい。気が動転していて。」
「わかってくれればいいんだ。さ、答えて。」
有無を言わせぬ迫力を言葉だけでだせるとは。無自覚のうちに何かとんでもないことに足を突っ込んでしまったかもしれない。
「な、何をですか。」
何も質問はされていないはずだが答えだけ要求されている状況がおかしいことにはかろうじで気が付くことができた。
「ん?」
こいつは何を言っているのだと言わんばかりの視線が向けられる。本当に苦手だ。しかし私はおかしなことを言った覚えはない。
「私、質問されてないのに答えてって。おかしいですよ、人違いじゃないですか。」
無理のある言い訳だと自分でも思う。けども投げかけてきた方が一番の無理だと思った。
女は驚き眉をひそめる。顎に手をあて、さすり、空を見上げ、うなる。それから急に私の方に視線を戻す。
「これ、生えてるよね。」
私の方を向いたと思えば踵を中心としてターンをして背中を見せる。それなりの高さのあるヒールでやるには厳しい動きだと思うのだけど。と、何やら肩甲骨のあたりがモゴモゴ動いている。まさか。刹那、深い黒色の何かが生地を突き破る。羽だ。私の背中についているのと同じ。
「そんな立派な物生やしてるんだから知ってて当然だと思ったんだけどね。同業者じゃないみたい。ごめんね。」
急な謝罪に「あ、え、その」戸惑いを隠せない。それに同業者とは?頭を傾げて考えようとするも無い知恵は絞れない。女は続ける。
「それと、そんな恰好してるといつか捕まるよ。いいものついてるんだし、面倒ごとになると私たちも困るから、っと。これ着なよ。」
そういえば上半身はあられもない姿だった。途端に羞恥心がはたらき始める。いくら同性だったとしても下着姿は見せたくない。ましてや初対面だと。まだ正常な感性を保っている。差し出された服を奪い取るようにして背を向ける。これは、、、アオザイだ。ボディラインが出るとかなんとか、を考えている場合でも、知らない人から受け取っただのを考えている場合ではない。とりあえずありがたがって着ておかねば私のみが危ない。
着てしまって、もうお礼を言ってこの場から離れよう。そう決めた。なんだか難しい、大変な話に突入してしまう気がする。
「その、ありがとうございました。話の方はよく分からないので私はこれで。お礼はいつか、、、。」
手首をしっかり握られて動けない。そればかりか右に左にと捻られ痛みのあまり声が出そうになってしまった。まだ何か言い足りないことでもあるのだろうか。正直もう解放してほしい。疲れてきてもいるし、それに補導される時間になってしまうというのもある。公園の中央にある背の高い時計はもう十五分もすればいよいよ危ない時間に突入してしまうぞと脅しをかけてくる。
「逃がさないよ。こんなにいいものを持っている娘なんてそう相違ないんだから。あっち側に行く前にね。」
不敵な笑みとはこのことを言うのだろう。私以外誰がいるわけでもないが女はどこかを見つめて笑っていた。恐怖。

「うーん、嫌な予感がする。とりあえず君の家まで送ってあげるから、案内してくれ。疲れているだろうから私が抱っこしながら飛んであげるよ。」
肉体的疲労と精神的疲労がいつの間にか限界まで達していたようだった。このベンチから一歩たりとも動けない。足も羽も動かない。怖いけれども、小学生のころからさんざん注意されてきたことを破ってしまうけど、初対面の人に家まで送ってもらうことになった。もう高校生なんだけどな。

羽をたたむのにも一苦労だった。力が入らないと羽をしまう動作すらもできないらしい。「なあんだ、たためなくなったのか。」とからかいつつも私の代わりに丁寧にたたんでくれた。彼女は何者なんだ。
一度大きく上昇してもらってから目立つ建物の光をもとに家の方向を絞る。適当にあっちです、こっちですと言っても案外帰れるものらしい。やっと安心できるところまで戻ってきた。ほいよ、と私は放り投げられる。何も言わずに電線と同じ高さから人を放り投げるなんて人としてどうかしているのではないか。今までの説明もなしに一人で事を進めようとしていることからすでに自明だったかも知れないが。
「なんか、いきなり話しかけていろいろこっちのペースで事を進めてごめん。その服はお詫びとしてあげるよ。」
まあ、怖い思いをしたのだからそれくらいしてもらわないと。多少図々しい私の心が出しゃばってきた。無言でうなずく。
「それと、そんなことを言った矢先に言うのかって話だけど、今後私から君に再度接触をとる場合がある。その時は事の一から十までをすべて話すから、よろしくというか、うん、頼むよ。」
この人との縁は切れないのか。あからさまにガッカリを表現してしまうところだった。わかりました、とだけ返事をしておくのがこの場においての最適解だろう。
「それじゃあ、ね。」
女はどこかへ飛んで行ってしまった。夢ってこんなに本人の理解を置いてけぼりにしたままイベントが進行するもんだったっけ。甚だ疑問である。目下最優先にするべきは脳と体の休息だ。自室のベッドを目指してゾンビのように歩く。元々人の話を聞くことが得意ではない私にとっては今までの数十分は恐怖でしかなかった。自分から話すことはないのに勝手に「何か」が進行していくのだから。底知れぬ恐怖、加えて疲れ。涙が流れだす。もう今日は、寝よう。雨戸も閉めずに月明かりに照らされつつ横になる。ストンと眠りに落ちた。

 目が覚める。何のことはない、いつも通りの休日の朝。窓際においてある時計はまだ六時にすら到達していない。少しずつ朝陽が差し込んでくる。雨戸を閉めていなかったせいか。昨日の自分を叱る。いくら疲れていたとはいえ。思い出してみれば昨日ゾンビのように部屋になだれ込んできたからすぐに寝てしまった。ということは風呂に入っていないということだ。羽が腐り落ちてしまうかもしれない。はっ、と青ざめるのと腕が肩甲骨付近を触るのはほぼ同時だった。元気そうに、がっしりと根を張っている感触があった。喜び、そして悩む。こいつ、どうしよう。下着と部屋着を持って風呂場へ。相変わらず我が家には私以外にいない。

ちゃぷ、ちゃぷ。湯面を揺らす音だけが反響する。ほんの少しの息苦しさを感じ窓を開ける。涼しすぎる早朝の風がふきこんでくる。思わず顎まで湯に引っ込める。空気に冷やされた水蒸気は霧になり私を覆う。だんだんと消えてなくなり新鮮な空気が浴室を満たす。霧に包まれているような、パッとしない意識がすっきり澄んでいくのが分かる。
「昨日、羽のことを褒められたの、すごく嬉しかったな。」
相変わらず話の内容は思い出せないけど、褒められたことだけは鮮明に覚えている。声に出してもう一度噛み締めてみると、たくさんの人の前で表彰されたかのような清々しく、しっかりと自分のことを誇れる気持ちになる。
「そんなに立派な物生やしてるんだから。」
アニメのキャラクターの声を真似するように、鼻にかかった声で言ってみる。なんか違う、けど言葉は同じ。どこか掻けないところところが痒くなる。へへっ。ばちゃばちゃと羽を動かしてみる。洗って水分を搾り取った髪にばしゃばしゃと容赦なく湯がかかる。
「濡れないようにしてたのに。」
自慢だけど、まだまだ扱いには慣れていない。たたんでから、自然と鼻歌を歌う。ふふーんふん。

誰もいないから、と下着姿のままリビングに行けば、入れ替えていないせいで暑いとも寒いとも言えない、ぬるい空気が滞留している。雨戸を開けよう。そして窓を開けよう。こんな朝早くから起きてる人もいないよね。下着のまま、重い雨戸を腰を曲げて上にスライド。すっきりした朝の空気がリビングにも満たされ始める。カーペットにごろんと転がり、一日前の新聞を開く。

相変わらず自分が興味をもたない、もてないことへの集中力は続かないままだ。新聞の見開き一ページくらいは読んでやろうと意気込むものの、活字の波に読んでいる場所をさらわれてしまい結局放り投げる。私にはまだ早い。高校生という自覚は毛穴から蒸散してしまった。


インターホンが鳴ったのは意識が体よりも先に散歩に行こうとしていた時のことだった。
「はっ、はい。」
声が裏返る。洗濯カゴに入れたアオザイを着る。焦っていてなぜか部屋着に着替えようという思考は見えなかった。待たせてはいけないととりあえず印鑑を持って玄関へ。
コンコンコンコン。指がおかしくなってしまう速度でノックしているらしい。出るのを戸惑ってしまう、が慣性の力というのは意外と強いらしい。勢いでドアを開けてしまった。
「あっ。」
声を出したときにはもう遅かった。鈍い音がしたかと思うと女の人がよろめいていた。
「ごめんなさ。あっ。」
あっ、が口癖のようにポンポン出てくる。
「あなたは昨日の。」
よろめきながら額を押さえ、「やあ」と元気のある風を装う女。痛いのは明らかだがどうもそのように受け取ってほしくないらしい。
「そうだよ、昨日の人だよ。」
ふにゃふにゃと手を振る。
「一応、中、入りますか。」
「おお、それはありがたい。遠慮なくお邪魔するね。」
女はアオザイを着ていた。地面に擦れるか擦れないかギリギリのところまである布地を踏んで転ばないように、これ以上のヘマをしないようにしてから靴をぴたりと揃えて隅の方へ置く。これでだれか帰ってきたらどう言い訳しようか。とりあえず家にあげてしまったが握手だったのではないかと早くも自分の中で反省会を開いていた。

「いやあ、これだけ広いなら家の中でも十分に羽を広げることができそうだね。」
女に続いてリビングに向かうと友達の家に来た小学生のように胡坐をかいて私を待っていた。股関節のあたりまでざっくりと切れ目が入っているというのに胡坐をかいて、そのうえ下に何かを履いているということもないらしい。ところどころに包帯を巻いた乳白色の、触らなくてもすべすべとしていることが分かる脚を存分に私に見せつけてくる。眩しい。これで空飛んでくるとか、想像したくはないが大変なことになるのは確実だろう。上の方には黒く透明度の高い下着の端が見える。しっかり大人なんだな。敗北を勝手に味わう。そんなことはつゆ知らず、女は何かを期待するように私に視線をおくる。もう何か気に食わない事があったというのか。しかし思い当たる節などない。私は首を傾げる。すると女が言う。
「なんか、伝統で客人を招き入れたらお茶とお茶菓子が出てくるらしいんだけど。あの情報間違ってたのかな。」
そんなことかよ。思わず口に出しそうになってしまう。あなたは客人のつもりかもしれないが私からしてみればあなたはただのストーカーともとれるんだぞ。それも危うく口から飛び出そうになる。さすがに失礼が過ぎる言葉だが。
「いや、流石に急すぎるのでそんなものはないですし。というか昼までに家族が返ってくると思うので何か話があるなら私の部屋でしましょうよ。」
この人誰、なんて質問されても私ですら答えることができない人なのだからリビングに居させること自体危険だ。最悪不法侵入だと思われて通報されてしまうかもしれない。妙に情が出ている気がしないでもないが人として当たり前のことをしているだけだと自分に言い聞かせ、まだお茶菓子等を所望しているのか動こうとしない女の背中を押して階段をのぼる。違う文化圏の人なのだろうか。染めていなくてこの髪色なのだとしたら日本人でないことはほぼ確定と言えるか。正体不明の訪問者を自室へ半ば押し込むかたちに。

「あれ、ここはさっきと変わって狭いね。全体が。羽を広げられない。」
切れ目の入った背中から羽を半分ほど飛び出させて女は言う。そこらへんに積み重ねられた本にあたりそうだ。崩れてしまったら連鎖反応でこの部屋はとうとう足の踏み場すらもなくなるだろう。それから羽をたたんで服の下にしまい、ベッドに腰掛ける。
「私のこと、説明した方がいい?」
もちろん。何も知りませんから。頭が飛んで行ってしまうのではないか自分でも心配してしまうほどに激しくうなずく。必要に決まっているでしょうに。
「それと、私もあなたのこと知りたいんだけど。情報交換ね。」
私のことも知られてしまうらしい。コミュニケーションに少々難ありの私にそんな無理難題を突然ドストレートに投げつけてこなくても。まずは女の話を聞く。客人のような現段階では赤の他人が私のベッドに腰掛け、部屋の主である私は床に正座。かなり不服なのだが。女は微塵も気にする様子がない。

「あなたは羽をもってから、まだ日が浅いように見えます。偶然発見できたからよかったものの、このままだと大変なことに巻き込まれてしまうところでした。」
ところどころにやはり日本語ではないどこかの言語のイントネーションだか発音だかが混じっているような気がする。話は続く。
「申し遅れました、私はデ・プリューム日本支部のルフです。よろしくねー。」
差し出された手は白く、そして冷たかった。しかし折れてしまいそうなほど細いわけでもなく、むしろどこか子供のような溌溂さ、元気を秘めているような気がした。会った時からの大胆さというのかおおざっぱのようなもののような態度を感じさせない礼儀に満ちた握手を交わす。ルフはにこりと笑った。よく口角のあがる笑いなれている人の笑顔だった。
「それで、お話はあなたのことになるけど。その背中にある立派なお羽、最近生えてきたでしょ。」
お見通しだぞ、なんて言いたげな顔をしている。いたずらっぽい顔。年齢が分からない。年上なのか、年下なのか。接し方もだんだんと分からなくなってきた。日本支部って何だろう。頭の中をぐるぐると言葉が回る。それぞれが、それぞれにスペースデブリのようにぶつかり、そこからまた小さく分けられた考えが限られた空間を占めていく。なんてやるのもいいけど、まずは人の質問に答えよう。
「はい。」
「うん、でいいよ。それとそんなに緊張しないで。あなたからしてみれば私はそんなに偉い人じゃないから。」
ラフな物言いでも大丈夫ということで受け取ってもいいのだろうか。
「うん。数日前に起きたら生えてて。まだ家族とかにも見せてない。」
なるほど、うんうん。相槌を打ちながらどこからか取り出した紙にカルテのようにサラサラ記入される。

「数日前に生えてきたんだけど、もうそれなりに使いこなせる、と。」
「うん。そんなに難しくなかった。一つの夢が、叶った感じだった。」
カウンセラーのように頷きつつまたサラサラ書き込まれる。
「いや、でもほんと、これくらいしか話すことなくて。」
元々自分から話すことは得意ではない上に表現の一つを間違えるだけで想像もしたくないことに巻き込まれてしまいそうだ。蛇に足を描いてしまわぬようにと言葉選びにも気を遣う。
「そっか、ありがとうね。とにかく、その情報は本部に送信しておいたから、よろしくね。」
何の本部で私の話は何に使われてしまうのか。

私の顔にはでかでかと話が分からない、とでも書いてあったのだろう。
「そういえば説明してなかったね。ごめんごめん。」
ルフが後頭部をぽりぽりと掻いて笑う。
「私はデ・プリュームってところに在籍してるんだけど、そこは私のような、じゃなくて私たちのように羽の生えた人たちの集まりなの。ちなみに組織の名前はフランス語で羽って意味らしいよ。」
んー。ということは。
「私たち以外にも羽が生えている人がいるってこと。」
「そーゆーこと。でもそんなに多くないよ。日本支部は千人もいないくらいだから。」
千人。想像してみよう。私の高校の全校生徒と同じくらい。日本に千人。総人口が一億二千万人だから、えっと、十二万分の一。貴重な存在なのだろうけど、いまいちスケール感が分からない。ルフは続ける。
「日本はそれくらいで、確か支部の中だと一番多かったかな。ヨーロッパ支部とかアメリカ支部とかいろいろあるらしいけど私はそこまで詳しくないからさ、交流も多くないし。」
世界規模の組織なのか。なんだかわくわくしてくる。幼心が刺激されるというのはこんな感じか。
「それで、その組織の人が私に何の用があってきたの。」
話が脱線してしまう前に本題に入っておこう。
「そうだそうだ、それを話そうとしていたんだった。」
ルフは胡坐をやめ、ベッドの上にきちんと座る。私はそろそろ痺れてきた足に耐えてくれと願い正座し続けるしかない。
「私たちの組織は羽をもつ人の数を正確に把握することを目的としているの。それと羽が生えてる人は全員入らなくてはいけないものなの。普通なら羽が生えてきても、そのことを両親とか血のつながりのある親戚が察知していろいろ教えてくれたりするのだけど。あなたのように家族の誰にも知られずに家族以外の会員に見つけられて現状を知るってこともたまにあるの。」
架空の世界の話なのではないかと疑ってしまいそうなほどに現実離れしたことを話すルフ。信じ切れるか、と質問されたら、全くと返すしかないような状況。そんな私の内面を覗いたかのように話をふられる。
「別になんやかんや、って難しい話ではないけド、入っておいた方がいいよ、とだけ私から言っておくね。」
強引な営業の語り口のようだ。依然、信じてくれと言われても難しい状況。
「なんか全然想像できなくて、なにがなんだかわからない。その何とか、って連合だか組合に入らなくても生活はできると思うんだけど。」
思ったことをぶつけてみる。ルフは少し驚いた顔をした。それほどに信じられない事なのか。どうにも普通の感覚、が分からない。羽があれば普通の生活を送ることもできず、ひそひそと管理されて暮らすしかないのか。言いようのない怒りがこみあがってくる。火種なんかが投入されたら、もうおしまいだ。
「って思うのが普通だよねー。ちょっと隠さなきゃいけない、程度だろうって。普通の人間だよー、って言いたいと思うんだ。」
でもね。いきなり顔を近づけてきたと思うと今までの笑顔はどこかへ吹き飛んでいた。正確には笑っているがどこか恐怖を感じる。能に用いる面のような、見れば見るほど恐怖を感じる。思わず顔を背ける。
顔を押さえられ、対面させられる。得体のしれない地雷をこれ以上ないほどに綺麗に踏み抜いてしまったらしい。
「私、人にこんな説教みたいなことするなんて、本当は嫌いなんデすよ。でもこれだけは伝えさせてください。羽が生えているってことは、もう普通の人間とは違いますからね。そこのところをしっかりと自覚してほしいです。百パーセント普通の人間と同じ生活は送れないんです。どこかで支障が出るんです。理解してください。そうでもしないと生きていけませんよ。」
身長、そして上から覗き込まれるような形で顔を押さえられて。これ以上に恐怖を感じるシチュエーションは生まれて体感したことはない。失禁するのも時間の問題だ。
「は、は。」
はい。返事をしようとしても息が漏れる音しか出せない。極限の恐怖を感じる。段々と間隔が短くなる。
冷たい指が火照った頬にあてられる。そのまま顎のラインを何往復かする。すう、と冷えていく。落着きをとり戻し、間隔は元に戻る。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。ただちょっと勘違いしてるところがあったから、忘れないように覚えさせてあげないと、って思ってね。」
ルフの顔には笑顔が戻っている。へへへと怯えた情けない声が出る。
「よろ、よろしくお願いしま。」
最後の一文字は空気に吸い込まれてしまうほど小さかった。握手を求め手を伸ばしつつ、体が後ろに倒れてしまわないように支える。痺れる両足なんて意識の片隅にも入ってこない。
「うん、よろしくね。」
ルフの顔には会った時からのいつもの笑顔が戻っていた。まだ安心しきれてはいない私は失礼にあたるだろうか。

「これからいろいろ処理しなきゃいけない事とかあって私は忙しくなるから、トりあえず支部に戻るねー。やってもらうことは特にないから、適当に過ごしてていいけど、さっき言った通り普通の生活はできないからよろしくね。」
ざっと話したところでルフは私の部屋の窓のふちに足をかける。じゃ、と言い前傾姿勢になったところで何かを思い出したようで、落ちかけた体の半分を羽の力で戻した。窓際に置いた本のページが台風にでもさらされているかのように勢いよくめくられる。
「そうだ、話し忘れてることが一つ。」
よいショ。あり得ないくらい、近所のおじさんに似ている声を出しつつ体勢を戻したルフが言う。
「絶対に他人に羽を見られないようにね。見られたら、魔女裁判にかけられちゃうかもね。それじゃ。」
いたずらっぽく笑いながら言うが、かけられない自身は今の私のどこを探しても出てこない。
タン。軽くふちをけり、空に飛び出したルフに手を振りつつそう思う。そういえば全然明るいけど彼女自身は見つかったりしないのだろうか。そんな疑問が燻ぶっていたのもつかの間、急上昇して雲の中へ彼女は消えた。ああ。
せめて彼女の仕事を増やさないようにしよう。そう心に誓う。ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえたかと思うと話し声とともに両親帰宅。

おかえり。ただいま。お土産あるわよ。後でー。
気が抜けて陸に打ち上げられた深海魚のようにブデーとベッドにのびている。
「百パーセント普通の人間と同じ生活は送れないんです。どこかで支障が出るんです。」
ルフの言葉が、昔トンネルに叫んだ卑猥な言葉のようにぐわんぐわん反響する。そのまますーっと、理解できるわけではなかった。確かに同じ生活を送ることはできないかもしれないけど。それでも私の生じゃないんだから、その、さ、なんかあるんじゃない。もっと他に言い方が、さ。ね。誰に話しているわけでもなくただ私の独り言なのだが。語りかけているような、質問で攻めているような、こんな話し方を胸の内でするようになる時はたいていいつも疲れている。相当。
空を飛べる。それは普通に生活している人にとって大きなメリットとなりえるだろうか。自分の体を中に放り出すための大きな翼を持ち、なおかつ人に知られてはいけない。飛んでいる姿を目撃されてしまえばたちまち生活できなくなる。ここまでして得られるのが空を飛ぶただ一つなのだ。そう考えるとなんだか納得がいかない。自分の意思で生やしたわけでもないのに、どうして社会においてのデメリットばかりを背負い込まなければならない。どうしてどうして。今まで読んだ本の主人公に問う。空のノートに書きだして自分自身に問う。しかしどちらからも頷ける返答はない。ただ核心を突く言葉がないだけで、ベクトルの異なる言葉でよいのなら幾つか。
「君の人生、本当に君の思うとおりに進んでごらんよ。とても退屈で過ごせたものではないよ。」
「理不尽だ、理不尽だ、と言うのか。自分の考えの範疇にないことはすべて理不尽なのか。」
ほう、何とも叩きのめしたい言葉たちだ。しかしまあ、同じような理不尽に関しての話をインターネットに流して同情、お涙頂戴をしようとすればさらに厳しい言葉を浴びせられるに違いない。それくらい、私だって理不尽とは呼ばない。要はそういうことなのだ。どうにかこうにかこなさなくてはならない課題がどこからか配布されてきただけで、こなしていればどうにもならない。スケールを縮めれば学校の宿題、課題と同じだ。とにかくこなせばいい。なんだ、簡単なことじゃないか。
一連の言葉をすべて自分の頭の中で生み出していたと考えると私は相当におかしなやつなのかもしれない。しかしまた、おかしなやつだと自分で言うことこそ人を人を引き付けずに理不尽を吸い寄せる魔法の言葉なのかもしれない。


 しなくてはならない事のリストを作ろう。何事も明確に、目視できるようにしておかないと動くことのできない私が真っ先にやらねばならない事。机の隣においてある棚の三段目、苦労して運んできた五百枚入りコピー用紙の束から一枚を取り出す。紙を取り出す音は私の頭にある邪魔な何かを消してくれる。必要な物まで誤って消してしまうこともしばしば、とは言わない方がいいか。ペン立てからはボールペンを。消えてしまっては困ることだから。
なんてかっこつけていったのはいいが、何をどうすればいいのか。何一つ具体的なことを知らない。ルフに聞いてすらいないし連絡もつかない。自分で考えるしかないか。考える、考える。羽を見せないように巨大なマントを羽織っていればいいのか、夜しか生活しないようにすればいいのか。部屋から出ないようにすればいいのか。普通の人とは誰とも、一切の交流を断てばいいのか。思考が進むにつれ私が破滅していく未来がより明確に見えるようになっていく。私は、どうすればいいのだ。

考えすぎると、近くにおいてあるものに無意識に手が伸びる、そんな癖がある。今、私が手にしているのは数日前にリビングに放置されていた新発売らしきジュース。どろり、果汁感。柑橘系の果物の断面が大きく描かれたパッケージは今までに何度も同じような構図を見ているはずの人間の心を確かに購入へと押す力を持っているだろう。少なくとも私はそう思う。次に見ても何も理解できる情報がない原材料名などの欄をちらり。果汁、のみ。普通は香料や保存料などが入っていたりするものなのではないか。本当にこれだけで販売してもよい許可が下りるのだろうか。普段そんなことなど微塵も思わないで買うくせに、何でもないときに目にするとすべてを分かっているような反応をしてしまう。普段、普通。明確な判断基準はないけれども今までの人生における経験からはじき出される、人が最も頼りにするが時としてもっとも信用のならない思考。うーむ。結局飲もうとは思わないのだった。

さらに考えすぎると、本に逃避したくなる。自分の中でも直したい悪癖の上位に君臨している。直したいとも思わない。そのまま積まれた本から一冊を、山を崩すことのないように慎重に慎重に引き抜いて、真ん中に挟まった紐の栞を背に掛け、目次、一文字目、二ページと読み進める。もう、ここまで目を通してしまえばどこにも放棄する選択肢はない。机の上に紙を一枚、ペンを二本、放置しただけだった。何をすればいいのかは分かりそうにもない。いつの間にか活字から目を引きはがすことはできなくなっていた。

「お昼ご飯だよー。」
かすかに耳に入ってくるその音で、自分の腹がぐるぐると音をたて、太陽は真上まで昇ったことを知る。もう、昼だ。最初に栞が挟まっていたのと同じところに収めることができる。狙っていない、こんな偶然が私の気分を少しだけ、上向きにしてくれる。なんだろうな、なんだろうな。メニューを予想して部屋着のまま、盛り上がった背中を無防備に晒してリビングに行ってしまうところだった。ドアノブに手を駆けた瞬間ルフの言葉を思い出す。危なかった。できるだけ綺麗にたたんでから、背中の盛り上がりが不自然でないことを全身鏡で確認してから。映画のレディのように出かける前の身だしなみチェックはたとえ家の中だとしても忘れないものよ。そう、こんな感じで良いんだ。

とある休みの昼食。特筆することなんてどこにもない。ただ一つ、気になる連絡が来ていたことだけはとても長くにわたって書く必要があるかもしれないが。

ポケットに入れたスマホが震えたのは焼うどんの鰹節がそろそろ踊らなくなってきたころ。一回だけならもちろん食事を優先させるのだが、何度も何度も、応答があるまで絶対にあきらめないぞと言わんばかりに震えるので、残りを口に詰め込んでしまってから確認する。どのアプリからだろう。新作の動画でも大量に投稿されたか、SNSでバズったか。そんなに自分の想定したことは簡単には起こらないことはもう十分に知っているがそれでも淡い期待を込めるのだった。しかしロック画面に表示されるのは電話の不在着信の通知のみ。どうせいたずらだろう。かけなおしてみるのも怖いし、このまま放置しよう。口に詰めたうどんの味がそろそろしなくなりそうだ。最後の一口くらいしっかりと味わって食べたい。無駄に焦りを与えてきた通知を憎む。

食べ終えて、さて勉強でもするかと久々に一念発起したそのタイミングでまたスマホが震える。今やろうと思ってたところなのに。本当にやろうと思っていた時に何か邪魔をされると破壊衝動が芽生える。かなり力を込めてクッションを殴った。スマホの画面には「不在着信 ルフ より」。唖然とした。手が震え、膝が笑う。見知らぬ名前を表示した画面を母に見られなくてよかった。驚きもほどほどに、しなくてはいけないこともある。恐る恐る通知をタップする。ルフに向けて電話をかける。かけたはいいものの、何を言えばいいのか。普段こんなことしないから。無理をするから。電話越しで話すのはどうも苦手なのだ。表情も声も不明瞭だから。もっとクリアなら好きなのだけど。どうしても必要な時はあらかじめほとんどの台本を頭の中に書き、それをただ朗読するだけだ。質問は受け付けない。しかし今回は何も考えずにかけた。さあ、私の運命やいかに。そんな緊張に包まれているとも知らないだろうルフが出る。数コールの間の出来事。
「やっほー、ルフだよ。」
第一声は元気溌剌、小学生が友達に掛ける電話のような軽さがあった。やっほーと返すべきか、それともこんにちは、か。こんな些細なことで悩んでしまうから私はコミュニケーション全般が得意ではないのだ。一応自覚はしているだけ健全だと信じたい。私にかまうことなくルフは続ける。
「それで、昨日のやつだけど、一応登録みたいなのはしたよー。ありがとね。」
思い出すだけでまだ少しは鳥肌が立つ。あ、うん。ごにょごにょと消え行ってしまいそうな声で返事を。ありがとう、が言えない人は嫌われる。
「あとは特にすることもないから、静かになるかもー。それと、昨日言った通り羽はしっかり隠してね。他の人達に知られたら厄介なことになっちゃうから。」
「分かった。」
みられてもいないのにコクコク頷く私。
「それじゃあねー。」
ブツ。電話は突然切れる。切り際にどっちから切ればいいのか分からなくなるあの感覚を味わうことのない電話がこれほどに苦味を含まないとは。それと、何事も内容でよかった。これで何か問題が起きた、なんて言われても私じゃどうすることもできないから。さてと。重苦しいと思っていた行為がこれほどに心に風を吹かせてくれるとは。頬を撫でる秋の風のようにすっきりしていた。

にしても本当にどうしてこれが。送らなければいけない日常生活は変わらない。私はため込んでいた物理の課題に手を付けようと、まず机にノートを広げたところ、で、羽をいじりだしてしまう。課題への意識に羽が生えてどこか遠くへ飛んで行ってしまった。すべすべしておきながらフサフサともしている。せっかくしまっていたけれども面倒になる。一応部屋の扉に鍵をかけ、部屋着の上を脱ぎ、羽を広げる。気分としてはこっちの方がいい。腕を抱いているのと広げている、それくらいの差だけれども。脱いでそのまま床に放置した部屋着を気にすることなく、再度机に向かう。相変わらずの難易度に何度も音を上げる。しかしひと段落すれば部屋にはカリカリと紙と芯がこすれる音のみに。何か音楽をかけてもいいけど、自然の音が一番いい。昼食直後だというのに眠くもならず、非常に有意義な昼下がりを、久しぶりに送ることができたのではないかと、時計には目を向けないのが秘訣。
一枚、二枚、机に白く積もっていくのは雪ではなくびっしりと式やら筆算が書き込まれた計算用紙。ほんの少し開けていた窓から入り込む風で、さわさわ擦れ、かさかさ移動する。それだけでは私の気を引くことはできない。さらさら、芯の先が走る。いつしかタスクは消え去っていた。中途半端にやる気だけがいまだ煌々と光り続けている。もう一枚取り出して、サッサッ、芯を滑らせる。パソコンを立ち上げる。目の前のディスプレイにロゴが出る。検索ブラウザを立ち上げる。数文字を打ち込んで、検索。表示された画像を見つつ、ときおり芯が向かうままに動かし、修正もしながらつくりあげる。
一枚の羽根の画像、を模写したもの。なるべく自分のものに似ているのを。小さく表示される画像に目を凝らしつつ自分のにも触りつつ。誰に頼まれたわけでも強制されたわけでもない。なんだか無性にしたくなったこと。意味もなくしたくなったことの割にはえらく気に入った。額縁に入れて壁に掛けよう。心の中の美術教師も賛同している。

どうして休日はこんなにも早く過ぎ去ってしまうのだろう。夕日の差し込む時間、部屋の電気を消す。夕焼けも同じ、そう長く楽しめるものではない。楽しい時間も夕焼けも、儚いからこそいいのかもしれない。自分にそぐわない詩的な表現をしてみたくなる。「沈みゆくリンゴ、ほのかな酸味」計算用紙の端に走り書き。こういう時、格好をつけてやろうと難しい漢字を使いたくなるごとに書けない知識の少なさ。ゴロンと横になればそんなこと別に悪くも、良くもないな。気にしなければいいや。そう、思うことができる。いいなあ。くつろぐと羽も自然とのびる。視界の半分に羽が進出してきた。ほれ、ほれ。思う通りに動かすことができる。起こる事象すべてを笑う赤ちゃんのように、けらけら小さめに笑う。笑って力が抜ける。顔に羽がかかる。嫌いじゃないにおいがする。鏡に映った私の目はとろんとしていた。眠いのかもしれない。脳みそが疲れたと言っているかも。天井を見つめた。

真っ暗闇の中にいた。電気のリモコンはどこに置いたっけ。暗闇に手を突っ込む。数秒後、やわらかい感触が指から伝わると同時に部屋が照らされる。もう、お月様が爛々している。
髪をかき上げる。手櫛で何度か漉いてヘアゴムで一束に。ああ、月明かりの真っすぐなこと。お腹すいてない。昼間の勉強に免じて、適当に風呂入って寝よう。怠惰な生活。前々から変わらない。平日は大丈夫なんだけどね。そしてまた寝る。起きたら月曜日だ。憂鬱な気持ちのまま。

起きる。時計を確認する。寝坊はしていない。カレンダーをみる、本当に月曜日になっていた。悲しいったらありゃしない。愛しの土日を返せと声を大にして。
結んだままのゴムを解き、髪を漉く。ファンデーション、チーク。それからこれもか。文字通り羽をのばす。クキっ、とは鳴らないまでも伸びをしたときの感覚。何かしようと思ったけど、正直自分でも何をすればいいのか。ルフに聞かなくてはいけないことができた。
何度も何度も部屋とリビングを往復するのも面倒くさいし。壁に貼り付けた時間割を確認。ちらばったり本の山のどこかしらに放置されている教科書たちを学生鞄につめる。制服、まだセーターはいらないか。スカートもはいて。最後に羽が目立たないか、透けていないかを鏡でチェック。膨らんでもいないし、透けてもいない。大丈夫。スマホの時計は家を出なくてはいけない時間の五分前を指していた。何してたんだ私。今日も優雅な朝食を摂ることはできなかった。さらば私のモーニング。いってきますの声だけを残して私は家を飛び出した。本当に飛んでいけたらこんなに焦る必要もないのにな。走りやすい運動靴をチョイス。忙しい学生には革靴なんて合わないのだ。

走る、走る。駅までひたすら走る。近いようで遠い、それが不便でならない。急いでいる日は遠く感じる。今日は遠く感じる日だ。定期を改札の機械にかざし、ホームで一息。電車はちょうど出てしまったところだった。今日はあまりツイてない日かもしれない。自分のせいだというのに運のせいにしたくなる。

ラッシュとは恐ろしいもので、次の電車が来た頃にはホームは人でいっぱいになっていた。こんなに多くの人達を乗せる列車もまた、定員くらいは乗車しているのだからもうこれだけで辛い。ほんの少しだけ書き出される客を通してから乗り込む。自分の後ろにできた列がそのまま乗り込んでくる。ああ、神様。辛うじて触れ合うか触れ合わないかくらいで収まった。あまりに混雑すると気分が悪くなってしまうから危ないところだった。毎朝大きなリスクを背負って登校しているのだ。もうそれだけで褒めてくれてもいいのではないか。また変なことを考え始める。こんなに電車にきゅうきゅうに人が詰まっているのに、線路沿いには広々とした畑が広がっており、鳥たちが悠々と羽ばたいている。いいなあと思えることは今までも数えきれないほどにあったけれど、実現できる今ほどその思いが強くなったことはない。じぃっと見つめる。ゲームに没頭している小学生のように。ただ、ひたすらジーっと。普段は長く感じる駅間が、それは短く、あっという間に到着してしまったような気がした。ホームや柱が視界に入ってきたことでやっと着いたのだと。私と同じ制服が何人か降りていく。慌てて私も次ぐ。だが人をかき分けてすらすらと歩くのはそう簡単なことではない。ごつごつ人に当たる。ってえな。悪態をつく人もいる。その言葉に思わず足が止まってしまう。降りる人がいなくなった、とホームの人が乗り込んでくる。
「あ、あの私、えっと、降り。」
少しの話し声、アナウンス、電車の空調の音、何かしらの機械が動く音。それに周りの高い障壁。私の声は吸収されて誰にも気づかれない。押し返されて、また元の位置へ。無情にもそれなりの人が乗り込んで、ドアは閉まる。あれあれあれ、と立ち尽くしていると加速のおかげで人にのしかかられる。うっ。思わず声が漏れる。すかさず、まさに条件反射のように羽が広がる感覚が生じる。いけない。いけない。駄目だ駄目だと思いつつも、自分の体の一部を制御しきれない。ビリ、ビリリ。嫌な音がする。中学生の時、近道を使用と近所の空き地のフェンスを潜り抜けようとした時もこんな音がした。あの時は一人顔を赤くするだけで済んだ、がしかし、今はたくさんの視線が周りにある。そんな記憶を知らぬ知らぬと羽は私を包み込む。反射にしてはずいぶんゆっくりしていたが、それが正常な動きなのだろうか。冷静に事を第三者のように見ている場合ではない。そもそも居合わせた第三者の中には誰一人として冷静な人はいなかったと思うが。自分に自分の服を剝がされるその感覚。周りの視線は私の下着姿ではないところに向けられていた。もっとも、羽で覆われた下を見ることはかなわないのだけど。声が出せなかった。本物の、動く羽が生えてきた。ファンタジーの世界に入り込んでしまったのではないか、と考えることのできるほど能天気な人は載っていなかったようだ。私のことを押した、名前も知らない人。押すな押すなの人の波を形成していた数えきれないほどの乗客が私へ視線を向ける。静寂の数瞬の後、声が再び戻る。逃げろ、逃げろ。見たこともないものに遭遇したときはとっさに逃げろ。これこそが人間に仕込まれた本能の一部だと示してくれる。きっとこの状況こそ蜘蛛の子を散らすように、と形容するべきなんだろう。様々な声が混じりながらも人は我先にと隣の車両へなだれ込んだ。つい数秒前まで多くの人が踏みしめていた床にへたり込む。下着が、スカートが。そんなことを気にしている心の余裕などどこにもない。ただ、私の羽だけが私を包み込む。自分で、自分を守る。

連結部分の扉に張り付き、スマホのカメラをこちらに向ける人がいる。それっぽっち隔てれば大丈夫だと、そう信じているのか。そして私の、侵された心など知らずにネットへ流すのだろう。情報を流して、注目を浴びるようになりたいからか。怒り、悲しみ、喪失を一瞬のうちに味わう。これからのことなんて考えたくもない。羽に顔を埋める。電車は依然、走り続け振動を与え続ける。扉が開いたのはその時だった。顔をあげてみればどうやら車掌らしかった。それにしても恐る恐る近づいてくる。まるで私が正体不明の怪物であるかのように。何もない、純粋な人間とは違うのだからとらえ方によっては本当に怪物なのかもしれないが。注目は私に近づいてきたその車掌に向いた。すげえ、勇気あるな、やっば。そんな声が聞こえる。どうせ私なんか。車両の中央付近にうずくまる私に手が届きそうなところまで車掌が近づいた。
「お客様、どうかなされましたか。」
対応マニュアルに書いてありそうな一言。おおよそ私の傷つき具合など察していないかのような一言。だけど、今はその方がいい。下手に心を近づけているよと言わんばかりの口調で、お嬢ちゃんどうかしたの、と言われるよりも機械的に声を掛けられる方がまだいい。得体のしれない何かになった元人間、ではなく一人の客、人間として扱ってくれているような気が、少しだけするから。
「...はい。次の駅で降ります。」
そうですか、分かりました。短い返事をもらう。車掌は一歩後ろに下がるとどこかと連絡を始めた。私、どうなるんだろう。頭を悩ませる自乗があまりにも大きすぎる。どうすれば、どうすれば。人前では流すまいと誓っていた涙が流れる。こんなに急激な環境の変化、心へのダメージに耐えられるほど私はまだ強くないから。顔を出していたが、こんな姿を見せたくない。人として、人ではない何かとして。見せたくないものというのは何になっても共通してあるものだ。しばらくして電車は減速し始める。落とした鞄を掴む。羽をたたむ。駅に着いたら列車の操作をしなくてはいけないから。確かそんなことを言い、車掌は乗務員室へ戻った。私の周りにはまた、誰もいなくなった。カメラを向けられることもなくなった。耳障りな音を立てて停車する。
「体調不良のお客様が_____。」
ドアが開き、たくさんの人がなだれ込んでくる、ことはなかった。代わりに駅員が壁を作っていた。野次馬がなだれ込んでくることのないようにブルーシートも貼って。さあ、こちらへ。優しそう顔つきをした少し年を取った駅員が手招きをする。足が震えてうまく立てない。手を床につき、全体重をかけて何とか立ち上がる。汚れた私の手をとりゆっくりホームに出る。少しも私から目をそむけることなく、しかしいくらかの配慮をしてくれていると感じることのできる視線を向けつつ毛布を差し出してくれる駅員がいた。羽の上から自分を抱きしめるようにぎゅっとくるんだ。
電車で向けられたあのカメラとは違う、しっかりとした人間の温かみを感じることができて、どっと様々な感情が押し寄せる。泣き方は激しくなり、鼻水まで出ていた。何も気にすることができず、ただただ幼児のように泣き続けるしかできなかった。手をとってくれた駅員が私の背中をさする。胸に留められた小さなプレートには駅長の文字があった。こんな優しい人ばかりならいいのにな。電車はとうに発車していなくなっていた。電車の中よりはましだが、それでもブルーシートの外からは何あれ、事故かな、などの声が。事故と言えば事故だが。顔も心もくしゃくしゃになった私をとりあえず事務室まで連れて行ってくれるらしい。駅長に再び手をとられ歩く。小さい頃に祖父と散歩した時の思い出がよみがえる。

この駅に降りた時から心の隅で小さく疑問に思っていることがあった。それはどんどんと大きくなる。事務室につき、椅子に座るよう促され駅長と二人きりで対面して、そのことを聞かずにはいられなかった。
「体調は、」
どうかな。言葉を繋げる前に質問を割り込ませる。
「どうして私の姿を見ても誰一人として疑問に思わなかったんですか。なんだ、あの羽って。」
駅長は困った顔をした。
「んー、それはね。」
言葉を濁した。話すか話さないか悩む、これを言っても大丈夫だろうかというあの顔。
「なんでもいいので、話してほしいです。」
それでもなお、三十秒は迷っていた。だが、うんと頷き
「私はね。」
口を開く。
「いやでも。」
口を閉じる。なぜ。目の前に出された餌を急に取り上げられた猫のように私は騒いだ。
「何でですか。どうして教えてくれないんですか。」
「いや、ちょっとね。」
優しいと思っていた人が急に幼稚な物事の隠し方をすると落胆する。不安を解決してくれるのはただ正確な情報のみだというのにそれがない。延々と待てをされたような気分。しばしの沈黙ののち、スマホが着信音を鳴らすとともに震える。すみません、出てもいいですか。駅長はなぜかホッと安心したような顔を一瞬見せて、また元の優しそうな顔に戻る。「どうぞ。」
それでは。電話だから外に出て、と勝手に足が動くが何せ私は匿ってもらった身なのだ。どうしてわざわざ自分からまた危険に飛び込むのか。一歩踏み出したところでふと気づきそのまま画面をスワイプし電話に出る。ちらりと見えた通知画面にはルフからの電話だと書かれていた。どうもタイミングができすぎているような。気のせいか。

「おはよう。ルフ。」
「やあ。そんなのんきな声してるのか、こんな大変なことになって。」
「え、こんな大変なことって。」
思わず聞き返してしまう。私の今の状況をどうして知っているのだ、と。
「今自分が置かれてる状況が分かんないのかよ。」
耳鳴りがするほどの声がスマホから漏れる。駅長が若干跳ねたような気がした。私は電流を流されたかのようだった。
「ごめんなさい。」
「別に私に謝罪しても何にもならないんだから。それと、その駅でよかったねほんと。どんな豪運の持ち主なんだか。」
あまり話が見えてこない。もっと私にわかりやすいようにはっきり、話してくれないかな。大きなため息が聞こえてから大きめの風切り音が何度か聞こえ、冷静さを取り戻したらしきルフが話す。

要約しよう。その一言が聞こえるまでにルフが話した内容を私はほとんど理解できなかった。なんだか別世界の話をしているようで、時折拾うことのできた単語をどのように繋げてみても私のいままでの生活とリンクしないのだ。その間、駅長は優しそうな顔を崩さず自分で淹れたお茶を飲みながら、時折目を細めつつこちらの会話に耳を傾けているらしかった。ん?
会話に耳を傾けている、と。駅長の方を振り返る。しかし、そこには最初の時と同じく優しい顔があるだけ。さてどうなっているんだ。ルフの話はその間も止まらない。さすがに要約してくれたものを聞き逃すわけにはいかない。一言一句聞き逃すまいと神経を集中させる。

「___、というわけだからよろしく。それと、今からそっち向かうからいろいろ話しておいて。そのおじさん怖い人じゃないから。多分いい話し相手になってくれると思うよ。」
ありがとう。返事をする前に電話は切れていた。「終わったかい。」駅長は相変わらず表情を変化させない。
「はい、終わりました。」
「それじゃあまあ。」
お菓子でも用意しようとしたのだろう、立ち上がった駅長を制する。
「いろいろする前に、どうして私の姿を見ても誰も反応しなかったんですか。教えてください。」
顎に手を当て考えるような素振りをとる。一、二秒その姿勢のまま。そして動き出す。
「まあ情報をちょっと先に公開するだけですから、怒られないでしょう。」
誰に言うでもなくそう呟いた。
「それについて話すとね。」
長くなるんだよ。そう言いたげに私の方を見る。話しても大丈夫か、私に確認をとろうとしてるのか。とりあえず頷いておくのが正解か。コクコク。
「じゃあ、ちょっとの間だけど話に付き合ってもらおうか。」

 長い話も途中で遮られてしまえばそこで終わり。ルフがやってきた。
「ほらこれ。さすがにそのまんま過ごすわけにもいかないでしょ。」
服を持ってきてくれていたらしい。何かと思えばまたアオザイだった。そういう趣味でもあるのか。少し疑問に思いつつも部屋の隅で着替える。

いまだ話の核心には至れていないものの突然現れた彼女を、まるで親戚の娘のように扱い私を引き渡す。
「元気でね。」
優しい顔をしておきながら奥底には何があるか分からず、果てはどんな人なのかも分からなかった。しかし私を救ってくれた、それだけははっきりしている。こうして私が見知った人を呼んでくれた。
「ありがとうございます。」
ルフとタイミングが被る。アハハと控えめに笑った。事務室の扉を、ルフが開く。かなり身がこわばった。しかし心配することは何もなかった。そこには野次馬はいない。皆、私を気にすることなくホームへ向かう、駅の外のどこかへ向かう。ただルフのアオザイに少し視線を誘導されているくらい。駅を出ると直射日光が肌に突き刺さる。カラっとしているだけ夏よりは気持ちのいい日差し。

「災難だったね。」
その言葉では表しきれないほどにね。そうは言えない。
「ホント、意味が分からない。いろんなことが起こりすぎてて。」
私よりも幾分か身長が高いルフに顔を覗きこまれる。ペタペタ触られる。何をするつもり。
「やっぱり、まだまだ子供だね。安心した。」
「もう子供じゃないから。成人だから。」
その言い方が子供っぽいな、と口にした瞬間自分でも思った。
「ほら、そういうところ。」
やっぱりね、そう言いたげな顔をしていた。
「子供だから何だっていうの。」
年齢がいまいちわからないルフにそう強く言えない。子供ながらというか。なんだか掌で踊らされているかのような。心の中の私は地団駄を踏む。私は降りたことのない見知らぬ駅からどんどん遠ざかる。ルフは見知った道だといわんばかりにずんずん進む。一メートル前から声が飛んでくる。
「子供だから、こうなってるの。」
やけに楽しそうなさっきまでの声音ではなかった。大人の、あこがれの職業の現実を見てしまった、夢をどこかに置いてきてしまったような声だった。
「え。」
「なーんてね。トトロじゃないんだから。」
笑って振り向く。声も元通りに。仮面の下を見せつけられたような。なんだか不思議な感覚。彼女は歩を止めない。歩いて、小走り、歩いて、小走り。まるで子供が親の後についていくかのような。こういうところのことを言っているのだろうか。よくわからないや。
「どこ行くの。」
へたり込んでいたせいで膝から下が痛い。小走りになるときつい。
「ん、なんか辛そうだね。じゃあ人目もないし、飛ぼうか。」
質問に答えることなく飛ぶ提案をしてくる。ついさっき、羽を見られて大変なことになったというのに。なんだか意識が抜けているような。だがルフはざっくり開いた背中からすでに羽を広げている。遅れまいと思いつつもすでに拭うことのできない恐怖として心に染み込んださっきの視線を思い出しあたりを見回す。閑散としたただの住宅街、朝の通勤通学の時間が過ぎてしまえばただの風の通り道になっていた。大丈夫かな、こちらもまた背中に大きく開いた羽を出し入れするための切り目があった。もごもごと動かしながらやっとのことで羽を広げる。毛羽立っている部分を手で漉く。
「それじゃ行くよ。」
ふわっとジャンプしてダイナミックに羽ばたく。私も続く。道がどんどん小さくなり迷路のように見えてくる。辺りの一番高い鉄塔よりも高く。こっちだったかな、私を不安にさせる声を漏らすルフについていく。風が耳元で渦を作り生み出していく音は雑念を消してくれる、ような気がする。嫌なことは忘れられる、この時間。

ルフは私よりも明らかに飛ぶことに慣れていた。よく考えてみれば彼女も、私に生えてきた羽と同じくらいの謎だ。どこからともなく私のもとに現れ、そしてさっきのように謎のネットワークも持っている。何者なんだ。質問しようとしても今はタイミングが悪い。それにびっくりして墜落しても大変だから。どこへ行くのだろうかくらいの質問はしたかったが。こうして黙って彼女についていくだけの何かがあるのか。はっきりとはしてないけれども、同じ羽をもつ者同士というその事実だけが彼女を信頼できるただ一つの理由のような気がする。自分にしては難しいことを考えていても強制的に頭が冷やされるから、おかしくならなくていいな。やっぱりどこかおかしかった。

「ここらへんだよー。」
ルフが突然大声を出す。体がビクリと震え羽の動きも乱れる。うおっと。
「大丈夫か。」
振り返ると私がバランスを崩している。生身の人間が、鉄塔よりもはるかに高いところから墜落して、地面に叩きつけられたらどうなるか。知っているのか知らないのか。彼女はあわてて私を抱きかかえる。体勢を乱してがむしゃらに羽を動かして、どうにか勢いよくは落ちなかったけれど確実に死の恐怖を抱いた。彼女の腕の中で涙をこぼしそうになった。ダメだ、一日に何度も泣いていては。泣き虫だった小さい頃、親戚だったか両親だったか、とにかく誰かに言われた言葉を思い出す。泣くといろいろなことを流すことができる。でも一度で大抵のものは流れ出て行ってくれるから、そう何度も泣いていると大切なものまで流れ出てしまうよ。
この言葉は私の心を鋼とまではいかないが、せめて金属のようにある程度は固くしてくれた。私は、強いんだ。

「気をつけてな。結構危ないんだから。」
私を抱きかかえたまま彼女は地面に降り立つ。また今度も、どことは知らない住宅街のようだった。
「ここは。」
「もう少しでわかるからちょっと待ってて。とりあえず羽をたたんで。人が来るかもしれないから。」
ルフはいつも私の質問に答えてくれない。羽をたたむ。
「ついてきて。」
私が言葉をはさむ暇はない。羽が生えるだなんて絵本の中だけの話用に思えて本当にあるものだし、これもまた想像の中だけだと思っていたけれど集まりのようなものもある。自分の知っている世界なんて氷山の一角にすぎないのだなと。彼女はずんずん住宅街を進んでいく。やはり私は小走りになって、歩いてを繰り返す。時折羽をぴょこんぴょこんと飛び出させてしまう。飛ぶことは体力と集中力がそれなりに必要になり、決して楽なことではないのだけどこう、使えることなら少しでも長く使っていたい。新しいものを得ればそうなるのは仕方のないことなのだ。息が上がってくる。声を掛けなくとも時折歩みを止めてくれる。小さな気遣いができるようになれば私ももっと。もっとなんだろう。

こう、何気なく住宅街を歩いているだけでもいろいろなことを考えることができて、暇がない自分は幸せなのだろうか。ルフの出生、素顔、そして羽について。私を案内するその背中を見るだけでも様々なことを思う。社会に私が異形として知れ渡ってしまったであろう今、信頼できるのは彼女しかいない。だから知りたいというのは当然のことではないのか。
情報の収集癖は小さい頃からあったように思う。学校で必要ともしていない、ましてや普段の生活で全く役に立つことのない情報の載った、例えば陶磁器の図鑑など。ある程度の説明とその他データがあればそれまで全く興味を持っていなくとも何気なく見つめて、いつしか没頭していた。パソコンを買ってもらってからそれは顕著というか、加速したとでもいうか。今度は役に立たない情報ではなくなっていたが、それらもまた、私の生活で役に立つことは宝くじの一等に当選するくらいの確立だったことは間違いないだろう。インターネットでニュースを閲覧する。当然小難しい単語だったり専門用語だったりが出てくる記事もある。このころには好みというのもそれなりに構築されてきていたからより深い情報を求める分野も出てきた。
調べた情報の中の分からないものをそれまた深く調べよう、そのたびに分からないものが出てくる。地面に生えた花の根を少し観察しようとしただけなのに、大木の根ほどの範囲を掘り返し散らかしていることも。分からない、それが怖かったのかもしれないし、とにかく活字を詰め込みたかったのかもしれない。それなのに学校ではさえない成績をとる。どうも記憶容量の使い方がうまくないようだと気づいたのはこの辺りだったか。
思い出語りから帰還した私をルフはまだ案内する。右に曲がり、左に曲がり、二つの十字路を直進して左手。「ここ。」
彼女の顔には特にこれといった表情は浮かんでいなかった。ただ、一粒二粒くらいの汗が。ただの一軒家に案内されても出せる言葉は限られる。
「何ここ。」
「いろいろあるところ。ここで生活してもらうことになるかも。」
彼女はそういった。ここで生活だと。さらりと大事なことを言わないでほしい。危うく私の記憶からすり抜けて落ちて行ってしまうところだった。
「え、何それ、全然話聞いてなちょっとルフ待って、待ってってば。」
普通の一軒家なのだがそういわれるとなんだか全然入る気にならない。立ち尽くしていると後ろからルフが恐ろしい力で押してくる。グラリ、頭を慣性に任せ加速度を感じる。足の踏ん張りは全く効かない。
「入ったらね。話はそれから。」
語尾とともにニコリ微笑んだルフの顔を見て少し安心してしまうのは彼女の技術が素晴らしいからなのか、私がちょろいからか。真相はどこかへ。
本当にただの一軒家なのだ。玄関に置いてある靴の数は。リビングでは何人かがパーティー開けされたスナック菓子の袋を囲んでいた。
「や。」
ルフがその何人かに声をかける。一斉にこちらを向いた数人はそれぞれの思うある程度行儀の言い座り方、をする。
「座って座って。」
どう座るのが正解なのか。なれないアオザイなんかを着ているから下手な座り方をするとお粗末なモノが見えてしまうかもしれない。重心を低く、低くするほんの一秒ほどで周りをみて最適な解を導く。好きなようにすればいいのにな。私に続いて彼女が座る。まるで着ているものを意識しない胡坐をかいている。
挨拶でもしておけばいいのか。
「こんにちは。」
ども。まばらな反応が返ってくるのみ。なんだか、あまりアクティブな人たちじゃないなとは。私もだけど。
「ちょっといろいろあって、ね。ちょっとの間ここにいるかも。」
はい、分かりました。ルフの時だけやけにはきはきと返事をする人。実はすごい人なのか。ささ、こっちだよ。彼女が手招きする。私は愚直についていく。彼ら彼女らはついてくることはなかった。スナックを囲んだり、パソコンをいじったりスマホをいじったり。訳の分からないところに案内されてしまったものだ。外観からは想像できないくらいに長い廊下を歩く。突き当りの部屋のノブをひねる。引っ越しして人がいなくなったばかりのような、壁のシミやら傷やらが物語っている。しかし一つも物がない。
「この部屋がどうかしたの。」
「この部屋が割り振られてるから、ほとぼりが冷めるまでというか、落ち着くまでここにいてくれと上から。いろいろの手続きは私がしておくから。必要そうなものはこの後持ってくるから。のんびりネットでも見て待っててね。」
グイ、部屋の中に押し込まれ、ドアを閉められてしまう。この建物は何、さっき会った人たちは何。私はいつまでこの部屋に閉じ込められてなきゃいけないの。コロコロと変わり、そしていくつもの新しい環境に私は適応できる気がしない。今だって、この何もない部屋に放り込まれて放心状態に陥ってるから感情が不安定になっていないだけだ。落ち着いてきたら朝のことで泣き、この訳の分からない場所で期限もわからず過ごさねばいけないという受け入れなければいけない事実にまた泣くだろう。不安定すぎる環境と自分の心。何が私にとって最善の行動なのかなど分かるはずもなく、ただひたすらスマホを指でなぞる。画面を指でなぞる。そこには確かに私を癒してくれる要素があると分かっているから。本があれば完璧なんだけどな。落ち込んだ時は活字にのめりこむに限る。
私の部屋は本の木とも、石筍ともいえるものがそこらにある。それらのせいでスペースをかなり奪われていると考えてもそれは幸せの容量だから仕方がない。狭くとも文句は出ない。だがこのように何もないところに放り込まれると本当にそれだけでなんだか不安になってくるのだ。何もない、は私にとって不安を生み出すものでしかない。
私自身の体についての情報もひどく枯渇している。私が求める情報量とルフなどの話から入手できる情報の量では入る側が明らかに少ない。私は、自分の体について不安なのだ。暴走してしまわないかと考えているわけではない。これが人殺しをしてしまうのか、などもまた考えているわけではない。単に知りたい、いわば説明書のようなものが欲しいというただそれだけのこと。構造、使い方それらを知ることができれば少しは落ち着くことができる。

どうしてこんなもの、生えてきてしまったのだろう。改めて自分の背中から生えてきている羽を見る。自分で自分のことを褒めるのはあまり良しとされていないらしいがそんなことに構ってこれを貶めることなんかは私にはできない。そういえるほどに吸い込まれるような、得体のしれぬ何かを抱いている。うまく言語化できない。他人と違うところがある、だなんてことは地球上の誰でも言えることだ。当たり前だ、持っている遺伝子なり細胞なり、組み合わせが全くもって同じなんてことはないのだから。けれど大きく変わるものを持っていればもちろんそれは誇りになるか恥部となる。私の場合は誇りとも、恥部ともどちらにカテゴライズすればいいのかまだ分からない、そんな状態にある。きっと昔の私なら誇らしく思うのだろう。人と違うことが本当に良いと思っていたから。集団からの逸脱、突出した個性を持つなどを怖がるようになった最近で言うとこれは誇らしくもなく、また憧れでもないのかもしれない。しかし私としては昔の、純粋と言った方の良い感性を取り戻してぜひそれで当てはめてみたいものだと思う。
私はこれを、自分の羽を誇らしく思えるよ。今、そう思えた。確実に恥じるべきものではないと気づいたもの。創作においてもこのように大胆な変身を遂げる人物などそういない。心が大きく変化してもここまで体が急に変わることはないだろう。私はそれを、知らぬ間にとはいえ成し遂げたのだ、と。

なぜ私にこんなものが。改めて羽を見る。本当に立派だ。実際私を大空に招待してくれる程度には強い。それに荘厳さも兼ね備えている気がする。天使のような、とまでいくと言い過ぎかもしれないがとにかく。
「どうして私なんだろうな。」
これに尽きるとまで言い切れる。いろいろな条件を潜り抜けたのがたまたま私で、その結果受け取ったのか。気まぐれの末のこれなのか。要約することには、私以外でもいいのではないか、ということ。もちろん今朝のような面倒なことに巻き込まれてしまいマイナスの面を見せつけられたからこそどうして私がこんな目にという意味も含まれていないといえば噓になるが、それでももっと合う人がいたのではないかといわば自分を下げているような心境にどうしても行きついてしまう。でも私なんだ、私でないといけない運命、のようなものだったんだ。自分に自信が持てないならこの言葉を。運命という言葉を使ってしまえば、簡単だ。

自分の思考に深く深く、急に潜りすぎた。そんな時は必ずどこかで苦しくなる。それを意識するだけで実際に深海に放り出されたように、肺や胸がキュッと縮められる感覚に襲われる。ドアノブが回る。ルフが戻ってきた。たくさんの荷物を抱えて戻ってきた。危うく一人、知らない部屋でもがき苦しんでいる変な人になるところだった。

彼女が苦労して運んできた荷物を部屋に散らばして配置するとそれだけでもう何か月かは生活した部屋のように見えてきた。それでもまだまだこれから私は長い間ここにいなくてはいけない、らしいが。
「私はいつまでここにいればいいの。」
特異な状況をこんなに簡単に受け入れていることがまずおかしいとそこにいる私たちのどちらも指摘をしない。
「特にいつまでとかは決まってないな。私も知らない。あんた次第だからね。」
腰に当てた手を流れるように私の方へ、人差し指で私を指す。彼女の手を下げる。
「どうして私次第なのさ。」
何もわからずこんなところに誘拐して、その上元の生活に戻れるまでの期間が分からないとぬかす。状況を整理してみると、恐ろしさと怒りが同じ心の中に存在している。語尾には少々の怒りが。
「どうしても何も、これがあるからね。」
私に相談されても。そう言いたげに手を広げておどけて見せる彼女。ぱさぱさと丁寧に羽まで同じ動きをしているから余計に神経を逆なでする。私ってこんなに沸点低かったんだっけ。
「羽が何か、関係あるの。」
「もちろん大ありだよ。まだ説明してなかったか。じゃあ今ここで、ちょうど部屋も整ったところだし休憩がてらね。」
彼女は持ってきたばかりの座布団に腰を下ろす。これから女子会でも始まりそうな、そんな光景とはほど遠いけれどもどこかメルヘンなお話が始まる、らしい。


 お話会、は足がしびれを通り越して何も感じなくなる程度には続いた。その間ずっと寝ることがなかったということはかなり集中していたのだろう。自分のこととなると途端に関心が向く。当然のことか。

本当にここまで創作なのではないかと思うことが実際に自分の身に起きていることだと信じることが難しい、これに尽きるとしか言えない。ルフからすれば普通のこと、もっと言えば羽をもつ人には当然のことなのかもしれないけれど私はそんなことを、知らないから。どこか夢見心地だったところもあるかもしれない。それでも大まかな内容は掴んだ。

私に羽が生えてきたのはごくまれな現象で、じきになくなるらしいということ。また思春期に差し掛かるあたりの人間に比較的多くみられるということを知った。じきになくなるらしいということ。これが私の心を少しだけ下の方へと引きずった。こんな楽しい経験が続くことがないなんて。ある感情が盛りあがっていたところにこの情報だ。何かから解放された、その感覚をまた、どこかに落としてきてしまったかの如き興奮の冷め方。映画の最後、タイトルなり監督の名前なりが表示されてからブラックアウトし、そして照明が座席を照らし始め現実に急速に引き戻してくる、その感覚に似ている。夢はもう終わりだよ、と自分を客観視している自分に囁かれ耐えられぬほどの夢と現実の間のGを受ける。まさにそれだ。そこで完全に映画から抜け出せたかと言われるとそうではないように、きっと羽を失った私もそれなりの間は失った羽を撫でたり、空を飛べないかなとその頃には狂人の思考と同じに成り下がった考えを時折吐き出すのだろう。もう普通の人とは違うんだよ、とルフに言われた時から、私の中には不便よりもどこか「やっと私が」と、説明のできぬ他者と異なる点を獲得したことに喜んでいる私がいた。しかしその結果はどうだ、羽を取られ、アイデンティティを失い、そしてまた社会生活の一つの歯車に過ぎないただの私に戻る。これがどうか現実でありませんように。私はひどく願うがどうにもそれは果たされない永遠の夢となることが今にでも明確に目の前に示されてしまいそう。ひどく怯えていた。
話終わった頃、ルフは私の反応を伺っていた。どう反応すると予想していたのだろうか。嬉しがる、それとも何の反応も示さない?そこに悲しむという選択肢があったかどうかなど正直どうでもいい。入っていなかったからこそ私が手で顔を覆い、そして啜り泣き、嗚咽する。これほどに悲しむなど微塵も思っていなかったのだろう。それもそうだ、いきなり自分の体に異物が生成されて、それがなくなれば人はせいせいするだろうと踏むのが常識、というのか思考を辿れば当然というべきか。
中途半端でも愛着が湧いていたのがいけなかった。それを使い、今までにできない体験をしてしまったのだが悪かった。それらのせいかもしれない。だけど無くなって欲しいと思わなかったということもまた、事実ではない。一生このままなら私はどうしていけばいいの、と泣いた。ついさっきの出来事だが、あんな大勢に見せ物のようにされた時は本当に死んで姿を消してしまいたいとすいら思った。
だが、それよりも無くなってほしくないと思う心の方が大きかったことに、今この瞬間私地震も驚いた。

手出し、声かけの仕方が分からない。そう言いたげにルフは部屋の狭いスペースでぐるぐると回っていた。私としてもこれだけは好都合だった。凹んでいる時は声をかけられないのが一番。
それから嗚咽が収まるまで、今までにないほどに泣き、涙を流し、声が漏れる。やっと治った頃、無意識に羽を触っていた。

「そんなになくなるのが悲しいか。」
ルフは言う。
「もちろん。」
はっきりと答える。はっきりと答えたのだが、私の中にはどうしてこの短期間でそこまで、と自分に問う声もあった。そして彼女にもあるようだった。
「どうしてこんな短期でそこまで想いを持つようになったんだ。今までも羽を持たないで不自由なく生活してきたじゃないか。」
全くもってその通りだ。そうなのだが、そうなのだがしかし。言葉に詰まる。
「なんか、今までにない世界を切り開いてくれたというか。なんか、そう、楽しかったの。」
また涙がポロポロと溢れる。おかしいな、さっき全部出したはずなのに。それでも涙は止まらない。さっきとは違い彼女は質問を続ける。
「束の間の楽園がなくなると思ってるわけだね。」
うなずく。まさしくその通りだと。
「どんな人でも人生のうちに大きな喪失を少なくとも一度は味わうんだから、そこからは逃げない方がいいよ。もちろん今回のこの、事実からもね。」
そんなことはもう知ってるんだ。やめてくれ。これ以上私をいじめないでくれないか。そんなことは言えるはずがなかった。知らない場所、知らない部屋、追い込まれた私。自分でも何か危険なことが起こるのではないかとどこか他人目線で思う。しかし言葉でつめられるのは本当に心にくる。正解だから、合っているからこそ心に、響くのではなく突き刺さる。

「一つ質問してもいいかな。」
「なんだい。」
「どうして私はこんなところに連れてこられたの。こんな変な場所に。」
彼女はニヤリと不気味に歯を見せる。
「それは決まりでね。本来はこんな場所ではないんだけど、今は施設がどこも満杯なんだ。ここは私の活動拠点だから渋々貸し出しているだけだよ。」
彼女が何の話をしているのか、うっすら分かるような気がする。が、私の憶測でしかない。本当ではないかもしれないし。
「そうなの、分かった。じゃあ私は何のためにここに連れてこられたの。」
質問としては最初と同じだが、躱された質問をぶつける。彼女は急に、どこか悪そうな笑みを消した。代わりに、普通に笑った。
「君を矯正するためにね。」
狂った物言いと笑顔はこんなにも美しく交わるのだろうか。その美しさは私に恐怖をもたらす類なのだが。おや、もしかして。彼女は私の顔を覗き込む。その顔はまだ笑みは残っていたが狂った物言いをした口は無くなってしまったかのように優しい彼女の顔をしていた。
「違うよ、怖いやつじゃないよ。ただ、その羽が消えるまでその羽が生活に支障をきたさないためにちょっと訓練をするだけだよ。」
私も昔、ちょっと体験したかな。彼女は小さくそう付け加えた。うーん。私の理解が進んでいないなと見るや否や彼女はとある紙を持ってきた。「矯正を受けるにあたって。」所々何かで滲んだその紙は黄色けていた。箇条書きで矯正を受ける際の心得、などが書かれている。
「今すぐは始めないから、それを読み込んでおいてくれ。それじゃまた明日。私はやることがあるから。何かあったら電話で呼んでね。」
また私のことをほっぽり出して消えた。彼女は私が思う以上に自由人だ。言ってしまえば何もかも適当だ。主語が大きいかもしれないが、日本人の慎重さというか丁寧さと言うか、たらしめているもの、が足りない。そんなことはどうでもよくて。普通に考えて、こんな変なところに連れてこられたら抜け出すしかないだろう。私のファンタジー脳が仕事を始めた。しかし今回は羽があるのだ。
全幅の信頼を羽に寄せて、中学生の時クラスがテロリストに襲われたら、を考えていた時以来の妄想を現実にするために頭をはたらかせる。逃げ出す、以外の案がない。窓から差し込んでくる光が弱くなり、真っ黒になるのをひたすらに待つ。

計画など立てるまでもないのは分かっていた。しかしこんなにうまくいくとは。あの場所を飛び出し、夜の風を体全体で受け止めていた。普段は外に出ないけれど、本当に気持ちがいい。窓を開けて飛び出してきて大正解だった。ルフには迷惑をかけてしまうが、今は一人だけにして欲しい。そう思ってしまったから。

これでとうとう周りに誰もいなくなってしまった。家に戻るつもりは、少しだけあるけども。朝のことがまだ家族に知られていないなら、それなら私は家に戻る。そしてこの羽を隠しながら一般人として生活するんだ。普通の生活は送れないよ、だなんて信じない。
だが現実はそう簡単にはいかないだろう。朝のことを調べればすぐにネットで情報が拡散んされていることだろうからもう昼間に出歩くことは砂漠に落ちた一本の針を見つけるほどの難易度に変貌してしまった。戻ったら親が何を言ってくるかわからない。私の心配をしてくれるかと言われればあまりそんな気はしない。それよりも自分たちの保身に走るだろう、と私は勝手に決めつける。だってそうだ、いざとなれば他人よりも自分が一番大事なのだから。私自身を宥めながら、当てもなく暗闇を滑空する。隅から隅まで、嫌なことを忘れることができるこれがなくなってしまうだなんて、私は信じない。信じない、信じない。どこにあるともわからない不安の種から逃げようと、ふらりふらりと、スーッと、空を旅する。どこに行くかは、決めていない。

手に握ったスマホが何度も震える。何度も何度も。ロック画面を表示させてみるとルフや親からの電話、メッセージだった。私がいたってどうせ。どうせ何もかも大変なだけなんだから、いない方がいいじゃんか。こんな考えだからまともな変身などできるはずもなく。ただその通知を眺める、そしてロック画面を閉じる。ただ通知を表示する画面が消えただけなのに、これほどスッとした気分になれるのはどうして。さて、それは誰に分かることなのでしょうか。

飛んでいると頭を冷やすことができる。人間、CPUの用までとはいかなくても頭を冷やさないと冷静な思考ができなくなるというのは必ずある。慣用句としてもあるのだし、科学的にも証明されたことなのだろう。それが体感できる。
これからどうしようかな。うっすらと今後のことも考えていかねばならない。ずっと、鳥のように飛んでいるわけにもいかないし。朝のこと。あれだけで世間のうちのどれだけの人間が私のことを異端と認識して、どれほどの人が私の情報を欲したのだろうか。それは果たして人間のような外見をした羽の生えた生き物、に対しての興味か。はたまた羽が生えた私、に対する興味なのか。どちらでも大して変わりはないだろう。私の今後の人生は壊れ、羽がなくなったとして、名前を知らない人からも「あの人は、」と一生言われ続けるのか。今そのことを考えただけでも頭が割れてしまいそうだ。本当にそんなところに放り込まれでもしたら首をくくるまで秒読みか。だが興味を示している人たちと立場を逆転させてみると私だってそのような反応をしてしまう自信がある。きっとSNSで見かけたら拡散してしまうだろうし、インターネットの記事で見かけたとしても誰かに広めてしまうと思う。それにきっと「怖くない?これ」「こんな人がほかにいたらちょっとねえ」などと言いそうな気もする。
自分が傷つくことが怖くていまだに検索できていないけれども多分ネットでは相当騒がれているのだろう。自分からネットに撒いたわけでなくとも誰かが撒いてしまえば同じように広まっていく。もう、本当に。
それでもいつかは熱が冷めるのだからそれを待つしかないのか。どうして私が、どうして。何か悪いことをしたか。神様の気に触れるようなことでもしてしまったのか。それとも。もう考えたくはない。私は、何もしていないもの。

それにしても。
「思春期に稀にあらわれるってなんだよ。」
確かに思春期は心も体も大きく変化する時期だといつだかの保健でやったような気がしないでもないが、それでもここまで影響するものなのだろうか。こんな人ではないもの、に。その点は甚だ疑問だ。だが私も多分今、ちょうど思春期まっしぐらだ。これだけの変化も。そこまですんなりと認められる心にまでは成長していないが。今みたいに、こうしてちょっとだけ人のいうことを破る。それくらいの反抗は認めてほしいというか、なんだかそういうのも全部「お年頃」のせいにならないかな。それは無理なお願いというものだ。どこからか声が聞こえた気がした。

自分の中では朝のことを振り返るのは本当に怖い。思い出したくないという気持ちでいっぱいだが、正確な現状の把握のためにも知っておかなくてはいけないことなのだと自分をどうにか説得して再びスマホを開く。調べるなら媒体は何がいいか。SNSか、ネットニュースか。まだどこに掲載されているだのを知らないくせにさも自分が注目されているかのように振舞っていて。嫌な思いをしたが、それでもあんなに注目を浴びたのは初めてだったから、それなりに広まっていてほしいとこんな時でも承認欲求というのは顔を出してくるらしい。

酷い、ただその一言に尽きる。正直に言ってしまえば、心のどこかでは拡散などされていないだろうと思っていた。どこからか湧いてくる、正体がつかめないけれど私の心では絶大な信頼を寄せているどこかからの自信があった。だが、それほど甘くはないらしい。このままどこまでも飛んで行ったとしても、この私の顔が、羽が、思い出したくもない記憶が掘り返される。そう考えるだけで呼吸が、はばたきが、大きく乱れる。一生一般の人間として生きていくことは不可能だよ。それも間違いではなかったということか。疲れからか、精神の乱れからか、もうまともに飛べる気もしなくなってきた。しかし今降りてしまえばこの騒ぎを知っている人に見つかるかもしれない。それに抜け出してきたこともあってルフにも相談できない。
「あれ、私、今ピンチなの。」
心の声が、つい喉から出てしまう。自分で出した大きい声に自分で驚く私。なんだかもういろいろと理解できないことが続きすぎて倒れてしまうのも時間の問題のような気もする。もう誰からも助けてもらえない。自分でどうにかするしか。急に一人で、それもこんなに荒波の中に放り出されて私はどうすればいいの。答えてくれる人の元から私は逃げたんだ。一人じゃ危ないから。そう言ってくれたのはルフと最初に会った時のことだった。親にも同じことを言われた。込められた意味の細部は違えど、私を思ってくれている人がいるということにどうして気づけなかったんだろう。こんな環境になってしまうまで気づけなかった自分は、自分は、どうしてここまで愚かなんだろう。今からでも謝ればルフは許してくれるだろうか。今からでも連絡すれば、親は安心してくれるだろうか。今からでも、私の行動を直せば。
私は私を許せるだろうか。

許せなさそうだ。

羽が生えてからまだ数日しか経過していない。だが私を取り巻く環境は大幅に変化した。しかし私は自分のことを変えようとせず、ただただひたすらに自分のしたいことを優先させてきた。他人から見ればそうではないかもしれないけれど、私から見たらそうなのだ。好きなことをしている、はやるべきことをしたうえで好きなことをしている。だけどもやりたいことをしている、はやるべきことをせずに好きなことをしている。こんな印象を抱いている私は、自分はやりたいことをしている、としか思えないのだ。羽とはあまり関係がないかもしれないけれど、羽のおかげでいろいろと明らかになってしまったというか。

勝手に生えてきたこいつのせいで私はめちゃくちゃだ。
くそ、一言の悪態もループして最終的には自分に降りかかってきているような感じだ。何でもかんでも、自分以外のせいにしがちというか。目を背けていたものが堂々と自分の前に、意外な形で表れてきてしまって。結局私は何がしたいんだ。

 ルフは彼女のことを探していた。それはもう、血眼になって探した。明日にでもこれからのことについて上の人と話し合いでもしようと思っていたところなのにこのタイミングでいなくなるとは。ストレスで胃が爆発し、頭が割れてしまいそうだった。

どうして逃げてしまったのかと考えるとそもそも私が悪いのかもしれない。すぐになくなるから。そう言ったのが原因の可能性が。彼女は羽を失くすことをとても悲しんでいた。その感情を私は理解できなくていったん頭を冷やすために部屋を出ただけなのに。
彼女は自分がとても貴重な存在だということにいまだ気づいていない。今朝の出来事のせいで心が揺らいでいるのはわかる。私だって同じ事態に陥ったらトラウマになってしまう。しかし、だ。彼女はどうして逃げだしたのだ。質問を暗闇に投げかける。何も返ってくることはない。彼女の足取りはいまだつかめない。

 私はだいぶ疲弊していた。長時間飛んだ末に力尽き、とある銭湯の屋根にへろへろと力なく半ば墜落するように降り立ったのがついさっきの話。ここがどこだか、どうして私はここに来たのかさえ忘れてしまうほどに疲れていた。疲れていてばっかりな気がするけども、今までこんなことはなかったのだから仕方ない。心身ともに一皮むけそうな、そんなところ。
大きな煙突に銭湯の文字。作品の中でしか見たことのないようなこれぞ昔の風景といったような建物。私はそんなところにいた。屋根にお邪魔させてもらうよりも普通に入った方が。いや、今この顔を晒したまま、なおかつ裸を晒すだなんて自殺行為じゃないか。いつもならとっくに寝ている時間なのかもしれない。見える範囲の明かりも相当少ない。ここだけかもしれない。寝ずに、何をしているんだろう私は。考える気力、動く体力すら残らず、私はそこへしっかり座り込んでしまった。壊れる一歩手前というか、壊れる線の上にいるんだなとうっすら感じる。こんなにも壊れやすいだなんて、思ってもみなかったな。脳の活動までもふらふらし始めた。あまり負荷をたくさんかけても大丈夫な設計にはなっていないのだ。残念なことに。誰か来てくれないかな。自分から逃げたはずの人たちに助けを求めようとする。だがもうその気力すら残っていない。異常なほどに疲れた。額に手を当ててみるとほんのりと温かかった。羽の付け根がジンジンする。もうお別れなのかな。うずくまって、泣いた。

 使いたくなかったが、これを使うしかないか。私としては本当にやりたくはなかったのだが、上からのお達しで加入したての者には現在地を掴めるようにしなくてはならない。使うとは思ってもみなかったが一応施しておいた。プライベートにずかずかと足を踏み入れているような気分になる。嫌なものだ。なんて言うけれど、この短い付き合いの中でも何度もあったような。それは気にしてはいけないということにしたい。こんな、切羽詰まった使い方はしたくないというか。
初心者が飛ぶ距離じゃないだろ。そう呟いてしまった。自暴自棄になると理性をコントロールできなくなるタイプの人間だったか。これは厄介なことになるかもしれない。できる限りのスピードを出して彼女の元へ向かわねば。顔の皮膚が飛んで行ってしまいそうな、過去これほどの抵抗を受けて飛んだことはない。

 もうだめかもしれない。そう思うときはいつも部屋に引きこもって、誰とも話さずに過ごしてきた。何もしない、人との接触をしない。一人だけの空間、時間に浸ることができる。することなすことであれやこれやと口出しをされない。怒鳴り散らされない。みんなどうしてこんなぎすぎすした世の中で平気な顔をしていられるのだろう。いつもいつも、部屋で一人体育座りをして本を読んでいたときにふと思うことはそれだった。別にできない事があったって、それはもうしょうがない。そういうものなんだ、と処理してほしい。そう思っていた。逃げた、逃げた。そういわれたときの衝撃はいまだに覚えている。私にはできない。そう思い切り捨てただけの出来事にそんなことを言ってくるなんて。放っておいてよ、私はあなたじゃないんだから。そういったってきょとんとした顔で私の方を見てくるだけだ。とにかく、できない事があってもただではあきらめてはいけないんだよ。その言葉が今までかけられた言葉の中で一番嫌いだ。一生懸命になってやった末の結果としてできなかったからあきらめてるんだけども。どうしてこう、行動や言葉の表層だけを切り取って自分のいいように受け取ってしまうバカが増えたのか。暴言すら出てくるようになった。
外面は普通の人を演じることによってそう目立つものではなかったかもしれない。しかし私の内側、心は荒れ放題だった。もう誰とも話したくない。嫌なことばかり押し付けられる。言われる。逃げればいいのかな、それとも自分を変えなきゃいけないのかな。自分以外の人のために。傲慢なことばかり考えていた。
これが生えてきたときに、どこか心の余裕ができた。私はみんなとは違うんだ。こんな、想像の中のような力を手に入れて、もう誰から何とも言われることはない。なんて、そう思っていた。今のような状況になるだなんて、思ってもみなかったのです、と。ましてやその、今の心の拠り所が消えてしまいそう、だなんて。

 どうして一人で動きたがるんだ。一人じゃ何もできないって教えるべきだったかな。たとえ羽があったとしても。羽のせいで一般人よりも行動が制限されるってことをもっとたくさん伝えるべきだったかな。もっとたくさん、彼女に伝えるべきことがあったのかもしれない。
だけどさ、彼女くらいになればそれはもう言わなくても気づくことができたりするんじゃないかな。そんなことはないか。後悔は引きずらないに限る。彼女を見つけるまで、残り三分。

 子供のようにうずくまって、小難しいことを考えてオーバーヒートして。誰に助けを求めるでもなくただ時間を浪費している。本当に、本当に何をしているんだろう。

現実が嫌だから、怒られるのがどうしても嫌だから。だから逃げてきたのか。本に逃げたのか。
もう普通には生活できないと知って、現状を受け入れたくないからとにかくどこか、どこか自分の知らないところまでヘロヘロになりながら逃げてきたのか。羽、で逃げたのか。どちらにしろ私のとった行動は逃げだったのか。現状を受け入れたくないから、だからとにかく逃げる。どうしようもなく愚かで、稚拙な考えだけども一番有効的な手段でもある。私はそう思う。無理に嫌なことに対面することもない。そう信じてるから。だけどそれでは成長しない。今だって、きっと逃げてばかりではいつか私は死んでしまう。それに、迷惑を被る人が何人もいる。迷惑をかける方は何ともないけれど、かけられる方は恨んでも恨み切れないほどの感情を持ってしまう。私はそうならないために、よりも今ここで終わりにするために。もう、自分でも何を言っているか分からない。眩暈がする。倒れこんだ。介抱してくれる人は誰もいない。

 彼女を見つけた。建物の屋根に、1人ぽつんと座り込んでいた。膝を抱いて、うつむいている。暗くて表情までは見えないが、そんなことが分からなくても今にも転げ落ちてしまいそうな心になってしまっているのは事実。

 「おい。」
声をかけられる。警察にでも突き出されるのかな。こんな姿、見せられないのだけど。顔を上げないでいると執拗に肩をとんとん叩かれる。それでも顔を上げない。ここで見せたらおしまいだ。そう思っていた。
「返事くらい、してくれないかな。」
第一声のドスのきいた声とは違い、聞いたことのある声だった。まさか。顔を上げる。ほんの数センチのところにルフの顔があった。さすがに驚いて後ずさりする。逆さになっているのか、髪が垂れ下がってきていて幽霊のようだったから。ぐるんと勢いよく空中で回り、正面に着地する。大きな音が辺りに響いた。ルフが気にする様子はない。私の肩を掴んで強引に立たせる。
「どうして逃げた。」
怒らせてはいけない人、という言い方はいささかその人には失礼だけど、人の判断の基準として小さくとも必ずあると思う。ルフはまさにそれに当てはまる。感情をあまり表に出さない、いつもにこやかな人、外見だけで大体わかってしまう。ルフもそうだ。だから今こんなことになっている。
と目の前の彼女のことを一筋で評価してしまうのはあまりにも私の怠慢だろう。それと、この質問にどう答えればいいのだろうか。どうして、とは私の中でも特に答えがない。ただ、思考のなるままに。体の動くままに、それでは回答として及第点にも届かないだろうか。まとまらない。
「。」
揺さぶられる。肩が、心が、痛い。それでも口を閉ざす。
「何も言わないなら、別にそれでもいいよ。言いたくないならね。」
彼女は私の正面に、私をしっかり見ながらどっしりと腰を下ろす。何かを言おうとしたのに、口が開けない。
「それなら言うまで、話してくれるまで付いていくだけだよ。よろしくね。」
そこまでする必要もないじゃないか。しかし彼女は怒っているのだ。多分。私が勝手に、何も言わず彼女の元から逃走したこと。ただそれだけについて。
突然、恐怖が大きくなったから。自分で自分のことをよくわからなくなってきたから。もう、どう行動していいのか分からなかったから。もう一度、元の自分に戻れるかを、藁にも縋る様な思いで試してみたかったから。自分の中にならどこまでだって吐き出せる。しかし、彼女に対しては別。どう反応されるか分からない。怒られる枕詞こと「怒らないから話してごらん。」それすらも言われない。彼女はただ、私のことを見ている。内心まで見透かされているような気分だ。嬉しくも楽しくも希望を感じるわけでもない、ただ重苦しい空気がどんどん濃くなっていく。
次第、私はまた泣いた。今度は自分の感情をコントロールできないから。理由がだんだんと子供じみて、退行してきている気がする。私の心の器に収まりきらなかった分がどんどん外側へと溢れていく。ルフは、慰めも、罵りもしようとはしなかった。ただ私が同発言するかを、スナイパーのようにひたすら待っていた。そろそろだんまりを決め込むのもおしまいだ。口を開く。

「元の自分に、戻れるか知りたかったから。」
頬を伝った一滴が蒸発してほんの少しの熱を肌から奪っていった、その跡をぬぐってから呟く。ルフは聞き逃してはいなかった。無論、聞き逃してもらうつもりもない。切実な願いを一言漏らした風に、実はしっかりと聞いてもらうために。
「そうだよね。」
ルフは表情にいつもの笑顔を取り戻した。笑って、口角はあまり上がっていなかったけど、その顔で腕を伸ばし私を抱きしめた。羽まで私に覆いかぶさる。いきなりの出来事だったけれど朝のように慌てることも、羽をいきなり展開してしまうこともなかった。少しながらの心の信頼があるから。

「逃げ出して、ごめん。」
「大丈夫。不安定そうだから、そっちの方が心配だった。私は大丈夫。」
さも大丈夫と必要以上に主張する彼女。信頼してもいいだろうか。
「それと。」
彼女が続ける。

「消え、る。から安心して。」
る、直前に少し言い淀んだような気が。気のせいかもしれないとはほんの指先くらい思った。けれど言わない方が雰囲気は自然のまま進むのだろうか。口は出さない。首を縦に振る。
「消えない方がよかったとか、あると思ったんだけど。違うんだ。」
んー。英語のネイティブが時々する手のひらを下に向けて木の葉が落ちるようにひらひらと手を振る。本心をそのまま表してしまえば手が振り切れてしまいそうになるが。こう、他人に伝えるとなるとそこまではいかない。

想像の中だけだと思っていた。それが私のものになった。自分の思うように使えるようになった。普通とはかけ離れた生活を送らなくては、送ることができるのだと思ったりもした。そう物事は真っすぐ進んでくれない。私の心のように。どこからひねくれたり、分岐したり、行き止まりだったりする。それも進んでみないと分からないのに後戻りできない。思っているよりも大丈夫そうだな、そう思った矢先に、本当に普通の生活を送ることができなくなった。ほぼ一生、私は人前に顔を晒して生活することができなくなった。一生、と今言われたとしても実感がわきにくい。が、死ぬまでと言えばそれなりにはわかりやすくなってしまう。絶望をも与えやすくなっているので取り扱いには注意をしなくてはいけない言葉なのだが。
羽に頼って、託して、嫌なことを忘れさせてもらう、ことができないのにどうやって生活していけばいいんだ。まともな考えのできない私の脳にそんな難しいことを質問しても返答があるのはきっと鬼籍入りしてからのことになるだろう。
いっそのこと、ルフに相談してみれば。一番手軽なことを一番躊躇っていた。

「私はこれからどうやって生きていけばいいの。」
彼女のきょとんとした表情。すぐに解決したような顔。
「そんなの簡単じゃないか。」
満面とまではいかなくても、それなりの笑みを張り付けた彼女の顔。
「これが消えるのを待って、また普通に生活し始めればいいだけだよ。」
確かにそうなのだけど。ルフの言葉を思いっきり遮って、自分の言葉をねじ込んでやろうかとも思った。それでもルフは続ける。
「もしかして、自分がイカロスだと、勘違いしていないか。君はイカロスなんかではない、また一般人でもない。太陽に翼を溶かされてしまうほどいいところにいるわけでもなく、かといって一般人ほど下にいるわけでもなく、今はちょっと中途半端な位置にいるだけだ、じきにただの一般人として生活できるよ。言及されたとしても他人の空似、とでも答えておけばいいと思うよ。」
私は度を越した楽天的な人間が嫌いだ。今、目の前にいる人物もまたその私の中の物差しにぴったりとあてはまってしまいそうだ。自分のことでないからと、いいように考えていられるのか。
「そんなに簡単にはいかないと思うけど。」
返済していない恩ばかりある彼女に対してこんな物言いはいけなかったか。それでも彼女は「続けて」と手を出して促してくる。
「あの姿にこの顔を知られてしまったら、どこへ行っても、いつになっても私がそこにいるだけで噂される。容易に想像できるそのシーンが私は嫌いなの。」
ふぅん。いいかね、ワトソン君。そう語りだすシャーロックホームズのようだった。私はというと、やりもしない政策を熱く語る政治家のように、こぶしを握り締めて立ち上がっていた。どこからそんな、非現実的なポーズを思いつくのか。

「君は、とっても大きなある一つの勘違いをしている。それが何か、本当にわかっていないみたいだから教えてあげることにするよ。静かに聞いてくれ。」
頷きを確認せずにルフはコンマ数秒の休憩を区切る。
「君に対しての注目は、君が予想しているよりもはるかに少ないんだ。分かりやすく、それでいて精神的ダメージを負う言い方で言わせてもらうとな、お前には興味がない、なんだ。残念だけど。」
大抵はこうだからね、知っておくと今後が楽だよ。もう彼女の声が耳に入ってこない。そんなはずはない。あの時確かに私に向けられた視線は私のことを、カメラは私の姿をおさめていた、はず。はずだ。そのはずだ。    おうぃ。聞こえてる?

そんなことを思ってもみなかった。そこまで世間は熱しやすく冷めやすいか。それは本当なのか、嘘なのか。はっ、はっ、はっ。脳の回転は止まりかけているのに異常なまでの発熱に襲われているような感覚。ずきずきと頭の奥の、どこか奥深いところから痛む。瞬間、頭の隅から隅までを痛みに支配される。叫ばなかったのは残された熱に溶かされることのなかった残りひとかけらの理性のおかげか。

どれだけの間、今すぐにでも溶けて形を変えてしまいそうな幻を思い描いていたのだろうか、ルフが私のことをおもむろに抱きかかえて、そのままどこかへまた飛び立つ。抵抗などはしない。されるがままだった。どこまでも飛んで、私を好きなようにしてくれてもいい。もう、何をされても大丈夫だ。そう思っていた。

「結局君は突然生えてきた羽に何を求めていたんだ。」
風のせいでうまく聞こえない。なんて言ったの。聞き返す。ルフは一段と声を張り上げた。
「結局、その、突然生えてきた羽に、何をしてほしかったの。」
回答はすでに自分の中でまとまってはいるけれど、どう言葉にすればいいのか。
「別にその、何をしてもらうってわけでもないけど。強いて言うなら。」
いったん言葉を区切った。強いて言うなら。ルフが復唱した。
「強いて言うなら、何か特別になってくれないかなって、思ってた。」
なるほどね。ルフが呟いた。

 私自身、思春期などとっくに過ぎ去った今でも普通に生えているものだからどうしてそういわれているのか不思議で不思議で仕方なかった。なるほど、特別になってくれないかな、か。私をひっくり返してどれだけ強く揺さぶったとしても出てこない発想がぽろりと普通に出てくる。これに共鳴しているのか。私は彼女に出会ってからとても素晴らしい発見をした。「特別になりたい。」その感情だ。

 ルフは前方を注視し、私の方は向かなかった。だが私に向かってはっきりと言った。
「特別になりたいと思ってる今が一番楽しいし幸せだよ。きっと神様もそれを感じ取って羽を授けてくれたんだ。」
まるで親が子に語り掛けるような口調だった。
「でも、遠くないうちにそうも思わなくなってきて、いつしか羽も没収されてしまうんだ。特別にはなれなかったから、ってね。でも大丈夫、きちんとした一般人がそこには残ってるからさ。」
ルフが何を言っているか、ほとんど理解できない。どうにかなる、くらい簡単に言ってくれないのかな。

気が付けば私の家についていた。
「また会うか、分からないけどその時は、ね。」
そう、ルフが最後の言葉のように言う。
「じゃあね。」
玄関を開いた。真夜中の玄関、リビングから両親が飛び出してきた。私の心配をしてくれた。あの人が、閉まりかけたドアからルフを指して話そうとしたが、そこにルフはもういなかった。それになんだかふわふわした記憶から一気に私の見知った領域にまで降りてきて、新鮮な感覚を味わった。ひたすら両親に泣きつかれた。ごめんな、と。謝るのは私の方なのだけど。変なタイミングで寝たり、感情をひたすら爆発させていた疲れがどっと押し寄せてくる。ごめんね、どうにかするから。その一言だけを残して自分の部屋に戻った。

ベッドにたどり着く直前で力尽きてその場で寝てしまった。起きて鏡をみる。くっきりと顔の一部が赤くなっていた。羽を触る。触れない。羽がない。ひたすら自分の肩甲骨のあたりを触る。しかし羽は跡形もない。どこにもない。鏡に背を向け、首を限界までひねり確認してみる。本当にない。確認したこの瞬間、私は私の中で特別ではなくなった。私以外のほとんどの人にしてみれば何のことはない普通の平日。だが私は落とされた。そんな日。戻れたんだ。そう思う心、普通になっちゃったんだ。悲しむ心。
そんなものは置き去りにして、また普通に生活を始めるのが一番いい。

結局私はなんでもなかった。この数日間の出来事も、長めの夢だったかもしれない。
結局は自分だけ、ただそれだけのこと。

マイセルフ(終)
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