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第二王女との出会い

たとえどんなに無力でも その2

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 燈の部屋に戻るまでの間、誰かに見られなかったのは幸運だった。

 宗次郎は部屋に入ると、敷いてあった布団に燈を寝かせた。透明な汗が白い額をびっしりと覆っている。意思を感じさせ、強い輝きを宿す瞳はまぶたに半分覆われていて、見るに絶えなかった。

「少し……寝るわ。ここにいなさい」

「でも」

「大丈夫。私は平気だから」

 そう言うや否や、燈はスヤスヤと寝息を立て始めた。その顔はさっきまで苦しんでいたとは思えないほど静かで、穏やかだった。

「……俺のせいだ」

 宗次郎は自分の迂闊さを呪った。

 記憶を封じるために口付けをするなんて悪趣味だと思っていたが、とんでもない。むしろシオンは仕込みを済ませていたのだ。刀預とうよ神社で燈を待ち受けるため、罠を張っていたように。

 宗次郎はシオンのもとから逃げ延びたわけではない。逃がしてもらったのだ。なぜそこまで考えが及ばなかったのだろう。

 自分が弱いと勘違いして、何もできないとタカをくくり、結果燈に迷惑をかけてしまった。

「ちくしょう」

 なんともないように寝ているからこそ、余計に心が苦しかった。

 ━━━どうする。どうすればいい。

 燈は大丈夫、平気と言い張っていたが、本当かどうかは怪しいものだ。強がっている可能性は十分にある。

 といっても、宗次郎は燈の身に何が起きているのか全くわからなかった。もしかしたらこのまま燈が死んでしまう可能性だってあるのだ。

「誰かに相談するしか……」

 練馬れんまかどに状況を伝えよう。そう考えて立ち上がったところで、ふと我に返る。

「……はは。俺、ほんとに何もできねえ」

 力なく座布団の上に座り込む。知らず知らずのうちに涙が溢れた。

 情けない。本当に情けない。暴走事故を起こして行方不明になり、記憶と波動を失って廃人になったあのときから何も変わっていない。力になろうとしてもことごとく裏目に出てしまう。

 役立たず。

 その事実が鉛となって宗次郎の心にのしかかった。

「っ……………………くぅ」

 涙と共にとめどなく悪態が出てくる。やる瀬無さと虚無感に浸りながら、宗次郎は嗚咽を漏らし続けた。

「ふうん」

「!」

 不意に声がした。いつの間にか燈が目を覚ましていたのだ。

「私、男の人が泣くのを初めて見たわ」

 上半身を起こして笑う燈。その笑みはいつもと変わらない。むしろいつもより優しげですらある。明らかに体調が悪いのを我慢しながら、それでもなお涼やかで、たおやかであった。

「……馬鹿野郎」

 体調を気遣うべきなのだろう。心配するべきなのだろう。

 なのに、宗次郎は燈の様子に怒りを覚えた。

「なんでそんなに涼しい顔してんだよ。俺のせいでこうなったんだろうが!」

 宗次郎は記憶を失って初めて吠えた。どうしようも無い感情が自分の裡で渦巻き、手が付けられなくなる。

「なんで責めないんだよ! 俺が無力だから……弱いからこうなったんだ! 俺が……」

 大声が出れば出るだけ自分が惨めになっていく。

 記憶を失ったあと、誰も宗次郎を責めなかった。自分を慕っていた妹も、鍛えてくれた師匠も、世話をしてくれた使用人も、後見人となった門さえも。常識がないと他人に笑われ、顔を白黒させられるたびに、事情を知っている誰もが言うのだ。


 記憶を失っているから仕方がないと。

 長い間、行方知れずだったから無理もないと。


 そうじゃないだろう、宗次郎の心は悲鳴をあげた。

 いくら他者から優しくされようと、宗次郎が楽になることはない。自分自身を何よりも許すことができないのだから。

「私に甘えるのはやめなさい。穂積宗次郎」

 喚き散らした宗次郎とは対照的に、静かな声で燈は叱咤した。その発言は鋭く宗次郎に突き刺さる。

「あなたがいますべきことは何? 自暴自棄になること? 自分の無力さを嘆くこと? 違うでしょう」

 非情に突き放すこともなく、かといって受け入れることもなく。燈は短くも正確に宗次郎を諭した。

 あまりにも正論すぎて、宗次郎は一瞬で冷静になった。

「……すまなかった」

 涙をぬぐい、頭を下げる。

 最初からこうすればよかったと心底反省する。非があるのなら謝る。人として当然の、基本の行いだ。なのに宗次郎は逃げ、挙げ句の果てに燈に八つ当たりだ。どんな詫びをしても償いきれない気がして、最大限の謝罪をした。

「頭をあげなさい」

 時間をかけて頭を元の位置に戻すと、燈は泣き顔を見ていた笑顔に戻っていた。

「落ち着いたかしら」

「あぁ」

 息を吐いて宗次郎は呼吸を整える。

「何があったのか伝えるから、聞いてほしい」

「もちろん」

 宗次郎は燈と別れてからの出来事を全部喋った。シオンと偶然出会い、そのまま家まで連れ去られたこと。天主極楽教の狙いとシオンの目標。首輪を切る代わりに持ちかけられた協力。その顛末について。

 この別荘の中にシオンの協力者がいることも、迷わず話した。

 全てを語るには長い時間がかかった。宗次郎の説明が下手で若干支離滅裂になりつつも、見たまま感じたままを全て口にした。

 燈は宗次郎の話を遮ることなく聞き続けた。表情を動かさず、冷静さを欠くことなく耳を傾けた。

 最後の最大難関である、口付けのくだりも話した。宗次郎はあまりの恥ずかしさに俯いていたため、燈の眉がピクリと動くのを見逃した。

 結局、燈は宗次郎が話し終えてようやく少しだけ頷いた。

 そして、再び笑った。

「そう。よくやったわね」

「へ?」

 思わず間抜けな返事をする宗次郎。

 燈は非難するどころか、本気で宗次郎を評価していた。

「シオンの拠点と彼女の狙い。裏切り者がいるという情報。その話を私のダメージと引き換えに得られたと考えれば、十分すぎる成果よ。それに━」

 燈はすっと手を伸ばし、宗次郎の頭の上に置いた。

「自分よりずっと格上の相手から五体満足で帰ってくるなんて、なかなか出来ないんだから。自分の幸運に感謝なさい」

 そのまま頭を撫でられる。恥ずかしさ以上に喜びを感じるのは複雑な気持ちだ。

 怒られると身構えていた分だけどっと疲れが押し寄せてくる。宗次郎は座布団の上にあぐらをかいた。

「ダメージって……さっきの煙は大丈夫なのか?」

「何度も同じことを言わせないで。平気よ。あの波動符はどうふは発動に失敗したみたいだし」

「失敗?」

「そうよ。通常通りに起動していたら、この屋敷にいる全員が死んでいるわ。本当に幸運ね」

 ゾッとする話だ。宗次郎の頬がピクピクと引き攣る。

「これは試作品なのよ。天主極楽教にはシオンの他にもう一人、毒の波動を使う強力な波動師がいたの。2ヶ月前の作戦でこれが山積みにされているのを見たわ」

 持っていた波動符は燈によって丸められ、ゴミ箱へ放り投げられた。

 波動符を使えばたとえ自分とは別の属性であっても術を行使できる利点があるが、その場合失敗する可能性が高まる。

 それに一度使用すると波動を補充しなければ再使用できない。今はただの紙切れだ。

「おそらくシオンはあなたで遊んだのよ。罠を仕掛けたはいいけれど、うまく起動すればいいな、ぐらいに考えていたんでしょうね」

「そっか」

 肩の力が抜け、脱力感が襲ってくる。自分の部屋で恐怖に震えていたのが馬鹿みたいだ。

「言われてみれば、すげー暇そうだったな。ペラペラと色々喋ってたし。普通にしていれば可愛い女の子だった」

「ふうん」

 燈の目がスゥと細くなる。宗次郎は自分の発言に何かまずい部分があったと直感した。

「天主極楽教が誇る波動師を可愛い、だなんて」

 燈は波動を発動していない。なのに、部屋の温度が十度ほど下がった気がする。一体何がどうまずかったんだろう、と宗次郎は肝を冷やしながら振り返った。

「半端な気持ちでいるから付け込まれるのよ。人の獲物に手を出すような女が、どういう組織に属しているか教えてあげる」

 燈は端末を取り出し、いじり始めた。宗次郎は胡座から正座に切り替え、じっと待つ。

「これ、見たことある?」

「!?」

 端末に写っていた写真は、宗次郎のトラウマだった。

「ああ、蟠桃餅ばんとうもちだろ。これのせいで、門さんにめちゃくちゃ怒られた」

 写真に写っているのは、桃のお菓子の形をした強力な麻薬だ。

 記憶を失って間もない頃。常識がほとんどわからず、貨幣の使い方すら思い出せなかった宗次郎は一人での外出を禁じられていた。そのため門に毎日外に行こうとせがんだのだ。そう、子供がお出かけを母にねだるように。

 門は当時、道場を開設したばかりで忙しそうにしていたので、ゴネた宗次郎は一人で別荘を飛び出してしまった。

 一人での外出は大冒険だった。未知の世界に触れる喜びだけを胸に、宗次郎は歩き続け、ついには市の外れまでたどり着いた。

 あとになって知ったが、そこは貧民街と呼ばれ、軽々に立ち寄ってはならない場所だった。体は大人、精神は子供の宗次郎はその魔窟に迷い込んでしまったのだ。

 幸運にも当時の宗次郎は入り口のあたりで、ボロ布をまとった老人に声をかけられた。老人は宗次郎の身の上話を聞くと、桃の形をした饅頭を手渡してこういった。

 これを食べれば記憶が戻る。大丈夫。

 優しい声でささやかれ、宗次郎は有頂天になった。大声で老人にお礼を言い、来た道を全力で戻った。

 早く門と森山にこの桃を見せたい。目の前で食べて、記憶が戻れば二人ともきっと喜んでくれる。子供心に宗次郎は老人の言葉を信じたのだ。

 結果、入り口に立っていた門に桃を見せると、本気で激怒された。普段物静かな門があそこまで激情に駆られた姿を見たのは、あれが最初で最後だった。

「こんなもので記憶を取り戻したりできません。見なさい」

 震える宗次郎に、門はその桃饅頭を食べればどうなるか動画で見せた。

 麻薬という言葉を知らなくても、食べたらどんな目に合うかは嫌という程理解できた。依存した人間がいかに悲惨な末路を辿るか。人としての終わりを見た気がして、心底恐怖した。

 蟠桃餅ばんとうもちという麻薬は非常に依存性が強く、長期に渡って使用すれば心を壊す。廃人になってしまう例も少なくないそうだ。

「いいですか宗次郎君。今のあなたなら、私は教育を施し、森山さんは面倒を見れるでしょう。ですが、こうなってしまっては私たちはどうしようもありません」

 コクコクと頷くしかなかった。おかげで、食べたら死ぬものとして宗次郎の脳裏に強烈に焼き付いている。

「この蟠桃餅ばんとうもち、作成してばらまいているのは天主極楽教てんしゅごくらくきょうよ」

「!」

「あいつらはこの菓子の形をした麻薬を大陸中にばらまいているのよ。崇高な理想のためにね」

 皮肉をたっぷり込めた口調で燈は呟く。

 蟠桃餅ばんとうもちは天主極楽教の財源として機能している。社会的弱者を中心に流布するのはもちろん、対立する貴族のどちらかに肩入れし、敵対する貴族の領地にばらまいて金を巻き上げ、肩入れした貴族からも資金を援助してもらう。

 こうして貴族をも取り込み、その勢力を拡大させている。現在起きている密輸や暗殺、窃盗のほとんどに天主極楽教が関わっているとされているのはそのためだ。

「甘く考えないことね」

「……」

 ━━━なら、あの毒にも何らかの効果があるじゃないか。

 不安に駆られた宗次郎はさらに考え込む。

 
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