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燈の婚約者 雲丹亀玄静登場

雲丹亀玄静 その8

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 関係の変化に気づかぬままずるずると引きずり、亀裂が入ったのはその年の十二月のこと。



 玄静は三塔学院に入学するため入学試験を受けていた。



 将来についてあれこれ考えたものの、結局何をやりたいか決められなかった。なので奨励会よりも学院に通い、そのうちに進路を決めようと判断したのだ。



 入学試験は丸一日かけて行われ、午前に筆記が、午後に実技が行われる。



 ━━━余裕だな。



 午前の筆記試験が終わった段階で玄静はため息をつく。



 全国各地から波動師の才を持つ者が集まるだけあって合格率は五割ほどといわれている。玄静にとっては赤子の手をひねるレベルだ。



 実技のほうもおそらく問題はないだろう。



「見ろ、雲丹亀家の次男だ」



「あの六大貴族の……」



「将棋の腕前はとんでもないらしいぞ」



「へえ。かっこいい人」



 波動術の実技を行う会場に移動すると、周囲の視線が一気に集まる。



 若干のやりづらさを感じながら玄静は空いている椅子に座った。



「なあ、君は雲丹亀家の人間だろう?」



「……そうだけど?」



 隣に座ってきた男子がいきなり話しかけてきた。



「この前、将棋の大会で優勝してたよね。おめでとう」



「……どうも」



「僕も将棋をやってるんだけど、なかなかうまくいかなくてさぁ」



 人当たりがいいのか、それとも緊張して話し相手が欲しいだけなのか。名も知らぬ男子は実技試験の説明が始まるまでずっとしゃべり続けていた。



「やっぱり将棋部に行くの?」



「もちろん。行ってまた兄さんと対局したいんだ」



 三塔学院に通う本音がそれだった。



 久しぶりに兄さんに会いたい。あって自分がどれだけ成長したのかを見たい。



 そして、また一緒に将棋をしながらいろいろと教えてもらいたい。



 三塔学院に通う本当の理由はそれだった。



「兄さん?」



「そうだよ。兄さんは最年少での部長を目指してるんだ」



「嘘だぁ。僕はいとこが将棋部にいるから試合をよく見に行くけど、雲丹亀家の人間はいなかったと思うよ?」



「は?」



 玄静は顔をしかめる。



「ありえねーよ。対局の様子をしょっちゅう聞いてるんだ」



「そう? 部員が多いからやめる人も多いって聞くけど」



 険悪な雰囲気が流れ、周りがざわざわと騒ぎ始める。



「試験が終わったら部活棟に行こうよ。僕もいとこにあいさつしたいし」



 男子がそう告げると試験官が入ってきたので会話は打ち切られた。



 もやもやした気分は晴れないまま玄静は試験を速攻で終わらせ、部活棟に向かった。



「歩くの早いって」



「うるさい!」



 ━━━ありえない。兄さんが。あの将棋が大好きだった兄さんが。将棋部をやめるなんて。



 不安と一緒に隣の席に座った男子を振り払うかの如く、廊下をぐんぐんと進む。



 ━━━でも。最近、兄さんは何してるんだろう。



 電話をしていないせいで、玄静は三塔学院に入学する予定を伝えていない。同時に、兄の現況についても知らなかった。



 入り口に設置された地図で将棋部の部室を確認する。2階の右端。部屋を二つぶち抜きで使っているようだ。



 寒暖を上がって廊下を静かに歩き、囲碁部と書かれた看板の扉の次、将棋部の前にたどり着いた。



 心臓がバクバクと鼓動を打ち、鼓膜に響く。息は自然と荒くなり、背中が汗でぐっしょりしている。



「失礼します」



 無理やり肺に空気を入れ込んで、ゆっくりと扉を開ける。



 そこには数十人の部員たちが将棋に明け暮れていた。対局をするもの、先輩から指導を受けているもの、対局を一人で振り返っているもの。様々いるが、みな集中していて玄静に目もくれない。



「あれ? リョウ? なんでここに」



「レイさん!」



 偶然。一緒に来ていた男子はいとこが近くの席に座っていたため、すぐに迎え入れられた。



「ここは部外者は立ち入り禁止だぞ」



「いいじゃんちょっとくらい。来年はここに入るんだし」



 仲良く会話する二人を無視し、玄静は背伸びして白義の姿を探す。



 遠くまで見渡せない。もしかしたら奥にいるのかも、と歩き出そうとすると肩をつかまれた。



 レイと呼ばれた部員だ



「君は誰だ? リョウの知り合いか?」



「違います。あの、兄を探してるんです」



「兄?」



「雲丹亀白義です」



「え……」



 部員の顔が一瞬だけ固まるのを、玄静は見逃さなかった。



「うーん、ちょっと言いにくいんだけど……」



 頬を掻きながら部員が言いにくそうに告げる。











「君のお兄さんは、この前将棋部をやめたよ」











 ぐらりと視界がゆがむ。



 やめた? あれほど将棋が好きだった兄さんが?



 信じられない。



「兄さんは、どこにいますか?」



「寮だけど、立ち入りは禁止だ」



「そうですか。ありがとうございました。失礼します」



「お、おう」



「大丈夫?」



 よほどひどい顔をしているのか。一緒に来た男子まで心配している。



 崩れ落ちそうになる体を何とかこらえて頭を下げ、部室を出た。



 茫然自失になりながら部室等を出て、ふと端末に手を伸ばす。電話の履歴から兄の番号を出し、掛ける。



「おかけになった電話番号は……」



 コール音すらならず、電話が切れる。



「どうして……」



 ポツリと漏れた独り言は誰に耳にも届くことはなく、寒空の彼方に消えた。















 試験の日はとても兄に会う気になれず、大人しく実家に戻った。



 兄が部活をやめた。その事実を前に試験の手応えや結果は完全にどこかえ吹っ飛んでしまった。



 兄に会いたい気持ちは残っているものの、会ったところでどんな顔で会えばいいのか、どんな話をすればいいのか。



 悶々と悩んでも答えは出るはずもなく、一ヶ月に及ぶ時間が無為に過ぎた頃。事件が起こった。



 祖父の元から陸震杖が離れたのだ。



 六十年近くにわたり雲丹亀家の当主と務めた祖父から、当主の資格が失われた。それは同時に、新たな陸震杖の主が次期当主になることを意味する。



 その激震は雲丹亀家にとどまらず、王国中に広まった。



 テレビではニュースで速報が流れ、国王と大臣がねぎらいの言葉を述べた。祖父のこれまでの功績を特集した番組が作られ、次の当主は誰になるのか注目が集まった。



 知らせを聞きつけた多くの貴族が参列ために訪れ、屋敷の外にまであふれる。その長さこそは祖父がこれまで積み上げた功績の大きさと同義であると肌で感じ、玄静は鳥肌がたったのを今でも覚えている。



 次の当主になるために全国に散らばった親戚たちも集まってきた。



 もちろん兄の白義も例外ではなく、玄静は測らずとも兄と再会を果たした。



「兄さん。久しぶり」



「……よぉ。玄静」



 一年半ぶりに顔を合わせた兄は少しやつれていた。頬がこけ、目がぎらぎらしている。活発で明るい雰囲気はなくなり、ピリピリとした緊張感を漂わせていた。



「みんな揃ってるよ」



「そうか。じいちゃんは元気か?」



「うん」



 たわいもない会話をしながら兄と一緒に荷物を運ぶ。



 今何をしているのか。本当に部活をやめたのか。聞きたいことは山ほどあるのに、一歩踏み出す勇気が持てない。



 ━━━ええい!



 恐怖を振り払い、玄静は口を開く。



「あ、あのさ!」



 上ずった声は予想外に大きく、廊下に響き渡る。



「僕、三月から三塔学院に行くんだ……」



 悪事を告白するように玄静はうつむきながら告げた。



「だから、一緒に━━━」



「玄静」



 また一緒に将棋をしようよ、と続くはずだった言の葉は白義によってさえぎられる。



 暗く、冷たい声で名前が呼ばれ、玄静の体がこわばる。



「俺は将棋部をやめた」



「……どうして」



「別にいいだろう? 将棋はあくまでおまけだ。そもそも、あんな連中と一緒に将棋をしたところでなんの足しにもならない。どいつもこいつも無能のくせに足を引っ張るばかりで……」



 背中越しに突き放すような態度をとる兄に愕然とする玄静。



 あんなに将棋が大好きだった兄に何があったのか。質問を続けようとするといきなり兄が振り向いた。



「懐かしい。昔ここでよく将棋をしたな」



「……うん」



 やがて二人は縁側の廊下にたどり着いた。



 冬の冷たい風がガラス窓を揺らす。はるか彼方に青白い満月が浮かび、月明かりが玄静たちを照らしている。



 かつて二人で何度も将棋を打った思い出の場所だった。



「祖父のような大臣になり、この国を変える。それが俺の夢だ」



 白義は庭のほうを向いて、冷たいガラスに手を置く。



「俺には次期国王に認めてもらうだけの実績が必要なんだ。雲丹亀家次期当主の肩書はその一つ」



 白義の声は太く力強い。振動でかすかにガラスが揺れる。



「俺はこの時を、この瞬間をずっと待っていたんだ……」



 ガラスに置いた手を握りしめ、白義は振り向く。



「俺は必ず陸震杖の主となる。だから玄静も、いい加減将来をちゃんと考えろよ」



「兄さん、僕は━━━」



「玄静」



 またしても発言を遮り、白義はもういいといわんばかりに背を向ける。



「もう、俺たちは子供じゃないんだ」



 ぶっきらぼうに告げ、白義は自分の部屋へと消えた。



 一人残された玄静を照らす月明りはどこまでも暗く、冷たいままだった。



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