衛星のスタジォーネ

gaction9969

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ガニメデ1999(承前)▲

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 ……あの時で本当に幸運を使い切っちゃったのかもなあ、など、詮無いことを割と本気で考えながらも、荷物を漫然と詰めた黒い合皮のリュックを背負う。

「……」

 まだ暗い外に出て、鍵を一応閉めると、電灯が切れかけて点滅している外階段を、未だ定まらない膝に注意しながら、のそりのそりと降りていくのであった。

 ブロック塀と家屋の隙間に無理やりしまい込んでいた自転車を何とか引っ張り出すが、手がかじかむほどの張りつめた冷気が蔓延している。

 カゴに突っ込んだままだった薄汚れた軍手をつまみだすものの、何度か雨に晒されたと見え、手を突っ込むと何となくじんめりとした嫌な感触を覚えるのだった。さらに繊維の内部まで冷え切っているんじゃないかくらい、指先をはめていくそばからぞわりと冷感が脊椎あたりを這い上がってくる。一方サドルも冷え切っていたが、何故かそれには大きな臀部を乗せると一抹の気持ちよさを感じてしまうダメな久我なのであった。

 それにしても寒さがのっぴきならない。久方ぶりに体をおっかなびっくり動かし、危なっかしくペダルをこぎ始めるのであったが、その空間にしんしんと満たされていた寒気も相当である上に、それを己の体で攪拌するかのように突っ込んでいくと、更なる凶暴な突き刺す寒さというものを発見できてしまうのであった。

 それでも微かな希望を胸に、人も車も通らない暗闇の中を漕ぎ進めていく。

 川べりまではものの三分ほどで出られた久我だったが、早くもこの選択が誤りであった事実を突きつけられるのであった。川を渡り、吹きすさぶ風量は、遮るものが無いぶん段違いであり、自転車に乗った体に巻き付いてくるくらいの執拗な突風なのである。

 ひぃぃ、と情けない声を上げながら、何とか車輪を回していくものの、いかんせんタイヤの空気が足りないのか、ペダルの重さほどには、前に進んでいかないのであった。チェーンもどこかが外れかかっていると思われ、数秒ごとにカチャコン、カチャコンと気障りな音を立てている。

 街灯も一段下がった道路沿いにしかなく、川沿いの道は体のすぐ表面まで包むかのような暗闇に支配されていて、川を越えた向こうに点灯やら点滅やらしている赤いライトくらいしか視界に入ってこない。しかもそれらに迂闊に焦点を合わせてしまうと、逆に周囲の様子がぼやけてしまって危険なのであった。

 そして時折、いやがらせのように部分的な砂利道に切り替わったりして、割と大きめな砂利石が、まるで意思を持っているかのように的確に、久我のハンドルを捉えようとしてくるのであった。

 僕はこの年の瀬の深夜と早朝の狭間で、いったい何をやっているのだろう、とそろそろもっともな自問が頭の片隅に、それでも遠慮がちに顔を見せてきた頃、突如けたたましい金属音が辺りに響き渡る。

「……」

 チェーンが外れてしまったのはまだしも、驚いて後輪を覗き込んでしまったのが全ての敗因であった。何か異常を感じたらまず停車すればいいのに、走行しながら自分の右わきの隙間から後方を確認しようとした結果、自明のこととしてハンドルは自然に右に切られ、すいーっと無駄な勢いを保ったまま、川土手の斜面に突っ込んでいくのであった。

 あおっあおっ、というような断続的な叫びが、突き上げるサドルの衝撃と共にもたらされる。難易度の高いモーグル的な斜度を、久我は普段発揮されることのない集中力と閃きで、次々とやり過ごしていくものの、斜面終わりの砂面にタイヤを取られると、あえなく横倒しとなり、左脇腹を地面にしこたまぶつけ擦られてしまうのであった。

 衝撃音とうめき声が、張りつめた冷気を一瞬かき混ぜるが、それでも数秒後には、辺りは静寂を何事も無く取り戻していく。

 自分の今に至る行動を鑑みて、打ち付けた部分を撫でさすりながら、おねえ座りの真顔で今度こそ思考も動きも止めてしまう久我なのであった。

 13.5kmのうちの道程の、3.5kmくらいしかまだ消化出来ていない。頼みの移動手段もつぶれた今、行くも帰るもしんどい状況であって、どうせ帰っても何も変わらないのなら、せめて前を目指そうと、ここに来て何故か前向きな姿勢をほの見せる久我であった。

 チェーンが盛大に外れた自転車はそこにうっちゃって、枯草がまばらに茂る斜面を両手で掻き毟るようにしながら何とか登り切る。土手に上がって見渡す風景は、相変わらず人々が目覚め始める前の、静まった暗闇に支配された街並みであったものの、ふとそこで、久我に天啓が訪れるのであった。

(……おばあちゃんち)

 母方の祖母が住むのが、この辺りだったことを思い出す。徒歩や自転車で訪れたことは無かったものの、ふと目に留まった「避難地区」と記された地図の中にあった地名が、久我の万事に曖昧な記憶を奇跡的に呼び覚ますのであった。

(……等々力)

 小学生くらいの時は、よく母親に連れられて大井町線に揺られて行ったものなのであった。

 戦後女手ひとつで六人の娘を育て上げた女傑は、そうは感じさせないような、柔和で優しく、そして物事をはっきりと喋る江戸前の人であった。

 親類二十名くらいが一同に会して、駅伝を見るともなしに点けながら、昼前から夜半過ぎまで、のんべんだらりと大宴会を催すのが、祖母から連なる一族の正当な正月の習わしでもあった。
 
 もちろん久我も、正月は意気込んで乗り込んでいった。必死で慣れない年始の挨拶を繰り返し、酒呑みから絡まれつつも愛想笑いで応対していたのは、ひとえに祖母と五人の伯母たちから、お年玉を回収するためである。特に小学生の頃の折からのバブル景気は、ぽち袋の中身にも如実に影響を及ぼしていたわけで、そういった意味でも一年の計は元旦にあったのであった。

 しかし祖母が病気がちになってからは、それも形ばかりのものとなった。

 介護ベッドに身体を預けたままの側に座って、年始の挨拶と、何度も繰り返される昔話を少し交わすくらいで、お暇した。お年玉だけはしっかりともらって帰ったのだが。

(おばあちゃん起きてるかな……)

 いくら年寄りの朝が早いと言えども、午前4時52分は流石に非常識な時間帯ではある。しかし久我はこのひとりよがりの「妙案」に心奪われており、普段は見せない強い決意と実行力をここに来て発揮し始めてしまう。

 そして東の空もだんだんと白んで来ていて、もうこんな明るいんだから大丈夫だよね、と久我の迷いの無い丸い背中をさらに後押ししてしまうのだった。

 とは言え、今いる場所は二子玉川の駅の手前。等々力まではそれでも2kmほどはあるだろうか。

 しかし久我は所持金242円の身でありながらも、ここが勝負所と途中の自販機で温かいコーンポタージュスープを購入すると、手を温めつつ、味わいながら舌でねぶりながら、最後の一粒まで指で残さず回収し、少しぬくまった体にて、大井町線沿いを等々力の祖母宅を目指してよろよろと歩いていくのであった。

「……あらー、ガクちゃんじゃないのぉ。ちょっと早くなぁい?」

 以前暮らしていた三階建ての長細い作りの工場兼住居は大分前に引き払われ、足の悪くなった祖母のためにその隣に建てられた、平屋の落ち着いた作りの日本家屋が、歩き疲れた久我の前に姿を現したのであった。

 記憶を頼りに何とかたどり着いた久我を出迎えてくれたのは、祖母と半同居し世話をしてくれている、いちばん上の伯母なのであった。

 ちょ、ちょっと近くを通りかかったもので、明日は明日でちゃんとご挨拶に伺いますので、と、よくわからないことをもごもごと言うが、伯母さんは突然のアポ無し早朝訪問に少し驚くものの、もう起きておせちの仕込みをしていたらしく、かわいらしいリラックマのエプロン姿のまま、久我を居間に通してくれるのであった。

 出された緑茶で手を温めながらありがたくいただいていると、居間に直結した引き戸の奥から、あぁきこぉぉ、と伯母さんの名前を呼ぶ掠れた声が聞こえてきた。はいはい、と伯母さんはそちらに手を拭きながら向かう。

 おばあちゃん起きてる、と久我もその後を追って引き戸から中を覗くのであった。

「……あらガクちゃん。おおぉきくなったねぇぇぇえ」

 不思議な事に、おばあちゃんはこの突然の訪問をあまり驚いていないようで、座れ座れと促され、是非もなくベッド横の丸椅子に腰かける久我であった。何か用事があって伯母さんを呼んだと思われるのだが、それは置いといて上機嫌で久我に話しかけてくる。

 あとはよろしく、と伯母さんに手刀を切られ、久我はおばあちゃん小さくなったな、と思いつつも、いつも聞いていた昔の話をなぞるようにまた聞き続けるのであった。子どもの頃から何度も聞いた話だが、久我はおばあちゃんの話す諸々のことが好きなのであった。

 相槌を打ちながら、久我は初めて聞く話のように、祖母の語る昔話に耳を傾ける。

 そして、

 小一時間ばかりで辞する久我であった。その懐には少し早いお年玉がちゃっかりと納められているのだが。

 陽が射しつつある空を見上げ、うん、と伸びをしてみる。懐のぬくもりによって、取り巻く冷気も少し心地よく感じて来るような、呆れるほどに現金な久我なのであった。

 空の高くはまだ藍色に染まっている。そこにひときわ大きな恒星と、その脇にぼんやり見える小さな星の瞬きを、その瞬間、久我は確かに視認したのであった。

(僕は、おばあちゃんという大きな星の周りで回る、衛星のひとつ)

 柄にも無く、詩的なことを思う久我である。

 若き頃は京浜工業地帯にある実家の町工場で働いていたおばあちゃんは、震災も空襲もその身ひとつ、さらには自分の子らをも守りつつ、必死で切り抜けてきたのであった。

(おばあちゃんが頑張ってくれなければ、今の僕はいないんだし)

 近くに落ちた焼夷弾の爆風で埋まった防空壕の中から、下駄で土を掘って何とか這い出てきたのだと言う。そしてまだ十か月だった双子の赤ん坊を一本の帯で前後に縛りつけ、五歳の娘の手を引いて、炎の中を駆け抜けた。

(……しっかりしなきゃなあ)

 自分の置かれた立場なんて甘すぎだぁ、と、わかったのかわからないのだか曖昧なことを思うと、はたと胸ポケットに手をやり、そのありがたい手触りをいま一度確かめる。

 よっしゃぁ、メシ代ゲットだぜぇぇぇ、と、ぴょんとひと跳びしてから、仕込みやら何やらで動き始めたように思われる狭い商店街の道を、等々力の駅を目指して軽やかに歩き始める久我なのであった。

 その頭上に、確かに光るひとつの光点。
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