残り四回の嘘

戸部家尊

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      二

「藤川、帰りカラオケ行かねえか」
 昼休み、翔太の席までクラスメートの石田が話しかけてきた。
「駅前に新しいカラオケボックス出来たんだって」
 石田の隣にいた牧野春香が補足する。
「早速今日みんなで行こうってことになったんだ。私と美智子と石田君。それでね、あの、どうかな? 藤川君」同じクラスの友人の名前を挙げて、恐る恐る訊く。茶色がかった大きな瞳を揺らし、翔太よりも頭半分ほど小柄な体つきを硬くして翔太の顔色を窺う。
 翔太はしばし迷ったが手を振った。
「ごめん、今金ないんだ。だからパス」
「あ、そうなんだ。ごめんね。無理言って、気にしないで」
 春香は両手を振った。その勢いで肩まで伸びた髪がさらりと揺れる。
「誘ってくれて有り難う、牧野さん。ほかの奴誘ってみたらどうかな? 渡辺とか暇そうだし」
「そうだね」春香は曖昧に相槌を打って俯いた。
「マジかよ、本当に金ねえのか」石田が訊く。
「使った」
「何に?」
「株式投資」
「嘘付け」
 石田は突っ込んだ。
 不思議なお婆さんが去った後、翔太は家まで走って帰るとすぐに洗面所に飛び込み、何回もうがいをした後、鏡で口の中を覗き込んだ。舌にも歯や歯茎も全く変化はない。舌先を口内中這わせてみたがこれといって違和感もない。念のため、手鏡を二枚使って、歯医者のように歯茎の裏も見てみたが右下の奥に虫歯を発見した以外、異常は見られなかった。
 食事も普通に出来るし、夕食のカレーもちゃんと味がした。こうなるとお婆さんなど存在せず、暑さにやられた翔太の頭が作り出した幻覚だったのではないかと疑いたくなる。だが、あのお婆さんの指が舌を撫で回した感覚は本物だったし、何より、翔太の財布から百二十円余分に消えている。
 こうなると「相手に嘘をつかせる能力」を試してみたくなるのが人情だ。けれど迂闊に使う訳にはいかない。使用回数はたった四回だ。慎重にいきたい。そう考えていると今度は使いどころが見つからない。そう考えているうちに一週間が過ぎた。
 そもそも、人に嘘をつかせて何の得があるのか。翔太は色々考えた挙げ句、学校一のプレイボーイである真鍋に同性愛をカミングアウトさせるくらいしか思いつかず、ちょっと落ち込んだ。
「いや、今日は予定入ってるんだよ。それでさ」
「予定って何だよ」
「ヨーロッパ各国首脳との地球温暖化防止のための国際会議」
「どんだけ責任重大だよお前の双肩!」
 石田はまた突っ込んだ。その隣で春香もくすくす笑っている。
 自分が付くのは簡単なんだけどな、と翔太は心の中で苦笑した。
 坂道での一件を翔太は誰にも話していない。あのお婆さんの力は、身をもって証明済みだが、『本物の』魔法使いにあって魔法を貰いました、なんて話のネタになる訳がない。十中八九バカにされるか病院行きを宣告される。仮に『本物』の能力を使ってみせたとしても物珍しがられるか、気味悪がられるだろう。いずれにせよ、ろくなことにはならない。
「おーい、藤川」教室の外から女の声がした。返事をするより早く女は教室に入り、翔太の席に向かって来る。黒々とした瞳に高い鼻梁、口紅の映える薄い唇、細く柔らかそうな腰に、そこまで伸びた黒髪は跳ねも癖もなく瑞々しい艶を放っている。短いスカートをひらめかせ、すらりとした脚が机の前に止まる。隣のクラスの北村沙希子だった。沙希子は春香に一瞥をくれると冷ややかに鼻を鳴らす。そして翔太に目線を向けると傲然と言い放った。
「国語の教科書忘れてさ。貸せ」
「いきなり命令形か。断る」
「はあ? 言っておくけどおめーに選択肢はねえからそのつもりで」
「隣の席の奴に見せて貰えばいいだろ」
「マジ勘弁してよ。あいつ、メガネでデブでオタでキモイんだよ。この前学校に女の人形とか持って来ててさ。リカちゃん人形みたいな奴。持ち物検査で没収されて泣いてんだよ。ウゼエったらありゃしねえ」
 沙希子が大袈裟に眉をひそめる。
「ほかの奴に頼め」
「今日国語あんのはウチとここだけなんだよ。つー訳だから貸します、貸す、貸す時、貸せば、貸せ」
「誰が活用形使って段階踏めって言ったよ、嫌だ」
「あ、良かったら俺が貸そうか」石田が脇から言う。愛想のよい笑顔を振りまいているが、その目が一瞬、沙希子の胸の膨らみに注がれたのを翔太は見逃さなかった。
「やめとけ」翔太は頬杖つきながら言った。「日本史の教科書にエロ落書きしたり卑弥呼や聖徳太子の鼻毛伸ばして額に肉、って書くような奴だぞ」
 翔太は手で追い払う仕草をした。
「去れ。魔王! 俺は悪の手から宮沢賢治や川端康成を守り抜くぞ」
「あっそ。なら私の命令に逆らった罪で罰金一万円、嫌なら島流し」
「どこの犬将軍だよ、そんな金はねえよ」
「いいじゃん。知ってんだぞ。おめー、おとつい親戚の叔父さんからたっぷり小遣い貰ったんだろ」
「え」はっと息を飲む気配が伝わる。振り向くと、春香が居心地悪そうに俯くのが見えた。 翔太は頭を掻き、取り繕った笑みを浮かべて春香に目を向ける。春香は無言で顔を背けた。気まずい空気が流れる。
「おめーのオバサンから聞いたんだよ。藤川、ネタは割れてんだ。とっとと払えよ」
 沙希子の明るい声が割って入る。
「あのな北村」翔太は沙希子に向き直る。「今お前の相手している暇はないんだ」
「暇がなけりゃ作ればいいじゃん」マリー・アントワネットのような無知と傲慢さだ。「だいたい、おめーが忙しい訳ねーだろ。帰宅部で帰ってもゲームばっかしてる奴が」
「お前も帰宅部だろうが」
「私は忙しいんだよ。猫でも猿でも藤川でも手を借りたいくらい」
「ふざけんな。どうせ下らねえ買い物だろうが。お前の荷物持ちなんてうんざりだ」
「いいじゃんか。金欠なんだよ。恵まれない子供に愛の手を」
 お前が恵まれていないのは脳みそだけだろうが。
 翔太がそう言おうとした時、五時間目の予鈴が鳴った。
「あ、やべ。もうこんな時間かよ。じゃあな」
「待てよ」自分の教室に戻りかけた沙希子を呼び止めると、翔太は机の中の物を手探りで掴む。振り返った沙希子の胸元目がけてそれを放り投げた。沙希子は両手を伸ばし、掬い上げるようにして現代国語の教科書を受け止めた。
「お前何しに来たんだよ」翔太は呆れた口調で言った。「落書きすんじゃねえぞ」
「おう、サンキュー藤川」言ってから沙希子がにやりと笑う。「今度は額に米って書いとく」
 翔太が抗議の声をかけるより早く、沙希子は身を翻して自分の教室へ戻っていった。
「あの馬鹿。後で弁償させてやる」
「北村さんと藤川君って仲いいよね」春香がぽつりと言った。
「冗談だろ」
「けど、藤川君凄く楽しそうだったし、それに、ほかの女の子にああいう口の利き方しないから」
「誤解だって牧野さん。北村に人並みの対応してやる必要ねえだけ」
 それに、あいつもう彼氏いるし。
 しかも相手はあの真鍋だ。真鍋鉄也は翔太たちの一つ上で、浅黒い肌に背は高い。細身だが体格はがっしりしている。軽音部に所属しており担当はベース。学校外でもバンド組んでおり、月に一、二回髪を紫色に染めてライブハウスで演奏している。沙希子ともそこで知り合ったらしい。鉄也は芸能人に知り合いがいる、とか服はブランド物だとか、お揃いのネックレス買ったとか、携帯電話も同じのにした、とか聞きたくもないことを沙希子から聞かされたことがある。
 先週の日曜日に腕組んで歩いているのを見かけたからまだ続いているようだ。昔から沙希子はよくもてた。クラスの男子はもとより余所の高校の生徒からも告白された。担任の先生とも付き合っていたという噂まである。ただ、最初は見た目に騙された連中も沙希子の口の悪さとわがままにうんざりしてしまうらしく、そのどれも長続きしていない。
 まあ、それは俺も一緒かな。
 翔太だって朴念仁ではない。中学三年から今まで三人の女の子と付き合ったがどれも三ヶ月続かなかった。最後の子とはつい先月別れたばかりだ。
 沙希子に交際を申し込む男は後を絶たない。その結果、男遊びの激しい奴というイメージが学校中に定着してしまい、一部の女子からナメクジかゴキブリのように嫌われている。沙希子も一向に気にせず、我が道を行くものだからますます嫌われる。処置なしだ。
「あいつとは付き合ってるとかじゃ全然ないんだ。あいつにも言ったけど本当に今日忙しいんだ。その、個人的なことだから言いたくなくて。それで、だからその適当な言い訳作って。牧野さんたちと行くのが嫌だって訳じゃないんだ、ゴメン」
「ううん、気にしないで」春香は慌てた様子で手を振った。「そういうことならしょうがないよ。気にしないで」
「また埋め合わせするから」
「なら、今埋め合わせして貰おうか」
 春香の背後で男の声がした。見ると、灰色のスーツを着た中年の男が額に太い筋が浮かべ、ずり落ちた細い眼鏡を指先で直していた。英語担当の矢島だった。
「予鈴が聞こえなかったのか牧野。いつまで立ち話してるんだ」
「済みません先生」春香は頭を下げた。
「もう授業は始まってるぞ、立っているのはお前だけだ」いつの間にか石田は自分の席に戻っている。あの裏切り者、と翔太は睨んだ。
「で、お前のせいで削られた授業時間はどうやって埋め合わせしてくれるんだ? お前が代わりに授業してくれるのか」
「あ、その」
「俺の授業がそんなに気に入らないのか?」
「いえ、そんなことありません」春香の声が小さくなっていく。
「お前進学だったよなあ」矢島は持っていた教科書で春香の頭を軽く叩いた。「英語の内申、楽しみにしとけよ」
「そんな!」
「何が『そんな』、だ。お前いい気になってるんじゃないのか。なんだ、その口紅の色は。ガキが一丁前に色気づきやがって」春香の目に涙が盛り上がる。
 翔太は鼻白んだ。そこまで言うことないだろう。春香に悪意はない。早く自分の席に戻れ、の一言で済む話だ。意図的に絡んでいるとしか思えない。
 そこまで考えた時、この前石田が喋っていた噂話を思い出した。矢島は奥さんに浮気がばれて別居中、娘はぐれて今暴走族入ってるという。生活態度がどうとか説教しといて自分の家庭は目茶目茶なんだぜと、喜々として語っていた。
「先生」翔太は立ち上がった。「牧野さんは俺と喋ってました。俺が話しかけて俺が引き留めてました。だから責任は俺にあります。叱るなら俺にして下さい」
「座れ藤川」矢島が怒鳴った。「お前には聞いてない」
「なら早く授業を始めて下さい。下らないことをちくちくと。これこそ、時間の無駄です」
「正義の味方のつもりか。お前、はっ。そうか。牧野に気があるのか」
 矢島の言葉に春香がはっと顔を背ける。翔太の胸に濁流のような怒りが渦巻く。
 殴ってやろうか。
 手が拳を作る。けど、それでは自分の気が晴れるだけで、春香を救ったことにはならない。むしろ状況を悪化させるだけだ。
 そういえば、と翔太は思考を巡らせる。
 嘘をつかせる能力を試すには一つの前提がいる。つまり、その発言が確実に『本人の意思によるものではない』ということである。人間は嘘をつく生き物だ。ネッシーを見た、なんて荒唐無稽なものから、『俺芸能人と付き合ったことがあるんだぜ』という見栄に浮気の否認、果ては殺人のアリバイなんて切羽詰まったものまで、どんな突飛な嘘でもついてしまう。なら、どうすれば能力を実証できるか。
 翔太は矢島に歩み寄り、射抜くような視線を向ける。殴られると思ったのだろう。矢島は両手を前に突き出し、一歩後ろによろめく。
「何のつもりだ藤川。退学になりたいのか」
「先生」翔太は心の中で唱える。嘘・嘘・嘘。
「奥さんと仲いいですか?」
 矢島の顔がみるみる赤くなった。唇を震わせ、怒りと敵意の籠もった目で翔太を見ている。教室のあちこちから笑い声が聞こえる。あの噂は結構広まっているらしい。矢島の唇が動いた。
「ああそうだ。あれはおとついの晩のことだった。私が学校から帰る途中、東の空にオレンジ色に光る物体が浮いているのが見えた。私は写真を撮ろうと鞄からカメラを取り出しファインダーを空に向けた。その途端、物体はもの凄いスピードで西の空へと消えていった。あれは間違いなくUFOだ!」
 矢島の顔が強ばる。自分の発言が信じられず、驚き慌てふためいているようだ。春香もクラスのみんなも茫然と矢島を見ている。
 やっぱりこの力、本当だったんだ。
 翔太は改めて驚いた。
 どんな理由にしろ嘘を言うのはそれが必要だからだ。必要のない嘘はまず言わない。まして関係のない嘘は。もし矢島の意志ならあの場合「良いに決まってる」もしくは「お前には関係ない」と言う筈だ。全く関係のない未確認飛行物体との遭遇した話などまず出てこない。
 矢島はまだ喋り続けている。顔が赤い。間断なく話しているので呼吸もままならないようだ。何だか可哀想になってきた。そろそろいいか。けど、これどうやったら止まるんだろう。止まれと念じればいいのかな。その前に。
「済まなかったな牧野。言い過ぎた」
 矢島にそれだけ言わせるのを忘れなかった。嘘、と言うところが何とも腹立たしいが。
 翔太は念じた。途端に矢島の言葉が止まる。体を折り曲げ、ぜえぜえと喉を鳴らす。呼吸が荒い。
「じ、自習にする」
 矢島はそれだけ言うと口を押さえ、まろびながら教室を飛び出した。クラス中がざわめく。矢島の異変に戸惑っているようだ。暑さにやられた、病気、ヒステリー、翔太にびびった、様々な憶測が飛び交う。
「自習だって牧野さん」翔太は立ちつくしている春香に呼びかける。「早く座ったら?」
「う、うん」春香は頷き、小動物のような足取りで自分の席に戻っていった。
 思わぬ所で能力を一回使う羽目になってしまった。これで残り三回。能力が本物と分かったのは収穫だった。矢島なんかに使ってしまったのは勿体ない気もするが、まあ仕方ない。自分がしてあげられるのはこれくらいだ、と翔太は一月前に別れた恋人の席を見つめた。
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