上 下
2 / 5

2

しおりを挟む
 手のひらに固く、肉をうがつ感触が伝わる。

 くぐもったうめき声がハリーから漏れる。肉厚にくあつの刃は骨を切り裂き、背中から心臓を貫いていた。傷口から赤黒い血がしずくとなって滑り落ち、ガイの手を濡らした。

「なに、を……」
 信じられない、というハリーの絶望に満ちた声を聞いて、ガイは勝利の愉悦を感じた。とどめとばかりに短剣の柄に手のひらを当て、もう一度全体重を込めて押していく。ハリーの体は一瞬けいれんすると、がくりとガイに体重を預けるようにして倒れ込んできた。

 抵抗がなくなったのを確認してからガイはのし掛かってきたハリーの体を持ち上げるようにして押す。ハリーはうつぶせに倒れ込んだ。背中には墓標ぼひょうのように短剣が突き立てられている。

 やった、やったぞ!
 わき出る笑いをこらえきれず、呵々大笑かかたいしょうする。

 ハリーは死んだ。
 これで後継者の座は……偉大なるアンゼル・ネイメスの名は俺のものだ。

 全く、手間をかけさせてくれる。
 呼吸を整えて心臓を落ち着かせながらハリーを見下ろす。

 魔術師でなければ自ら刃を振るうなんてマネをせずに済むというのに。
 弟子入りした魔術師は、まず自身の身を守る術を覚えさせられる。魔術であれば、世界の果てからでも暗殺が可能だからだ。

 常にアミュレットで呪いや使い魔の攻撃から身を守っている。特に研究室となれば、二重三重にも結界が張られている。

 ここ数十年で、魔術に対する備えは、飛躍的に進歩している。よほどの実力差がない限りは、魔術での攻撃はほぼ無力化されてしまう。反面、物理的な攻撃に対する防御は限られている。『魔力の盾』のような物質を防ぐ魔術を四六時中張っていては、動くどころか水も飲めない。

 逆説的ではあるが、魔術師を殺すには直接的な物理攻撃が一番なのだ。

 おまけに魔術師の研究室ならば『過去視《サイコメトリー》』対策も万全である。研究を盗み見されないための手段だが、皮肉にもガイの犯行もくらませてくれる。ガイがこの場を犯行に選んだ理由の一つだ。

 短剣にも同様の魔術を掛けてあるので、そこからガイの犯行が露見する不安もない。だが、馬が殺されたのは完全に想定外だった。
 とにかく一度塔を出よう。森の中に入れば追っ手をまくこともできる。

 研究室に戻ろうとした時、ハリーの側に白い紙が落ちている。手紙のようだ。封は切られている。
 筆無精ふでぶしょうのハリーが書くわけもない。おそらくは来客からだろう。変人のハリーに会おうなどどこの酔狂すいきょうな魔術師だ。ふと気になって手紙を拾い上げた。差出人の名前は、フレデリック・C・レポフスキーと書いてあった。

 その瞬間、ガイは己の心臓を黒い手に握られた気がした。
「もしかして、レポフスキー卿……『裁定魔術士さいていまじゅつし』か?」

 古来より魔術師は人の世の埒外の存在である。

 「魔術」という、常人の持たざる力により、雷を落とし、魔物を操り、火の玉を振らせる。万を超える大軍が魔術師の放った隕石いんせきにより、壊滅したこともある。国王が魔術師との約束を破ったばかりに一夜にして消失した国もある。

 姿形は人のそれなれど、力は人の分際ぶんざいを遙かに超えている。
 それ故に、彼等を縛る法はなく、百も撲たれれば心臓が止まるほどの激痛をもたらすムチも、大砲でも破れぬ頑強な牢獄も、王侯貴族の首を落としたギロチンも、児戯じぎ同然であった。ムチは拷問吏ごうもんりの首を絞め、牢獄は小さな虫の姿ですり抜けられ、胴体と切り離そうとも自らの首を抱えながら哄笑こうしょうをあげる。

 魔術師とはそのような存在である。
 魔法を使えない人間たちを『魔力なし《マギレス》』と貶め、彼等の命すら塵芥ちりあくた同然に扱う者もいた。世界の王はまさしく魔術師であった。

 今より千年前はそのような時代であった。
 たまりかねた、諸国の王は神に祈った。

 その願いを聞き届けた魔術の神は、この世の全ての魔術師という存在に「制約せいやく」を課した。そしてその「制約」を破った者には、「審判しんぱん」の上「罰」が与えられた。

 その「審判」の地上代行者が『裁定魔術師』である。彼等は神より『魔術師』の「罪」を見定め、審議する義務がある。代わり魔術師に対して『絶対的な拘束力』を与えられている。魔力の多寡は関係ない。『魔術師』であれば誰一人として『裁定魔術師』には敵わない。人の世で言えば「衛兵」と「判事」と「裁判官」と「処刑人」を兼ねている、絶対的な「制約」の執行人。それが『裁定魔術師』だ。

 彼等の存在により、何人もの魔術師たちが冥界の住人へと変えられていった。恐れおののいた魔術師たちは、世界の表舞台からその影へと姿を消していった。魔術師たちが闇に消えた後も『裁定魔術師』たちは世界を巡りながら「制約」を破った魔術師たちを監視し、葬っているという。

 今もなお『魔術師殺しの魔術師』として魔術師の世界では恐れられていた。それは千年後の世界を生きるガイやハリーとして例外ではない。神の「制約」は魔術師になった瞬間から彼等の体と魂を縛り付けている。

 中でもレポフスキー家は『裁定魔術師』最古の一族である。魔術の神より直接『裁定魔術師』の使命を与えられたマンフォード・レポフスキーの末裔である。といっても血縁ではなく、徹底した実力主義により当主が決められる。

 そのためレポフスキー家の当主は、『裁定魔術師』を抜きにしても凄まじい魔術師揃いであったという。そのため、レポフスキー家の当主には敬意をこめて『きょう』を付けるのが魔術師の間では習わしになっている。

「貴様、なにをやらかした?」

 悔恨を込めて血だまりに倒れたままのハリーに呼びかける。当然返事はなかった。もしハリーが『裁定魔術師』に処罰されるようなら師の後継者となる話も流れていたはずだ。自分が手を掛ける必要もなかったというのに。

 ガイはあわてて手紙を開いた。

 時候の挨拶からはじまり、ハリーの研究に興味があるため『裁定魔術師』の職務とは関係なしに僕の塔を訪れる旨が書いてあった。しかも予定日は今日の午後だ。不精者のハリーが部屋を片付けていた理由を理解した。『裁定魔術師』に睨まれれば命はない。

 まずいな。もうすぐじゃないか。

 「制約」の違反者には、罪に応じて相応の罰が下される。最も重大な違反とされるのが「魔術師による魔術師殺し」である。『裁定魔術師』がいつ来てもおかしくない状況で、塔の中に居続けるのはまずい。
 ハリー殺害を思いついた時、『裁定魔術師』についても調べてある。

 過去の文献から噂程度のものもあるが、わかったのは『裁定魔術師』は万能の存在ではないということだ。無敵の力を発揮できるのは、あくまで罪を犯した魔術師のみ。正確に言えば『罪を犯したと確定した魔術師』だけなのだ。それ以外の魔術に関しては普通の魔術師となんら変わりない。むしろ、通常の魔術師よりも劣ることすらあるという。

 魔術師の罪は『裁定魔術師』の判断にゆだねられる。言い換えれば、『裁定魔術師』さえごまかしてしまえば無罪を勝ち取るのも不可能ではない。『裁定魔術師』による同一の罪による審判は一度きり。要するに、一度無罪と確定されれば、後日新たな証拠が出たとしても『裁定魔術師』により罪を裁かれることはない。

 たとえ『過去視《サイコメトリー》』を使われようとそれをごまかす魔法もひそかに習得してある。立ち去った後にハリーを殺害し、証拠となる塔もろとも吹き飛ばしてしまえば、どうすることもできまい。『時間遡行』でも持ち出されたらお手上げだが、あれは理論上のみ可能とされる魔術であり、現実になしえた魔術師は有史以来、ただの一人もいない。

「とにかく外に……」

 台所を出て、階段へと続く向かう。塔を訪れたレポフスキーが死体を発見するだろう。すぐに事件の調査を始めるはずだ。真っ先に疑われるのは「動機」を持つガイだ。それが塔の中にいては自分が犯人と告白しているようなものだ。

 扉の取っ手に手をかけた時、背後で何かが動く気配がした。ガイは振り返った。
 薬品と死臭の暴力的な臭いがガイの鼻孔びこうをなぶっていった。
 男の死体が動き出した。

 ガイは反射的に飛び退いた。転がるようにしてその場を飛び退く。
 死体は入れ違いに、ガイの横を駆け抜けていき、窓の方へと一直線に突っ込んでいく。
 顔を上げると、死体は窓を飛び出し、鈍色の空へと飛び出していった。
 塔の下から生々しい落下音が聞こえた。

 ガイはあわてて台所へと向かった。うつぶせに倒れたハリーの右腕がわずかに上がっているのが見えた。小刻みに振るわせながら人差し指を立て、空に文字を描くように動かしている。人差し指を立てるのはハリーが魔術を行使する際のクセである。間違いない。ハリーはまだ生きている。とどめをさすべく駆け寄ったが、ガイがたどり着く前にハリーの右腕はぱたりと床に伏せ、それっきり動かなくなった。

 念のため心臓や瞳孔どうこうも確認したが、やはり死んでいた。
 ガイは乱れた呼吸を整えながら汗をぬぐった。

「驚かせてくれる」
 どうやら今のは最後の断末魔だんまつま代わりの魔術だったようだ。最後の力を振り絞って死体を動かし、ガイを襲わせたのだろう。こんなとこならば、きちんと死亡を確認しておくのだった。詰めが甘い。やはり自分の手で魔術師を殺したのがはじめてだったからだろう。

 だが、これでようやく終わった。時間はない。早く塔を出なければ。死体の側にいれば『裁定魔術師』でなくても疑われるのは避けられない。

 急いで向かおうとした時、階下で鐘が鳴った。
 心臓が跳ね上がった。まさか、もう来たのか?

 ガイは迷った。一瞬、居留守を使ってやり過ごそうかと思ったが、異変を察して扉を強引にぶち破られれば言い逃れはできない。

 扉には『施錠ロック』に『硬化ハーデニング』が掛けられているはずだが、『裁定魔術師』相手には紙同然であろう。こうなっては避けられない。

 ガイは意を決して階段を下った。
 一階まで下りる。まだ鐘は鳴っていた。どうあっても帰らないつもりらしい。いっそ『解錠アンロック』でも掛けてくれれば、無礼を理由に追い返せるのに。いや、ダメだ。事が露見した際に真っ先に疑われる。

 慌てふためいた姿は見せたくなかった。なるべく落ち着きのある、威厳に満ちた声音を作って扉の外へ呼びかける。

「今開ける。しばし待たれよ」
 その途端、鐘の音はぴたりと止んだ。

 緊張を胃の奥に飲み込みながらガイはのぞき窓から顔だけを覗かせる。
 ガイは息をのんだ。そこにいたのはまた若い、少女といっていい年頃の娘だった。

 蜂蜜はちみつ色の金髪を後ろで結び、翡翠色ひすいいろの瞳、白い肌は人形のように艶やかだ。つばの広い黒帽子に、黒の両手袋、黒いブラウスとスカートはまるで喪服のような出で立ちである。足下には旅行用らしき黒革の鞄を置いている。

「お取り込み中のところ失礼いたします」
 のぞき窓の視線に気づいたのか、娘はスカートをつまみながら淑女しゅくじょの礼を取る。

「お初にお目にかかります。わたくし、レポフスキー家の侍女を務めます、リネット・リーと申します」
 娘らしい、華やかな声とは裏腹に落ち着いた口調で言った。
しおりを挟む

処理中です...