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八月三十一日のこと
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楽しいのは八月の途中まで。それからはずっと楽しくなくて、溜息ばかりだ。カレンダーで日にちを確認するたびに嫌な気持ちになる。もうすぐ新学期が始まっちゃうじゃないか、と絶望する。
宿題が終わっていない訳じゃない。もっと別に理由がある。そのことを考えそうになって、首を左右にブンブン振った。
本当に無理。考えたくない。ここにいたくない。
ぼんやりとノートを見ていた僕が急に立ち上がると母さんは驚いたような顔で、「どうしたの」と声を掛けて来たけど、答えずに部屋を出た。
「ちょっと。どこに行くの?」
玄関に向かう僕に母さんが訊いた。僕はやはり答えずにそのまま玄関を出た。追いかけて来るかと思って振り向いたけれど、別にそんなことはなかった。僕はどこに行くと決めないで、ただ走っていた。
いつのまにか、海まで来ていた。人はあんまりいなかった。僕は砂浜まで下りて行って、座り込んだ。膝を抱えて顔を下に向けていると、「どうした?」と声を掛けられた。聞いたことのない声だから、知らない人だろう。ちょっとだけ顔を上げて声のした方を見ると、やっぱり会ったことのない人だった。僕より少し年上らしいその人は、僕の横に座ると、
「どうしたのか訊いたんだけど」
「……どうもしないです」
「って顔じゃないよな。そうだな。今日、八月最後の日だし、もうすぐ新学期だからさ。学校行きたくねえ、とか?」
思っていたことを言われて、心臓がドキッとした。その人は僕の顔を覗き込むようにして見ると、
「いじめられてる? もう、死んじゃいたい?」
何も答えられなかった。自分でもどうしていいか、ずっとわからないんだから。
仲間はずれにされ始めて、僕だけが情報から取り残されて、知らないことをからかわれた。それがどんどんエスカレートしていって、何かする度にくすくす笑われた。時々、「ばっかじゃね?」とか言う声も聞こえていた。聞こえないと思ったかもしれないけれど、聞こえていた。
そうして僕は、その他愛ない『仲間』の態度に心が潰れてしまった。学校のことを考えると、朝目が覚めた瞬間からドキドキがひどくなって苦しい感じがした。もう学校なんか行きたくない、と何度も思ったし、さっき言われたみたいなことも考えた。でも、僕は何も出来ないで今日まで生きて来た。
その人は、笑顔で僕を見ている。今は、人の笑顔なんか見たくないのに。僕は、少し強い目つきでその人を見ると、
「笑わないでください。僕がどんな思いでいるか、わからないくせに」
「そりゃ、わからないさ。だってオレは、君じゃないんだから。君の気持ちは君にしかわからない。そういうもんだよ」
突き放されたみたいで、思わず唇を噛んだ。涙を必死でこらえていた。
その人は僕の方に手を伸ばすと、そっと頭を撫でて来た。そうされて僕は、我慢が出来なくなって声を上げて泣いてしまった。
「君は、小学生だよね。君の世界は学校と家だけかもしれない。でもさ、違うよ。世界はもっと広いんだ。そんなクソな学校、行かなきゃいい。君の命の方が大事だとオレは思う。逃げたっていいから、生きていてほしいな」
「が……学校行かないなんて、出来ないよ」
その人は僕の頭を撫で続けている。僕の言葉に耳を傾けてくれている。「どうしたの」って言いながら、答えない僕にさらに訊いてきたりしない母さんとは違うんだとわかった。
「君、一人で戦ってるんだよな。偉いな。偉いけど、壊れちゃう前に逃げた方がいい。そうだ。これ、聴いてみてよ」
その人は、僕の耳にイヤホーンを入れると、
「聴こえる? 聴こえないだろ? これは、『聴こえないメロディー』なんだ」
「『聴こえないメロディー』?」
「心がフラットじゃないと聴こえないんだ」
意味はわからなかったけれど、確かに聴こえない。
「聞いてくれるかわからないけど、君の親に状況を話した方がいいと思うよ。そうしたら、何か変わる。そのメロディーも聴こえるようになる」
そう言って、その人は消えてしまった。夢を見ていたのかと思ったけれど、渡された物が僕の手にある。
僕は立ち上がり、家に帰って母さんに全部話した。夜になって帰って来た父さんにも相談して、その日から状況が少しずつ変わっていった。聞いてくれないなんて、僕の思い込みだったようだ。そんなふうに考えてしまうくらい、追い詰められていたということだろう。
その出来事から一年過ぎて、僕はそのメロディーが聴こえるようになった。心がフラットじゃないと聴こえないそれは、鳥の鳴き声や風の吹く音。自然の音だった。あの時は、聴こうともしていなかった自然のメロディー。今はそれらが聴こえて、花をきれいだと思う心も戻ってきた。
生きていて良かった、と心から思った。
(完)
宿題が終わっていない訳じゃない。もっと別に理由がある。そのことを考えそうになって、首を左右にブンブン振った。
本当に無理。考えたくない。ここにいたくない。
ぼんやりとノートを見ていた僕が急に立ち上がると母さんは驚いたような顔で、「どうしたの」と声を掛けて来たけど、答えずに部屋を出た。
「ちょっと。どこに行くの?」
玄関に向かう僕に母さんが訊いた。僕はやはり答えずにそのまま玄関を出た。追いかけて来るかと思って振り向いたけれど、別にそんなことはなかった。僕はどこに行くと決めないで、ただ走っていた。
いつのまにか、海まで来ていた。人はあんまりいなかった。僕は砂浜まで下りて行って、座り込んだ。膝を抱えて顔を下に向けていると、「どうした?」と声を掛けられた。聞いたことのない声だから、知らない人だろう。ちょっとだけ顔を上げて声のした方を見ると、やっぱり会ったことのない人だった。僕より少し年上らしいその人は、僕の横に座ると、
「どうしたのか訊いたんだけど」
「……どうもしないです」
「って顔じゃないよな。そうだな。今日、八月最後の日だし、もうすぐ新学期だからさ。学校行きたくねえ、とか?」
思っていたことを言われて、心臓がドキッとした。その人は僕の顔を覗き込むようにして見ると、
「いじめられてる? もう、死んじゃいたい?」
何も答えられなかった。自分でもどうしていいか、ずっとわからないんだから。
仲間はずれにされ始めて、僕だけが情報から取り残されて、知らないことをからかわれた。それがどんどんエスカレートしていって、何かする度にくすくす笑われた。時々、「ばっかじゃね?」とか言う声も聞こえていた。聞こえないと思ったかもしれないけれど、聞こえていた。
そうして僕は、その他愛ない『仲間』の態度に心が潰れてしまった。学校のことを考えると、朝目が覚めた瞬間からドキドキがひどくなって苦しい感じがした。もう学校なんか行きたくない、と何度も思ったし、さっき言われたみたいなことも考えた。でも、僕は何も出来ないで今日まで生きて来た。
その人は、笑顔で僕を見ている。今は、人の笑顔なんか見たくないのに。僕は、少し強い目つきでその人を見ると、
「笑わないでください。僕がどんな思いでいるか、わからないくせに」
「そりゃ、わからないさ。だってオレは、君じゃないんだから。君の気持ちは君にしかわからない。そういうもんだよ」
突き放されたみたいで、思わず唇を噛んだ。涙を必死でこらえていた。
その人は僕の方に手を伸ばすと、そっと頭を撫でて来た。そうされて僕は、我慢が出来なくなって声を上げて泣いてしまった。
「君は、小学生だよね。君の世界は学校と家だけかもしれない。でもさ、違うよ。世界はもっと広いんだ。そんなクソな学校、行かなきゃいい。君の命の方が大事だとオレは思う。逃げたっていいから、生きていてほしいな」
「が……学校行かないなんて、出来ないよ」
その人は僕の頭を撫で続けている。僕の言葉に耳を傾けてくれている。「どうしたの」って言いながら、答えない僕にさらに訊いてきたりしない母さんとは違うんだとわかった。
「君、一人で戦ってるんだよな。偉いな。偉いけど、壊れちゃう前に逃げた方がいい。そうだ。これ、聴いてみてよ」
その人は、僕の耳にイヤホーンを入れると、
「聴こえる? 聴こえないだろ? これは、『聴こえないメロディー』なんだ」
「『聴こえないメロディー』?」
「心がフラットじゃないと聴こえないんだ」
意味はわからなかったけれど、確かに聴こえない。
「聞いてくれるかわからないけど、君の親に状況を話した方がいいと思うよ。そうしたら、何か変わる。そのメロディーも聴こえるようになる」
そう言って、その人は消えてしまった。夢を見ていたのかと思ったけれど、渡された物が僕の手にある。
僕は立ち上がり、家に帰って母さんに全部話した。夜になって帰って来た父さんにも相談して、その日から状況が少しずつ変わっていった。聞いてくれないなんて、僕の思い込みだったようだ。そんなふうに考えてしまうくらい、追い詰められていたということだろう。
その出来事から一年過ぎて、僕はそのメロディーが聴こえるようになった。心がフラットじゃないと聴こえないそれは、鳥の鳴き声や風の吹く音。自然の音だった。あの時は、聴こうともしていなかった自然のメロディー。今はそれらが聴こえて、花をきれいだと思う心も戻ってきた。
生きていて良かった、と心から思った。
(完)
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