SHIZUKU

露刃

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おれの分のココアも、飲む?

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「今更感が半端ないけど、気付いたのよ、やっと。人の記憶を勝手に食わせることの重大さに」
「…うん…」
 李玖はその日、高校の行事で不在だったのだ。泊りがけの研修で、帰って来たのは雫の母親が入院してからだ。その頃には、忠人の目を盗んで二人でよくカフェやショッピングに行っていた。李玖が日記をつけるようになったのも、その頃からだ。ただ、肝心な時に李玖は不在だった。
「どうしようどうしよう、ごめんね赦してって、お母さんはパニックになってそればっかり。李玖の伯父さんの言葉も耳に入っていなかったと思うわ。忠人が次の依頼人を連れてきても、まともに話も出来なくて。最初は優しく宥めてた忠人も、終いには怒鳴りつけてね。他人の記憶と自分の金とどっちが大事だ、とか言い始めて。化けの皮が剥がれるってああいうことを言うのね」
 絵に描いたような修羅場になった。嘆く母親と怒鳴る父親を、雫は冷めた視線で見つめていた。李玖の伯父は、おろおろと母親の背中を撫でていた。
「で、母さんが術を使わないならお前が使えと忠人に矛先向けられて」
 冗談じゃない、と雫は断った。
「あたしがあたしの意思で真言を唱えないと術は発動しないしね。理由も知らずに願い事だけ叶えろだなんておこがましいって言ってやったのよ。ばーかって。そしたら思いっきり殴られた」
「な…」
 今度こそはっきりと、李玖の表情が曇った。その表情を見て、雫は少し笑う。だから今まで話してこなかったのだが。
 拳で殴られたのだ。左頬を、忠人の渾身の力で。当時はまだ、雫は李玖から体術を習っていなかった。
 それを見てますますパニックになったのは母親だった。悲鳴を上げ、忠人を雫から引き離す。しかし忠人はそれを振り払い、さらに雫を殴ろうとする。止めようとする母親。李玖の伯父も止めに入って、彼はその一瞬だけ雫の母親から目を離した。そこが忠人の部屋で、机の上の文具立てにカッターナイフがあったのは不運でしかなかった。
 母親は、それを咄嗟に掴んだのだ。
 父親は母親に叫んだ。そもそもお前が言うことを聞かないのが悪いんじゃないか。俺の言う通りにしておけばいいものを。
 役立たずが。
 次の瞬間、母親は自分の首を斬りつけていた。
 雫の、目の前で。

「とまあ、そんな感じ。お母さんは一命を取り留めたけど、意識が戻って状況を把握したら、すぐに心が壊れちゃった。それほど死ねなかったのがショックだったんでしょうね。忠人の言葉はもちろん、李玖の伯父さんの言葉もあたしの言葉ももう届かない」
 豪華な個室で、日がな一日中空を眺めるだけの日々だ。
「あとは李玖も知っている通りよ。あんたの伯父さんは山に籠ってしまって、あたしは忠人に俺の言うことを聞かないのなら出て行け、縁を切ると言われて、じいちゃんを頼って出てきたの。そうしたらあんたまで付いてきたの」
「そっか…」
 ココアはもうぬるくなっていた。残りを一気に飲み干すと、甘さだけが口に残った。
「お母さんが入院した直後はね、忠人も、あたしに優しくしようとしていたのよ。俺が悪かった、どうかお父さんの為に術を使ってほしいって。欲しいものはなんでも与えてやるからって。でも、あたしが欲しいものをあいつは持っていないのよ。そう言ってやったら段々本性を現してね。誰のおかげで生活出来てると思ってるんだって喚き出すのよ、十五歳の娘に向かって」
「うん…」
「で、最終的に出て行けと」
「雫…」
「ん?」
「おれの分のココアも、飲む?」
「どんな慰め方してるのよ。子どもか」
「だって…」
「涙を浮かべるな、情けない」
 ぺしんと李玖の額を叩く。
「別に今更慰められることでもないのよ。お母さんは生きていて、詞術からも解放されたし。あとは、あたしが忠人とケリを付けるだけよね」
「雫は、なんで忠人さんに術をかけないの? あなたの願いが叶いませんようにって、それだけで済むんじゃないの?」
「お母さんとの約束だから」
「どんな?」
「秘密」
「そっか。じゃあ仕方がないな」
「あら、引き下がるの?」
「秘密なら仕方がないよ」
 少しの沈黙の後、李玖がすっと手を伸ばしてきた。雫の左頬に触れる。
「…痛かったよね」
「もう覚えてないわ」
「その場にいてやれなくて、ごめん」
「それも李玖のせいじゃない」
「代わりたかったな」
「あんたじゃ娘の役は無理よ。ひょろくてでかいから」
「そうじゃなくて」
「わかってる。…ありがと」
 しばらくの間、雫は頬を撫でられるままにしておいた。そうしたら、やっと眠気がやってきた。ぽてんと、李玖の肩に頭を預ける。
「…しゃべり疲れた。眠りそう」
「眠っていいよ。部屋に運んであげるから」
「んー…じゃあ、お願い」
 ゆっくりと、雫は意識を手放した。
 李玖に頭を撫でられていることが、心地よかった。



 滅多に見ない夢を見たのは、李玖に昔話をしたからに他ならないのだろう。
 目の前で、母親が泣いていた。泣きながら、何度も繰り返していた。

――雫。ごめんね。どうか、あの人を――。

 約束は守るよ、お母さん。

 起きた時、雫は泣いてはいなかった。夢を見ようがなんだろうが、雫は二度と泣かないと決めている。

「雫、おはよう」
 カーディガンを羽織ってリビングに出ると、李玖がエプロンをかけて朝食の準備をしていた。味噌汁のいい匂いが漂ってくる。
「…おはよー。昨日は悪かったわね、運ばせて」
「軽かったよ」
「じいちゃんは?」
「朝刊を取りに行ってる。……そういえば遅いな」
「え」
「おい」
 滅多にないことだ。沙羅から声を掛けてきた。それで、雫の顔が強張る。
「じいさんが攫われたぞ」
 雫の動きが止まった。
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