小武士 ~KOBUSHI~

崗本 健太郎

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第23話 マイク・レイ・ロビンソン

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『カンっ』
ゴングが鳴り、静かに試合が開始された。
まずはロビンソンが豪打の応酬、砲丸を投げつけるように重たい拳が五十嵐を襲う。一発でも当たれば即座にマットに沈められそうである。しかし相手は世界チャンピオン、全く危なげなく、拳の雨を掻い潜る。右利きであるロビンソンは、拳の間から覗き込むスタイルである『ピーカブースタイル(いないいないばあの意)』で守りを固めている。

刹那、張りつめた空気が会場を支配する中、ロビンソンがほんの一瞬、0.1秒ほど瞬きしたのを五十嵐は見逃さなかった。鋭く洗練された拳が、ショットガンのようにロビンソンの左胸を射抜いた。会場が大きく沸き上がる。

 五十嵐の必殺技『ハート・ブレイク・スマッシュ』は相手の心臓を一時的に止め、身体の自由を奪うものである。『スマッシュ』とはフックとアッパーの中間でスリークオーター、ストレートの4分の3の距離で相手に到達する『必殺技』である。
これまでこの技を受けて無事にリングを降りた選手は一人としていない。ロビンソンはあまりの速さに、何が起こったか理解できないほどであった。五十嵐は不敵に口元を緩めるとロビンソンに拳の嵐を浴びせた。

しかし次の瞬間、五十嵐はロビンソンのカウンターによってダウンを取られてしまう。カウント7でなんとか起き上がるが、いつになく動揺しているようにも見える。
“おかしい、いつもの敬造なら今のラッシュで確実に仕留めていた筈だ。一瞬、ほんの1秒ほど相手の回復が早かったように思える”米原はこの只ならぬ事態に冷静さを欠かずにはいられなかった。

“どういうことだ?『ハート・ブレイク・スマッシュ』は攻略不可能で決まったら確実に相手を倒せる筈だ。こんなことはある筈が――”米原は一瞬目を閉じて思考を巡らす。
“ロビンソンがタフなことよりも、敬造の問題だ。あんな身体でまともに闘える筈がなかったんだ”そう考えると米原はタオルを握りしめ、苦悶の表情を浮かべた。

“止めるべきか?しかし――”リング上ではロビンソンの必殺技『ガゼルパンチ』が五十嵐の脇腹に重たくぶち当たっている。『ガゼル』とは氈鹿(かもしか)の意を表し、右下から鋭く突き上げるようにして脇腹に拳を当てるこの技は、その強靭な脚力を用いる点が酷似しているため、その呼び名がついた。

肋骨が折れなかったのは、五十嵐が普段から鍛錬の一環として牛乳を飲み続けて来たことによるものであろう。さもなくば彼の骨は一撃の下に砕け散っていた。軋んだ脇腹を気にしながら、五十嵐は渾身のカウンターをロビンソンのテンプルに叩き込んだ。左利きであることの利。閃光のように決まったフックであったが、ロビンソンの脳を十分に揺らすことは出来なかったようだ。

 彼は殺し屋のように目を剥き、身体を捻り、突き放すようにストレートを押し付けた。  
意識が飛びそうになる五十嵐。彼の意識を繋ぎ止めたものは、勝ちへの執念、仲間との絆、精神力、ライバル達の存在、挙げればキリがないのかもしれない。だが、一番大きく彼を支えたのは、出来の悪い息子のような存在だったに違いない。

 並みのボクサーなら膝をつくこともなく崩れ落ちていたであろう。しかし、そこは五十嵐 敬造。世界チャンピオンである。見開いた眼(まなこ)は鬼の形相を携(たずさ)え、ロビンソンを睨みつける。この瞬間ゴングが鳴ったことに、ロビンソンは心底安堵した。

「五十嵐 敬造。なんて漢(おとこ)なんだ。こんなに闘うことが怖いと思ったのは、少年の頃メキシコのスラムで3人のストリートチルドレンに絡まれて以来だよ」
 ロビンソンは今にも取り乱しそうになるのを必死で抑えているといった風であった。

「マイク、ここが正念場だ。イナズマを喰い、イカヅチを握り潰せ!!」
 緊迫した場面で言ってみたかったのであろう。セコンドのリチャードは冗談交じりに、少し笑いながら映画ロッキーでの名台詞をそのまま口にしてみせた。
「言ってくれるじゃないか。その言葉、そっくりそのまま実行して見せるよ」
 ロビンソンは少し気が楽になったと言った様子で笑顔になっていた。


ゴングが鳴り第2ラウンドが開始されると、ロビンソンからはジャブの嵐、そして強烈なミドルフックの後に渾身の『ガゼルパンチ』を繰り出して来た。この試合に於いて、一切の出し惜しみなどない。荒々しいが、見事な程に完成されているロビンソンの強さは本物である。
百戦錬磨の五十嵐だからこそ耐えられたものの、並みの選手なら意識が混濁しているところであろう。目にも止まらぬ急激な試合展開に、観客は固唾を飲んで見守っている。不意に繰り出された、五十嵐の『スマッシュ』が、ロビンソンの腹部中央に強烈に突き刺さった。

「オゴッ」思わず苦しそうな声が漏れる。
 苦悶の表情のロビンソンを、五十嵐が殺人鬼のように冷徹に見下ろす。
「7、8、9――」
 ボクサーにはダウンした時にこのまま寝ていた方が楽なのではないかと思う瞬間があるが、ロビンソンにとって今がまさにそうであった。しかし、そこは世界戦。

 ロビンソンは不屈の闘志で立ち上がり、即座にファイテングポーズをとってみせた。五十嵐が止めを刺そうと構えた時ゴングが鳴り、第2ラウンドが終了すると、ロビンソンはかなり息が上がっていた。
「凄いパンチだ。これほどのものは今まで受けたことがなかったよ」
 ロビンソンは冷や汗を拭われながらそう言った。五十嵐の『スマッシュ』は、一撃必殺の『フィニッシュブロー』であり、そう呼ぶに相応しいだけの衝撃であると言える。ロビンソンにとって命拾いの一言に尽きるラウンドであった。

大きな音を立ててゴングが鳴り、多くの観客の期待を背負った中、第3ラウンドが開始された。ロビンソンと対峙するのは初めてだったが、入念に対策を練られ、緻密に試合を計算されていることが伺える闘いぶりであった。ロビンソンは『クリンチワーク』で抱き着くことで、五十嵐の動きを巧みに封じて来る。

五十嵐がパンチを上手く避け、ロビンソンに左フックを当てる。一見優位に立っているようだが、ロビンソンは虎視眈々とチャンスを伺っている。そして、この試合初めてとなる右ストレートを激しく五十嵐の左側頭部に叩き付けた。五十嵐の金のトランクスに無残にも鮮血が飛び散る。

次の一撃を身体の前で腕を十字に交差させて防ぐ技である『クロスアームガード』で辛くも防いだところでゴングが鳴った。間一髪救われたが、お世辞にも安心して見ていられる展開ではなかった。ラウンド終了後、明と秋奈は額に汗を浮かべながら話していた。

「やるじゃねえか、あの野郎。少し効いてんじゃねえのか、おっさん」
 冗談交じりに言ってはみたが、自分の描いていた展開と相違していることは否めなかった。秋奈も同じように感じていたのであろう。いつもよりも口数が少なかった。明は重たい空気を感じ取り、気丈に振る舞っていた。
「大丈夫に決まってるだろ。14回連続防衛中の世界チャンピオンだぜ」

 秋奈もそれを聞いて安心したのか、無理をしてでも強がって見せた。
「そうだよね、叔父さんが負ける筈ないもんね」
 そうは言ったものの、二人とも頭の中にある『疑念』を払うことに必死だった。


その後、五十嵐は必死の攻防で第4ラウンドを終え、レストタイムを挟んだ後、ゴングが鳴り第5ラウンドが開始された。睨み合い、隙を伺う両者。五十嵐の瞬時に加速を付けた、豪快な『スマッシュ』が、再びロビンソンの『心臓』に突き刺さる。

五十嵐が猛打を浴びせるも、今度は止まった時間はたったの1秒。万全の状態なら確実に3秒は相手の時間を止められる筈の『必殺技』も全盛期のキレを見せてはいない。そして、またもや『クリンチワーク』で抱き着かれ、その場を上手く凌がれてしまった。

五十嵐はふっと一息吐いた後、ロビンソンの『ガゼルパンチ』を渾身の『クロスアームガード』で防いでいる。快音が響き渡るあまりの迫撃に、会場がどよめくほどであった。
相手のあまりにタフな肉体に、五十嵐は『スマッシュ』での攻撃を一旦休止し、旧来のスタイルを試してみることにしたようだ。ロビンソンは勝負所を逃さぬようにと、渾身の『ガゼルパンチ』を五十嵐の左脇腹目掛けてぶちかます。

それに対し、五十嵐は狙いすましたように『クロスカウンター』を合わせに掛かった。
しかし、五十嵐の右手での『クロスカウンター』を軽々と避け、ロビンソンは『クリンチワーク』によってその反撃を喰らい尽くしてしまった。

だが、五十嵐は諦めない。絶妙にフェイントを織り交ぜ、慎重に距離を詰め、堅実にその瞬間を探り出す。そして、頼みの綱、左手にて渾身の『コークスクリュー』を放つが、無残にももロビンソンの右手によって握り潰されてしまった。

『恐怖の男』ロビンソンは、土壇場でその真価を発揮しようとしていた。万策尽きたかのように見える五十嵐は、試合開始約20分にして少し意気消沈しているかのように見えた。ラウンド終了後、米原は驚きを隠せないといった様子であった。

「これほどまでに洗練されているとはな。全く、ロビンソンは凄い男だよ。最初の世界戦も、こんな苦しい試合だったよな。いつだって逆境を順境に変えて来た。お前ならまだやれる筈だ。俺はそう信じている」
米原は普段はわりと無口な方だが、ここは自分が盛り立てて五十嵐に勢いを与えたいと考えていた。

「それにしても凄い『拳圧』だな。これ程のものはグラッチェ浜松と闘って以来か」
“タイプ的にお前の方が有利な筈なのに”その一言を言おうとして米原は咄嗟に飲み込んだ。
“バカ言っちゃいけねえ。こんなに苦しいのに、あんな化け物と逃げずに闘っているんだ。俺が勇気づけてやらねえで誰がやるんだ”そう考えた。

「長年の経験に加えて技の利もある。お前が負ける筈なんてねえのさ。さあ、反撃と行こうか」五十嵐は苦しそうに頷くと、強く拳を握り締めた。
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