小武士 ~KOBUSHI~

崗本 健太郎

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第27話 執念の中盤戦

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米原のお陰で冷静さを取り戻した第3ラウンドを終え、勢い良くゴングが鳴り、第4ラウンドが開始されると、ロビンソンの強烈なストレートに合わせて、この試合初めて『クロスクリュー』を出す。だが、ロビンソンは激しくグラついたものの、失神するまでには至らなかった。かなり驚いたようだが、すぐに体制を立て直し、嬉しそうに大ぶりのストレートを出して見せた。

“そう来なくっちゃ”
 まるでそう言いたそうに、風切り音を立ててブンブン腕を振り回している。
“初めてだ、こんなに相手の底が見えないのは”明はそう感じ、寒気すら感じていた。
 何度もノックアウトを狙って技を繰り出すが、ロビンソンはいいタイミングで抱き着いて『クリンチ』して来る。
 観客は誰もがこの勝負を大人と子供の喧嘩と捉えそうになる程であった。だが、大砲のようなストレートに危険を感じ、不意に明が出した拳の『圧』にロビンソンは気圧されたようだ。後ずさりして数秒経ってから口元を緩める。

 第3ラウンドまでは出すまいと思っていた。若造に本気の対応は不要。そう考えていた。だが、彼は実力で示してくれた。『東洋太平洋チャンピオン』になるだけの『強さ』があるということを。ならばそれに応えるが礼儀。
 『世界』とはどんなモノか、教えてやるのがチャンピオンの務めであろう。渾身の力を込めた『リバー・ブレイク・ガゼル』が猛威を振るう。体重を大きく掛け、『肝臓』を押し潰すほどの勢いで、世界戦の洗礼を浴びせると言ったところか。

 黒人の強靭な筋肉は、全身を巨大なバネのようにする。その伸びきった衝撃を身体の芯で『モロに』食らってしまった明は、トラックに撥ねられたように吹き飛ばされてしまった。
 6、7、8――気付くともうカウント8まで聞こえていた。気力だけで立ち上がり、反射的にファイティングポーズをとる。その顔は赤黒く、目は充血し、足元は歩き始めたばかりの幼児のように覚束ない。レフェリーは判断に困ったが、明が小さな声で苦しそうに「まだやれる」と言ったのを聞いて再開の判断を下す。

成す術は――もうないのだろうか?無情にもゴングは鳴らず、残り時間1分。再びロビンソンの『ガゼルパンチ』が明の右脇腹に突き刺さる。しかし、ここでは辛うじてダウンを奪われることはなかった。この試合のために必ず役に立つからと言われてやった『1分間ブリッジ』が俄かに助けになったようだ。一層倒れた方が楽であろう。

だが、ボクサーにとってノックダウンとは即ち『信念の死』。彼らが最も恐れることは、苦痛でも嘲笑でもなく『弱いというレッテルを貼られること』なのではないだろうか。そのことを避けるため、明は自らを奮い立たせてリングに立ち続けている。
そして、フェイントを織り交ぜた渾身のアッパーが顎に軽くヒットし、惜しいところではあったが、ロビンソンはここでも巧みに『クリンチ』して来る。

この絶妙なタイミングの取り方がロビンソンの強みなのであろう。ここで明は『作戦』を実行する。右手を上に向け、手の甲を相手に向けてクイックイッと手招きして見せた。ロビンソンは全く動じないといった素振りであったが、少し頬がひきつったのを明は見逃さなかった。闘いの最中、再び同じ動作をし、さらに畳み掛けた三度目、ついにロビンソンは『無表情』になり、冷たく明を見下ろして来た。

“来るな”
 明は津波が来る前のような不気味な静けさに思わず息を飲んだ。逆鱗に触れられたロビンソンは、まるで、大きなゴリラが暴れているかのようにフルスイングで殴打してくる。
“奴さん、相当お冠のようだぜ”ロープで反動をつけ、アッパーを強引にねじ込もうとする。
 しかし反対にロビンソンの豪腕が唸る。右ストレートを『テンプル』に当てられ、脳が少し揺れてしまったようだ。出鼻を挫かれ戦況が悪い中で、明は連続して5回のパンチを腹部中央に当てた。

そして、ロビンソンの様子を伺うが、まるで堪えていないようである。こうなって来ると、不死身の化け物と闘っているような錯覚に陥る。カウンターを避けようとしたが、ロビンソンの方が半呼吸早い。
満身創痍の赤子の手を捻ることは、朝の馬なら重荷も苦にしないという『朝駆けの駄賃』よりも容易いことであろう。このゴリラを止めに行くことは、『火中の栗を拾う』よりも難しいことのように思える。寸でのところでゴングが鳴り、第4ラウンドを終えることができた。

「はぁっ、はぁ」明は声を出すことさえ憚られるような状態だ。
「息切れが激しいな。手遅れになる前によく聞け。できるだけ疲れないようにして、このままロビンソンの体力を削って流れを掴むんだ。どんな試合でも必ず一度は勝機が巡って来る」米原はこの状況でも全く勝ちを諦めてはいない。

「はぁっ、はぁ、そうだな。はぁっ、はぁ、運は手繰り寄せるもんだ。はぁっ、はぁ、俺は絶対に負けねえぜ」その気持ちは明も同じであった。
「敬造が負けちまった時、俺は全てを奪われた気でいた。だが、お前はそんな俺にまた夢を見せてくれた。重荷だって分かっちゃいるが、この期待、背負ってやってくれ」

そう言うと米原はバンザイの体制から明の両肩に手を乗せて精一杯、明を鼓舞するようにした。
「はぁっ、はぁ。ああ、野郎に焼き入れてやるぜ」
光を失いかけていた明の目は、このことで輝きを取り戻した。その後の攻防は目まぐるしいものであり、逆境の第5ラウンド、執念の第6ラウンドとラウンドを重ねた。
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