鈴音や君の名は

ころく

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二章 哀願童女

第三十五話 静怒 ‐シズカナイカリ‐

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「ひぃ、ひぃぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁ!」

 耳をつんざく老人の悲鳴が公園に響く。
 友恵の母親の肩から倒れ落ち、地面にのたうち回るは児亡き爺。
 果物ナイフを握っていた右腕は喰い千切られ、二の腕から先は赤黒い血が流れ出ていた。

「まさにー、ってか?」

 供助は前髪を掻き上げ、自分でくだらねぇと思いながら鼻で笑いながら呟く。
 何が起こったか解らず、理解出来ず。児亡き爺は混乱する。そして、痛みに悶える児亡き爺の視界に入ったのは。 
 黒い猫と、その足元に落ちている見覚えある藁蓑。

「ペッ……帰ったらイソジンでうがいだの」

 黒猫は人語を話し、咥えていた腕を不快そうに吐き出した。
 ここでようやっと子泣き爺は理解した。己がされた事、起こった事態を。
 してやられた……頭の中はそれで一杯だった。

「貴様……儂、の、隠れ蓑を使いおったか……」
「ふん。こんな汚らしい物、出来るなら被りたくなかったがの」

 供助が使い物にならないと言ったのも、猫又が砂煙を巻き上げたのも、こんな状況で麻雀なんて関係の無い単語を出したのも。
 全てが伏線。先入観を与え、気を逸らす為の牽制。
 供助が児亡き爺に話し掛けて気を引き、その間に猫又は砂煙に紛れて猫の姿になる。
 そして、小さくなった体を供助の足元にあった隠れ蓑で身を隠し――――奇襲。

「だが、これで貴様は巫山戯ふざけた事は出来なくなったの」
「くっ、ぎ……!」

 児亡き爺は左手で二の腕を押さえ、痛みと悔しみで額には冷や汗が浮かび。
 黄色く汚い歯で歯軋りし、醜く表情を歪める。

「真っ暗返しぃぃ! その人間に完全に取り憑くんじゃあ! そうすればこいつ等は手出し出来ん!」
「ギィギギギッ! 確カニ!」

 児亡き爺は干からびた声で必死に叫ぶ。
 友恵の母親から落っこちたのは児亡き爺だけで、真っ暗返しはまだ取り憑いたまま。子泣き爺からの驚異は回避しても、まだ全てが終わった訳ではない。
 友恵の母親の肩に乗っていた真っ暗返しは、溶けるように姿が薄くなって消えてく。

「これで手は出せなくなった! ひっひ、出せなくなった!」

 ざまあみろ、と。児亡き爺はいやしく笑う。

「貴様等は殴るか、噛むか、引き裂く事でしか儂達をはらえん! さぁどうする!? 真っ暗返しを祓い、その人間も傷付けるかぁ? いーっひっひっひっひっ!」

 今までも確かに友恵の母親に取り憑いていたが、今のは憑依に近い。先程までとは違い、真っ暗返しが姿を消して友恵の母親の中に入り込んだ。
 姿を現していた時は真っ暗返し本体を攻撃すればいいが、憑依されてしまっては友恵の母親に触れるしかない。
 こういう場合はお経を唱えたり、お札を貼って体から追い出したりと対処方法はそれなりにある。
 だが、頭が悪い上に不器用な供助は、お経を唱える事も出来なければお札も持っていない。
 猫又に至っては、妖怪がお経やお札を使える訳がない。

「ひっひっひっ! 出来んよなぁ!? 小娘とその親を助けに来て、助ける為に傷付ければ本末転倒じゃからなぁぁぁぁ?」
「貴様、どこまで嫌がらせをすれば……っ!」
「タダでは死なん! ひっひ、あの世への駄賃は小娘の悲鳴ではなく、貴様等が困り果てる顔で我慢してやるわい!」

 どこまでも邪魔をする児亡き爺に、猫又は苛立ちを隠せない。
 そして、児亡き爺の人をあざける態度が、さらに苛立ちを煽る。

「お、お母さん……! お母さんを返してよ!」
「ギギぎぃギィ! 愉快ユカイ! 人間が悲シミ泣く姿はヤハリいい!」

 真っ暗返しと友恵母親の声が重なり。体を乗っ取られた友恵の母親は、真っ暗返しの言葉をそのまま連ねていく。
 手も足も出せまいと、何も出来ないだろうと。面白おかしいと嘲笑う、真っ暗返しが操る友恵の母親――――の、頭を。

「何笑ってやがんだ、あぁ?」
「ギィッ!?」

 供助が後ろから、右手でがっちりと鷲掴みする。
 猫又のように一足飛びで素早く距離を詰めたでも、急いで走ったでもない。背中を丸めてゆっくりと、いつもの調子で気怠そうに歩いて。別段、特別な事などやっていない。
 児亡き爺や真っ暗返しが気付かなかったのは、ただ単に猫又や友恵に気を取られていただけ。

「小僧、真っ暗返しを祓うものなら小娘の親を攻撃する事になる……いいのかな? いっひっひ」
「関係無ぇな」
「っひ……?」

 児亡き爺の言葉に耳も貸さず。
 供助は一言で一蹴した。

「供助、何を言っておるっ! 真っ暗返しに攻撃すれば、友恵の母親も怪我を……」
「言ったろ。関係無ぇ」

 猫又が止めようとするも、供助は猫又の言葉すら耳に入れず。
 児亡き爺同様、一言で払い除けた。

「何も殴るだけが全てじゃねぇ。殴れるって事ぁ、触れるってぇ事だ。触れさえ出来れば十分」

 友恵の母親の後頭部を掴む右手に、供助は力を入れる。
 同時に、掌に霊力を流し込み、集中させ。友恵の母親の頭とは別の、他のモノを掴んだ感触を確かめて。

「殴らなくても、引っペがしゃあいいだけの話だ――――!」

 一気に、その腕を引く。
 電気が走ったような、大きく手を叩いたような。言い表すなら、バチンッ! そんな感じの音だった。

「猫又」
「うむ。任せろ」

 供助が名を呼ぶと、猫又は再び人型に身を変える。そして、真っ暗返しから解放された友恵の母親を抱きかかえた。
 友恵の父親と同じで意識は無く、猫又が居なかったらそのまま地面に倒れていただろう。

「よう、また会ったな」

 ボーリングの球を持つように、供助は頭を掴んだ真っ暗返しを目線の高さまで持ち上げる。
 手足をジタバタさせ、頭を握り締められる痛みに悶絶する真っ暗返し。
 供助の掌から強力な霊気を流され、さらには自前の握力によるアイアンクロー。その痛みは、万力に頭を挟むのと同意。

「最後に言いてぇ事があるなら言ってもいいぜ」
「ギギギィ! キサ――――」

 そして、供助に目を向けた瞬間。

「聞く気は無ぇけどな」
「――――げピュッ」

 言葉を待たず。粉砕される頭部。血、肉片、目玉、毛髪。真っ暗返しだった肉の欠片が飛び散った。
 まるでリンゴのように、ぐしゃりと握り潰されて。そして、生々しい音を立てて地面に転がる……首がなくなった真っ暗返しの体躯。

「あとはてめぇだけだ、糞爺」
「っひ……!」

 真っ赤に染まった右手を、供助は軽く振って血糊を落とす。
 児亡き爺は恐怖で体が縮こまり、真っ暗返しの惨たらしい死に様を目の前に、完全に顔が引き吊っていた。
 頭部を失った真っ暗返しの体から吹き出るは、蒸気のような白い煙。それは妖怪の絶命を意味する。

「ひぃぃ、悪かった! 儂が悪かった! 許してくれぇぇ! もうこのような事はせん! じゃから頼むぅぅぅ!」

 地べたを這いずり、見苦しく命乞いする児亡き爺。額に冷や汗が浮かび、体中を土まみれして、引きずる見窄らしい姿。
 しかし、その姿に情けを掛ける者はこの場に誰も居ない。居るのは未だ収まらぬ怒りと、冷ややかな目を向ける者のみ。

「人喰いを探しとるんじゃろ!? 儂は人など喰った事も喰おうと思った事も無い! だから、見逃してくれぇぇ!」

 必死に懇願こんがんし、頭を地面にすり付け、無様に土下座する老人の妖怪……子泣き爺。
 気持ち悪い卑しい笑いも、人を馬鹿にした態度も消えて。一度は死を覚悟して最後のあがきをしていたのに、真っ暗返しの死を目の当たりにして怖気づく。
 己の命が惜しく、自分だけでも助かろうとする捻じ曲がった性格。腐った性根。

「あぁ、確かに人を喰ってはいねぇかもしれねぇな」
「じ、じゃろ? なら……」

 僅かに見えた希望。
 子泣き爺は土下座していた頭を地面から離し、供助を見上げる。

「けどよ、人を食いモンにしてんのは変わんねぇ」

 しかし、見逃してくれる希望などある筈も無く。
 見下ろす供助の目は冷ややかで、哀れみなど一切持たず。まるで、街中で誰彼構わず物乞いをする老人を見るような――――さげすむ目。

「てめぇによ、解るか?」

 供助は聞く。抑揚よくよう無く、低いのに耳に残り、内面には激しい感情を隠した声で。
 一歩、二歩、三歩。真っ暗返しの肉片を踏み付け、児亡き爺に近づく。

「帰りを待ってくれる両親の有り難みを……お帰りと言ってくれる嬉しさをよ」
「……供助?」

 猫又の隣りを通る供助は、背中を丸くさせ、頭をうつむかせていて表情は見えない。
 だが、違う。何かが違う。今まで感じた事が無い、この空気と感覚。そのいつもと異なる雰囲気に、猫又は気付いた。

「解らねぇよなぁ。てめぇみてぇな妖怪にはよ」

 供助は知っている。両親の有り難みを、温かさを。幼い頃に事故で両親を失った供助は、知っているのだ。
 何の変哲の無いやり取りが。なんて事無い会話が。いつもと変わらない日常が。どれだけ大切で、大事で、大好きなのか。
 痛い程、苦しい程、泣いてしまいそうな程――――知っている。

「解る筈が……ねぇよな」

 それを奪い、壊し、喜ぶ輩を。供助は許す気など微塵みじんも無い。
 真っ暗返しと同様、児亡き爺の頭を鷲掴みにし。左手でゆっくりと、目の高さまで持ち上げる。

「てめぇみてぇな糞野郎を……俺ぁ最初はなっから見逃す気はねぇ」
「っひ、ひぃ!」

 児亡き爺の脳裏に浮かぶは、真っ暗返しの最後。頭を潰され、脳みそを撒き散らし、肉片を飛び散らした光景。
 自分も同じ目に遭わされると、恐怖で股間から小便を垂れ流して異臭を放つ。

「てめぇが好き勝手やったツケだ」

 供助の利き腕……右手に込められる霊気。まだ真っ暗返しの返り血が残って赤黒く、白い煙が出ている右拳。
 力の限り強く握り、可能な限り霊気を集中させ、出来る限りの一撃を望むその豪腕が。

「てめぇの勝手で――――逝け」

 言葉を言い終わると同時に、児亡き爺の腹を貫いた。
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