上 下
41 / 45
第三合

第40話

しおりを挟む
「ふうん、しばらく顔を見せないと思ったらそんなことがあったか」


 俺がぴりかについて話すと、怒るでもなく慰めるでもなく小町先生は淡泊にそう言った。
 絶景スポットである高級マンションのベランダで彼女はまたも酒を飲んでいる。
 俺は備え付けの椅子に腰かけそんな姿を眺めていた。
 空には月がぼんやりと浮かんでいたが星は見えない。


「いろいろとお世話になっておきながらすみません」
「で、元の生活に逆戻りか」
「すみません」


 重ね重ね謝ることしかできない。


「マジ喧嘩なんてらしくないじゃないか」
「自分でもそう思います。もっと言いようとかやりようがあったはずなのに。いまさらこんなこと言っても仕方ありませんけど」
「極端なんだよお前は」
「返す言葉もありません」
「ひかり、酒は飲んだことあるか?」


 俺がブルーになっていると急に話が変わったので戸惑う。


「いきなり何です? 飲んだことあるわけないでしょう。高校生ですって」
「すまんすまん。そうだったな。じゃあ酒についてはどう思う?」
「どうって、いいんじゃないですか。好きなら飲めば。百薬の長とも聞きますし」
「酒はアルコールだ。アルコールは腸で吸収され肝臓に送られる。そこでアセトアルデヒドという物質に変わる。これがいわゆる毒なんだ。いろんな悪さをする。顔が赤くなったり変な痛みが出るのもこいつのせいさ。しかもこいつはガンの原因にもなる」
「でも適度なら体にいいんでしょ」
「それが最近の研究では少量でも健康によくないという方向で固まりつつある。酒が体にいいなんてことは幻想でしかない、ということだ。つまり酒はただの毒水ってことさ。こんなもの飲むべきではない」


 小町先生いつものように饒舌に語り、とても美味しそうに恵比寿さまが描かれている金色のビール缶を呷る。


「そんなうまそうに飲んで言われても説得力が全然ありませんが」
「まったくだ。でも私は酒をやめない。大人には酒を飲まなきゃやってられんことが山ほどあるからな。これがあるからまた頑張れる」
「何が言いたいんです?」
「アレルギーが起こらないように完璧を目指すのはいいことだ。健康を極めようとするのもいい。そのために体に悪い物は害となる。だがそれよりもっと害となるものがある。それがストレスだ。いくら食事制限をしたところでストレスにやられてしまったんじゃ本末転倒だ。一週間に一度や二度くらい好きなものを食べさせてあげてもいいんじゃないか。少なくとも私はこうしてご褒美として酒を少量だけだが嗜んでる」
「ぴりかの体調不良は糖質じゃなくてストレスが原因だったと言いたいんですか?」
「そうじゃない。ただ、知らない間にストレスを溜めこんでいたんじゃないか。たとえ美味しいごはんが食べられていたとしても、どこに不満があったんじゃないか?」


 不意にぴりかの悲痛な訴えが頭の中に甦った。


「不満はあったかも知れません。いやあったと思います」
「お前もそうだぞ、ひかり」
「俺も?」
「彼女のために頑張りすぎた。だからストレスが溜まってたんだ。そうじゃなきゃ二人が喧嘩別れなんてつまらないことするわけないだろ」


 そうだ。
 自分では平気だと思っていてもどこかにストレスを抱えていたのかも知れない。
 ぴりかも俺も。
 それがあの瞬間、たまたま同時に弾けたのだ。
 そしてぶつかって綺麗に割れた。


「そうだとしてもあいつが今後も生きていくためには厳しくするしかありません。つらくても我慢していってもらうしか。また具合が悪くなってほしくないんです」
「また極端だな。生きてさえいればそれでいいのか?」
「え」
「ただ生きているだけなら死んでるも同じだ。心が死んでしまったら生きていても意味がない」


 小町先生はそう言ってくれたが俺はうまく次の言葉が出てこなかった。
 何が正解で不正解なのかわからず混乱していたのだ。
 口を開けるようになったのは彼女がちょうど一缶あけたころだった。


「食べ物って難しいです。それも他人のを管理するなんてなおさらです。先生はどうして料理の道に?」


 初めて聞くプライベートな質問に小町先生はくすりと笑った。


「お前のせいだ」
「俺?」
「せいって言ったら変だな。とにかくお前がいたからだ」
「どうして俺が出てくるんです?」
「ほら親が離婚してから学校で菓子パンばっかり食べて時期があっただろ」
「ああ。作ってくれる人もいませんでしたし、当時はまってましたね」


 特に菓子パンを食いまくっていた。
 砂糖のしゃりしゃり感がたまらないミニスナックゴールド。
 表面より底の硬いところが癖になるスイートブール。
 いくらでも胃に入る薄皮つぶあんぱん。
 サンドされた緑のクリームがどこか懐かしいダブルメロン。
 あの頃はいくら食べても虚しくて量を買いまくっていた。


「憶えているか? お前があまりに不憫なもんで私が弁当を作ってやったんだ」
「懐かしいですね。とても美味しかったですあの卵焼き」
「そのときお前がすごく喜んでくれたのが衝撃でな。私は子供たちを笑顔にしたくて教師になったはずなのに、初めて本当の笑顔を見た気がした。それで教師よりも料理人のほうが子供たちを笑顔にできるんじゃないかって思ってこの道に入った。つまりお前が私を変えたんだ」
「なんかそう言われると照れ臭いですね」
「だから同じ喜びをお前が知ってくれたときは非常に感慨深かった」
「先生に比べれば俺なんてまだ序の口でしょうけど」
「料理はもうしないのか?」


 何気なく降ってきた問いかけに俺は一瞬だけ返事に詰まる。


「もう、しないと思います。これからは自由なので。あいつのことは忘れて普通に生きていきますよ」
「そうか。残念だな」
「あの先生」
「ん」
「俺に料理の才能ってありましたか?」
「そんなものありはしない」
「さすが手厳しい。やっぱりそうですよね。そんなの自分でよくわかってました」


 傷つきはしたがはっきり言ってくれてむしろよかった。
 これで未練も捨てられる。
 料理なんてもともと俺のガラではなかったのだ。
 ちょっとした気の迷い。
 あの日々はすべては夢だったことにしてしまえばいい。


「阿呆。料理にそもそも才能なんてないと言ってるんだ」
「そうなんですか?」
「レシピ通りに作ればみんな同じ味になるのに才能も何もあるか」
「まあそれは……」
「もしあるとしたら、それは相手に喜んでほしいという気持ちだ。それが才能とやらだ」
「喜んでほしい気持ちが才能……?」
「わからないのか。なら訊くが、お前はあの子にどんな顔をしてほしくていままで料理を作ってきたんだ?」
「どんな顔って……」


――ひかりは料理の天才じゃな――
――ひかり、これ最高にウマウマじゃな――
――ひかり、これまた明日も作ったくれの――


 堰を切ったように流れ込んできたものはどれも彼女の嬉しそうな顔だった。
 目を輝かせてくれるあいつ。
 幸せそうに目を細めるあいつ。
 もっとほしがるあいつ。
 俺はそんな顔がまた見たくて、もっとたくさん見せてほしくて、ずっと奮闘してきたのだ。


「相手の喜ぶ顔を思い浮かべて料理を作る。喜んでほしいからもっと美味しくなるように努力をする。これを才能と言わずして何を才能と言う。お前に才能があったかどうかは自分が一番よくわっているはずだ。違うか?」
「……あります。俺にはありました……」


 いまさら言葉とともに馬鹿な涙が出てくる。
 これまでどこに隠れていたのか、たくさんの悲しさと寂しさが込み上げてきて止まらなかった。


「本当にこのままでいいのか? お前はどうしたいんだ?」
「俺は、あいつと一緒にまた――」


 どうして食べても食べても満たされないのか、その理由がいまようやくわかった気がした。 
 そしてあいつも同じ気持ちだったらいいなと思った。
しおりを挟む

処理中です...