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第三合

第42話

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 公園のベンチに俺は何をするでもなくただ座っていた。
 さんざんぴりかを探し回った後だ。
 辺りは日が暮れ始め、そろそろ遠くでは帰宅ラッシュの喧騒が生まれつつあった。
 その中にふと間の抜けた音が混じった。
 出所は俺の下腹部だ。


「こんなときでもやっぱり腹は減るんだな」


 自嘲気味に呟く。
 ぴりかのほうはどうしてるだろう。
 ちゃんと食べているんだろうか。
 彼女はお腹すかしてないだろうか。
 どこかで野垂れ死にしてないだろうな。
 とりとめもない感情が湧いては撹拌されいずこへ消えていく。
 帰ろうとも思ったが体にうまく力が入らない。
 帰ったところで誰もいない。
 料理をして食べる気にもなれない。
 ならどこにいようと同じことだ。
 そのとき誰かが隣に座る気配がしたので一瞥すると、佐久名きららだった。


「こんなところで何してるのー?」


 詮索されたがそれはこっちの台詞だった。


「別に。関係ないだろ」
「はい、これ」


 さらに何か差し出してきたので見ると缶コーヒーだった。


「いやいい。砂糖はあまりとらないようにしてるんだ」
「ブラック。無糖だから」
「なら、まあ、もらう」


 受け取ると温かくホットの方だった。義理ですぐ開けて一口含むと目が覚めるような苦みが舌の上に広がった。


「急に健康志向になっちゃって。前はエナジードリンク何本も開けてたのにね」
「ほうっておいてくれ」
「あの子のおかげだよね?」
「あの子?」
「ぴりかちゃんだっけ」
「……」
「あの子が現れてたからひかり変わったから」
「……」
「私が体を心配しても好きな物を好きなだけで食べて死ねるなら本望とか言って聞かなかったのに」
「そうだっけ?」
「人の気も知らないで。とにかく自愛してくれるようになってよかった。でもちょっと悔しかったな」
「何でお前が悔しがるんだよ」
「こう見えても調理師の免許取ろうとがんばってるんだよ」
「は? なんでそんな似合わないことを? キャラ違うだろ」
「私がなんとかしたかったら」
「何を?」
「ひかりの食生活」


 きょとんとしたが、すごく遅れてその意味に気づいて俺は焦った。


「そんな心配かけてたとはな。なんか悪い」
「なのに急にあの子が現れてひかりを変えてくれた。だから悔しかった。ひかりに必要だったのは守ってくれる相手じゃなくて守る相手だったのかもね」


 そうだ。
 あいつはいきなり現れて、俺の全て変えた。
 そしていなくなった。


「あいつ、実はよその子なんだ」
「だと思った。聞いたことなかったからおかしいなとは思ってたんだ」
「だからしばらく預かってただけで今はもういない」
「そっか。でもよく預かる気になったね。そこがもうすごいなって思っちゃうけど」
「似てたから」
「自分に?」
「いや、お腹の音がさ」
「ふっ、何それ」


 俺はぴりかと会ったあの夜を思い出す。
 あの音を。


「知ってるだろうけど、俺の小さい頃に両親は離婚した。母親は親父に愛想をつかして出ていって家に残ったのは家事もろくできない親父と俺だけだ。あの仕事一筋の親父に料理なんて出来るはずもなく次の日から出てきたのは既製品の弁当だった。俺はこんなことになった父親にも腹が立っていたし意地でも食べなかった。お母さんが作ったものじゃないと嫌だって言ってな。怒られても殴られそうになっても食べなかった。でもそんなときでもお腹は空くんだよ。膝を抱えて泣いていてもお腹はなった。その頃の音に似てたんだ。俺にはあいつが泣いているように見えた。あのときの俺みたいに」


――お母さん、お腹空いたよ――


「そっか。じゃあほうっておけないね」
「親父は俺に負い目があったからお金だけはたくさんくれた。それこそ好きな物を好きなだけ食べれるくらいにな。そして俺から逃げるようにますます仕事に専念して家によりつかなくなった」
「それで食べることにはまっていったんだ?」
「食べることで空いた穴を埋めようとしたんだろうな。だから健康なんて度外視で外食に行きまくった。体調が悪くなったところで俺の勝手だし、病気になっても自己責任だし、それに守らなきゃいけないものもなかったからな」
「そこに現れたのがあの子かぁ。ようやくわかった。ひかりが変わったわけが」
「俺は料理を通して失ったものを取り戻したかったんだと思う」
「そっか。素敵だね。話してくれてありがと。それでそのぴりかちゃんはいまどこにいるの?」
「あいつは……」


 刹那のことだった。あの音がどこからか聞こえた。
 お腹を空かした声が。
 俺は立ち上がって耳を澄ます。


「この音」
「この音って何?」
「聞こえないか?」
「何も聞こえないけど」
「あいつが泣いてる」
「えっ、ちょっとひかり?」


 俺は怪訝そうな佐久名に構うことなく全力で走り出す。
 ぐるるるるる。
 その音の方へ。
 それは遥か彼方から流れてくる。
 俺はこの音を何度も聞いた。
 まるでタイマーのように決まった時間に。
 初めて出会った瞬間に。
 こんなに切なく胃袋を鳴らすやつを俺は他に知らない。
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