碧背

平子晶都

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序章

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「宜しければどうぞ」
 目の前にピンチョスの乗ったトレイを差し出され、左手でやんわりと押し退ける。
 セミフォーマルの衣装に身を包んだ男女の波の中、その波を掻き分けながら進んで行く一人の小柄な女性。松崎梓マツザキアズサは長い髪を高い位置でまとめ上げ、それを留めた大きなローズ形の銀細工が人波の中で光ながら進む。
 その後からは必死に付いてくる背の高い青年が一人。アズサの弟、松崎聖次郎マツザキセイジロウ、セイは着慣れないスーツをしきりに気にしながら、前へ前へと進むその銀の光を追いかける。
「アズ、待って、早い」
 後からの声を無視して、前を行くアズは進み続ける。
 周囲の人々は華麗な仮面で顔を隠す者、特殊メイクさながらの素顔の分からない凝ったメイクをする者、そのままの者、様々な顔で集まっている。
 笑い声や囁き声、色々な国の言語が飛び交う中で、スッと一画が静まり返る。そこからアズに向かって、十戒の海の如く人が割れて一筋の道が現れた。
 道の先には、二人の男性がいる。一人は50過ぎの半白髪。もう一人は30手前といったところか。共に濃いブルーのレオパード柄のガスマスクを着けていて顔は見えない。
 開いたスペースをアズはそのままの速さで進み続ける。セイは突然の出来事に驚いて足が止まっている。
「お待ちしておりました」
 50過ぎの半白髪が、目の前に着いたアズの右手を取り、甲に唇を近づける。
「変わらずお美しいままで何より。エスコート致します」
 そう言ってフロア奥の階段を振り向く。30手前の男が先に立って道を開けながら進んで行く。半白髪とアズがそれに続くと、セイを取り残して道が徐々に閉じてゆく。
「セイ、早く来なさい」
 アズはセイに向かって言った。セイは慌てて後を追いかける。

 階段を登ると、そこは片側にドアが並ぶ長い廊下になっていた。心なしかドアのある壁側を中心に弧を描いている様だ。
 数多く並ぶドアのうちの一つを開けて中に入る。入ると、弧を描く理由が分かる。中央が1階分下がり、そこに円形の闘技場の様なものがある。その周りは透明な板に区切られ、競技場の観客席の様に階段状に席が設けられている。正面と思われる場所には、主賓席の様なものがあり、今いる場所はその正面の二階部分。所謂リザーブシートの様な場所だ。
 前に出て見回すと、多くの人が演目が始まるのを今か今かと待っている様子が見えた。
「ここは、私的な裁判所の様な場所なのです」
 半白髪が言う。
「罪のある人物が居れば届け出る。その人物はここに連れてこられて、公開で裁判を受ける。裁判は大概、処理担当者と対面で行われます。処理担当者に何をされても耐える事が出来れば無罪。耐えられなければ、あるいは罪を認めれば有罪。その場で処理されます。また、その様子を見たいという人が多くいます。年会費とチケット代さえ払えば誰でも会場に入ることができます。高額ではありますが。罪人の届出にもそれなりの金額が必要です。ここはそういう場所です」
 アズは会場がよく見える位置に置かれたシートに腰掛ける。サイドテーブルにはチョコレートが置かれている。アズはそれを一つ摘むと口の中に入れて微笑んだ。
「で?」
 アズの問いに半白髪が答える。
「この非人道的な行為が当国の政府の目に留まったのはもう何十年も前の事になりますが・・・先だって政権が変わった。巨額の利益の流れが問題視され、近々告発される事になりました。なので、ここは今日で終わりになる予定です。終わりになる前にお知らせしておかなければと思いまして」
 アズの後ろに立ったセイは、呆れた様に息を吐いた。
「察するに、罪はお金を出す原告の自由、処理は残忍な拷問なんだろ。酷い話だ」
 アズはセイに向けて困った様に笑い
「酷いかどうかを決めるのは当事者であるここの人達よ。部外者の私達が決める事じゃないわ」
 そう言って再び半白髪に顔を向け、続きを促す。
「背中にをお探しと聞きました。本日最初の案件をご覧の上、判断頂けたらと」
 半白髪がそう言った時、会場の照明が落とされる。
「始まりますよ」
 3本のスポットライトか天井から降り注ぎ、それぞれに闘技場を隅々まで照らした後中央に集まる。集まった光の中には、先程までは居なかった紳士が現れていた。
 アズは、その紳士を見て顔から表情を消す。目を細めて不愉快そうに口元を歪めた。
「知った顔だわ」
「いつもとは違う司会者ですね。今日で最後だから代理を立てて本人は雲隠れでもしたのでしょうか」
 30手前の男が言った。
 スポットライトの中で紳士は深く礼をする。顔を上げると影に包まれた観客席を見渡す。切長のつり目に高い鼻、薄い唇のその口下に上品な二連の黒子。不揃いな縮れた金髪。病的に青白い肌。スマートな長身を、今日は派手なタキシードに包んでいる。
「皆様お集まりいただきありがとうございます。いつも司会を務めるお馴染みの百獣の王レオーネは体調不良の為ベッドの上。本日は代わりましてワタクシ糸杉サイプレスが進行させていだだきます」
 観客席からは熱のある歓声が響く。
糸杉サイプレスねぇ、糸みたいな目でよく言うな」
 セイが言うのを、アズが軽く嗜める。
「今宵のセイ君はよく喋りますな」
 ホッホッと笑いながら半白髪が言った。
「早速始めましょう。最初の罪人はこちら!」
 糸杉の横にスポットライトが差し、両手をロープで縛られた男が現れる。左右の腕を係員と思われる男に両側から押さえられていた。急に浴びせられた光に眩しそうに目を細める。40~50の間位の年齢。痩せて背も低めで、オドオドと周囲を見渡す様が怯えた小動物のようだ。
「彼の罪は殺人!3日前の夜一人歩きしている女性に背後から近づき、ワイヤーで首を絞めた!そして苦しみもがく女性の逃げようとするその脚に、刺した!」
 興奮した糸杉の声に観客席からは「酷い奴だ!」「殺しちまえ!」などの声が次々と上がって来る。
「し、知らない!俺は何もしてない。人なんて殺してない!」
 縛られた男が抗議の声を上げる。
「刺した!・・・何を?」
 糸杉がそう言うと、スポットライトの外から誰かが細長いモノを手渡す。観客によく見える様にそれを高くかざすと、それは先端が銀色に鋭く光り、胴体は透明なビニール製、持ち手の部分が白いカーブしたプラスチックの傘だった。
 場内が静かに騒めく。
「か弱い女性の細い脚に、こんなモノを刺すなんて!酷い。あまりにも酷い!」
「知らない。何もやってない!濡れ衣だ!」
 糸杉は縛られた男に体を向けると、手に持つ傘の先端を男に向ける。
「やったかやらないか、裁いて処理していただきましょう。本日の処理担当者はこちら」
 持った傘をそのまま180度平行移動させると、その先にスポットライトが当たる。光の中には小柄な女性が立っていた。
 顔は、半白髪等と同様にガスマスクをしているので見えないが、小柄な身体にワンショルダーのドレスを着ていた。長いストレートの黒髪を背中の中ほどまで垂らし、右肩と対照的に大きくスリットの入ったスカートから覗く左脚は白く眩しい。
 特に目を引くのはワンショルダーで剥き出しになった右腕側の部分。肩甲骨辺りが不自然に盛り上がり、そこから繋がる肩腕の筋肉の異様な盛り上がり。
「あちらです」
 半白髪が言う。
「雰囲気がアズに似てるね」
、またはそういう特徴の見られる女の子を探しているとは言ったけど・・・あの子は違うみたい。右肩から腕にかけて凄いけど、違うわ」
 30手前の男から受け取ったオペラグラスを覗きながらアズが言う。半白髪は顔を下げ「そうですか」と呟く。
 会場からは囁きが聞こえる。「彼女か」「楽しみだ」と言う言葉の数から、お馴染みの処理担当者なのだろうなということが伺われた。囁きの中から「ルシファ」と言う声が聞こえたかと思うと、徐々にその声が重なり繰り返され、一つの大きなコールに変わった。
「そう!皆様の期待に答える、残酷で、キュートな堕天使。。女性の敵は女性に退治して頂きましよう。オーナーは皆様ご存知のアラル伯爵!」
 糸杉の台詞終わりと同時に、アズ達のブースにスポットライトが当たる。
 半白髪、アラル伯爵が軽く頭を下げ、集まった会場中の視線に右手を上げて答える。30手前の男は後ろに控えて軽く頭を下げる。
「オッさん関係者かよ」
 セイがボソリと言った。
「地中海に島を持っておりまして、その浜に流れ着いたのです。半分死んでおりましたが一命を取り留め。記憶も無く、聴力も無く、色盲の様です。右肩と腕は元からああでした。役に立ちたい様なので仕事を紹介してあげました。・・・哀れな娘です」
 アズは、オペラグラスの視線を、娘から糸杉に移した。

 ライトに照らされたブースを見て、糸杉は細い目を更に細めた。
「情報量が多過ぎる・・・」
 マイクでは拾えない小声でそう呟くと、自分が紹介した伯爵がルシファと同じくガスマスクを付けている事を確認し、伯爵の横に見たくもない女性が座っているのを見た。

「捕まえる?」
 睨み合うアズと糸杉を見て、アズの耳元でセイが言う。アズは目を逸らさないままで答えた。
「無理だと思うからいいわ」
「オレより強い?」
「ええ、よりは遥かに」
 納得行かない様子ではあるが、肩をすくめて引き下がる。

「捕らえますか?」
 スポットライトの外側の暗闇の中から、若い声が聞こえて来る。先程傘を差し出して来た者だ。
「いや、いいよ。捕まえてもすぐ逃げちゃうから意味がない。」
「・・・」
「それより、高性能なフィルター付きのマスク。至急用意」
 糸杉は暗闇に向かってそう言うと、ルシファに傘を投げ渡す。そして大きな声で言い放った。
SHOWTIMEショウタイム!!」
 掛け声と共に会場が眩しい灯りで全面照らし出される。ルシファは傘を空中で掴み取り駆け出し、勢いをつけて槍投げさながらに傘の尖った先端を男の脚に向かって投げた。
 男の方は、両腕を縛られたまま後ろを向き逃げ出そうとしたところ、左脹脛に強い衝撃を受けた。鋭く加工された傘の先端がグサリと刺さっている。
「ぅわあぁぁぁ!!!」
 目を見開いて叫ぶ男。青褪める顔とは裏腹に、脹脛からは大量の赤い血が飛び散り流れる。バランスを崩して前方に倒れて、だが縛られた両腕の自由が利かずに顔から地面に叩きつけられる。刺された脚を確認する為振り返っていたせいで右顎から落ち、折れた歯と血が辺りに撒き散らされる。
 客席は大歓声。それでも逃げようと前へと芋虫の様に這い進む男の姿に熱狂する。
 ルシファは男に歩み寄り、左脹脛に刺さったままになっている傘を引き抜いた。解放された動脈から吹き出す血飛沫を、その傘を開いて防いだ。
 観客席からは笑い声と、それ以上に大きな興奮の声が上がる。ルシファは傘をたたみ、再び左脹脛を狙って右腕を振り上げる。
 男は、震えが止まらないながらに懸命にルシファを見上げる。やめてくれ、知らないんだと消えそうな声で訴え続ける。
「罪を認めますか?」
 糸杉がマイクを通して聞く。
 男は震えよりも多少大きく首を横に振る。知らないんだ。何もしていないんだと呟き続ける。
 男を指差して罵倒する観客達。ルシファが傘を振り下ろして今度は左脚腿に傘を突き刺した。
 大きな悲鳴が上がる。観客席は益々の興奮に包まれる。

「・・・」
 糸杉の横から、ガスマスクが差し出される。ルシファやアラル伯爵達が付けているものと変わりのない濃いブルーのレオパード柄。
「おやおや、これしか無いのかい?」
 不満を表しながらも受け取って身に付けた。

「こちらを」
 30過ぎの男がガスマスクを2つトレイに乗せて差し出してくる。受け取ってアズは素早く顔に付ける。セイは、その濃いブルーのレオパード柄が、アラル伯爵達と明らかにお揃いな事に嫌そうな顔をする。
「何、これ付けるの?」
 手に取りながらそう聞いた時、鼻腔に何やら甘い匂いが届いた。アズが食べていたチョコレートの匂いとは明らかに違う、よく熟れた果物のような匂い。何の匂いだろう?と確かめたく思い、セイは鼻から深く息を吸い込んだ。
「ん?」
「あ!」
「!?」
 その場にいたセイ以外の3人は、驚いて思わず動きを止めた。
 どうしたのかと3人の様子に驚いたセイだが、すぐに眩暈に襲われた時にその理由に気付いた。吸っちゃダメなヤツだったか。そう思っても後の祭り。ダメだった、と思った時には腹の底から沸るような怒りと興奮が湧き上がってくる。
 セイの目の焦点が怪しくなり、フッと閉じたかと思うといきなり体中に力が入るのが分かった。アズはセイの腹に肘鉄を入れ、同時に30手前の男は首下に手刀を入れる。セイは膝からその場に崩れ落ちた。

 ルシファは目の前の男の様子が急に変わったのを感じた。脹脛を刺され、太腿を刺され、口から血を流しながら命乞いを続けていたのが、黙り込み自分を睨み上げて逆に向かって来ようとしている。使えない両腕の代わりにまず無傷な右脚で回し蹴りを浴びせて来る。一歩下がって避けると、今度は噛みつこうと頭を上げて顔を近づけてくる。
 咄嗟だった。本能的にその開けられた口内に傘の先端を差し込む。右手からしっかりとした手答えを感じ、相手の絶命を確信した時にハッとする。
 殺してしまった。
 ここに来る観客達は、罪人の姿を見に来る。その為に安くは無い金銭をかけてもいる。だからなるべくようにしなくてはならない。
 命乞いをし涙ながらに逃げ惑う罪人の相手に慣れてしまっていたので、殺気立った男に驚き、素早く絶命させてしまったのだ。
 だがしかし、ルシファはいつもとは違う様子に気付いた。色の無い視力で周囲を見回すと、観客席ではほぼ全ての観客達が今目の前で絶命させた男の様に好戦的に殺気剥き出しでそばにいる者同士で殺し合い、さながら殴る引っ掻くの応酬を見せていた。
 どういう事かと思っていると、背後から何かが駆け寄って来るのを感じた。振り返ると、ルシファと同じガスマスクを付けた何者かがすぐ後ろに迫り来て、彼女の左手首を掴んだ。
 男だった。年の頃はルシファと同じ位だろうか。ルシファと同じ黒髪に白い肌。明らかに左より発達した右腕。ガスマスクの中の瞳が光ったように見えた。切迫した様子で名前を呼ぶ。
‼︎」

「申し訳ございません!咄嗟に」
 30手前の男は崩れ落ちたセイを抱え上げながらアズに向かって謝る。
「いいのよ。ありがとう」
 アズは溜息をついて30手前の男からセイを受け取り脇から肩を入れる。
「情報をありがとう伯爵。御礼はいつもと同じく振り込むわ」
 そう言って立ち上がりセイを担ぎ上げた。
「お運びしましょうか」
 30手前の男がアズの代わりに担ぎ上げようとする。身長180以上のセイを、150ちょっとのアズが運ぶのは無理だと思っての事だったが、アズは「大丈夫」とそのままセイの脚を引き摺りながらドアへと向かう。
 アズを見ながら、アラル伯爵は話しかけた。
「一つお願いがあるのですが。あの娘を引き受けて頂けないでしょうか」
 アズは立ち止まって振り返る。
「ここは今日で終わります。私も姿を消す予定でして。あの娘の行く先が無いのですよ。私が連れて行けば良いのでしょうが先の短い人生ですゆえ」
「・・・」
 アズは少し黙り込んで、そしてアラル伯爵の後ろの光景に気づく。丁度話していたルシファが、新たに現れたガスマスクの男に手を取られているところだった。
 少し離れているものの、ルシファの戸惑った様子と男の必死さが伝わってくる。
 男の顔を見てルシファの目が変わる。光が一筋宿るように。失った色と音と記憶が戻って来たのであろうか。動揺で身動きが出来なくなる。そんなルシファを男が引っ張って外に連れ出そうとする。
 アズは少し笑い、アラル伯爵に向かって言う。
「貴方には借りがあるからお願いを聞いてあげたいとは思うけど、彼女には彼女の物語があるみたい」
 アラル伯爵は後ろを振り返り、会場から連れ出されようとしているルシファを見て一つ大きな溜息をついた。
「じゃあ、
 アズはそう言ってドアを開けて出て行った。
「我々もそろそろ行きましょう。此処は危険だ」
 軽く左右に頭を振りながらアラル伯爵はたった今目の前で閉まったドアに向かって歩き出す。「はい」と30手前の男はそれに続いた。ドアを開けると、たった今外に出たはずのアズとセイの姿が消えている。「あれ?」と2人の姿を探して左右に首を振る。
「お二方は、今外に出た所の筈ですのに」
 そんな彼に、アラル伯爵はさも当たり前といった感で答える。
「あの方々は我々とは違う次元の人間なのですよ。いや、人間と言っていいものなのか」
 歩く足を止めずに答える。進む廊下は、倒れた人、崩れ落ちて呻き苦しむ人で溢れている。30手前の男は、アラル伯爵の一歩前を進み、殺気と狂気で正気を失っている人々を投げ飛ばしながら会話を続ける。
「女性の方は、暖炉の上の絵画の方とよく似ておられるように見えましたが」
 言ってその絵画を思い出す。まだ10代の頃の伯爵本人と父親である当時の伯爵、そして縁ある方として東洋人の女性の姿が描かれていた。ルシファが打ち上げられているのを発見した時、その女性に似ていると思った。そして今日、伯爵が招待したのは更に似ている女性だった。
「似ているも何も当人だよ」
 アラル伯爵は言う。「え!?」と驚く30手前の男。
「子供の頃と学生時代、そして現在。目の前に現れる度にあのままの姿を見せてくれるよ」
 前方にエレベーターが見えた。入り口の前では2人の男がガスマスク姿で銃を構えて扉を開いたまま待機している。
「こちらへ!」
 掛けられた声に2人は足を早めた。

 ガスマスクを付けてすぐに異変は起こった。会場観客席関係無く、そこにいる人々が凶暴化して、誰彼構わず殺し合いを始めたのだ。
「短時間でここまでの効果、素晴らしいね。開発者と是非お話ししたいものだ。サンプルを持って帰るよ」
 糸杉は横に手を出して試験管のような物を受け取る。蓋を開け軽く振って再び蓋を閉めて懐中にしまう。
「可燃性だろうね、引き上げるよ」
「あの天使ルシファは宜しいのですか?」
 横から声にが響く。15~6歳の少年が同じガスマスクを付けて立っている。
「ああ、彼女はからね」
「ですが、なかなか役に立ちそうですが」
 会場から今にも出て行こうとするルシファと、突然現れた男を視界に収めながら少年は言う。
「あの娘の瞳の光を見なかったかい?滅多にお目にかかれる物では無いよ。あの2人を引き裂くのはね、そうって言う物なんじゃないのかな」
「指出がましい事を申しました」
 少年はそう言って引き下がる。
「あのー」
 引き上げようとする2人を引き留める声が上がる。少年と同じ格好、髪型をした少女だ。「どうした」と糸杉が聞く。
「この沢山ある死体、持って帰る訳には行かないでしょうか?」
「・・・」
「勿体無いですよー、こんなに沢山落ちてるのに」
 必死に訴える少女に糸杉は溜息を吐きながら答えた。
「僕には人食じんしょくの趣味はないからその感覚はよく分からないんだけど」
 言いながらチラリと少年の方を見る。
「捕食の為の無許可の殺人は禁止事項ですが、死体を拾ってはいけないというルールは無いです。無為に転がっている死体を欲しがる気持ちもわからないでは無いです」
 少年の答えに再び溜息を吐いて糸杉は言った。
「早くしなさい」
 それを聞いて、少女は嬉々として死体を物色し始める。横では「では私も」と少年も一体持ち上げる。糸杉は再び溜息を吐いた。
 不意に殺気を伴ったドレス姿の女性が少女の背後から襲い掛かる。しかし少女は持ち帰る死体を選ぶのに忙しく全く気付いていない。
「レイナ!」
 少年が慌てて少女の名を呼ぶ。少女、レイナはびっくりして顔を上げるが、ドレスの女性はもう目前に迫っており、手にしたナイフをレイナの頭上に振り下ろすところだった。
 瞬間、糸杉は無表情のまま右手を掲げる。人差し指、中指、薬指の3本の指から一直線に爪が伸びてドレス姿の女性の顔面を貫いた。風圧で髪や服が舞い上がる。
「ヒイィぃぃ!」
 レイナの声に呆れながら糸杉は「次は無いよ」と言い放ちながら爪を仕舞った。
「1人一体!持ったら行くよ!」
 レイナは慌てて今出来上がったドレスの女性の死体を持ち上げた。
 少し離れた所から爆発音が聞こえて来ると、辺りは一瞬で炎に包まれた。しかし炎は、糸杉と少年少女を避けるようにして勢いよく燃える。陽炎が揺らめいたかと思うと、3人の姿は見えなくなった。

 ドアを開けると、そこは先程の廊下とは全く違った場所だった。
 反対側が霞んで見えるほどの巨大な螺旋階段。頭上も足元も終わりが見えず、果てが無いように思われる。ドアは一度閉まると、スッと外観が変わった。周囲にも無数のドアがあり、それらと同じ物に変化する。
 アズはセイを担ぎ上げたまま、瞬きを一度した。すると、今迄見えなかったキラキラと光を反射する細い蜘蛛の糸の様なものが体から遥か頭上へと伸びているのが見えた。2人の腰辺りから伸びているそれを2本まとめて掴んで軽く引っ張る。糸と同じく急に現れた耳元の飾りから声が聞こえた。コードレスのイヤホンのような物だ。
「お2人の姿を確認しました」
 音声ガイダンスの様な真面目な声。
「ご報告があります。近くにの反応があります。いかが致しますか?ナビを直ぐ開始できますが」
「あー・・・」
 アズは困ったように耳飾りを弄った。
「一度帰るわ」
「ですが、そちらはアンカーの設置不可能なエリアです。一度引き上げますと再び反応を発見出来る確率はほぼ有りません。ロストします」
「セイがね、ガスを吸い込んだの。多分これR国の軍事兵器だと思うのよね、ウィルスタイプの神経ガス。1998~9の」
「・・・了解しました。回収班を向かわせますので、アズはそのままに向かわれてはいかがでしょう」
「いいえ。せっかく吸い込んでくれたんだから、抗体的なモノを作ってあげようと思うの。まだ無かったでしょ?だから帰る」
「アズ自身が作成に関わるのですか?」
「そのつもりよ」
「・・・長期に渡ると思われますが」
「構わないわ。その方がうまく行くと思うのよ」
「いつものですか?」
「そう」
「・・・了解しました。引き上げます」
「お願いしまーす」
 アズは糸をしっかりと掴んで上を見上げる。音もなく、2人の体は上へ上へと引き上げられ始めた。





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