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4.スノウモル
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別棟に面した裏庭は、本校舎に付属したものと違ってあまり授業で使われることがないからか、草木も多く手入れも最低限に留まっている。申し訳程度にいくつか魔石ランタン付きの木製のベンチは配置してあるけれど、わざわざここまで来る学生はあまり見かけない。
そもそもこの場所に面しているのも、別棟用の簡易的な医務室や資料室といった、学生が滅多に足を伸ばさない教室で大抵カーテンも閉められているし、存在すら知られていないのかもしれない。
ましてや授業も終わって陽も落ちるという時間になれば、皆部活に勤しんでいるか寮に帰っているかだし、こんな辺鄙な場所にわざわざ足を運ぶ物好きは私達くらいなものだった。
何も人目を忍んでいるわけではないけれど、思い出深い場所であると同時に静かで落ち着いて話ができるこの場所は、私達の逢瀬の定番になっている。
ベンチに鞄を置いて、レクス先輩の荷物も預かろうと振り返ると、彼は少し離れたところで、裏庭の中でも一際に目立つ大木を見上げていた。方々へと高く伸びた枝はしなやかで、滑らかな隆々とした幹も立派なものだけれど、葉もついていないそれは眺めているには少し寂しい。
けれど、あの木の持つ特別な意味を私は知っている。レクス先輩の後ろ姿が、初めて会った時のそれと重なって、私はそっと近づくと声を掛けた。
「……本当に、ここにあるのが勿体無いくらいに立派ですよね、このスノウモルの木」
「……まあね。ソルシエル家でもそこら中に植えてあったけど、こいつの方が大きいかな。でもそうそう咲くものでもないし、そうしたらただの殺風景な大木だから、今くらいが丁度いいんだよ、きっと。俺もここが気に入ってるし」
木を見上げる彼の表情ははっきりと伺えないけれど、その声色は穏やかだったから、きっと本心からそう言っているのだと思う。それでも最初にここで彼と出会った時の、やるせなさの滲んだ項垂れた背中は一度脳裏に浮かべばなかなか消えてはくれない。
スノウモルの木は魔法に反応して花を咲かせる、特殊な性質を持つ。精緻に描き出した魔法陣から魔力を注がなければ花を咲かせることはなく、それも普通の魔法使いであればひと枝を花開かせるだけで魔力切れを起こしてしまうという。
咲かせた時の魔力が切れてしまえば、どんな加工をしても色褪せて枯れてしまうスノウモルの生花は本当に希少なもので、私もこの花弁が開いている所を見たのは入学当初だけだ。それでも、あの繊細な白い花の美しさは強く記憶に刻まれている。
魔法使いの実力を目に見える形で示すことができるこの木は、その性質から長らく魔力の象徴として扱われてきた。
だからこそあの冒険譚のタイトルにも用いられているし、……ソルシエル家の家紋には、この木の花の紋様があしらわれている。彼の耳に輝く白い花弁を模した魔石のピアスも、スノウモルの花がモチーフとなっているのだと思う。
魔石ランタンの光を淡く照り返すそれをじっと見つめていると、やがて振り向いたレクス先輩が空気を変えるようにぱっと笑った。
「ごめん、待たせちゃったね。すぐ荷物置いてくるから。でもシェルちゃん、本当に俺の鍛錬見てるだけで退屈しない? さっき借りた本、読んでてもいーよ」
「い、いえ、そんな。退屈なんてするわけないです!」
「そう? ならいいんだけど」
両手を振りながら慌てて言い募ったことは本心だった。レクス先輩の剣を見て、退屈だと思ったことなんてただの一度もない。それは勿論私が彼のことを好きだから見つめていて飽きないというのもあるけれど、決してそれだけではなくて。
焦る私に苦笑を漏らして、ベンチに荷物を下ろしローブを脱ぎ捨てたレクス先輩は、シャツの胸元を少し寛げて軽く伸びをした。覗いた首筋にどきりと胸が高鳴って、それを気取られないように少しだけ目線を逸らし、慌ててベンチへと腰掛け直して見学の姿勢を整える。
鍛錬を見せてもらうのだって初めてじゃないのに、どうしたって彼の軽装には慣れない。でもそれを気取られてしまえばまた揶揄われてしまいそうだったから、私は毎回どうにか平静を装っていた。
いくらか身体を慣らす運動を続けていた彼は、やがて小さく息を吐いてから、その掌を宙へと翳し、そこに魔力を集め始めた。
彼の瞳の色と同じ、ターコイズブルーの熱を帯びたそれはやがて渦を巻いて風を起こし、彼の柔らかな髪がふわりと揺れる。次第に大きくなっていくその魔力の光は張り詰め、不安定に揺らめいていて、私は今にも弾けてしまいそうなそれに思わず喉を鳴らした。
けれど彼はそれに臆することなく、ゆっくりと、目を伏せて。
「……剣よ、俺に応えろ────俺を見ろ!」
その瞬間、力強いその声に呼応するように、今にも弾けそうだった魔力の光は一気に収束した。僅かに残像を描いて、先輩の掌の中で形を変え、鋭い白刃を模っていく。
思わず目を瞠った次の瞬間には、レクス先輩の手には仄かに青い光を帯びた、ため息が出るほどに美しい細身の剣が握られていた。
己の身体の一部を扱うように、レクス先輩は気軽な仕草でそれを指先で回して口角を上げる。それから横目で投げられた視線に、私は我に返ると必死になって拍手を送った。
本当は、こんなに丁寧な手順を辿らなくても、彼は一瞬で剣を手元に喚び出すことだってできる。それでもこっちの方が疲れないから、と言っていつも一連の流れを見せてくれるのは、物語の一幕のようなこの瞬間に、私が胸を踊らせているのを知っているからだ。
目を輝かせる私にレクス先輩は少しだけ照れくさそうに頬を掻いて、まだ剣持っただけだよシェルちゃん、と謙遜した。剣を持っただけで、こんなにも格好いいのはきっとこの人だけなのに。
何気ない仕草でくるりと掲げられた剣の切っ先が、魔石ランタンの灯りを照り返した。レクス先輩の喚び出した騎士の扱う剣は特殊な素材で作られていて、魔力を通すことのできる刃は斬撃を何倍もの威力へと変える。
けれど時に魔法さえも切り裂くことのできるその力は、決して容易く扱えるものではない。剣の腕は勿論のこと、魔力を武器に留め続ける集中力、戦闘の中で瞬時に魔力の出力や性質を変えられるだけの瞬発力と判断力が求められる。
私は剣のことは専門外だから、それを身につけるためにどれほどの鍛錬が必要で、彼が今までどれほどの思いでその力を手にしたのか、想像することしかできないけれど──それでも、確かに分かることだってある。
……彼は、見ているだけで退屈しないか、なんて言ったけれど、とんでもない。
「っしょ、と」
軽い掛け声と共に、何でもないような素振りで彼が剣を払い、キン、と小さく空気を切り裂く音が響く。けれどたったそれだけのことで、彼が握った剣の先から青い閃光と、髪を靡かせるほどの衝撃が広がって、私は思わず息を呑んだ。
周囲に被害を及ぼさないよう調整されたその斬撃は短い距離で掻き消えたけれど、未だに草木は揺れ動いていて、鮮烈なその光は網膜に焼き付いて離れてはくれない。
彼が先日参加して見事優勝を収めた、国が主催する剣技を競う大会は、年齢や身分の制限のない、一定の条件を満たしていれば誰でも参加が可能なものだった。
その完全実力主義の舞台で、未だ学生の身分である彼が優勝を収めたというのは、観客席からこの目で見ていなければとても信じられないような快挙なのだ。元々学園では彼の剣の腕は人の口に上るほどのものだったけれど、それとは規模が全く違う。
あの日、表彰台に輝いた彼の輝かしい姿を忘れたことは一度だってない。
視界が滲んで仕方なかったけれど、それでも、向けられた数多の歓声と与えられた栄誉に、どこか呆然としたような、信じられないような色を浮かべた彼の表情はしっかりと脳裏に刻まれている。
……それから、現実に追いついた彼が、くしゃりと泣きそうな笑みを浮かべたことだって、ずっと。
ソルシエル家の名前に縛られていた彼はあの日に漸く、将来有望な騎士、レクス・ソルシエルとして日の目を浴びることを許された。──魔法を愛し、けれど魔法の才に恵まれなかった彼は、それでも間違いなく稀代の天才だった。
彼の剣先が目にも止まらぬ速さで翻り、その度に美しい魔力の軌跡を描くのを、私は夢見心地で見つめていた。大会の観戦に誘ってはもらったけれど、当時は私とレクス先輩はまだ恋人同士ではなかったから、元々人気のあった彼が大会の優勝からそれまでとは比にならないほど女の子に囲まれるようになってしまって、何だか彼を随分遠くに感じたのが懐かしい。
学年の違う私でも名前を知っているほどの学園のマドンナ達が次々と彼にアタックを始めて、当時一番の注目の的だった彼の噂話は嘘であれ真であれ一瞬で出回ったから、誰それととうとう付き合い始めたなんて話が何度も飛び交ったものだった。
その中には本当に容姿も心根も美しく、成績まで優秀な非の打ちどころのないような女性だって居て、聞く度に今度こそ本当なんじゃないかって思ったりして。
……結局、それは杞憂に終わったけれど。
……本当に、レクス先輩はどうして、私を選んでくれたんだろうと時々不思議に思うことがある。決して自分のことを卑下するわけではないけれど、私は取り柄といえば錬金術くらいなもので、あとは平凡の域から出ない。
お世辞や友人のよしみで可愛いと言ってもらえることがあっても、当然とても学園の才色兼備な美女達と張り合えるものではないし、唯一負けないと言える錬金術だって、彼が苦手とする分野なのだから下手をすれば好感度がマイナスになったっておかしくないのに。
レクス先輩はとても優しいし、私を大切にしてくれているのは痛いほど伝わっている。……けれどそれが本当に、私と同じ想いからなのかと問われれば、はっきりと頷けるような自信なんてどうしたって湧いてこない。
それは、好きだとか愛してるだとか、直接的な言葉を言ってもらえないから、だけではなくて。
そんなことをぼんやりと考えながらじっとレクス先輩の美しい剣筋を見つめていると、やがて一息つくことにしたらしい彼が汗を拭い、宙へと差し伸べる様な仕草で軽く剣を放った。
柔らかな青い光を帯びながらその刀身が掻き消えたと思えば、先程までの真剣そのものの表情が嘘みたいにぱっと人懐こい笑みを浮かべて、彼が軽い足取りでこちらへと歩いてくる。
はっと我に返った私が立ち上がりつつ慌てて水筒を差し出せば、お礼を言って受け取りそれに口を付けたレクス先輩が、ふとそのターコイズブルーの瞳に悪戯げな色を宿らせた。
「……なぁにシェルちゃん、ぼーっとしちゃって。俺の剣捌きに見惚れちゃった?」
「え!? いや、そ、そのっ」
本当に剣筋にだけ見惚れていたのなら、力強い肯定と称賛を返すだけで良かったのかもしれないけれど。
でも彼の首筋を伝う汗だとか、真剣な表情だとか、普段はあまり視界に入ることのない鎖骨だとかにどうしようもなく目を奪われていた自覚のある私は、彼の軽口に盛大に動揺してしまった。
ぶわ、と顔に熱が集まって、彼みたいに上手く表情を繕うことなんてできやしない。彼に、はしたない女の子だなんて思われたくないのに。
どうにか誤魔化そうという焦りから意味もなく足を動かすと、それが何かに勢いよく当たったと思った時にはもう、ぐらりと視界が揺らいでいて。
「え、」
「っシェルちゃん!」
そもそもこの場所に面しているのも、別棟用の簡易的な医務室や資料室といった、学生が滅多に足を伸ばさない教室で大抵カーテンも閉められているし、存在すら知られていないのかもしれない。
ましてや授業も終わって陽も落ちるという時間になれば、皆部活に勤しんでいるか寮に帰っているかだし、こんな辺鄙な場所にわざわざ足を運ぶ物好きは私達くらいなものだった。
何も人目を忍んでいるわけではないけれど、思い出深い場所であると同時に静かで落ち着いて話ができるこの場所は、私達の逢瀬の定番になっている。
ベンチに鞄を置いて、レクス先輩の荷物も預かろうと振り返ると、彼は少し離れたところで、裏庭の中でも一際に目立つ大木を見上げていた。方々へと高く伸びた枝はしなやかで、滑らかな隆々とした幹も立派なものだけれど、葉もついていないそれは眺めているには少し寂しい。
けれど、あの木の持つ特別な意味を私は知っている。レクス先輩の後ろ姿が、初めて会った時のそれと重なって、私はそっと近づくと声を掛けた。
「……本当に、ここにあるのが勿体無いくらいに立派ですよね、このスノウモルの木」
「……まあね。ソルシエル家でもそこら中に植えてあったけど、こいつの方が大きいかな。でもそうそう咲くものでもないし、そうしたらただの殺風景な大木だから、今くらいが丁度いいんだよ、きっと。俺もここが気に入ってるし」
木を見上げる彼の表情ははっきりと伺えないけれど、その声色は穏やかだったから、きっと本心からそう言っているのだと思う。それでも最初にここで彼と出会った時の、やるせなさの滲んだ項垂れた背中は一度脳裏に浮かべばなかなか消えてはくれない。
スノウモルの木は魔法に反応して花を咲かせる、特殊な性質を持つ。精緻に描き出した魔法陣から魔力を注がなければ花を咲かせることはなく、それも普通の魔法使いであればひと枝を花開かせるだけで魔力切れを起こしてしまうという。
咲かせた時の魔力が切れてしまえば、どんな加工をしても色褪せて枯れてしまうスノウモルの生花は本当に希少なもので、私もこの花弁が開いている所を見たのは入学当初だけだ。それでも、あの繊細な白い花の美しさは強く記憶に刻まれている。
魔法使いの実力を目に見える形で示すことができるこの木は、その性質から長らく魔力の象徴として扱われてきた。
だからこそあの冒険譚のタイトルにも用いられているし、……ソルシエル家の家紋には、この木の花の紋様があしらわれている。彼の耳に輝く白い花弁を模した魔石のピアスも、スノウモルの花がモチーフとなっているのだと思う。
魔石ランタンの光を淡く照り返すそれをじっと見つめていると、やがて振り向いたレクス先輩が空気を変えるようにぱっと笑った。
「ごめん、待たせちゃったね。すぐ荷物置いてくるから。でもシェルちゃん、本当に俺の鍛錬見てるだけで退屈しない? さっき借りた本、読んでてもいーよ」
「い、いえ、そんな。退屈なんてするわけないです!」
「そう? ならいいんだけど」
両手を振りながら慌てて言い募ったことは本心だった。レクス先輩の剣を見て、退屈だと思ったことなんてただの一度もない。それは勿論私が彼のことを好きだから見つめていて飽きないというのもあるけれど、決してそれだけではなくて。
焦る私に苦笑を漏らして、ベンチに荷物を下ろしローブを脱ぎ捨てたレクス先輩は、シャツの胸元を少し寛げて軽く伸びをした。覗いた首筋にどきりと胸が高鳴って、それを気取られないように少しだけ目線を逸らし、慌ててベンチへと腰掛け直して見学の姿勢を整える。
鍛錬を見せてもらうのだって初めてじゃないのに、どうしたって彼の軽装には慣れない。でもそれを気取られてしまえばまた揶揄われてしまいそうだったから、私は毎回どうにか平静を装っていた。
いくらか身体を慣らす運動を続けていた彼は、やがて小さく息を吐いてから、その掌を宙へと翳し、そこに魔力を集め始めた。
彼の瞳の色と同じ、ターコイズブルーの熱を帯びたそれはやがて渦を巻いて風を起こし、彼の柔らかな髪がふわりと揺れる。次第に大きくなっていくその魔力の光は張り詰め、不安定に揺らめいていて、私は今にも弾けてしまいそうなそれに思わず喉を鳴らした。
けれど彼はそれに臆することなく、ゆっくりと、目を伏せて。
「……剣よ、俺に応えろ────俺を見ろ!」
その瞬間、力強いその声に呼応するように、今にも弾けそうだった魔力の光は一気に収束した。僅かに残像を描いて、先輩の掌の中で形を変え、鋭い白刃を模っていく。
思わず目を瞠った次の瞬間には、レクス先輩の手には仄かに青い光を帯びた、ため息が出るほどに美しい細身の剣が握られていた。
己の身体の一部を扱うように、レクス先輩は気軽な仕草でそれを指先で回して口角を上げる。それから横目で投げられた視線に、私は我に返ると必死になって拍手を送った。
本当は、こんなに丁寧な手順を辿らなくても、彼は一瞬で剣を手元に喚び出すことだってできる。それでもこっちの方が疲れないから、と言っていつも一連の流れを見せてくれるのは、物語の一幕のようなこの瞬間に、私が胸を踊らせているのを知っているからだ。
目を輝かせる私にレクス先輩は少しだけ照れくさそうに頬を掻いて、まだ剣持っただけだよシェルちゃん、と謙遜した。剣を持っただけで、こんなにも格好いいのはきっとこの人だけなのに。
何気ない仕草でくるりと掲げられた剣の切っ先が、魔石ランタンの灯りを照り返した。レクス先輩の喚び出した騎士の扱う剣は特殊な素材で作られていて、魔力を通すことのできる刃は斬撃を何倍もの威力へと変える。
けれど時に魔法さえも切り裂くことのできるその力は、決して容易く扱えるものではない。剣の腕は勿論のこと、魔力を武器に留め続ける集中力、戦闘の中で瞬時に魔力の出力や性質を変えられるだけの瞬発力と判断力が求められる。
私は剣のことは専門外だから、それを身につけるためにどれほどの鍛錬が必要で、彼が今までどれほどの思いでその力を手にしたのか、想像することしかできないけれど──それでも、確かに分かることだってある。
……彼は、見ているだけで退屈しないか、なんて言ったけれど、とんでもない。
「っしょ、と」
軽い掛け声と共に、何でもないような素振りで彼が剣を払い、キン、と小さく空気を切り裂く音が響く。けれどたったそれだけのことで、彼が握った剣の先から青い閃光と、髪を靡かせるほどの衝撃が広がって、私は思わず息を呑んだ。
周囲に被害を及ぼさないよう調整されたその斬撃は短い距離で掻き消えたけれど、未だに草木は揺れ動いていて、鮮烈なその光は網膜に焼き付いて離れてはくれない。
彼が先日参加して見事優勝を収めた、国が主催する剣技を競う大会は、年齢や身分の制限のない、一定の条件を満たしていれば誰でも参加が可能なものだった。
その完全実力主義の舞台で、未だ学生の身分である彼が優勝を収めたというのは、観客席からこの目で見ていなければとても信じられないような快挙なのだ。元々学園では彼の剣の腕は人の口に上るほどのものだったけれど、それとは規模が全く違う。
あの日、表彰台に輝いた彼の輝かしい姿を忘れたことは一度だってない。
視界が滲んで仕方なかったけれど、それでも、向けられた数多の歓声と与えられた栄誉に、どこか呆然としたような、信じられないような色を浮かべた彼の表情はしっかりと脳裏に刻まれている。
……それから、現実に追いついた彼が、くしゃりと泣きそうな笑みを浮かべたことだって、ずっと。
ソルシエル家の名前に縛られていた彼はあの日に漸く、将来有望な騎士、レクス・ソルシエルとして日の目を浴びることを許された。──魔法を愛し、けれど魔法の才に恵まれなかった彼は、それでも間違いなく稀代の天才だった。
彼の剣先が目にも止まらぬ速さで翻り、その度に美しい魔力の軌跡を描くのを、私は夢見心地で見つめていた。大会の観戦に誘ってはもらったけれど、当時は私とレクス先輩はまだ恋人同士ではなかったから、元々人気のあった彼が大会の優勝からそれまでとは比にならないほど女の子に囲まれるようになってしまって、何だか彼を随分遠くに感じたのが懐かしい。
学年の違う私でも名前を知っているほどの学園のマドンナ達が次々と彼にアタックを始めて、当時一番の注目の的だった彼の噂話は嘘であれ真であれ一瞬で出回ったから、誰それととうとう付き合い始めたなんて話が何度も飛び交ったものだった。
その中には本当に容姿も心根も美しく、成績まで優秀な非の打ちどころのないような女性だって居て、聞く度に今度こそ本当なんじゃないかって思ったりして。
……結局、それは杞憂に終わったけれど。
……本当に、レクス先輩はどうして、私を選んでくれたんだろうと時々不思議に思うことがある。決して自分のことを卑下するわけではないけれど、私は取り柄といえば錬金術くらいなもので、あとは平凡の域から出ない。
お世辞や友人のよしみで可愛いと言ってもらえることがあっても、当然とても学園の才色兼備な美女達と張り合えるものではないし、唯一負けないと言える錬金術だって、彼が苦手とする分野なのだから下手をすれば好感度がマイナスになったっておかしくないのに。
レクス先輩はとても優しいし、私を大切にしてくれているのは痛いほど伝わっている。……けれどそれが本当に、私と同じ想いからなのかと問われれば、はっきりと頷けるような自信なんてどうしたって湧いてこない。
それは、好きだとか愛してるだとか、直接的な言葉を言ってもらえないから、だけではなくて。
そんなことをぼんやりと考えながらじっとレクス先輩の美しい剣筋を見つめていると、やがて一息つくことにしたらしい彼が汗を拭い、宙へと差し伸べる様な仕草で軽く剣を放った。
柔らかな青い光を帯びながらその刀身が掻き消えたと思えば、先程までの真剣そのものの表情が嘘みたいにぱっと人懐こい笑みを浮かべて、彼が軽い足取りでこちらへと歩いてくる。
はっと我に返った私が立ち上がりつつ慌てて水筒を差し出せば、お礼を言って受け取りそれに口を付けたレクス先輩が、ふとそのターコイズブルーの瞳に悪戯げな色を宿らせた。
「……なぁにシェルちゃん、ぼーっとしちゃって。俺の剣捌きに見惚れちゃった?」
「え!? いや、そ、そのっ」
本当に剣筋にだけ見惚れていたのなら、力強い肯定と称賛を返すだけで良かったのかもしれないけれど。
でも彼の首筋を伝う汗だとか、真剣な表情だとか、普段はあまり視界に入ることのない鎖骨だとかにどうしようもなく目を奪われていた自覚のある私は、彼の軽口に盛大に動揺してしまった。
ぶわ、と顔に熱が集まって、彼みたいに上手く表情を繕うことなんてできやしない。彼に、はしたない女の子だなんて思われたくないのに。
どうにか誤魔化そうという焦りから意味もなく足を動かすと、それが何かに勢いよく当たったと思った時にはもう、ぐらりと視界が揺らいでいて。
「え、」
「っシェルちゃん!」
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