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19.下心
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「お付き合いいただいてありがとうございます、レクス先輩」
「やだな、そんな畏まらないでよ。でも珍しいね、シェルちゃんが映像室使いたいなんて」
心なしか弾んだ声でそう言うレクス先輩を見上げて、私ははにかんだような笑みを浮かべた。向かう先は、映像魔石を観るために用意された映像室だ。煩雑な予約手続きもどうにかクリアして、もちろん抜かりなく映像魔石も借りてある。
ローブのポケットの中に収めた映像魔石の感触を指先で確かめながら、私は本当にこの話でよかったのかな、と今更ながらに考えていた。確かに恋愛ものと言っても色々あるし、その、あんまりいちゃいちゃしているような話だと却って気まずくなってしまうかもしれないから、実際に観た人からのおすすめというのはありがたいけれど。
とはいえ事ここに至って迷っても仕方ないし、ここは尊敬するラン先輩のことを信じることにしよう。
映像室があるのも別棟なので、既に魔石ランタンが灯っているとはいえ流石に廊下を歩く時は身体が強張ってしまった。とはいえ学園生活を送る以上は、ラン先輩からの報告が届くまで全くここを通らないなんて難しいし、できることといえば時間帯に気をつけることくらいだ。少なくともあの噂通りの条件なのだとしたら、灯る瞬間さえ避けられれば問題はない、と信じたい。
幸いなことに今回は、渡り切るまで私の影もレクス先輩の影も大人しく私たちの真似をしていたので、思わず内心で安堵の息を吐いた。
廊下で自分の影が逃げ出したことは、レクス先輩にはまだ伝えていない。彼はきっと信じてくれると思うけど、詳しいことは何も分かっていないし、下手をすれば私の幻覚かもしれないのに彼に心配をかけたくなかった。
何よりも、その先で会ったラン先輩のことだけ黙っているなんて器用なことをする自信がなくて。お兄さんに想いを交わし合う人が見つかったなんて大切なことを、口止めされているのにうっかり私から漏らしてしまうわけにはいかない。
「直接向かうってことは、何観るのか決まってるってことだよね?」
「あ、は、はい。知り合いから勧められて、観たかったものがあって……すいません、レクス先輩の希望も聞かないで借りてしまって」
「やだな、そんなのいーよ。どんなんでも、シェルちゃんと観れるってだけですげぇ嬉しいし。あ、でも折角なら、タイトルはお楽しみにしておいてもらおっかな」
そう言って彼が本当に嬉しそうに目を細めたものだから、胸が音を立てて締め付けられて、私はぱっと視線を逸らした。純粋に彼と物語を楽しみたい、という想い以外に、私には良い雰囲気になったら欲しい言葉がもらえるかもしれないなんて下心がある。それが、少しだけ後ろめたく感じて。
そんな思いを振り払うように少し足を早めれば、廊下の突き当たりに映像室というプレートが下げられた扉が見えてきた。
華やかな装飾が施されたその扉は、いつ見ても目に鮮やかだ。そのすぐ隣の台の上に設置された、丸い緑の魔石にレクス先輩が手をかざせば、それがじわりと使用中であることを示す赤色に変わっていく。
慌ててお礼を伝えれば、彼は何でもないように微笑むと軽く手を振った。レクス先輩の方がずっと魔力が多いとはいえ、こういうちょっとしたことを彼はよく代わってくれるので、なんだか申し訳ない。
重い扉を開けるのに少し手こずっていれば、見かねた彼が苦笑して後ろから片手を伸ばして手伝ってくれた。慌てて重ねてお礼を言いつつ、二人でゆっくりと映像室の重い扉を押し開ければ、徐々にまだ薄暗い内装が露わになっていく。
まず目に入るのは、壁と一体化したとても大きな鏡だ。普段授業を受けている教室よりも広いこの映像室で、その一面を占めるほど大きな楕円形の鏡は、つる草を模した華美な金属のミラーフレームで華を添えられていた。
映像室の後ろの列になるにつれ高い位置になるよう調整された長椅子や、締め切られた厚いカーテン、端に寄せられた機材などを鏡らしく映し出すそれは、けれど私たちだけを鏡の世界から取り除いている。詳しいことは私も分からないけれど、魔法具の魔力の構造上こういった仕様になっているらしい。
そういうものだと知っていても、最初に見た時はまるで幽霊か吸血鬼にでもなったみたいで、何度も自分の身体と鏡を見比べてしまったものだ。
「ここに来るの久しぶりだな、やっぱ鏡に自分が映らないのって変な気分かも。まずは明かりつけよっか、あとは準備……、シェルちゃん、映像魔石の使い方分かる? 俺やろうか」
「あ、いえっ、一応……大丈夫なはず……」
「はは、自信無さそう。じゃあ分かんなくなったら聞いてよ、俺、一応先輩だしね」
「い、一応だなんてそんな。ありがとうございます」
揶揄うようなことを言いつつ、レクス先輩が指先に青い光を帯びた魔力を集めれば、あたたかな色味の灯りがゆっくりと室内を照らし出した。宙を舞う埃がちらちらと光を反射して、小さな流れ星みたいに目の前を横切っていく。
その間を縫うようにして、私はゆっくりと大きな鏡へと近付いた。鏡を彩る華美な金属の装飾の中、中央下部に縦型の楕円形の窪みがあるのを見て取ると、ローブのポケットからそっと取り出した映像魔石を、改めてまじまじと見下ろす。
多角的ながらも楕円形に整えられたとても美しいその透明な魔石には、まるで琥珀に封じられた生き物みたいに、美麗な絵が浮かび上がっていた。
抽象的だけれど、これを見て何の物語かわからない人はいないだろうというくらいには分かりやすい、四人の主要人物。
──騎士と姫、それから魔法使いと、錬金術師。そっとその魔石を鏡の装飾の窪みに嵌め込めば、ぴったりと吸い付くように収まって、ふわりと幾何学的な魔法陣が浮かびあがった。光の線が紡がれて、魔石の上に文字を刻んでいく。
『スノウモルの木の下で』
それを確認して顔を上げれば、目の前に広がる大きな鏡に映っていた像が、ぐにゃりとその姿を歪めていた。まるで水面みたいに揺らぐそれが、やがて渦を描き始める。
近すぎて私まで目が回ってしまいそうで、一歩、二歩と後退すれば、三歩目が叶うことなく何かにぶつかったものだから、私は慌てて背後を振り仰いだ。鏡の周辺は映像を邪魔しないようあまり物が置かれていないので、こんなところでぶつかるようなものなんて一つしかない。
「あれ、『スノウモルの木の下で』じゃん」
私の頭の上から覗き込むように嵌め込んだ魔石をまじまじと見ているレクス先輩に、背中の温もりを意識して私は一気に固まってしまった。慌てて距離を取ろうとすれば、いつの間にやら前に回されていた彼の腕に遮られて思わず半泣きになる。
全然力を入れているように見えないのにびくともしないのは、彼が鍛えているからか、それとも私が非力すぎるのか。何にしても脱出できないと悟り、借りてきた猫のように大人しくなった私の頭に、彼は満足そうに悠々と、それこそ猫みたいにくつろいだ仕草で顎を乗せた。
「読んだことあるって言ってたけど、シェルちゃんはこれでよかったの?」
「……は、はい、映像は見たことなかった、ので、」
「そっか、そう言われると俺も見たことないかも。やっぱ新鮮に感じるものかな、楽しみ」
この状態で、彼はどうしてそう平静を保てるのだろう。彼に触れられるのは全然嫌じゃないけれど、むしろ嬉しいけれども、レクス先輩は気まぐれな上にいっつも急すぎるのだ。
せめてもう少しこう、雰囲気の盛り上がりというか、段階というかそういうのがあってくれたら、私も照れ隠しの抵抗をいちいち挟むようなことをしなくて済むのに。
距離を詰めたいと思っているくせにいざとなったらこれなのだから、我ながら面倒臭い。でもやっぱり羞恥が勝ってしまって、私はもうすぐ映像始まっちゃいますよ、と上擦った声で彼を促した。
こんなに鏡に近いところにいたら、下手をすると登場人物の足しか見えないかもしれない。それは彼も避けたかったのだろう、ちぇ、という不満そうな声と共に、背中を包む温もりは離れていった。
けれど私のお腹あたりに回されていた腕が、そのままごく自然な流れで私の手を取って、既にうるさく主張していた鼓動がまた音を立てる。
「段差で躓かないように。……これくらいはいいでしょ、シェルちゃんそそっかしいから」
「そ、そそっか……そんなことはっ」
「えー、本当かなあ」
意地悪なことを言うくせに、私の手を引く手つきはどこまでも優しくて、やっぱりずるい人だなと思う。導かれるままに後方の席へと足を進めて鏡の方を向けば、丁度鏡面全体がはっきりと見える絶好の位置だった。
激しかった鏡面の渦は少し落ち着いていて、今は少し波打つばかりになっている。さっきのは彼の腕の中にいるのが恥ずかしくて言ったことだったけれど、奇しくも本当にもうすぐ始まってしまいそうだった。先に長椅子の中央に腰掛けた先輩が、促すように立ったままの私の手を軽く引いた。
「シェルちゃん、ほら隣。そろそろ明かりも落ちると思うから」
「は、はいっ」
我に返って慌てて腰掛ければ、そんな急がなくても、と苦笑されてしまって恥ずかしさからそっと俯く。映像に集中できるようにだろうか、いつの間にか離れてしまった手が、少し冷えたように感じた。
……映像を見終わったあとならまた繋いでくれるかな、なんて淡い期待を私が抱いているとはつゆ知らず、彼は鏡面に視線を向けたまま口を開いて。
「でも、ちょっと意外だな。人に勧められたって言ってたけど、映像でも見たいと思うくらいシェルちゃんがこの話好きだとは思ってなかったからさ。やっぱりお目当てはアルヒ・ソルシエルがモデルの錬金術師?」
「え、ええと」
水を向けられて、私は思わず視線を彷徨わせた。何せこの話を選んだのは、私ではなくラン先輩なのだから。
『スノウモルの木の下でって冒険譚はシェルタも知ってると思うけど、あれの騎士と姫、魔法使いと錬金術師は最終的にくっつくでしょ。それぞれの恋模様に焦点を当てた映像魔石が図書室にあったんだ。話を知っていてもなかなか楽しめたよ。とはいえ主軸は冒険だし、シェルタ達には丁度いい塩梅なんじゃないかな』
考えてみてよ、と言われて少し迷ったけれど、やっぱり彼の方がレクス先輩のことを分かっているだろうし、折角アドバイスいただいたのだからと従うことにした。
少なくとも以前レクス先輩は、思うところはありそうだったけれどこの話に対して忌避感や嫌悪感を示すことはなかった。だから大丈夫だろうと思ってはいたけれど、想像より普通に楽しむ気でいてくれているようなので、実は先ほど内心で胸を撫で下ろしていたところだったりする。
けれど選んだ理由を突っ込まれたときのことをあまり考えていなかったので、咄嗟に曖昧な言葉しか出てこない。どう言い繕おうかと頭を悩ませていると、まさに助け舟となる音声が鏡面から流れ出した。
『まもなく上映いたします。照明が落ちますので、お立ちの方は足元にお気をつけてご着席ください』
「あっ! レクス先輩、始まりますよ! すっごく楽しみですね!」
わざとらしいほどにはしゃいだ声を上げてみせれば、流石に大袈裟すぎたのか隣の彼は目を瞬いていて、それを見て遅れて猛烈な羞恥がやってきた私は顔を赤くすると縮こまった。
誤魔化すにしても絶対もっと良いやり方があったのに、子供じゃないんだから。幼稚に思われてしまっただろうかという不安は、けれどレクス先輩がゆっくりと、眩しいものを見るかのように目を細めたことでどこかに行ってしまって。
「……うん、俺も、めちゃくちゃ楽しみ。──シェルちゃんとこうして並んでるだけでも本当に楽しいからさ、なんか、すげぇ贅沢してる気分」
いやに静かな、でも万感の想いが込められたその声が、胸の底を打って染み渡るように広がった。
私がゆっくりと目を見開いたことに気が付く様子もなく、レクス先輩はまた鏡面に視線を向けてしまったけれど、私は彼の横顔から目が離せそうになくて。やがて照明がゆっくりと落ちて、その横顔が青白い光に照らされていく。
……何でもないように零したその言葉がどれほど嬉しかったかなんて、きっと彼は知らないんだろうな。それなら、私の情けないことになっている表情も、張り裂けてしまいそうな胸の鼓動も全部全部、知らないままでいてほしい。
……隣に座っているだけで楽しいなんて、そんなの、
私もです、という、どうしようもなく恋心が滲んだその掠れ声は、タイトルコールの裏側に紛れて消えていった。
「やだな、そんな畏まらないでよ。でも珍しいね、シェルちゃんが映像室使いたいなんて」
心なしか弾んだ声でそう言うレクス先輩を見上げて、私ははにかんだような笑みを浮かべた。向かう先は、映像魔石を観るために用意された映像室だ。煩雑な予約手続きもどうにかクリアして、もちろん抜かりなく映像魔石も借りてある。
ローブのポケットの中に収めた映像魔石の感触を指先で確かめながら、私は本当にこの話でよかったのかな、と今更ながらに考えていた。確かに恋愛ものと言っても色々あるし、その、あんまりいちゃいちゃしているような話だと却って気まずくなってしまうかもしれないから、実際に観た人からのおすすめというのはありがたいけれど。
とはいえ事ここに至って迷っても仕方ないし、ここは尊敬するラン先輩のことを信じることにしよう。
映像室があるのも別棟なので、既に魔石ランタンが灯っているとはいえ流石に廊下を歩く時は身体が強張ってしまった。とはいえ学園生活を送る以上は、ラン先輩からの報告が届くまで全くここを通らないなんて難しいし、できることといえば時間帯に気をつけることくらいだ。少なくともあの噂通りの条件なのだとしたら、灯る瞬間さえ避けられれば問題はない、と信じたい。
幸いなことに今回は、渡り切るまで私の影もレクス先輩の影も大人しく私たちの真似をしていたので、思わず内心で安堵の息を吐いた。
廊下で自分の影が逃げ出したことは、レクス先輩にはまだ伝えていない。彼はきっと信じてくれると思うけど、詳しいことは何も分かっていないし、下手をすれば私の幻覚かもしれないのに彼に心配をかけたくなかった。
何よりも、その先で会ったラン先輩のことだけ黙っているなんて器用なことをする自信がなくて。お兄さんに想いを交わし合う人が見つかったなんて大切なことを、口止めされているのにうっかり私から漏らしてしまうわけにはいかない。
「直接向かうってことは、何観るのか決まってるってことだよね?」
「あ、は、はい。知り合いから勧められて、観たかったものがあって……すいません、レクス先輩の希望も聞かないで借りてしまって」
「やだな、そんなのいーよ。どんなんでも、シェルちゃんと観れるってだけですげぇ嬉しいし。あ、でも折角なら、タイトルはお楽しみにしておいてもらおっかな」
そう言って彼が本当に嬉しそうに目を細めたものだから、胸が音を立てて締め付けられて、私はぱっと視線を逸らした。純粋に彼と物語を楽しみたい、という想い以外に、私には良い雰囲気になったら欲しい言葉がもらえるかもしれないなんて下心がある。それが、少しだけ後ろめたく感じて。
そんな思いを振り払うように少し足を早めれば、廊下の突き当たりに映像室というプレートが下げられた扉が見えてきた。
華やかな装飾が施されたその扉は、いつ見ても目に鮮やかだ。そのすぐ隣の台の上に設置された、丸い緑の魔石にレクス先輩が手をかざせば、それがじわりと使用中であることを示す赤色に変わっていく。
慌ててお礼を伝えれば、彼は何でもないように微笑むと軽く手を振った。レクス先輩の方がずっと魔力が多いとはいえ、こういうちょっとしたことを彼はよく代わってくれるので、なんだか申し訳ない。
重い扉を開けるのに少し手こずっていれば、見かねた彼が苦笑して後ろから片手を伸ばして手伝ってくれた。慌てて重ねてお礼を言いつつ、二人でゆっくりと映像室の重い扉を押し開ければ、徐々にまだ薄暗い内装が露わになっていく。
まず目に入るのは、壁と一体化したとても大きな鏡だ。普段授業を受けている教室よりも広いこの映像室で、その一面を占めるほど大きな楕円形の鏡は、つる草を模した華美な金属のミラーフレームで華を添えられていた。
映像室の後ろの列になるにつれ高い位置になるよう調整された長椅子や、締め切られた厚いカーテン、端に寄せられた機材などを鏡らしく映し出すそれは、けれど私たちだけを鏡の世界から取り除いている。詳しいことは私も分からないけれど、魔法具の魔力の構造上こういった仕様になっているらしい。
そういうものだと知っていても、最初に見た時はまるで幽霊か吸血鬼にでもなったみたいで、何度も自分の身体と鏡を見比べてしまったものだ。
「ここに来るの久しぶりだな、やっぱ鏡に自分が映らないのって変な気分かも。まずは明かりつけよっか、あとは準備……、シェルちゃん、映像魔石の使い方分かる? 俺やろうか」
「あ、いえっ、一応……大丈夫なはず……」
「はは、自信無さそう。じゃあ分かんなくなったら聞いてよ、俺、一応先輩だしね」
「い、一応だなんてそんな。ありがとうございます」
揶揄うようなことを言いつつ、レクス先輩が指先に青い光を帯びた魔力を集めれば、あたたかな色味の灯りがゆっくりと室内を照らし出した。宙を舞う埃がちらちらと光を反射して、小さな流れ星みたいに目の前を横切っていく。
その間を縫うようにして、私はゆっくりと大きな鏡へと近付いた。鏡を彩る華美な金属の装飾の中、中央下部に縦型の楕円形の窪みがあるのを見て取ると、ローブのポケットからそっと取り出した映像魔石を、改めてまじまじと見下ろす。
多角的ながらも楕円形に整えられたとても美しいその透明な魔石には、まるで琥珀に封じられた生き物みたいに、美麗な絵が浮かび上がっていた。
抽象的だけれど、これを見て何の物語かわからない人はいないだろうというくらいには分かりやすい、四人の主要人物。
──騎士と姫、それから魔法使いと、錬金術師。そっとその魔石を鏡の装飾の窪みに嵌め込めば、ぴったりと吸い付くように収まって、ふわりと幾何学的な魔法陣が浮かびあがった。光の線が紡がれて、魔石の上に文字を刻んでいく。
『スノウモルの木の下で』
それを確認して顔を上げれば、目の前に広がる大きな鏡に映っていた像が、ぐにゃりとその姿を歪めていた。まるで水面みたいに揺らぐそれが、やがて渦を描き始める。
近すぎて私まで目が回ってしまいそうで、一歩、二歩と後退すれば、三歩目が叶うことなく何かにぶつかったものだから、私は慌てて背後を振り仰いだ。鏡の周辺は映像を邪魔しないようあまり物が置かれていないので、こんなところでぶつかるようなものなんて一つしかない。
「あれ、『スノウモルの木の下で』じゃん」
私の頭の上から覗き込むように嵌め込んだ魔石をまじまじと見ているレクス先輩に、背中の温もりを意識して私は一気に固まってしまった。慌てて距離を取ろうとすれば、いつの間にやら前に回されていた彼の腕に遮られて思わず半泣きになる。
全然力を入れているように見えないのにびくともしないのは、彼が鍛えているからか、それとも私が非力すぎるのか。何にしても脱出できないと悟り、借りてきた猫のように大人しくなった私の頭に、彼は満足そうに悠々と、それこそ猫みたいにくつろいだ仕草で顎を乗せた。
「読んだことあるって言ってたけど、シェルちゃんはこれでよかったの?」
「……は、はい、映像は見たことなかった、ので、」
「そっか、そう言われると俺も見たことないかも。やっぱ新鮮に感じるものかな、楽しみ」
この状態で、彼はどうしてそう平静を保てるのだろう。彼に触れられるのは全然嫌じゃないけれど、むしろ嬉しいけれども、レクス先輩は気まぐれな上にいっつも急すぎるのだ。
せめてもう少しこう、雰囲気の盛り上がりというか、段階というかそういうのがあってくれたら、私も照れ隠しの抵抗をいちいち挟むようなことをしなくて済むのに。
距離を詰めたいと思っているくせにいざとなったらこれなのだから、我ながら面倒臭い。でもやっぱり羞恥が勝ってしまって、私はもうすぐ映像始まっちゃいますよ、と上擦った声で彼を促した。
こんなに鏡に近いところにいたら、下手をすると登場人物の足しか見えないかもしれない。それは彼も避けたかったのだろう、ちぇ、という不満そうな声と共に、背中を包む温もりは離れていった。
けれど私のお腹あたりに回されていた腕が、そのままごく自然な流れで私の手を取って、既にうるさく主張していた鼓動がまた音を立てる。
「段差で躓かないように。……これくらいはいいでしょ、シェルちゃんそそっかしいから」
「そ、そそっか……そんなことはっ」
「えー、本当かなあ」
意地悪なことを言うくせに、私の手を引く手つきはどこまでも優しくて、やっぱりずるい人だなと思う。導かれるままに後方の席へと足を進めて鏡の方を向けば、丁度鏡面全体がはっきりと見える絶好の位置だった。
激しかった鏡面の渦は少し落ち着いていて、今は少し波打つばかりになっている。さっきのは彼の腕の中にいるのが恥ずかしくて言ったことだったけれど、奇しくも本当にもうすぐ始まってしまいそうだった。先に長椅子の中央に腰掛けた先輩が、促すように立ったままの私の手を軽く引いた。
「シェルちゃん、ほら隣。そろそろ明かりも落ちると思うから」
「は、はいっ」
我に返って慌てて腰掛ければ、そんな急がなくても、と苦笑されてしまって恥ずかしさからそっと俯く。映像に集中できるようにだろうか、いつの間にか離れてしまった手が、少し冷えたように感じた。
……映像を見終わったあとならまた繋いでくれるかな、なんて淡い期待を私が抱いているとはつゆ知らず、彼は鏡面に視線を向けたまま口を開いて。
「でも、ちょっと意外だな。人に勧められたって言ってたけど、映像でも見たいと思うくらいシェルちゃんがこの話好きだとは思ってなかったからさ。やっぱりお目当てはアルヒ・ソルシエルがモデルの錬金術師?」
「え、ええと」
水を向けられて、私は思わず視線を彷徨わせた。何せこの話を選んだのは、私ではなくラン先輩なのだから。
『スノウモルの木の下でって冒険譚はシェルタも知ってると思うけど、あれの騎士と姫、魔法使いと錬金術師は最終的にくっつくでしょ。それぞれの恋模様に焦点を当てた映像魔石が図書室にあったんだ。話を知っていてもなかなか楽しめたよ。とはいえ主軸は冒険だし、シェルタ達には丁度いい塩梅なんじゃないかな』
考えてみてよ、と言われて少し迷ったけれど、やっぱり彼の方がレクス先輩のことを分かっているだろうし、折角アドバイスいただいたのだからと従うことにした。
少なくとも以前レクス先輩は、思うところはありそうだったけれどこの話に対して忌避感や嫌悪感を示すことはなかった。だから大丈夫だろうと思ってはいたけれど、想像より普通に楽しむ気でいてくれているようなので、実は先ほど内心で胸を撫で下ろしていたところだったりする。
けれど選んだ理由を突っ込まれたときのことをあまり考えていなかったので、咄嗟に曖昧な言葉しか出てこない。どう言い繕おうかと頭を悩ませていると、まさに助け舟となる音声が鏡面から流れ出した。
『まもなく上映いたします。照明が落ちますので、お立ちの方は足元にお気をつけてご着席ください』
「あっ! レクス先輩、始まりますよ! すっごく楽しみですね!」
わざとらしいほどにはしゃいだ声を上げてみせれば、流石に大袈裟すぎたのか隣の彼は目を瞬いていて、それを見て遅れて猛烈な羞恥がやってきた私は顔を赤くすると縮こまった。
誤魔化すにしても絶対もっと良いやり方があったのに、子供じゃないんだから。幼稚に思われてしまっただろうかという不安は、けれどレクス先輩がゆっくりと、眩しいものを見るかのように目を細めたことでどこかに行ってしまって。
「……うん、俺も、めちゃくちゃ楽しみ。──シェルちゃんとこうして並んでるだけでも本当に楽しいからさ、なんか、すげぇ贅沢してる気分」
いやに静かな、でも万感の想いが込められたその声が、胸の底を打って染み渡るように広がった。
私がゆっくりと目を見開いたことに気が付く様子もなく、レクス先輩はまた鏡面に視線を向けてしまったけれど、私は彼の横顔から目が離せそうになくて。やがて照明がゆっくりと落ちて、その横顔が青白い光に照らされていく。
……何でもないように零したその言葉がどれほど嬉しかったかなんて、きっと彼は知らないんだろうな。それなら、私の情けないことになっている表情も、張り裂けてしまいそうな胸の鼓動も全部全部、知らないままでいてほしい。
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