たったの五文字

シロツメクサ

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30.手を離す

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 どのくらい時間が経ったのだろう。ただ眠りの世界を揺蕩っている間、ほんの微かに震えた指先が、酷く優しい手つきで私の頭を撫でたような気がして、それが本当に嬉しくて。……ずっとこの時間が続けばいいのに、なんて馬鹿なことを、心の底から願ってしまった。
 けれど、こんなに心地いいなら目覚めたくないなと心の底で呟いたときに、どこか遠くから、低く恐ろしい獣の唸り声が響いた気がして。どことなく聞き覚えのあるそれが、彼と映像魔石を観ていた時に耳にした、あの冒険譚の狼に似た魔物のものだと気がついて、私は思わず身を震わせた。

 何度も振り払おうとしたけれど、どこまでも着いて回るその恐ろしい声に引き上げられるように、ゆっくりと意識が浮上していく。
 薄く目を開けば、もう陽も落ちて、淡い魔石ランタンの光だけが視界の寄る辺だった。私の目元を温めてくれていた掌は外されているようで、馴染んだ温度がなくなったことで何だか少し空気が冷たく感じる。
 当然ながら、先ほどまで聞こえていたあの恐ろしい唸り声は夢だったようで、目が覚めてしまえば、その声は影も形もなかった。

 寝起きでまだ頭が覚醒しきらないけれど、それでも眠る前より随分気分がすっきりしていて、自分が色々考え込んでいたのとまともに眠っていなかったのが相まって、あまり正気ではなかったことに気がついてしまった。
 いっそ記憶ごと飛んでくれていたら良かったのに、残念ながら仔細まで頭に刻まれていて、ベンチに寝転がっている状態でなければ、転がりまわって先ほどの夢に勝るとも劣らない唸り声をあげているところだ。お、おしおきしてくださいって、私は一体何を口走って。

 いやそれよりも、一体どれくらい眠り込んでしまっていたのだろう。目をちゃんと開くのが怖くて瞑り直してしまったけれど、まだ頭にはレクス先輩が敷いてくれたローブの感触がするし、何ならすぐ側に彼の温もりも感じている。
 つまりはこんなに暗くなるまで彼の膝をお借りしてしまったということで、申し訳なさすぎて目が開けられそうにない。
……けれど、微かに聞こえてくる彼の呼吸が随分控えめで規則的なことに気がついて、怪訝に思った私はまたそろりと薄目を開けて、彼の方を恐々伺い、思わず目を瞬いた。

「……、レクス先輩?」

「……」

 本当に珍しいことに、彼はベンチに凭れ掛かるようにして、無防備な表情で寝入っていた。小さな声で躊躇いがちに呼びかけてみるけれど、返ってくるのは規則的な呼吸と小さく上下する肩だけで。
 私が起こしてしまわないようにそろりと身体を起こすと、彼が少し眉を顰めて肌寒そうに身動ぎをしたから、慌てて枕にしていた彼のローブを広げて掛けた。

 それに彼の表情が穏やかなものに戻ったのを見て胸を撫で下ろすと、次いでまじまじと魔石ランタンの淡い光に照らされた、彼のあどけない寝顔を見つめてしまう。
 いつも明るい笑みを浮かべている彼は、眠っていると何だか年相応に幼く見えて、伏せられたその長い睫毛をぼんやりと見つめていたら、ふと言葉にならないような愛おしさが胸をついた。
……すぐに起こしてくれたって良かったはずなのに、私が寝不足なのを知って、彼も寝てしまうくらい待っていてくれたんだ。

 レクス先輩は人に寄り添うのが得意で、その機微にも敏くて、……けれど誰にでも、踏み越えることを決して許さない一線を引いている人で。でもその彼が、こんなに無防備な姿を晒すくらいには私に気を許してくれているのだと思うと、苦しいくらい胸が締め付けられる。
……レクス先輩のことが、本当に好きで、大好きで、ずっと一緒にいたい。許されるなら、彼にもっと近づきたい。……彼に、触れたい。

 抑えきれない衝動に、少しだけ、と誰ともなく言い訳をすると、そろりと指先を伸ばして、彼の少し寝乱れた柔らかな前髪に触れた。
 羨ましくなってしまうくらい手触りのいいそれに、つい何度も指を通しても、深く寝入っているのか彼は起きる様子がなくて。どくどくと煩い鼓動を自覚しながら、ほんの僅かに震える指先を動かして、恐る恐る、彼の頬に触れた。
 先輩の許可なく何をやっているの、起きてしまったらどう言い訳するつもり、と咎める自分が確かにいるのに──……少しだけ冷えた彼の頬に、私の掌の温度がじわりと移って、彼が心地良さそうに口元を緩めたから。

 それに免罪符を与えられた気になって、彼の手触りの良い頬を包むように撫でて、……それから、そろりと。
 肌を撫で下ろした震える指先で、ほんの微かに、彼の唇に触れた。僅かに押し込めば、酷く柔らかいそれから、目を逸らせない。心臓が破裂してしまいそうなくらい高鳴っているのに、後ろめたさだってあるのに、どうしても指を離せなかった。
 つ、と形を辿るように動かせば、それがこそばゆかったのか、彼の睫毛が震えて、思わず肩が跳ねる。ぱっと指先を離せば、それと殆ど同時に持ち上げられた瞼から、彼の美しいターコイズブルーの瞳が覗いて。

 きっと、おはようございますって、何でもないような顔で言って、変なことお願いしてすいませんって謝って、それが正解だった。ちゃんとそう分かっていたのに、……ぼんやりと焦点の合わない瞳を彷徨わせて、それから目の前にいる私を認めた彼が、──ふわり、と。
 本当に嬉しそうな、……愛おしそうな表情で、微笑んだから。

「……おはよ、シェルちゃん」

──手を伸ばしたのは、もう殆ど衝動だった。あれだけごちゃごちゃ色々悩んで、迷って臆病だったのが嘘みたいに……彼がただ愛しくて、触れ合いたくて堪らなくて。
 ゆっくりと目を見開いた彼に構わず、その首に手を回して、強く引き寄せる。いつもなら私の力でなんてびくともしない彼の身体は、不意打ちのそれに簡単に傾いだ。ふわ、と彼の赤茶色の髪が揺れて、甘い香りが漂って、それに酩酊してしまったようにくらりとして。

 いつになく、彼の体温が近い。視界一杯に美しいターコイズブルーが広がって、ほんの少しだけ乱れた吐息が絡まり合う。
……あと、もう少し。もうほんの少しで、唇が触れ合うと思ったとき──……ほんの僅かな二人の隙間に割り込んだものに、私の口が塞がれて、あれだけ近かった彼との距離が、また広がって。
 目を見開いて呆然とする私に、……掌で私の口を抑えた彼が、目を伏せて苦しげな声を零した。

「……駄目、だよ」

 それに、我に返って、ざぁっと血の気が引いていく。……私は、今、何を。
 そっと離れていった彼の掌を目で追いながら、真っ白になった頭でも、追い縋るような声がぽろりと零れ落ちた。

「……どう、して、」

 それはあまりにも身勝手だけれど、抗議するような響きを帯びていて。……でも、だって、私とレクス先輩は恋人で、確かに急だったかもしれないけど、驚かせてしまったかもしれないけど、……流されてくれたって、何も問題ない、はずなのに。
 私の震える声に、レクス先輩は戸惑ったように瞳を揺らして、けれどもう、線を踏み越えさせてはくれなかった。絞り出すような彼の声は、それでも私なんかにはどうにもできないくらい、頑なな意思が宿っていて。

「……これは、けじめだから」

「……な、なんですか、それ……っ」

 彼の言っている意味が分からなくて、混乱しきった声を上げても、彼は拳をきつく握りしめて、ごめん、と呟くばかりで。
 最初に彼の許可も取らずに勝手なことをしたのは私でしょ、ちゃんと話し合わないと、と思う自分も確かにいるのに──……ぶわりと堪えきれなかった涙が溢れれば、そんな理性的な声はどこか遠くに流されてしまった。

……だって、彼は、理由も何も教えてくれなかった。彼がそうやって線を引くから、壁を作るから、ずっと不安で寂しくて……彼に近づきたくて努力して、空回って。それでも、と伸ばした手を訳も分からず振り払われて、もう何もなかったように受け流すことなんて、到底できっこない。

 嗚咽交じりの荒い息を繰り返しながら、ぐしぐしと掌で乱暴に目元を拭って、それでも押さえつけていた感情の分だけどうしても止まってくれないそれが、ぱたぱたとローブに染みを作っていく。
 滲んだ視界の先で、まるで私が泣き出すなんて思いもしなかったみたいに彼が目を見開いていたから、耐えきれなくなった私は勢いよく立ち上がった。
 彼が咄嗟に引き留めるように半端に腕を上げたけれど、これ以上ここにいたら、きっと彼に酷いことを言ってしまう。

「……ごめん、なさい……っ」

「……シェル、ちゃ、」

 呆然とした彼の声を置き去りにするように、私は踵を返して当てもなく走り出した。……本当に、何をやっているんだろう。彼に近付けていたなんて、きっと思い上がりだった。だって、彼が私を選んでくれた理由も、それなのに一線を引く理由も、どんなに頑張ったって何一つ分からないままで。
 上手くいかなくても、積み重ねていけばきっとって、もう一回頑張ってみようって自分に言い聞かせていたけれど……積み重ねたものを、結局自分で壊してしまった。もう、もうとても、もう一回なんて立ち上がれそうにない。

「あ……っ」

 息も切れ切れに走って、走って、漸く寮の門が見えてきたところで、小石に足を取られてべしゃりと地面に転がって、ローブが砂まみれになる。
 ひりひりとした痛みが走って、足を見下ろせば擦りむいた膝から赤いものが滲んでいた。大した怪我でもないのに、何だかそれを見ていたらすごく惨めな気持ちになって、また視界が滲んでいく。
 涙と砂だらけの顔は、きっと目も当てられないことになっているに違いない。でもそんなこと全部どうだってよくて、ただただ胸が痛くて、私は胸元をきつく握りしめながらしゃくり上げた。

 これから、一体どうしたらいいんだろう。あんなことがあって、もう彼と今まで通りに過ごせるはずない。
……あの優しい笑顔も、もう見れなくなってしまうのかな。私が、私が……あんなことしたから──……

「にゃあ」

「え……」

 悲しみに呑まれそうになった時、可愛らしい高い鳴き声が耳に入って、俯いていた私はぱっと顔を上げた。滲んでいた視界を瞬きで散らせば、いつの間にか目の前に小さな白猫が座っていて、その黄金の瞳で真っ直ぐにこちらを見上げていて。
 転んだせいで汚れてしまっているのに、構わず擦り寄ってくるその小さな体躯に、思わず呆けた声が漏れた。

「この間の、猫ちゃん……」

「んにゃ」

 私のローブに小さな爪を引っ掛けて器用に登ってきたその子猫は、涙でぐちゃぐちゃな私の頬を慰撫するように舐めてきて、くすぐったくてつい肩を揺らしてしまう。
 けれど今自分が砂だらけだったことを思い出して、慌てて引き離そうとしたけれど、小さな四肢で全力で抵抗されてとうとう諦めてしまった。擦り寄ってくるその小さな背中をそっと撫でてみれば、その温かさが触れたところから染み渡るようで。

「……もしかして、慰めてくれてるの?」

「にゃ」

「……ありがとう。猫ちゃん、とってもあったかくて、何だか優しい感じがするね……」

「……」

 まるで温もりを分け与えるように、私の膝に小さく丸くなった子猫を見つめていれば、ふとレクス先輩に「あいしてる」と言ってもらうために、努力をすると決めた日のことを思い出した。あの日もこの猫ちゃんが膝に乗ってきて、それで。
……好きだったら距離を詰められても逃げない、というレクス先輩の言葉に、背中を押されたんだったな。それを指標にして、上手くいかなくてもまた次、と今まで自分を励ますことができていて……でも。

「……にげられ、ちゃったよ……」

 ぼろ、とまた涙が溢れて、膝に丸まる子猫の背中に雫が落ちる。慌ててそれを指先で拭って、ごめんね、と声を掛けたけれど、猫ちゃんは素知らぬ顔をしていて。
 まさか本当にこの子猫が慰めに来てくれたと思っているわけじゃないのに、何だか勝手に受け入れられたような気になってしまって、そうしたらもう止まらなかった。

「う、うぅ~~っ……」

 子猫が嫌がらないのを良いことに、その柔らかな毛に顔を埋めながら、私は嗚咽を漏らした。別にいつ逃げたって構わないはずなのに、猫ちゃんはちょっと呆れたように尻尾を振って、でもずっとそこにいてくれて。
 何だか懐かしいような、落ち着く香りと温もりに、縋り付くようにして私は好きなだけ泣き明かした。


……私たちの拙い恋は、関係は、ずっとレクス先輩が手を引いてくれていて。だからあの時、私が彼の手を引けるようになりたいと願った。それでずっと一緒にいられる、笑い合える未来に、二人で足を進めたくて。
……でも、差し出した手を拒まれてしまったときは、どうしたらいいんだろう。

 私の手を引いて、そしてずっと立ち止まっていた彼は、……どこに向かう気だったんだろう。彼に、ずっと大切な人と伝え合うことを憧れていた、たったの五文字を貰いたいという気持ちだけで始めたことだったけれど、その中で何となく、分かったことがある。

──彼は、多分、私と同じ方向を見ていない。……それは、どれほどに悲しいことだろう。

 どちらも手を引けなくなった、もう立ち止まることもできない私たちは、これから、どこに向かうのかな。別々の方向を向いているのに、手が離れてしまったら、待ち受けている未来なんて一つしかないのに。

……好きなだけなのに、どうして、こんなに上手くいかないの。
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