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14.元の姿に戻る為に

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記事に堂々と踊る見出しを見た瞬間ノエルの意識は飛びかけたけれど、魔女がそのまま気絶するなんてことを許してくれるはずもなく。額を小突かれてやむなく覚醒したノエルは、現実と向き合わざるおえなかった。いや、正直現実と言っても未だに理解が及んでいないけれど。おそるおそる魔女を見上げて、か細い声で王宮が壊滅って一体、と鳴いてみるけれど、魔女の反応はなしの礫だった。

「ご丁寧に書いてあるんだからそれを読めばいいでしょ。私に聞いてどうするのよ」

それはその通りなのだけれど、とノエルは耳をぺたりと畳んだ。詳細を知る前に多少の心構えがしたいと思ってしまうのも理解してほしい。何せ竜王の前に丁寧に「番狂いの」と枕詞がついているのだから、ノエルが躊躇わないはずがなかった。これは民衆向けの記事だと思うけれど、アダン様が長い間番を探していたという情報さえついさっき魔女に聞いて知ったノエルからすれば、当然のようにそれが民に周知されていることさえ目を白黒させるようなことなのだ。アダン様が土地と結んだ盟約を全ての民が履行していたというなら当たり前のことなのだけれど、もうこの時点で置いて行かれているような気分になる。

けれどふと、万が一にでもアダン様が怪我を負っていたら、と思い至って、ノエルはその瞬間に毛を逆立てると、慌てて記事をちいさな前足で読みやすいように必死に広げ始めた。竜王の鱗はとてもとても頑丈で、そうそう大きな傷など負わせることができないのは全ての獣人の知るところではあるけれど、万が一ということもある。ノエルの唯一の、この世の誰より大切なあの人が、万にひとつも傷を負っていたりしたら。想像だけで爪が出てしまいそうなのを必死で抑えながら、ノエルはびっしりと紙面を埋める文字を素早くルビーの瞳で追った。

──────昨夜、竜の咆哮が王宮周辺に轟き、多くの獣人達が異変を察して飛び起きた。王宮からほど近い場所に住んでいた獣人の証言によると、確認した時点で遠目に崩れ落ちる王宮の姿が見えていたという。当然現場は騒然としたが、幸い重傷者はなかったとのこと。

──────原因は番に由来する精神的な負担から、療養と称して表舞台から長らく姿を消していた竜王アダンと思われる。しかし王宮は怪我人の確認、復旧作業など現在は慌ただしく、現時点で原因についての詳細な説明はなされていない。

要約するとそのようなことが書かれていて、ひとまず大怪我をした人がいないことにノエルは胸を撫で下ろした。けれど、どんなに読み込んでもアダン様の怪我の有無の記述がない。まだ慌ただしくて情報が入っていないのか、それとも竜王が傷を負わないことなど周知の事実だからわざわざ書かなかったのか。それでも安心できなくてノエルは落ち着きなく尻尾を振った。焦燥が伝わったのか、魔女は呆れたような顔でノエルから記事を取り上げた。つい頼りない肉球を追うように伸ばしてしまうけれど、そんなもので届くわけもない。

「あのね、竜王に大きな傷を負わせるなんて芸当本人にしかできないわよ。まず無事だから安心しなさい。それよりも分かってるの?──────要はあの竜王、私が貴女を連れて行ったものだから王宮に八つ当たりしたのよ」

魔女に太鼓判を押されて少し安堵したノエルは、続いた言葉にぴし、と固まった。ノエルが連れ去られたから、八つ当たりで─────王宮が、壊滅?とても信じられない、と今日一体何度思ったか分からないけれど、この記事の見出しにも大々的に「番狂いの竜王アダン」なんて文字が踊っているということは、おおよそ民衆も番に関連したもののせいだろうとあたりをつけているということで。あの優しい人が、そんなこと─────と思うけれど、逆に言えば。あの優しいアダン様が、それだけ追い詰められているのだとしたら。でも、いくら竜人にとって番の存在が大きいと言ったって、ノエルは自分の意思で魔女に着いて行ったのに、それをアダン様も知っているはずなのに。いくらなんでも今日だけでノエルの理解できる情報の許容量を超えていて、目を回し始めたノエルに魔女はいよいよ面倒臭そうにため息を吐いた。

「分かったわ。要は愛だの恋だのの話だと思うから、スケールが釣り合わなくて分かりにくくなるのよ。これは例え話だけど─────あの竜王が、長年病気で苦しんでいると思いなさい。直接命に関わるものではないけれど、酷い苦痛に耐え忍ばないといけないような」

今にも小さな額から知恵熱が出てしまいそうだったノエルははっと顔を上げた。例え話だと前置きされていてもなお、病に伏して苦痛に耐え忍ぶアダン様を想像するだけで平静ではいられなくなる。そんなことになったらノエルは、何をしてでもそれを治す方法を探すに違いなかった。それこそ悪魔に魂を売ることになろうとも。ノエルが耳を傾けたことに気がついた魔女は、据わった目でとん、と目の前の黒猫の小さな額を人差し指で突いた。

「竜王は狂いそうになりながらもその苦痛に数百年耐え忍びつつ、その病から解放されるために特効薬を探していたの。そして漸く見つかったのが貴女。傍に置いておくだけであら不思議、苦痛が嘘のように消えていくのよ。だけど─────これで漸く助かると思ったのに、特に病気でもない輩が薬を目の前で持ち去ってしまった。そのせいで竜王は病に苦しむ日々に逆戻り……当然、ここに薬の意志や事情なんて関係ないわ。傍にないと病気が治らないことに変わりないんだから。どう?今度こそ自分の立ち位置が理解できた?」

アダン様が重い病で、薬はノエル。そう置き換えてみると、どんどん血の気が引いていくような感覚がした。数百年探し続けた薬が目の前で持ち去られたら、力のある竜人であり王である存在なら、王宮ひとつ壊してしまうくらいに怒り狂うというのも分かる気がする。そして、魔女が自分の命が危ういかもしれないと言っていたことも。アダン様は全ての獣人を従わせる存在とは思えないほど穏やかな人だと思うけれど、ノエルはその出自から上に立つ者に染み着いた傲慢さというのも骨身に染みて理解しているから尚更。けれどそれよりなにより、早く薬を─────この場合は自分になってしまうけれど、とにかくアダン様の元に戻さなければという、焦燥に近い気持ちが湧き上がってきた。

アダン様には酷い態度を取ってしまって、それが意味のないことと知ってしまった今となっては後悔しかないけれど、それに関しては彼が望むだけの贖罪をするしかない。要は魔女は折角の薬であるノエルが帰ってきたのに彼が怒ったり不快になることはない、と言ってくれたのだろうけれど、それでも反応を想像すると少し身が竦む。けれど何を言い渡されようと、結局彼の傍に在れるのならそれ以上の幸福などないのだ。ノエルは彼に厄災を運ぶことはなく、両親の死はノエルの力によるものではなくて。彼の隣に立つ者として認めてもらえるかは、まだ分からないけれど。でも少なくとも、努力のスタートラインに立つだけの条件を、ノエルは与えられている。彼の傍にいてはいけない理由はなくなった─────それならば、どうか一刻も早く。

「にー!」

すぐにアダン様のところに、と必死な鳴き声をあげて今にも走り出しそうな様子を見せたノエルを、しかし魔女はその指先でひょいと首根っこをつまみ上げてしまった。踏み出しそこねた前足が情けなく宙を掻き、目を白黒させるノエルをアメジストの瞳がじろりと睨みつける。

「バカね、その姿で戻せるわけないじゃない。豊穣の力は……まあ竜王にとってはどっちでもいいでしょうけど、逆鱗の儀ができないのはまずいわよ」

「に……?」

げきりんのぎ、とはなんだろうと、ノエルは宙吊りにされたまま首を傾げた。言葉だけ聞けば何かの儀式のようだけれど、そんなものは人生で一度も見聞きしたことがない。今日はあまりに衝撃の連続で、正直これ以上情報を詰め込もうとすると小さい頭が破裂してしまいそうなのだけど、しかしアダン様に関係のあることなら聞かないわけにもいかなかった。とはいえ理解できるだろうかというノエルの不安げな表情に気がついたのか、魔女はそんなに難しい話じゃないわよ、と投げやりに言いノエルを軽くぷらぷらと揺らしてみせる。思わず漏れた情けない鳴き声にはお構いなしだった。

「竜人の番は、何も同じように長命種ばかりから選ばれるわけじゃないの。でも数十年かそこらで自分の番が死んでしまったら、残された竜人がどうなるかは流石に想像がつくでしょう。だからそれを避けるために─────竜人は一生に一度、逆鱗を用いて番と己の寿命を分け合うことができるのよ。かなり大掛かりな儀式で、お互いの同意がないと発動できないのだけれど……とにかくこれが逆鱗の儀と呼ばれるものね」

ノエルはおずおずと頷いて返した。というより首根っこを掴まれて持ち上げられていたら他にやりようがない。思ったよりは確かに理解しやすい内容だったけれど、それが今アダン様の元へ行ってはいけないことと上手く繋がらなくてノエルは必死で頭を回した。竜人の番、と言われるとぴんと来ないけれど、要は恐らくノエルのことを指していて。さっき魔女は逆鱗の儀ができないとまずい、と言っていて─────ノエルの緩慢な思考が追いつく前に、元々待つつもりがない魔女はあっさりと答えを明け渡した。

「貴女、視覚や封印しきれなかった能力に関しては獣人の頃のものに寄っているけれど、今はほとんどただの猫なのよ。ただの猫が番なんて前例がないから向こうは知らないでしょうけど、その状態じゃ逆鱗の儀はできないわ。その姿のまま竜王の元に戻って、長くても20年かそこらで死んでみなさい。それがあの竜王と──────下手をすればこの国の寿命よ」

魔女の言葉の意味を理解するなり、さあ、と身体の温度が下がっていくのを感じた。未だに湧かない実感を嫌でも連れてくるのは、先ほど目を通したばかりの王宮壊滅の記事だ。竜人の本気があんなものではないのは、全ての獣人の知るところであって。だから魔女の言葉がことを大袈裟に見ているだけなんてことは、もう考えられそうになかった。──────そもそもノエルだって、アダンに万が一何かがあれば国に厄災を振り撒きながら死を選ぶに違いない。そこまで思考が行き当たって、でも、とノエルは首を傾げた。

それなら、水鏡を覗いた後にさっさと準備に取り掛かると言っていた通りに、魔女が今すぐノエルを元の姿に戻してくれれば良いんじゃないだろうか。魔女にはもうノエルを実験台にするつもりはないどころか、厄介な荷物を早く手放したがっているように見える。厄災を運ぶ能力を抑えておくための封印も、アダン様の傍にいる分には必要がないと言うのなら、ノエルが黒猫の姿でいる利点は何もないのだから。

おずおずとそう訴えてみると、魔女はできるものならそうしているわよ、と何度目かも分からないため息を吐いた。そこで漸くノエルは机に足をつけることを許されて、思わず感触を確かめるように肉球を幾度か押し付けてしまう。すっかり猫が板についたその仕草を胡乱げに見ながら、魔女は苛立ったようにその艶やかなストロベリーブロンドをかき上げた。

「隷属契約による使い魔っていうのは、魔女にとってもそう気軽な存在じゃないのよ。糸を絡めるより解く方が厄介なように、破棄するにはそれなりのプロセスが必要なの。貴女の名前を用いて結んだ契約は隷属契約の中でも少し特殊なもので、通常の隷属契約と、貴女の能力を封印し姿形を変化させる魔術が絡み合ってるから尚更ね。破棄する方法は二つ。だけどその内の一つは選べないわ。そしてもう一つは、暦に関係するものだからすぐにってわけにいかないのよ。できるのは準備をして待つことくらいね」

そんな、とノエルは思わず情けない鳴き声を上げてしまった。こんなにも、一秒だって早くアダン様のところに行きたいのに、魔女の言い様ではまだいくつも月を跨がないといけないらしい。逸る心を抑えきれずに、ノエルはもう一つの方法はなんなんですか、と必死な声で鳴いた。魔女は選べないと切り捨てたけれど、そちらの方が早いのだったら多少無茶な方法でも─────というノエルの考えを見越したように、魔女はその薄紫の瞳をすっと細めた。

「教えてあげてもいいけれど、貴女がそれを実行することがないように先に隷属契約で縛らせてもらうわよ。確かにこの方法を使えば比較にならないほど話が早いけれど、リスクが大きすぎるもの」

魔女が引くつもりがないことを察して、ついでに自分の思考がだだ漏れだったことが恥ずかしくて、ノエルは耳をぺたりと伏せて項垂れた。でも、ここまで断言されては実行できないにしても気になってしまう。両親からも知識は身を守る術であり力だと教わっているし、やはり自分のことなら何にしても知っておきたい。ノエルは気を取り直して、契約で縛ってもいいからおしえてください、とみーみー鳴いてお願いすることにした。

「はぁ……─────『我は尊き魔女。一切を手にする者。隷属契約を以てここに命ずる』……私が許可した以外の方法で、元の姿に戻ろうとしないこと。いいわね」

あからさまに面倒臭そうな表情を浮かべた魔女は、それでもため息をつくと呪文を唱えてノエルを縛った。王宮にいた時のことを聞き出された時とは少し違い、自分の中の一部が押し込められたような不思議な感覚だった。これで教えてもらえる、と顔を上げたノエルを、魔女は感情の読めない瞳で見下ろして─────それからゆっくりと、ノエルに手を伸ばしてきた。その日焼けを知らないような美しい指がノエルの喉元に触れて思わずたじろいでしまうけれど、魔女は躊躇うことなくノエルの首輪を覆うように指を回した。力は込められていないから苦しくはないけれど、急所を他人に掴まれているというのは本能的に落ち着かない。戸惑うようなか細い鳴き声を漏らしたノエルに、魔女はゆっくりと口角を上げ、ぞっとするほど凄艶な笑みを浮かべた。

「貴女が元に戻るためのもう一つの方法は簡単よ。──────────……一度、死ねばいいだけだもの」

え、と掠れた、鳴き声にもならないようなものが溢れた。……今、魔女は、一体なんて。呆然としているうちに魔女の戯れの指先は離れていき、ノエルは思わず大きく息を吐いた。力を込められていたわけではないのに、やっと息ができたような心地にさえなる。僅かな怯えを滲ませて魔女を見上げ、どういうことですか、と尋ねたノエルに、先ほどの畏ろしい雰囲気を霧散させた魔女は肩を竦め、何度目かも分からない面倒くさそうなため息を吐いた。

「だから、言葉の通りよ。外的要因によって一度死ねば、貴女の猫の姿の封印は解け、元の姿に戻ることができるはずなの。最初に言ったでしょう、『これで貴女は生まれ変わった』って。この封印は、言葉の通り元の性質を利用して新しい命を重ねるものなの。言語化が難しいけれど……元の獣人の生命や運命に薄い層を並行して被せて、そこに猫の性質を乗っけて貼り合わせているようなもの、と言えばいいのかしら。死によって上の層が剥がれれば、出てくるのは下の層……元の獣人としての貴女よ。ただし、普通に猫として寿命を迎えてもそこから元に戻ることはないわよ。それだと層と層が癒着してしまうから。あくまでも一度、外から引き剥がす必要があるわ」

こんなことにならなければ絶対に教えなかったのに、と悔しそうに呟く魔女に、ノエルは呆然とするしかなかった。今でこそその考えはなくなったけれど、両親の死が自分の力のせいだと思い込んでいた時のノエルは、ずっとどこかでこの世から消えてしまいたいと思っていた。もう誰も、自分が運び込む厄災に巻き込むことはしたくないと、それだけを願っていた。でも、魔女がノエルが死んだら大厄災が起こると言うから、ノエルは必死になって生を繋いでいたのに、まさか──────それが、元の姿に戻ることに繋がっているなんて誰が思っただろう。もし最初から知っていたとしても、封印が解けることをあの時のノエルは望んでいなかったから結果は変わらなかったかもしれないけれど。それでもなんだか釈然としなくて、ノエルは項垂れた。

「封印される前の姿の貴女が、あの時世界を呪いながら村の獣人達に殺されようものなら、大厄災が起きる可能性があったのは本当よ。何なら今の姿でも、強く願いながら死ねば元の姿に戻るだけでなく、ある程度の影響はあるかもしれないわね。でも──────貴女、もう死ぬときですら、世界を呪うなんて大層なことできないでしょう。あれだけ両親に甘やかされて、その上あの執着の権化みたいな生き物に求められているんだから」

言葉尻に滲む皮肉が気になるところではあるけれど、ノエルは素直に頷いて返した。黒猫の獣人に生まれて、周囲の獣人達には差別され続けて──────でも、信じられないほど幸福なことに、ノエルは愛されることも、愛することも知っている。それがどれほどに得難い奇跡か、ノエルはよくよく分かっているつもりだ。その奇跡の一人が……アダン様がこの世に在る限りは、ノエルはきっと命を落とす瞬間ですら、世界を呪うことなんてできない。それならば、と思い至ってノエルは顔を上げた。正直、生きたい理由ができてしまった今となっては、死ぬことは少し、いやとても怖いけれど。でも、それで一刻も早く彼の元に戻れるというのなら──────一度の命くらい、ノエルは惜しくない。

魔女に隷属契約で縛られているノエルでは、自らこの方法を取ることはできない。それに、自分でやるというのは少し、いやかなり怖かった。だからノエルは、覚悟を決めて顔を上げると、魔女に向かって震える声でひとつ鳴いた。

「……みー」

──────……どうか、私をころしてください、と。アダン様に、一秒でも早く会いたい。感謝と、それからノエルのありったけの想いを、受け取ってほしい。そのためだったら、どれだけ恐ろしいことだって、ノエルは耐えられる。そう思って精一杯の覚悟を振り絞り伝えたそれに、魔女は軽く目を見開いて─────

……物凄く、物凄く、嫌そうな顔をした。

「ぜっっっったい嫌。何があってもお断りよ」

にべもなく、いや予想よりもずっと切れ味鋭く懇願を叩き落とされ、ノエルは耳をぺたりと畳んで情けない声で鳴いた。どうして。聞く分には暦を待って、準備を整えて儀式を行うことなんかよりも、余程手っ取り早いのに。まさかこの魔女に限って倫理的にどうのだとか、気が引けるだとか、そんなことを思っているわけではないだろうに。諦めきれずににーにーと喚き纏わりつくノエルを鬱陶しく思ったのか、魔女はじろりとそのちいさな黒い姿を睨んだ。

「あのね、何の為だったとしても竜王の番を一度殺したなんてことが後から発覚したら、私どころかこの世から魔女の存在が消えるわよ。竜人は番の、特にその生命に関しては理性なんて効きやしないんだから。数人消えるくらいならどうだっていいけど、魔女の集合知そのものが脅かされることは看過できないわ。……それに私は魔術を掛けた本人だからその確実性を理解しているけれど、かといって実際に黒猫獣人に試したことがあるわけじゃないもの。予想外のことが起こらないとも限らないわ─────デメリットが大きすぎるのよ、だからお断り。なんて言ったって駄目だからね」

取り付く島もない魔女の言い様に、ノエルは追い縋っても無駄だと悟ると項垂れた。ノエルではこの魔女を説得できる気がしないし、何より契約で縛られている身ではどうにもならない。時間がかかる方法だとしても大人しく待つしかないか、と落胆したところで、ノエルはふと思い至って顔を上げた。

────────それなら、魔女の言う適切な暦が訪れるまで、アダン様のところにノエルがいてもいいんじゃないだろうか。今の姿ではノエルの言っていることはアダン様に伝わらないだろうけれど、それは魔女が通訳できるはず。こう言うと驕るようだけれど、魔女が言うにはノエルの命を握っているうちはアダン様は魔女に手が出せないらしいし、それならば対峙した瞬間にアダン様が魔女に何かするようなこともないはずだ。だったらこれまでの経緯を説明してアダン様が納得してくださったら、猫の姿ではあるけれど、今度こそアダン様に素直な気持ちで接することができるんじゃないだろうか。そうしたら、彼は喜んでくれるかも─────最初に見たようにエメラルドの瞳に甘い色を湛えるアダン様を想像して、ルビーの瞳を輝かせるノエルに、しかし魔女はその提案をにべもなく切り捨てた。

「駄目よ、この方法で契約を破棄する場合は私がその場にいないといけないんだから。いざ再会したけれど儀式の瞬間だけ離れていろなんて、あの生き物に通用するわけないでしょう?だけど竜王の傍でそんなことしてみなさい、下手をすれば契約を破棄して貴女に関する一切の権限がなくなった瞬間に、竜王の手で私の首が飛ぶわよ。そんなの御免だわ、死ぬのは飽きた時か、魔女が受け継ぐ知識のためって決めてるんだから」

魔女の言葉のせいで、らしくなく甘い気持ちだったノエルの想像が一気に猟奇的な色に染まり、想像してしまったノエルは怯えから情けない声を上げた。アダン様は優しいけれど圧倒的な武力を行使する存在で、本当に必要になればそれくらいのこと、眉一つ動かさずにやってのけるのかもしれないけれど─────とはいえアダン様は、魔女をノエルの大切な人だと思っているはずで、だったらノエルの目の前でそんなこと、するはずがない。……と、ノエルが訴えたところで、魔女の意思を変えられるはずもなく。

「貴女は今は私の使い魔。意見していい存在じゃないのよ。適切な暦まで身を隠しつつ準備を整えて、貴女を元の姿に戻したら竜王の元へ転移可能なぎりぎりの範囲内まで移動する。そうしたら貴女だけ竜王の元へ転移させて、それを囮に私は可能な限り遠くまで亡命するとするわ。……まあ、分の悪い賭けではあるけれど、やらないよりマシね」

つらつらと淀みなく、決定事項として話されたそれを必死で頭で整理して、ノエルは焦れた想いを抱えながらも頷くことしかできなかった。そもそもノエルには選択権などないのだから仕方ない。それでも、ノエルにとても会いたがってくれているらしい恋しい姿を思い浮かべては、きゅうとちいさな胸が締め付けられるのを感じた。やっと、アダン様の隣にいてもいい理由ができたのに。素直にこの溢れる想いを伝えることが許されたのに、二人の距離はまだこんなにも遠い。それでも、自分は本当は息をすることすらも許されない存在なのだと、アダン様の傍にいるだけで彼を不幸にしてしまうに違いないと思っていた時を思い起こせば、状況は比べ物にならない。─────はやく、はやく会いたい。ごめんなさいとありがとうとだいすきを、嫌と言うほど伝えたくて仕方ない。

─────彼も、今。ほんの少しでも、私のことを考えてくれていたらいいのに、なんて。身勝手な想いが浮かんで消えていった。
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