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17.平穏で歪んだ日々

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──────ふわりと、この上なくいい匂いが鼻を掠めて、ノエルは深く沈んでいた意識が浮き上がるのを感じた。夢と現の境目で揺蕩うのが心地よくて、目覚めてしまうのが惜しくて。思わずぐずるような短い鳴き声を漏らすと、微かに息を詰めるような音が聞こえて、それから温かくて大きな掌が、ノエルの柔らかな毛に包まれた腹にそっと乗せられた。

「……ノエル、ご飯だよ。……それとも、もう少し寝ていたい?」

あまり起こす気がないような、小さくていっそ眠気を誘う優しい声に、それでもノエルの意識はゆらりと水面まで浮き上がって、ゆっくりとそのルビーのような瞳が微かに開かれた。ぼやけた視界に真っ先に入るのは、ノエルがこの世の何よりも愛する、エメラルドのような瞳で。それがノエルの視線と交錯してうっとりと蕩けるのを見て、ノエルはどうやったって胸の奥底から湧き上がる幸福に、砂糖を煮詰めたような甘い鳴き声を上げてその掌に擦り寄った。

「……にゃ」

もう少し寝ていたいけれど、お腹はすいた。でもでも、何よりアダン様に、愛おしい番に、もっと撫でていてほしい。完全に覚醒していない意識で、それでも我儘な猫としての本能が強く出ているのか、ノエルは喉を鳴らしながらアダンの掌をちいさな前足で捕まえて、必死になって誘うように毛繕いをした。もっともっと、この温もりを感じていたい。いつまで経っても辿々しい手付きで優しく撫でられると、恐ろしいことも悲しいことも、何もかも溶けて消えていくような感覚がする。だから、ノエルが満足するまで、もっと。

「……………………ッ」

唸るような声が聞こえたあと、ノエルが望んだ通りにその掌が、ノエルの柔らかな毛を撫で付けるように優しく動き出す。それが嬉しくて、幸せで、また微睡み始めたノエルはぐにゃりとちいさな身体の力を抜いて、腹を見せながらむにゃむにゃと口を動かして喉を鳴らした。せっかく浮かび上がった意識があまりの心地よさにまた沈んでいくけれど、もう起こすために声を掛ける者はいなかったから、ノエルはまたゆっくりと幸福な眠りの世界へと落ちていった。




────アダン様が用意したという別邸は、それでも王宮と遜色ないほどに豪奢な造りで、部屋に至っては以前よりも何不自由ないように整えられていた。……窓がないところも、外から鍵がかかるところも同じだけれど、それは気にしないことにする。どちらにせよ、ノエルが彼の元を離れるなんてあり得ないのだから。当然ノエルの暮らす部屋に入ってくるのもアダン様しかいないわけで、そうやって過ごしていると王宮での日々に戻ったような感覚さえするけれど──────……あの時と決定的に違うのは、アダン様へのノエルの態度だった。ノエルの黒猫の獣人としての能力が彼に対して悪影響を及ぼさないと分かった以上は、アダン様に対して冷たい態度を取る必要も、可能な限り距離を取る必要ももうない。だからノエルは、ずっとずっと堪えていた気持ちを、遠慮なく彼に示す日々を送っていた。

「……ノエル、おいしい?」

「に!」

遠慮がちに聞いてくるアダンに、昼過ぎになってようやく起き出したノエルは器に突っ込んでいた顔を上げると、口元に食べかすをつけたまま元気よく肯定の鳴き声を上げた。アダン様がノエルのために用意してくれる食事は、いつだって頬が蕩けてしまいそうなほどに美味しい。愛しい番がノエルのために出してくれる食事だなんて腐っていたって嬉しいに決まっているのに、それが味も最高に良いとなれば気に入るどころの話ではなかった。伝わらないと知っていても、美味しかったです、ありがとうございます、と高くうっとりした鳴き声を上げながら、ルビーの瞳を嬉しそうに細めるノエルに、アダンはいっそ泣きそうな顔をした。反射的に伸ばされたようなその震える掌に、ノエルは尻尾を高く上げながら自分から擦り寄る。その拍子にノエルの顔についていたかすがアダン様の手についてしまって、慌てたようにちいさな黒猫は前足でアダンの手を捕まえてそれを舐めとった。しばらく必死にそれを続けて、綺麗になった掌にむふ、と達成感から息を吐いたノエルは、満足げに顔を上げて──────表情の抜け落ちた顔で、瞳孔が開いたままこちらを声もなく見つめるアダンにぴゃっと飛び上がった。

ノエルからしたら猫の本能に引き摺られた反射的な行動だったけれど、もしかして気安すぎて怒らせてしまった?そろりとアダンの掌を解放して、ぺたりと耳を伏せてルビーの瞳を潤ませたノエルに、アダンははっとエメラルドの瞳を見開くと、慌ててあらゆる感情で瞬時に沸騰していた胸中をひた隠し、穏やかな表情と声を繕った。

「……ありがとう、嬉しいよ、ノエル。……そうだ、おやつもあるんだ。それも気に入ってくれたらいいんだけど」

言いながら引き出しから小さな未開封の袋を取り出したアダンは、少し離れていて、とノエルに言いつけた。首を傾げながらも言う通りにしたノエルを見届けてから、アダンは少しだけ鋭い爪を伸ばして、袋の上部に滑らせる。やすやすと切れたそれを確認してから、アダンは爪を元に戻した。ノエルが万が一にも怪我をしてはいけないと、アダンはこの部屋に刃物の類の一切を置いていない。そんなものがなくたって、アダンの身ひとつあれば大概のことはどうにかできるからだ。

猫用に加工された一口大のチーズを袋から取り出すと、ノエルのルビーの瞳がぱっと輝いた。ノエルの好きな食べ物の傾向は、アダンの弛まぬ観察によって既に割り出されている。想像していた通りの反応に思わず表情を緩めながら、アダンは掌に乗せてノエルにそれを差し出した。軽い足取りで躊躇いなく近づいてくるノエルが、愛おしくて胸が張り裂けそうになる。番に手ずから食物を与えることは、アダンに何にも変え難い充足と幸福を与えていた。

──────夢中でアダンの差し出したものを食べるノエルの首元には、アダンの瞳と全く同じ色を携えた宝石が輝いている。その半透明な宝石の奥に閉じ込められるように刻まれているのは、竜王であるアダンを指し示す紋章だ。この部屋に来た日にアダンが手ずからノエルの首に取り付けたその独占欲と執着の塊は、恐ろしいほどアダンの愛しい番に似合っていた。それを目にする度に、漸く愛しい番が己の手の中に戻ってきたのだという実感と、アダンを狂わせるその仕草、声、ひとつひとつが全て偽りであることをどうしようもなく思い出して、アダンはどろどろと絡み合う感情を堪えるように奥歯を噛み締めなくてはならなかった。

「みぃ」

アダンの、残酷で、この世の何より愛おしくて──────演じるのがとても上手なちいさな黒猫は、すっかり差し出されたものを食べ終えると酷く満足そうな、甘い甘い声でお礼を言うように鳴いた。その胸中は、アダンへの嫌悪で染まっているのだろうか。実際には、あの下賎な魔女のことばかりを考えているのかもしれない。そう思うとじりじりと胃の腑が爛れるような感覚がして、それでもそのルビーの瞳が真っ直ぐにアダンだけを射抜いていたから、アダンはただ笑みひとつを浮かべてそれを飲み下した。知っていて、騙されると決めたのはアダンだ。少なくとも、あの魔女の命をアダンが握っているうちは──────……この何より愛しいちいさな黒猫は、アダンを騙し通してくれるだろう。甘えるように擦り寄ってきたノエルを酷く優しく撫でながら、アダンは酷く切なげな、自嘲の笑みを浮かべていた。




どれだけアダンがノエルの傍にだけ居たいと思っていても─────否、だからこそ、アダンにはやらなければいけないことがある。寂しそうに耳と尻尾を萎らせるノエルに、それが演技と知っていながらも後ろ髪を引かれるのを堪えながら、アダンは一度だけそのちいさな額を優しく撫でて、扉の前まで見送りに来てくれたノエルを何度も振り返りながら、部屋を後にした。─────勿論、厳重に鍵を掛けるのを忘れてはいない。ノエルのアダンを愛する演技は本当に徹底していて、それはアダンにとってまさしく甘露だったけれど、かと言ってあの日のある種の「取引」をアダンは忘れたことはない。実際には嫌悪しているアダンと常に共にいると、ノエルの精神が疲弊してしまうだろうことも予想がついた。ノエルが気を遣わなくていい、一人になる時間を作ってあげなければ─────そう思いつつ、アダンがノエルの為に用意した部屋にいる時間は日に日に長くなっていた。

深夜にノエルが連れ去られたことはアダンの心に深い傷を残していて、既に眠る場所もノエルと同じ部屋に変わっている。本当はそのあたたかくて柔らかいちいさな身体を抱きしめながら眠れたらどれだけ良いかと思うけれど、ノエルの負担を考えてなんとか堪えている有様だった。それだって、ノエルの為に用意した猫用の寝台はアダンの寝台のすぐ傍なのだからあまり変わらない。最初にそれを目にしたノエルが驚きに目を見開いて、幾分躊躇っていたのは記憶に新しく、アダンが笑顔で封殺して漸く諦めたように丸くなったのが可哀想でいじらしかった。────────────実際は、これは好きな人の隣で眠ることへの純粋な羞恥によるものだったけれど、アダンがそれを知るわけもなく。

部屋の中にいようと外にいようと、いつだってアダンの心は愛しい番のこと一色で染まっている。そしてその末に願うのは、当然己の愛しい番と、この命ある限り共に在ること──────けれど、アダンの番はいくら賢かろうと、アダンとは種族の違う普通の猫で。本来であれば、アダンからすれば瞬きの間にその命が儚くなってしまうような、刹那的な生き物だ。それを想像するだけで、アダンは足場が崩れ、奈落の底へと突き落とされるような絶望的な気分になる。何百年と探し求め、気が狂い命を絶つ寸前で与えられたものを、またすぐに失うなんて──────考えるだけでも正気が揺らぎそうだった。……だから。

アダンはそっと、自身の胸元を押さえた。そこにあるのは、人型を取っていても唯一残る──────色の違う鱗。これさえあればできるような簡単な儀式なら話は早かったのにと嘆息しながら、アダンはそれでも口元に淡い笑みを浮かべた。今、ノエルは自らの意思で、アダンの傍にいる。それが偽りのものだったとしても、アダンに愛を捧げてくれる。それならば、残る問題はあと一つ。寿命の差──────……これさえ乗り越えられれば、アダンとノエルは文字通り、お互いの命尽きるまで、共に在ることができる。廊下に差し込む仄かな明かりに導かれるように、アダンは窓から天に青白く輝く月を見上げた。

「──────……もうすぐ、漸く……嗚呼、待っていて、俺の愛しいノエル……」






アダンが出て行き一人残された部屋で、ノエルは暫く愛しい番が行ってしまった寂しさにしょんぼりと項垂れてから、気を取り直して顔を上げ、部屋を見回し始めた。ここに来てから習慣となっているその行動は当然、元の姿に戻るため──────……つまるところ、言い方は悪いけれど、一度自ら命を絶つためだった。

元の姿に何とかして戻らなければ、魔女の言う「逆鱗の儀」という寿命を分け合う儀式ができず、ノエルはすぐにアダン様を置いていくことになってしまう。それは絶対に避けないといけない。かといって魔女に戻してもらうことは、最早不可能に近い。だったらノエルは己が知っている方法で、何とか自力で元に戻るしかなかった。魔女の隷属契約によって縛られているうちは、命令で禁止されていてこの方法を取ることはできなかったけれど、アダン様によって隷属契約が上書きされてからは、あの縛られるような、行動を押し止められるような感覚は無くなっている。だから恐らく、今ならノエルが自分で元の姿に戻ることができるはず。

勿論、アダン様に見えるところでそんなことをするつもりはノエルにはなかった。すぐに元の姿に戻るとしても、そんな場面を見てアダン様がどれほどにショックを受けるか、想像しただけでノエルの胸すらも痛んでしまう。というより、そんな素振りを見せた時点で止められるに決まっていた。だから理想としては、アダン様が部屋を留守にしている間にどうにかして元の姿に戻り、部屋に戻ってきたアダン様に獣人の姿で事情を説明する──────……というものなのだけれど。

「にー……」

ちいさな身体に鞭打って広い部屋のあちこちをうろつき、探し回り─────最終的に口で息をしながらノエルはべたりと床に伏せて項垂れた。当然ながら、ノエルが怪我をしそうなものをアダンがこの部屋に持ち込むわけもなく、家具の角すら保護されているという徹底ぶり。いっそ食べ物を喉に詰まらせてみようかと考えたこともあったけれど、この別邸で出される食事はどれもこれも万が一にも喉に詰まらせないように気をつけられているものばかりで、それすらも選べそうになかった。かといって食べずに餓死を狙おうにも、またアダン様に命令されて、挙句に酷く悲しそうな顔をさせて終わりに違いない。舌を噛み切るという恐ろしいことを思い付かないでもなかったけれど、動物の舌と歯が実際どういう兼ね合いになっているのかなんてノエルは詳しく知らない。万が一死にきれなかった時、アダン様を悲しませた挙句今度は口枷か、アダン様の命令が待っているに違いなかった。

アダン様は可能な限りノエルの意思を獣人の王としての命令では縛りたくないと考えてくれているようで、ノエルが自発的に健康を損なわない限りはあの時のように命令はしないでくれている。けれどそれも、その考えを覆すような出来事があればそこまでだと想像するのは容易かった。部屋を見回してあれはどうか、これはどうかと考えているうちに、ノエルはふと、事情が事情とはいえ死に方ばかり考えていることに気がついて気分が落ち込んだ。天国のお父さんとお母さんがこのことを知ったら悲しむに違いない。大事な人と一緒に幸せになる為だから、どうか許してほしい、と心の中で釈明をしているうちに、いつの間にか時間が過ぎていたようでアダン様が戻ってきてしまった。

「……ただいま、ノエル」

「みっ」

元の姿に今日も戻ることができなかったのは残念だけれど、愛しい番と共にいる時間は当然ながら嬉しいわけで。それを隠さず歓迎の声を上げて、寂しかったというようにその足に擦り寄って出迎えたノエルに、アダンは優しい笑みを浮かべてしゃがみ込むと相変わらず躊躇うような、辿々しい手つきでノエルの背を撫でた。その心地よさに目を細めてごろごろと喉を鳴らすノエルをじっと見つめて、アダンは少し首を傾げた。

「……少し疲れてる?用意したおもちゃで遊んでくれていたのかな」

「…………にー!」

内心冷や汗を掻きながら元気な返事をすると、アダンはそっか、と嬉しそうな笑みを浮かべた。ずきずきと罪悪感が胸を刺すけれど、かといってこればっかりはノエルもバレるわけにはいかない。それならもう寝ようか、と微笑んだアダンに元気よく返事をしながら、ノエルの心にはゆっくりと焦燥が降り積もっていった。逆鱗の儀も勿論懸念事項ではあるけれど、魔女の処遇も心配だ。アダン様はあれから一切魔女について語ることはなく、ノエルも尋ねる術を持っていない。だから最後に見た姿は声を奪われ苦しむ姿で、もしもあれが今も魔女を苛んでいたらと思うとノエルは気が気でなかった。元の姿に戻れば、魔女が迎えに来た時のノエルの振る舞いは演技だと説明することができる。魔女とノエルの間にあるものは少なくともアダン様が羨むようなものではないと理解してもらえれば──────そして魔女がどこにいようと、ノエルのアダン様への愛は揺るがないと示すことができれば、魔女だって解放されるかもしれない。アダン様に促されるまま、用意された寝台に丸くなっても一向にやってこない眠気も相まって、ノエルは薄暗闇の中一人、必死になって自分に言い聞かせていた。早く、一刻も早く、元の姿に戻らなくては──────……

……本当は、一つだけ。思い浮かぶ方法が、ないわけではなかったけれど。

「──────────……ノ、……エル……」

疲れているのに降り積もる焦燥からなかなか眠ることができなかったノエルは、アダンの熱に浮かされたような掠れた声を聞いてはっと顔を上げた。人間ならば何も見えないであろう微かな照明の中で、けれど夜目の効くノエルは確かに──────アダン様の頬を滑り落ちていく、一粒の雫を見て。ぎゅう、と胸を締め付けられたノエルは、自身に用意された寝台を降りて、アダン様の眠る寝台に音もなく飛び乗った。そうして顔を覗き込む間にも、まるで精巧な作り物のように整ったその顔を、ほろ、ほろと雫が静かに落ちていく。それが自分のことのように悲しくて、ノエルは思わず必死になってそれを舐めとった。

──────泣かないで。泣かないで、アダン様。私の、何よりも大切なひと。

その想いが通じたのか、アダンはうっすらと瞼を持ち上げて、その複雑な虹彩の宝石のような瞳でノエルを捉えて──────────それから酷く安心したように、口元を緩めた。その表情が、まるで漸く帰る家を見つけた子供みたいで、あんまり優しくて──────────……アダン様は安心したようにまた瞼を下ろして、もう雫を溢すこともなく寝息を立てているのに。……ノエルの方が、つられて泣いてしまいそうだった。

番がまた深い眠りに落ちたのを見届けて、自分の寝台に戻って丸くなりながら、ノエルは固く決意していた。─────……可能なら、あの方法は取りたくない。できることなら、最終手段にすらしたくなかった。そんなことを言っている場合ではないと分かっていても、アダン様の心がノエルのせいで今までにどれだけ傷を負ったのか、その一端を見てしまえば尚のこと。────────ノエルは、この世の誰よりもアダン様には、心から笑っていてほしい。他の誰でもなく、ノエルが、アダン様を幸せにして差し上げたい。それだけのことなのに、私もアダン様のことがだいすきだと伝えたいだけなのに、それがどうしてこんなにも難しいのだろう。ほろりと、番と共鳴したようにちいさな雫をひとつだけ零して、ノエルの意識もまたゆっくりと沈んでいった。




──────ノエルの焦燥とは裏腹に、どこか歪を抱えた日々はそれでも嫌になるほど穏やかに過ぎていく。ノエルが心の底から愛を込めてアダンに接しても、アダン様はそれを魔女の命を保障することへの対価だと考えていて。酷く嬉しそうなのは間違いないのに、それでもエメラルドのような瞳の奥で、澱んだ色と切なさが渦巻いているのにノエルは気がついていた。アダン様を遠ざけて、傷つけることだってとても辛かったけれど──────本心から示した愛情を信じてもらえないことが、こんなに苦しいことだったなんてノエルは知らなかった。

──────本当に、己の何を捧げてもいいと思うほどにアダン様が愛おしいのに。アダン様がかつて欲しがってくれた愛情を、今なら惜しみなく示すことができるのに。

どれだけ擦り寄っても、甘く鳴いても、尻尾をその足に絡めても。アダン様は嬉しそうに笑って、優しくて温かい手で撫でてはくれるけれど、ノエルの愛だけは決して信じてくれない。仕方ないことと分かっていても、ノエルの胸にはどうして信じてくれないの、なんて理不尽な思いさえ湧き上がっていた。……それでも、その手が、その笑みが嬉しくて愛おしくて、手放したくなくて、そんな思いはいつも長続きしない。アダン様がいない間、ノエルは元の姿に戻るために己の命を絶つ方法をいつだって模索していた。それは嘘ではないけれど──────それでも。歪ながら愛おしくて、番がいつも傍にいてくれて、平穏で安定した日々をどこかで惜しんでいたのかもしれない。────────……だから。ノエルが悠長にしていたから、とうとうタイムリミットがやってきてしまったのだ。


「───────ノエル。準備に時間がかかってしまったけれど────……次に月が、君の瞳と同じ色になる日に。……君と、永遠を誓いたい」

甘く、甘く囁かれた愛しい番からの言葉。普通であれば、泣いてしまいそうなほど嬉しいに違いないそれに────────ノエルは、視界がくらりと歪むのを感じた。それに気づいていないのか、……否、気づいていて、あえて無視しているのか。アダンは口元を歪めると、己の色に彩られたノエルの喉元を、場違いに酷く情熱的に、幾度も指先で撫でた。



「俺と、逆鱗の儀を。────……頷いてくれるよね、ノエル」
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