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序章 皇位継承

11.謀略のエレトリア宮殿

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「ほっほっほっ。ヨルギオス参議、立ち話も何ですからな。そのお話は中庭のソファーでお聞きしましょう」

 アゲロスは脂ぎった顔に『いやらしい』笑みを浮かべながら、庭園中央にしつらえてある木製のソファーを指差した。

 そして、ヨルギオスが同意する様に頷くのを確認すると、自ら率先して夕日の差し込む中庭へ歩き出したのだ。


「……サロス」


 アゲロスは後ろから付き従う従者の中で、一番大柄の男の名前を呼ぶ。


「はっ。こちらに」


 サロスは、体格ではアゲロスの倍ぐらいありそうな大男なのだが、アゲロスのその大柄な態度のせいだろうか、アゲロスの方がより大きく感じられるのは不思議だ。


「急ぎ、商工ギルドに向かってくれ。所用で少し遅れると。そして、定刻になれば先に宴を始めてもらっても構わないとも伝える様に」


「はっ、畏まりました」


 そうは言っても、私が行くまで宴は始まるまい。商工ギルド会頭は、そのくらいの気遣いが出来る男だ。しかも主賓のアゲロスがどれだけ遅れたとしても、誰も文句は言わない言えない事も分かっている。

 だいたい、三ヶ月以上前から、アゲロスその人を招く為だけに企画された様な宴だ。

 ただ、そこは貴族としての言葉のアヤと言う所か。商工ギルド会頭とは懇意になっておいても利になりこそすれ、損をする事はないだろう。


「タロス、中庭の周りから人払いを……」


「はっ。畏まりましてございます」


 先ほどのサロスと、ほぼ同じ体格をした従者に命令を下す。

 もともと、サロスとタロスは兄弟で、『マロネイア家』に先代から仕える者達だ。身分としては既に開放奴隷として帝国二級市民権を取得している。


「さて、ヨルギオス卿、どの様なお話しですかな?」


 アゲロスは、大仰にその体脂肪で膨れ上がった体を、ソファーのクッションの間にうずめる。

 それと比較して、全く落ち着きの無いヨルギオスは、ソファーの端に浅く腰掛け、アゲロスの方に体を乗り出しながら、体を小刻みに震わせていた。


「じっ実はですな、宮殿奥に仕える女奴隷の話によるとですぞ、かの『鮮血帝』がふらりと宮殿奥、エレトリア侯の執務室の前に現れたとの由でございます」

 ここまで息せききって走って来たのだろう。左手に持つトガの一部で額から流れる汗を拭いつつ、話を続けるヨルギオス。

「警備の兵にも誰にも咎められる事なく、まるで亡霊の様にふわりと執務室前に現れたとか」


「……ほほぉ。それは誠でござりましょうや。その奴隷の見間違いでは?」

 アゲロスは全く動じる事なく、疑いのまなざしを見せる。


「いやいや、アゲロス様、その奴隷の話では、執務室におわしたエレトリア侯爵が、非常に驚いた様子だったそうで、しかも、しかもですゾ。侯爵閣下が鮮血帝に向かって臣下の礼を取られたとの事でございます」


「ふぅぅむ。にわかには信じられぬお話ではございますなぁ」


 それでも腑に落ちない様子のアゲロス。そんな彼に苛立ちを覚えたのか、ヨルギウスは少し声音を荒げてアゲロスに迫った。


「じっ、十年以上隠遁されていた『鮮血帝』が、この時期に現れるなど、おかしいではござりませぬか!」

「もしや、もしやでございますぞっ。について何か感付かれたのではあるまいか?!」


 半ば取り乱しそうになるヨルギオス議員。アゲロスはスッと今までの柔和な笑顔を消し去り、鋭い眼光でヨルギウスを睨みつける。


「ヨルギウス卿、めったな事を申すものではござりませぬな。例の件は『秘中の秘』。ヌシと私しか知らぬ事。万が一情報が漏れたとすれば……。誰のせいでござりましょうなぁ……」


「ひぃっ。まっ、まさか……、この私をお疑いになるのでござりますか?」


 ヨルギオスの顔色は真っ青を通り越し、既に死相が表れていると言った状態にまで、急激に変化する。

 そんなヨルギオスの顔色の変化を見たアゲロスは、元の柔和な笑顔を取り戻した。


「ほっほっほっ。私とヨルギオス卿との間柄ではござりませぬか。万が一にもその様な事は無いものと思っておりますぞ。万が一にも……」


 ……ゴクッ!


 ヨルギウスは生唾を飲み込もうとするが、口内には水分の欠片も無く、ただその喉は渇いた音を立てただけであった。


「さて、お話しは以上ですかな? それでは私は、会頭との夕食会の方へ向かわねばなりませぬゆえ、これにて」


 そういい残すと、ゆっくりと立ち上がろうとするアゲロス。


「アゲロス様、わっ、私はどうすれば良いだろうか?」


 震える声で問いかけて来るヨルギオス。既に驚愕と恐怖、そして限りなく絶望に近い失望により、正常な判断力を失っている事は明らかだ。


「ほっほっほっ。それではこの件、不肖アゲロス、アゲロス=マロネイアにお任せ下さりますか?」


 先ほどとは打って変わり、聖母の様な笑みを浮かべながら、話しかけて来るアゲロス。

 ヨルギオスは、彼のその優しげな笑顔を、地獄の暗闇の中で、一条の光を見つけた亡者の様に見つめた。


「お、お願いしてもよろしいのでござりましょうや?」


「えぇ、お任せ下され。決してヨルギオス卿の悪いようには致しませぬぞ」

「……おぉ、そうそう。その女奴隷でしたか。あまり余計な事を吹聴されては、不安に思う者共も増えましょう。何らかのが必要でしょうなぁ」


 少し困り顔でヨルギオスの方を見つめるアゲロス。


「実は、そんな事もあろうかと、奴隷の娘については、一足先に天界の父、母の元へと旅立ってもらいましてございます」

 すると、貧相な顔立ちの中にも喜色を隠せず、少しうれしそうに報告するヨルギオス。


「さすがはヨルギオス卿、抜け目がござりませぬな。そう言う所を私は買っているのでございますよ。これからも末永くよしなに……」


 満足そうに頷きながら、細く筋張ったヨルギオスの手を左手で取り上げ、自分の右手をそっと上から添えて、ゆっくりと上下させる。

 アゲロスの満足そうな顔を見て、ようやく落ち着きを取り戻したヨルギオスは、少し小ズルそうな表情を浮かべながら、更に言葉を継いだ。


「いや実は、奴隷娘の件を含め、私の3人の奴隷も同じ場に居合わせた為、残念ながら全て処分する事になった次第。いやはや、いきなり3名もの奴隷がいなくなるのはさすがに堪えましてましてですなぁ」


 ……ふっ、金の無心か。


「ほうほう。それは難儀でござりましょう。それでは後ほど、小宅の方から使いのものを向かわせますので、いかほどか融通させて頂くと言うのはいかがでござりましょう?」


 このアゲロスの言葉に、いままでの不安が全て吹き飛んだ様な笑顔を見せるヨルギオス。


「いやはや、アゲロス様にはご高配を賜り、誠にありがたく存じます。そうしますと、娘奴隷が3万、私の奴隷が3名で6万、ざっと9万、いや10万クランぐらいにはなりますか……」

 卑しい笑みを浮かべ、人を金の単位で数えながら、上目遣いに話しかけて来る。


 ちっ! こまかく利ざやを稼ごうとする輩の何と多いことか……。


 この様な目や仕草をする輩には腐るほど会って来た。多少呆れがえりながら、心の中では蔑みの視線を投げかけつつ、表面上は動じる事の無い優しい笑顔で話を進めるアゲロス。


「わかりました。奴隷娘は良いとして、ヨルギオス卿の奴隷が2万クランでは安すぎましょう。奴隷娘に3万、ヨルギオス卿の奴隷を一人3万として9万。それにご心配をおかけした迷惑料として更に5万。合計17万クランをお届け致そう。迷惑料の5万クランで、新しい夜伽衆でも買い付けられるがよろしかろう」


「おぉっ!、まっ誠にござりますかぁ。ありがたき幸せ」


 望外の申し出に、満面の笑みで答えるヨルギオス。


「ついでと言っては何でございますが、出来れば帝国金貨では無く、エレトリア銀貨で拝領させていただく訳には行くまいか? 帝国金貨では……ほれ、奴隷商で使えない事も多い故……」


 もちろんそんな事は無い。まともな奴隷商であれば、十分帝国金貨でも支払いすることが出来る。

 恐らく、二流、三流の奴隷商や、いかがわしい娼館とつながった奴隷商では、確かに帝国金貨は荷が重いだろう。恐らくもらった金でさえ、ケチって使おうと言う魂胆が垣間見える。


「えぇ構いませぬ。構いませぬ。ただ、エレトリア銀貨ではかなりの量になるでしょうなぁ。ご自宅にお運びするのは、明日で構いませぬか?」


「えっ、いや、……明日は……あぁそうそう、残念ながら自宅の方は留守にしておりましてな。さすがにこの様な大事を小職不在で進める訳には参りませぬ。明日、夕刻に私自らアゲロス様のご自宅に参りましょう」


 腐った濡れネズミめ。それはそうだろう。この様な汚い金を自宅に届けられたのではたまったものでは無いだろうからな。


 ヨルギオスのあまりにも露骨な態度が癪にさわり、少し苛めてみただけだ。


「それでは、ごきげんよう」


 ゆっくりとソファーから立ち上がり、出口に向けて歩き出すアゲロス。

 すでにアゲロスの興味はヨルギオスから離れていた。


「タロス、タロス!」


「は、こちらに」


「今日つれてきた奴隷、そち達を除く3名は本日中に処分せよ。また、分かっておろうが、今日聞いた話は他言無用だ」


「畏まりましてございます」


 アゲロスにしてみれば、ヨルギオスに渡す金も、自分の奴隷の損失も、眉尻を動かす事すら無い『はした金』でしか無い。しかし、無駄金を使う事を極端に嫌う性格であることから、多少の苛立ちは隠せない。

 さぁ、この金で買ったカード。どう使うのかが、私の腕の見せ所と言うものよのぉ。


 アゲロスは、先ほどまでの苛立ちを忘れ、新しいおもちゃを手に入れた子供の様な笑顔を見せる。

 もちろんその笑顔は天真爛漫なものではなく、人の世の暗部を知り尽くした男のみが持つ、『不敵』と呼ばれる種類のものであった。
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