櫻花荘に吹く風~205号室の愛~

柚子季杏

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櫻花荘に吹く風~205号室の愛~ (19)

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 数日も経てば新人バイトもどうにか慣れて来て、デスクワークも無事に終了する。
 ようやく肩の荷を降ろして、ホッとひと息つけた気がする。

 出勤前の早めの夕飯をと向かったダイニングスペースには、ちょこまかと動き回る春海と、テーブルの上にノートを開いて唸っている由野さんの姿。
 今日から暫くは遅番勤務になるのだけれど、いつもならこちらが声を掛ける前に近寄って来る、あいつの姿だけが見当たらない。
「あれ? 春海、大輔は?」
「今日は早く行くって言ってたよ」
「そうなんだ」
「あっ、みっちゃん寂しいんでしょ? 遅番の時って大抵北斗くんと一緒に行ってたもんね」
「そんなんじゃねえよ」
 無邪気にそんな事を言ってくる春海に唇を突き出しながら食卓に着く。
 別に寂しいだなんて思っちゃいないさ。
 ただちょっと、ちょっとだけ、もう一週間以上まともに顔を合わせていないから、珍しい事もあるものだと思っただけだ。俺が今日から遅番で、出勤時間が重なる事は知っているだろうにと。
「いっただきまーす」
「はーい召し上がれ!」
 家庭菜園で収穫したという胡瓜が大量に乗った冷やし中華を啜りながら、空席に自然と目が行ってしまいそうになるのを必死で堪える。また春海にからかわれちゃ堪ったもんじゃない。
 明日になれば嫌でも俺の後を付いて来るに違いないんだ。静かな日が一日くらいあってもいいじゃないかと心の中で呟きを零す。
 どこか物足りない気分を感じながらも、その時はまだ、たまたまだと思っていたから。



「……今日もいねえのかよ」
 あの日以来、俺が櫻花荘で北斗を見掛ける事が無くなっていた。
 出勤時間のせいで会えていないだけかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
「北斗くんならニ、三日前から帰って来てないよ?」
「は? そうなの?」
「そういえば何日か前に、仕事用の服を何着か持ち出してたようだったけど……玄関出ようとしてるところに僕が帰って来て、ばったり鉢合わせたよ」
「うん、その時に暫く帰れなくなるからって言ってたんだけど――みっちゃん、何も聞いてなかった?」
 俺がぽろっと漏らした言葉に反応を示したのは、春海と由野さんだった。
「――聞いてねえ、ってか別に、興味ねえし。 んじゃ、行って来る」
「あっ、いってらっしゃい」
 二人は知ってて俺だけ知らないって、何なんだよあいつは。ふつふつと沸いて来る怒りにも似た感情を押し殺しながら、店までの道を一人で歩く。
 半歩後ろに感じるはずの気配も無い。
 背後から聞こえてくるはずの足音も聞こえない事が、妙に苛立つ。
「……何だよ、これじゃまるで、俺の方が一緒に行くの楽しみにしてたみたいじゃん」
 そこまで思って、ふと気付いた事実に、歩みが止まった。
「そういやあいつ、ここんとこ店にも顔出してねえよな?」
 櫻花荘で顔を合わせる時間が無い日でも、2日に一度は判で押したように店を訪れていた北斗が、月末以降は一回も来ていないのだ。
「大輔……何か、あったのか?」
 僅か5分やそこらの接客時間。客連れにも拘らず、顔を見れて嬉しいと笑っていた男が急に来なくなるなんて、何かがおかしい。
 確かな理由などありはしないのに、何故か嫌な胸騒ぎがする。
「ちっくしょ、大輔のアホ」
 何だって俺が気を揉んでやらなくちゃならないんだ。舌を打ち鳴らしながらそう零してみても、一度ざわめき始めた胸の小波が治まる気配は無くて。
「今日も来なかったら、様子見に行ってみるか……」
 止まっていた足を踏み出しながら、予定を立てる。幸い遅番勤務だから、あいつの仕事終わりまで待つ時間は、そう長くもないだろう。
『あっれぇ? どうしたの、みっちゃん?』
 顔を合わせてそんな事を言いやがったら、蹴りのひとつもくれてやろうじゃないかと、鼻息も荒く俺は店へと向かうのだった。



 昼のカフェ営業から夜の営業へと切り替わる時間帯。
 いつもであれば、その位の時間に現れるはずの北斗は、結局今日も店に訪れる事は無かった。いや、正しく言うなら、店に立ち寄る事が無かった、と言った方が良いのだろう。

 駅から歩いて十分ほど、表通りと裏通りの境に建つこの店【 CROSS 】。
 普段は店内に集中させている意識が、その日は店の外へと向いていた。自動ドアが開けば、そこに立つ客へと目が行く。客が大輔では無いことを確認すれば、もやっとした感情が腹の奥へと蓄積されていく。
 そんな事を繰り返しているうちに、初夏の空も夜の闇に覆われ出した。

 昼の分のレジ締めを終えた時だった。店の前を女性と腕を組んで通り過ぎていく人影が、目の端に映った。
「っ……何なんだよ、あいつ」
 顔を上げた瞬間、確かに視線が交差した。にも拘らず、笑顔を浮かべるどころか、一瞬眉を顰めた北斗は即座に視線を逸らした。
女 性と組んでいた腕を解いて、肩を抱き直した北斗が、若干早足に店の前を通り過ぎていく。逸らされた視線が再び俺を捉える事は無いままで。
「やっぱり、何かある」
 ついこの間までは、こちらがどんなに適当にあしらおうが、懲りる事も無く近寄って来ていた大輔の突然の変化。
 俺に対する気持ちが冷めたのか?
 それならそれで構わない、真剣に受け止めようとしていた俺が馬鹿だっただけの話だ。けれど、あんな態度を取られて黙ってられるほど、俺は大人じゃなければ大人しくもないんだ。
「絶対に吐かせてやる――いらっしゃいませ、喫煙席と禁煙席がございますが……」
 静かな闘志を胸に滾らせながら、笑顔で客を出迎える。見てろよ大輔、俺に隠し事なんてしやがった事、後悔させてやるからな。


 秘かな決意を固めながら夜の営業を終えた俺は、誰もいなくなった店内で時計の針と睨めっこしていた。
 あまり早くに行き過ぎても、あいつはまだ店の中だろう。かといってギリギリ過ぎる時間になってしまえば、アフターでいなくなられてしまって話にならないかもしれない。
「――そろそろ、いいか」
 呟いて戸締りを終えたのは、時計の針が天辺を指す、三十分ほど前の事だった。

 夜も遅い時間だというのに、街はまだ眠る気配すら見せていない。
 煌びやかに輝くネオンの隙間を縫うように歩き、目当ての店が見える場所で立ち止まる。表から出てくるのか、裏口から出てくるのかも分からないけれど、必ず通る事になる少し太い道が見渡せる場所に立って、店を眺めた。
 あちら側からは死角になるだろう路地の境だ。
 春海が言っていた通り、ナンバーがひとつ上がったのだろう。先日来た時にあった場所とは逆位置に、北斗の気障に決めた写真が飾られていた。
 その写真を遠目に眺めて決意を新にする。何を隠しているのかは分からないけれど、納得のいく説明をしてもらうからな、大輔。
「少し、早く来すぎたか?」
 ゆっくり歩いて来たつもりだったのに、手持ち無沙汰に携帯を開いてみれば、画面に表示されている時刻は店を出てから十分ほどしか経っていなかった。北斗はまだクラブ内に居るだろうか? 居てくれれば良いのだけれど。

 道路の端に寄ってしゃがみ込み、直ぐ脇にあった自販機で買った冷えた缶コーヒーを啜っていると、店の中から次々に女性客達が出てくる。千鳥足になっている女性達の中には、泥酔状態でホストに抱えられながら出てくる客もいる。
『こういう店に来る子達ってさ、殆どが寂しい子達なんだよね。偽りだって分かっていても、その瞬間だけの恋愛を楽しみにして通って来る。リアルであった悲しい事や辛い事を忘れて弾けて。だから俺も、店の中でだけは彼氏になってあげられる』
 以前北斗が口にした言葉が頭を過ぎった。
 あんな風になるまで飲んで、それが実際の恋愛に発展する確率など皆無に等しい擬似恋愛。ホストクラブに通うために働き、一人のホストに貢ぎ続ける女性の気持ちは、正直言って俺には理解出来ない。
 それでも寂しさを紛らわすために、独りじゃないと思いたくて店に来るのだという意味は、少しだけ分かるような気がした。
 まるで本当の恋人に甘えるように、ホストへ寄り添う女の姿。水商売風の派手な服に、ごてごてと盛られたヘアスタイルの女が、可愛らしい笑顔を浮かべて笑いかける。
 またね、と手を振り合いながら店を後にする彼女達の、何処か諦めの浮かんだ笑顔が少しだけ、切ないと思った。


「あ……出て来た」
 それからどの位待っただろうか。
 缶コーヒーも飲み干し、今日はもう帰ってしまったのかと諦めかけた頃、店の裏口から出て来た男の姿が目に止まった。
 あまりにも出てこない北斗に、いっその事店に飛び込んで、いるかいないかを聞いて来ようかと思い掛けたほどだ。
「何やってんだ、あいつ?」
 夕方見た時と同じスーツ姿の北斗が、様子を窺うように視線をさ迷わせた後、ようやく歩き始めた。仕事終わりで大分酒も入っているだろうに、早足に歩く北斗の発する異様な緊張感に眉根が寄る。
「あれ? 誰だ?」
 あと数歩も歩けば、俺が身を隠している路地の前を北斗が通る。
 その時だった。

 ひとつ先の路地から、ふらりと姿を現した中年の男が、北斗の行く先に立ち塞がる。
 明らかに顔を顰めた北斗が険しい表情のまま口を開くのが見えたものの、距離がありすぎて会話の内容までは聞き取れない。
「あっ」
 時間にしてほんの数分。
 男がわざとらしく北斗へ肩をぶつけて立ち去って行く。その後姿を睨み付ける北斗の拳が、体の横できつく握り締められていた。



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