タラクサカム

四季人

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タラクサカム

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「偽善者!」
 罵倒する言葉と一緒に、ピンクのクッションが胸に飛んできた。
 白い病室にびりびりとした緊張が走る。
 僕は黙って落ちたクッションを拾い上げようと屈んだ。
「もう来ないで! 一人にして!」
 頭から冷水のように浴びせかけられる彼女の声は、酷く震えていた。
 ……泣いているんだ。
「一人にはしないよ」
 クッションの埃を払って、椅子の上に置きながら、僕は独り言のように呟いた。
「せりちゃんは、もう充分寂しい思いをしてきたんだ。……僕は、最後まで付き合うよ」
 最後まで。
 ……きっと、それは芹那にとって、苦しいことなのかも知れないけれど。
「……嫌なの」
 その声に顔をあげる。
 ベッドの上の彼女は、両手で顔を覆っていた。
「お願いだから、構わないで。……こうちゃんには見て欲しくない」
「せり……」
「一人にして。お願い……」
「………………」
 そう懇願された僕は、大人しく従うしかなかった。
 病室を出ると、ナースステーション横の椅子に腰掛けた数人と目が合った。
 彼女の声は通路まで聞こえていたらしい。
 僕は彼らに向かって静かに頭を下げて、エレベーターに向かった。


 * * * * *


 その時の胸の高鳴りを、今も覚えている。

 まだ恋を知らない幼い胸に深く刻まれた、目も眩むような光。
 それは心の中で輝き続ける、強すぎる憧れ。
 あぁ、僕は、魔法に掛かったのだ……
 ……そう、思った。

 それは僕が幼かった頃の事。
 公園の隅で砂遊びをしていた時、すべり台のてっぺんに立つ可憐な少女を見つけた。
 はじける笑顔と、小鳥の囀りのように美しい声。
 握り締めた僕の小さな手の平から、ぱらぱらと砂が溢れて落ちた。
 その子は同じくらいの歳の頃に見えたが、周りの子らと話す時のハキハキとして大人びた口調は、まるで彼女を何か特別な存在のように感じさせた。
 その完璧さは、まるで大輪の華のようで、思わず手を伸ばしたくなるのだが、同時に自分のような者が不用意に触れたら、傷めて駄目にしてしまうようのではないかという、強い不安に駆り立てられるのだった。
 だから、その時の僕は、彼女を見なかった事にしようと努めた。
 憧れてはいけないし、欲してはいけないのだ、と。
 自分が傷つかないようにする為に、何かを諦める事は慣れていた。
 それは妹が生まれた後から身に付いた、弱い心を守る方法のひとつだったから、この時もそうしようとしていたのだ。

 ……でも、

「ねぇ、いっしょにあそぼうよ!」

 はじけるような笑顔で。はずむような声で。
 いつの間にか傍まで来ていた彼女は、我慢の檻の中に籠り、砂遊びに興じていた僕に、そう声を掛けてきた。
 そして、呆気に取られつつ、反射的に首を縦に振った僕の隣に、彼女は満面の笑みを浮かべながらしゃがみ込んだ。
 諦めたものは、二度と手に入らないものだ。
 そのような経験則しかない自分にとって、少女の方から訪ねて来るという事態は、まるで夢のような出来事だった。
 ちらりと隣りを見やる。
 少女のふっくらとした頬は微かに赤みが差し、瞼から伸びる睫毛は、大きく開いた目を魅力的に飾っていた。
 その時湧き起こった感情の正体は分からなかったが、胸に確かな高鳴りを感じつつ、目を逸らした。
「おままごとしよ! あなた、おとうさんね!」
 少女は消極的な僕を誘導して、自分好みの遊びを始めた。
 僕は一度もままごとなどした事がない。
 他人と一つの遊びを共有するなど、とても難しくて、無理だと思っていた。
 それでも不安を感じなかったのは、少女の自信に満ちた表情のお陰だ。
 それは、いつも一人遊びに興じていた僕にとって、とても新鮮な体験だった。
 砂の山も、谷も、町も、川も……彼女の手によって、一瞬で二人の家の台所に作り替えられてしまったけれど、独りで作り上げたそれらを失う事よりも、自分の発想には無い創造が目の前で起こった事に、僕は歓びを感じていた。
 とにかく、現実から切り離されたその場所において、僕は〝おとうさん〟になった。
 それは、言ってしまえば、おかあさんを演じる少女の誘導に従うという一点のみが求められる役割だ。
 朝になれば起こされ、用意された朝ごはんを食べて「おいしい」と言う。
 そして、「いってきます」と手を振って、会社に見立てられたジャングルジムへと向かう。
 そこでは、仕事と称しながらキーボードの様に中空を指で叩く仕草をし、終えると、また少女の待つ我が家へと帰っていくのだ。
 そのルーティンには馴染みが無かったが、ほんのりと感じたのは、自分が初めて母ではない誰かに見守られ、受け入れられた、という安心感だった。
 笑顔を溢れさせながら、おとうさんである僕を家に招き入れてくれる彼女は、ごっこ遊びとはいえ、確かに家庭という安息地をそこに作り出していたのだと思う。
 それが、とても嬉しかった。
 だから僕は、砂場の家に戻る途中、夢中になって夕食の支度に取り掛かっている少女の目を盗み、こっそりと一輪のたんぽぽを摘んだ。
 黄色い花弁が見事に開ききった、その群生の中で一番綺麗に咲いていた一輪だ。
 それは、おとうさんからおかあさんへのプレゼントではなく、この遊びに誘ってくれた彼女への感謝の気持ちだ。一方的に遊びを享受していただけの僕が、初めて自発的に行った行動だった。
「おかえりなさい!」
 そう言って振り向いた少女にたんぽぽを差し出すと、
「……っ! ありがとう‼︎」
 彼女は大事そうに受け取って、その花に負けないくらいの笑顔を、僕に向けた。
「━━━━━━」
 まるで、時間が止まってしまったようだった。
 幸せ、という言葉が示す意味を知ったのは、きっとこの時が初めてだっただろう。
 しかし、……僕のアドリブは予想外の綻びを生んだ。
 夕食として振舞われた砂のハンバーグを食べ終えた後、少女が「おやすみ」のキスを要求し、僕は思わず凍り付いた。
 論理的思考が出来ない頃合いの男児にとって、大人にだけ許された営みを子どもが行うのは、例えそれが演技や真似事であったとしても、絶対のタブーだと思い込んでいたからだ。
 夫婦の関係性を拒絶された少女は明らかに落胆し、それならそれでいい、という態度になった。
 彼女の変化を見て焦りを感じ、自分の判断が間違いであったのだと理解しても、今更手遅れだった。
 それは、翌る日として始まった次の場面での少女の言葉や態度が冷たくなった事で、更に強まった。
 彼女からすれば、梯子を外されたような気持ちだったのかもしれない。
 そして、その失敗を濯ぐタイミングを見つける前に、すっかり日が傾き、公園には夕刻を告げる音楽が鳴り響く。
 子どもである僕らは、本当の家に帰らなければいけない時間になったのだと告げられた。
 上手く言葉を出せないでいる僕の横で、先に魔法が解けた少女は、すっくと立ち上がり、
「またあそぼうね」
 と笑顔で言い残し、去って行ってしまった。

 ……僕には、何も出来なかった。

 砂だらけの手を振って見せることも、「またね」と返事をすることも……。
 僕はただ、遊びの形跡が残る砂場で一人立ちすくみ、己の失敗と不甲斐なさを悔いていた。


 * * * * *


 彼女のベッドサイドに、音を立てないよう慎重に花瓶を置く。
 味気ない病室なのは仕方のない事だから、なるべく色とりどりの花を置いておこうと思った。
 初めて持ち込んだ日、『花なんか、何の足しにもならない』と怒っていた芹那だったけど、今は僅かでも楽しんでくれているのか、穏やかな顔をして、『きれいだね』と言ってくれる事が増えた。
 その彼女は今、眠っている。
 身体中を襲う痛みと戦いながら日々を過ごす芹那にとって、穏やかな顔で眠れているのは稀な事だ。
 だから、つまらない事で起こしてしまいたく無かった。
 そして、花瓶の横に、家から持ってきた背の低いグラスを置き、一輪のたんぽぽを挿す。
 今朝見た夢が、僕にそうさせたのかも知れない。
「……今日も、きれいだね」
 その言葉に振り返ると、目を覚ました芹那が微笑んでいた。
 花の向きを整える僕の手元に、穏やかな視線を感じる。
 昨日の別れ際の事なんて、すっかり覚えていないような様子だ。
「……ごめん、起こしちゃった?」
 僕の問いに、彼女は目を閉じて微かに首を振る。
 そして再び目を開けると、花瓶の横に添えられたたんぽぽを見やった。
「……そっちは? 何かのおまじない?」
「ちょっとね。昔を思い出したんだ」
「ふぅん……」
 疲れているのか、興味がないのか、彼女は虚ろな返事をして暫く黙った後、僕の顔を見る。
「……ねぇ、私には?」
「うん?」
 その問いに、一瞬だけ思案を巡らせた僕は、
「せりちゃんは、今日もきれいだよ」
 さっきの芹那の言葉を反芻しながら、椅子に腰掛ける。
「嘘ばっかり。私、こんなだよ?」
 そう言う彼女は、この部屋に来てから、体重が十五キロも減っていた。
 意地の悪い言い方で僕を試すのは、不安だからだろう。
「関係ない。せりちゃんだって、僕が本気で言ってるんだって知ってるでしょ?」
 だから僕は、彼女の気分が落ちていかないように、やんわりとブレーキをかける。
「……うん、ありがとう……」
 息を吐くように、彼女は言った。
「私のこと、好き?」
「好きだよ」
「うん……」
 ほっとしたような顔をした芹那に、僕は微笑みかけながら、思わずその細くなった指に触れた。
 彼女のひんやりとした指が、遠慮がちに僕の指に絡まって、……離れていった。
「………………」
 胸が締まる。
 掛ける言葉が見つからない。
 芹那を労わりたくても、その言葉が、態度が、表情が……彼女を傷つけてしまうかも知れない。
「ごめんね……」
 目を逸らして、彼女はぽつりとそう言った。
 今のは、何の謝罪で……何て返せば良いんだろう?
 謝る必要なんてない。……そう思っている事だけは伝えたいけれど、それを言えば、彼女はまた自分を責める。
 そんな事が続けば、僕と居るのが苦痛になってしまうかも知れない。
 どうしたら良いか判らなくても、何もしないでいる事は出来ない。
「芹那」
 乾いた口で、僕はなんとか彼女に届くような言葉を届けようとした。
「好きだよ」
 もし、彼女が僕と同じ気持ちだったなら、例え一緒にいた事でいくらか切ない思いをしたとしても、離れるのは間違いだ。
 時間が過ぎてしまった後は、その時の結果を後悔する事しか出来ない。
 他人に譲って、他人に委ねて、諦めを胸に、痛みを我慢するのは、確かに楽な生き方なのかも知れない。
 事実、僕はそんな事ばかりしてきた。

 …………でも、今は違う。

「━━僕は、君と一緒にいたい」
 どうせ後悔する事が決まっているのなら、僕は僕が望む後悔を選びたい。
 良いとか悪いとか、正解とか不正解とかじゃなく……。
 それが、芹那が僕に教えてくれた生き方だから、そうしたいんだ。
「………………」
 涙を堪える芹那の目元と鼻周りが、赤くなっていく。
 微かに浮いた涙を指で拭って、微かに鼻を啜って、
「こうちゃん……」
 彼女の指が、僕を求めてシーツの上を這う。
 それを優しく受け入れて、ゆっくりと温まるように握った。
 震える声で呟いたその顔は、かつての彼女からは想像も出来ないほど脆く、弱々しい。
 だからこそ、僕は……僕だけは、揺らいではいけない。
 彼女と交わった僕の人生は大きく変わり、それが、僕が本心から望んだものなのだと、全身で彼女に伝えていくことが、僕が彼女に出来る、ただ一つの事なんだ。


 * * * * *


 桜もだいぶ散ってしまった、小学校の入学式。
 ゴワゴワする紺のブレザーに、飴色のランドセルを背負い、母に手を引かれながら入った教室には、すでに沢山の同級生達がいた。
 みんな同じ出身園の仲間同士、親も子どもも盛り上がっていて、僕は、その輪に自然と加われない性格を疎ましく感じながら、自分の名前が大きく書かれた机の上に、ランドセルを下ろした。
「こうちゃん、わらって!」
 期待や喜びよりも、不安で胸が潰れそうな僕にカメラを向けて、母は無茶な注文をする。
 自分でも判るくらい不自然な苦笑いを写真に撮られて、その居心地の悪さに、僕は思わず目を逸らした。
 ……その先に、

 ずっと会いたかった少女を見つけた。

 上品なクリーム色のブレザー、きれいに巻かれた髪はハーフツイン……お姫様というより、笑顔を振り撒きながら歌って踊るアイドルみたいだ。
 そんな格好をした彼女は、隣の席の女の子と楽しそうに喋っている。
 その姿は少し大人びているものの、あの夕暮れの公園で、一度だけ一緒に遊んで別れた少女に間違いなかった。

 やっと、また会えた━━。

 ……僕は心の中で呟いた。
 あれから二年程、僕は彼女と過ごした日の事を、ずっと宝物のように思っていた。
 でも、きっとそんな風に思っていたのは僕の方だけだ。
 幼心でも、彼女のような明るい子が、たった一度きり公園で遊んだだけの、名前も知らない男の子を、その後も覚えていて、気に掛けてくれるかも……なんて、期待はしていなかった。
 当時の僕のそれは、自分に自信がないとか、そういう領分の話ではない。気質と経験則から成る、一種の思想だ。
 おぼろげに希望が見えても、実現しないイメージを前もって視ておけば、傷つく事がない。
 そうやって自分を守ってきた。

 ……でも。
 それでも……と、僕の目は、自然と彼女を追う。
 いつの間にか、教室にいた親達はどこかに行ってしまっていて、代わりに固そうなスーツを着た若い教師が黒板の前に立っていた。
 彼は手短かに挨拶をすると、手元のファイルを確認しながら、名前を読み上げていく。その度に、教室の前の方の席の子から、順番に手を挙げて返事をし出した。
 胸が高鳴る。
 ずっと、知りたかった事が、もうそこまで近付いて来ていた。

「……かやしま、せりなさん」
「はい!」

 その、耳に心地良い声が、希望は叶わない、期待は外れる、そう思い込んで生きてきた僕を、確かに変えていったのだ。


 * * * * *


「たまには、どこかに遊びに行ったら?」
 芹那の言葉に、僕は顔を上げる。
 寂しそうに笑う彼女は、時折こうして僕を突き放そうとする。
「ここが一番好きなんだ。せりちゃんといるのが、一番楽しい」
 僕は彼女の手元に視線を戻す。
 昨日買ってきた水性ネイルの新色は赤瑪瑙(メノウ)。時期的に半年前に買った天鵞絨(ビロード)色と金ラメを使って、クリスマス風ネイルに仕上げてあげていた。
「……うん、やっぱココのが一番塗りやすい。凄くキレイに色がのるし、ムラもないし」
 夢中になっている風を装って、話題から遠ざかろうとする僕に、芹那は少しだけ苦い顔をした後、
「……かわいい」
 出来上がった右手の方をかざして見ながら、そう呟いた。
 傍らには、読みかけの文庫本と、いつの間にか大量に増えた水性ネイルの入った缶。
 ここから動けない彼女の娯楽の全てだ。
「あんなにセンスなかったのにね」
 クスクスと笑う芹那に、
「ひどいなぁ」
 僕は苦笑した。
 満足にオシャレも楽しめないストレスを爆発させた彼女に、初めてマニキュアを買ってきたのが入院してすぐの頃。
 ネイルなら自分からも見えるし、その度に気持ちも明るくなるのでは、というショップの店員さんのアドバイスは見事に的中した。
 ところが、溶剤の臭いや、乾くまでの時間や、落とす手間などに加えて、細かな作業が困難になった彼女の代わりに僕が塗ったら、ムラは出来るわ大いにはみ出すわで、それはもう悲惨な事になってしまい、二人で大笑いしたのだ。
 そこから色々と探して回り、気軽に塗れて仕上がりも良く、お湯で落とせる水性ネイルに落ち着いた。
 ある日、芹那は、
「じゃあ、今日はこうちゃんのオススメで」
 と、ニヤニヤしながら手を差し出した。
 僕はそういうものに疎かったので、多種多様なネイルの中から数本選んで塗ったものの、ヘンな色の取り合わせになってしまって、またも大いに笑われてしまった。
 それでも、
「うん、これが今日のこうちゃんチョイスか」
 と言って、「塗り直そうか?」と打ち出した僕に首を振って見せると、そのまま大事そうに眺めてくれていた。
 僕はそんな芹那が、たまらなく愛おしいと感じた。

「……私がいなくなったら、こうちゃん誰にネイルするのかな」
 最後に、左手の小指にラメを施そうとした僕の手が、ピタリと止まる。
「……誰にもしないよ」
 目を合わせず、なるべく動揺を気取られないように答えた。
「誰にも?」
「うん、誰にも」
「私だけ?」
「せりちゃんだけ」
「……そっか」
「………………」
 少しの沈黙の後、
「…………出来たよ」
 僕はハケを小瓶に戻す。
「うん、ありがと」
 彼女は、赤と、緑と、金に彩られた両手の爪を眺めて、
「キレイ……」
 透明な声で一言だけ、そう言った。


 * * * * *


 小学四年生になる頃、芹那と僕は図書委員になった。
 この頃の僕はまだ、自分から進んで行動する勇気はなく、偶然に委ねるクセに便り続けていたので、クジ引きでなければ、彼女と一緒の係になる事などなかったかも知れない。
 そんな消極的な僕でも彼女と話すことが出来たのは、ひとえに彼女が誰に対しても分け隔てなく接するような、奇特な性格の持ち主だったからだろう。
 相乗効果なのか、芹那の明るくさっぱりとした性格に基づいた言動は、誰も彼もを心地良くさせ、それがまた彼女が活き活きと出来る環境を作り出すのだ。
 それらの歯車がしっかりと噛み合った結果、小学校という舞台において、彼女は間違いなく主役そのものだった。
 そんな子と、いわゆる端役の様な僕と接点が出来るのは、一見不自然にも感じるが、〝誰とでも仲良く話せるせりちゃん〟だからこそ、僕のように内向的な子にも優しくしてくれたのだろうと思う。
 今なら理解できるが、それはある意味、人気者というポジションが作り出す余裕だったのだ。

 それは、図書委員の仕事で読書ランキングの集計をしていた時のこと。
 二人で黙々と手を動かしながら、
「あ、私この前〝ベルロード〟買ってもらったんだけど」
 不意に振られたのはゲームの話で、彼女にとっては些細な気紛れに違いなかった。
「ベルロード? ベルベット・オーバーロード?」
「あ、そうそう、それ!」
 嬉しそうに人差し指をツン、とこちらに向ける芹那は、嬉しそうに笑った。
「めっちゃ面白いんだけどさ、ムズくない? あれ」
「あぁ、……ゲームパッド使った方が操作ラクかも」
 僕は話しかけられたことで浮かれている自分をグッと押し殺して、平静を装う。
「え! そーなんだ⁉︎」
 身を乗り出すせりちゃんの食い付きの良さに、ぐっと背中を引きながら、嬉しくて危うくニヤけそうになった。
「つ、ついでに言うと、設定でジャイロセンサー少し弱くすると照準付けやすくなるよ」
「へぇ~! 帰ったら試してみる! あー、でもウチ、ゲームパッド持って無いんだよー……」
「そうなんだ? 一個あると、アクションゲーやる時に良いよ」
「やっぱそうかぁ……ゲーム実況の人もよく使ってるもんね」
「〝照犬〟とか? 純正品高いけどね」
「だよねー。てか、ゲームソフトじゃないモノ買って貰うのって、なんかもったいない感じしない?」
「あ、それ分かる」
「でしょー⁉︎」
 手を動かし続けながら、僕らはずっとゲームの話をしていた。
 ……コロコロと笑う彼女と、普通に会話が出来ている。それが嬉しくて、この時間がずっと続いて欲しいと思った。

 それから僕らは、タイミングさえ合えばマンガやアニメ、ゲームの話をするようになった。
 芹那が僕と話す時、そんな話題ばかり振るのは、他の友達との会話では、そういった方向の話を出せなかったからなのかも知れない。
 実際、いつも一緒にいる女子のグループでは、僕がよく知らないアイドルグループの推しメンの話をしていたし、スポーツ好きな男子たちとはバスケの地元チームやスポーツ系マンガの話をしていた。
 彼女は分かりやすく、相手によって遊び方や話題を分けているようだった。
 それはごく自然な事なのだろうけど、人付き合いが苦手で、話題や遊びの幅がほとんどないような僕からしたら、とても器用な事のように見えた。
 そして、今更だけど、あの公園で遊んだ日の事を覚えているのは僕だけで、彼女からすれば、〝こうちゃん〟は小学校に入ってから初絡みして出来た友だち、という扱いのようだった。
 顔を合わせる度に挨拶する仲になって、放課後に女子グループと遊ぶ傍らで、公園にゲームを持ち寄って遊んだりもした。
 僕には、気取った態度を取る必要もなく話せる相手が少なかったから、彼女の健やかな性格には大いに救われた。
 彼女は昔と変わらず、一緒にいて凄く楽しいし、心地良い。
 拙い気持ちではあるけど、その風合いは、きっと初恋と呼ばれるようなものだ。
 気さくで可愛い女の子の友達として、僕は彼女の事を凄く気に入っていたし、とても好きだった。
 本当は、もっと、もっと仲良くなりたかった。
 でも、その時はまだ、自分自身の本心に気付こうとしていなかったのだ。

 この時、自分から彼女に気持ちを告げていれば、
 ……なにか、変わっていたのかも知れないのに。


 * * * * *


「せりー、新刊持ってきたよ」
 病室に入るなり、僕は数冊の文庫本を詰めた紙バックを掲げてみせる。
 ベッドの上からこちらを一瞥した芹那の表情は、妙に重かった。
 ……嫌な予感がする。
「ありがと……」
 彼女は礼を言ったきり、窓の外に視線を移し、押し黙ってしまった。
「……どうしたの?」
 椅子に腰掛けながら、僕は病室のあちこちを見やって、彼女の地雷に触れたかも知れないものを探す。
 ゲーム、本、ネイル、ブルーレイプレイヤー、花……
「ううん、なんでもない」
 彼女は無気力に答える。
 ……なんでもないはずが無いのは、見て明らかだ。
「……大丈夫だから、言ってよ」
 僕は、なるべく刺激にならないように気を付けながら、そう切り出した。
「………………」
 芹那は、シーツに目を落としたまま、僕の方に顔を向ける。
「……映画」
「映画?」
「映画化するんだって。〝天秤城の指環〟」
 視線を泳がせながら言う芹那に、僕はドキリとした。
 僕が先月持ってきた小説の中に、確かそんな題名のものがあった。
 表紙に巻き付いていた帯には確かに映画化の件が書いてあって、僕は家に持ち帰ってから、本屋でかけて貰ったブックカバーを外し、他の本と一緒に丁寧に帯を外して回ったのだ。
 今の芹那にとって、未来の話は厳禁だ。
 僕はそう思ったからこそ、〝予定〟の匂いがする物は全て自宅で検閲し、取り除いてから、この病室に持ち込む事にしていた。
 それでも、100%除去する事は出来ない。
 仕方のない事だとわかってはいたが、今回は凄まじく当たりどころが悪かった。
 よりにもよって、原作は彼女の好きな作家の作品で、公開は来年の夏頃、しかも……
「主演はバニステのYUKITOなんだって。……なんか、外で人が話してるの、聞こえてきちゃってさ……」
 ……彼女の好きなバンドのギターヴォーカルが主人公を務めるのだそうだ。
 芹那は、参ったな、という顔をしながら、少し目に涙を浮かせた。
「そう……」
 そんな話、へこむに決まってる。
 言い訳をするつもりはないけど、これは僕の詰めが甘かった訳でも、なんでもない。
 真実、単純に間が悪かったのだ。
「ソフト化するまで、頑張れるかな……」
「………………」
 僕は無言で彼女の指先を握った。


 * * * * *


 中一の夏休み、芹那が三年生の先輩と付き合いだしたと聞いた。
 まだ中身が子どもだった僕には、その意味が分かっていなくて、一緒に遊んだり喋ったりはしていても、ただ、ずっと淡い想いを寄せているだけで何もしてこなかった自分には、その現実を不愉快に感じる資格もないのだと思い込もうとしていた。
 呆れ返る程、未熟だと思う。でも、その時は自分で作り出した性格の壁に本心を邪魔されて、どうにも出来ないと思い込んでいたのだ。
 僕らは一緒に過ごす時間が無くなった。
 それが寂しかったクセに、僕は、本当に、何も変えようとしなかった。
 ……後悔しても遅いけれど。

 芹那について悪い噂が立ち始めたのは、それと同時だった。
 バスケ部に所属していた三年の結城先輩は女子達から人気があったので、彼の事が好きだった他の人から強く妬まれてしまったのが原因だろう。
 芹那に片想いしていた先輩が彼女に告白してきたのが真実だと後に聞いたが、当時は部活終わりに誰も居なくなった倉庫で彼女が自分から下着姿になって先輩を落としたのだという話が広まっていた。
 明らかな中傷といじめに、学校側もしっかりとした対応は取ったのだが、生徒達の心の中に巣食った闇はすぐに払拭できる物ではなく、問題が落ち着いたとされた後も、彼女に纏わる非道なイメージは残り続けてしまった。

 僕は初めて、人間が怖いと感じた。

 嫉妬という感情が他人を攻撃し、自分達の上位存在が絶対の裁定を行った後も、そこに悪意は溜まったままだったのだ。
 そして、僕は、あれほど好きだった相手が苦しむような目にあっていても、『彼女を守るのは、付き合ってる先輩がすべき事』、『他人の僕には何も出来ない』と、つまらない言い訳を自分に立てつつ、『何もしなかった』のだ。
 ……その、僕の選んだ非情さが、僕を苛めた。

 あんな事が起こらなければ、僕が何か行動を起こしていたら、彼女は人の悪意に曝され続ける事なく、幾分か健全に生活する事ができたのかも知れない。
 だが、そうならなかった。
 芹那は、この一件が切っ掛けで不登校になり、彼女を支え切れなかった先輩は、あっさりと身を引いて、バツが悪そうに部活に打ち込み出した。
 僕は静かな怒りを感じながらも、彼女に声を掛けに行く事もしなかった。
 自分から彼女に近づいていけば、また良くない噂が立つかも知れない。……そんなのは言い訳だ。でもその時は本気でそう思って、何も出来なかったのだ。

 やがて受験の時期に差し掛かり、それまでつまらない悪意を振り撒いていた連中も、自分の事に必死に成らざるを得なくなった。
 彼女の話をする者はぱたりと居なくなり、僕は同じ小学校出身というよしみから、彼女に課題や手紙を持っていく係になった。
 初めて訪れた芹那の家は、築三十年くらいの古いアパートで、昔のキラキラした彼女のイメージとは、かなりかけ離れていた。
 インターホンを押すと、授業参観や運動会で見かけた彼女のお母さんとは別人にしか見えない女の人がドアを開けて覗いてきたので、僕は何も言えず、ただ会釈して手紙を渡した。

 数ヶ月繰り返す内、僕は女の人……芹那のお母さんと少しずつ喋るようになった。
 小学生の頃、よく遊んでもらった事を伝えると、彼女は鼻を啜って、『ありがとう』と言ってくれた。
 胸にずきりと、痛みが走った。
 僕の方こそ、と言おうとしたのに、何故か言葉が出なくて、

「僕、基本ヒマなんで……。なんか困ったら言ってください」

 本当に、つまらない言葉だけ残して、頭を下げた。


 * * * * *


「もしも、さ……」
 不意に芹那の声がして、僕は読み掛けの文庫から目を上げた。
 白いベッドで仰向けになっている彼女は、ぼうっとした目で天井を見ている。
 眠っていると思っていたけど、目を瞑っていただけだったのかも知れない。
「━━もしも、私とこうちゃんが逆の立場だったら」
「うん」
「しんどくて会いに来れないかも」
「そうなの? 寂しいな、それ」
 僕が言うと、彼女はクスリと笑った。
 痩せた頬には、微かに皺が寄っている。
「いや、でも、絶対今のせりちゃんの方がしんどいよ。すごく頑張ってるじゃない」
「そうかな」
「そうだよ。僕には出来ないと思う」
「でも、私しょっちゅうキレてるじゃん」
「つらいんだから、当然だよ。僕なら平気だから、気にしないで」
 苦笑する僕を、芹那は少し驚いた顔で見た。
「それ! それだよ! ……私だったら、怒鳴られたらもうムリ。ここに来れない」
「まぁ、僕だったら……」
 ちら、と彼女の表情を確認する。
「……せりちゃんに怒鳴ったりしないかも」
 その言葉に、彼女頬を膨らませる。
「ひどーい! それじゃ私凄い怒りっぽいみたいじゃん‼︎」
 笑いながら反論する芹那に、僕は、「ごめんごめん」と微笑み返した。
「でも、こうちゃん私にずっと優しいし、確かにそんなトコ想像出来ないなー」
 芝居じみた腕組みポーズで「うーん」と唸る芹那に、僕は子どもの頃の『何もしなかった』という罪の味を思い出していた。
 全てでは無いにしても、あの苦い思い出が今の僕を幾らかを支えているのは事実だ。
「あの……それでね、その……何が言いたいかっていうと……」
 そう言ってもじもじする芹那に目を戻す。
 なんだか、こんなに表情が豊かな彼女を見るのは、とても久し振りな気がした。
「……ありがとう、こうちゃん。……いつも、会いに来てくれて」
 照れ臭そうに言った彼女の手を、いつものように優しく握る。
 微かに握り返してきた彼女の指は、少しだけ温かくて、僕は何故か泣きそうになった。
 きっと、今の彼女の言葉の中にあった空白には、何か良くない、弱音のような含みがあって。彼女はつい口をつきそうになったそれを、僕に聞かせまいと呑み込んだのだろう。
 その優しさが、目の奥に沁みた。

「大好きだよ、こうちゃん……」
「僕も。……大好きだ」

 ………………。
 伝えたいけど口に出来ない気持ちも、
 吐き出したいけど伝えてはいけない言葉も、
 何もかも噛み殺して。
 僕らはただ、好きだという気持ちだけを、口にした。


 * * * * *


 高校に入った僕は、芹那の事を忘れようとしていた。

 中三の夏頃まで、僕は度々彼女の家を訪ねていた。
 部屋に篭り、可愛げのないジャージやスウェットを着て、昼夜逆転の生活をしていた彼女だが、たまに顔を見る事が出来て、その時は買って行ったジュースやお菓子を一緒に食べながらアニメの話をしたり、ゲームで遊んだ。
 芹那の普段の状態は、表情も沈み切っていて、何だか別人に感じる事もあったけど、楽しくなってくると昔の様に笑顔をパッと浮かべてくれる。
 僕は、それが嬉しくて、彼女の部屋に足繁く通った。

 でも、結果的に、彼女は卒業式に出る事が出来なかった。

 久しぶりに会った時と比べて、彼女は話もするようになったし、笑う機会も増えていた。
 でも、だからと言って、全てが元通りになるわけではなかったのだ。
 当然と言えば、当然だ。
 しかし、その時に感じた無力感に、僕は耐えられなかったのだ。
 幼い時の思い出と、あの事件の後ろめたさとが、僕に『何とかしろ』と急き立ててくるのに、結局何も出来なかった。
 芹那のお母さんは、僕に何度も感謝の言葉をくれたが、僕にはそれが逆に辛かった。
 僕は結局、高校入学を口実にして、逃げるようにして彼女と距離を取ったのだ。

 暫くして、中学の同級生から芹那の近況を聞く機会があった。
 彼女は高校には通わず、アルバイトをしながら高認試験と大学入試対策の予備校に通っているらしかった。
 もともと頭が良かったのだから、お母さんもきっと、彼女にちゃんと勉強させてあげたかったんだろう。
 自分の事を棚にあげながら、僕は身勝手にも、少しだけ安心していた。
 でもそれは、彼女の人生が、元あるべき軌道に戻っていく気配を感じて、『もう大丈夫なんだ』と、早々に安堵しただけだったのかも知れない。
 
 その後は嘘か本当か、アルバイト先で交際を巡って泥沼な状態になっている、といった類の噂が聞こえてくるようになった。
 彼女が相手の家に入り浸ったり、複数人と交際して、その相手同士が傷害事件レベルの殴り合いをした、といったような話だ。
 僕は漠然とした不安を抱えながら、それでもいつかの自分と重なるような、見て見ぬふりを続けてしまっていた。
 当時の芹那がどこまで酷い生活をしていたのか、僕には想像もつかないが、無力な自分にはどうする事もできないのだと、本心に蓋をする事でやり過ごそうとしていたのだ。
 間違いなく、それは卑怯な手だった。


 * * * * *


「男の人って損だよね」
 結んだ紐が解けていくような、力の無い芹那の声に、僕は同じくらい小さな声で「ん?」と訊ね返す。
「子ども産めないじゃん」
 こちらを向いて、微かに口角を上げる彼女の真意が理解できない。
「……そうだね」
 僕は穏やかな顔だけ作り、判ったようなフリをして、頷いた。
「立場が逆だったらさ……」
 芹那はいつかと同じような話題を持ち上げる。
 その時と、全然違うニュアンスなのは、きっと僕の気のせいじゃ無いだろう。
「……私、こうちゃんの子どもを産むのにな……」

 その、凄く切ない〝もしも〟の話に、僕は思わず床に目を向けた。
 熱を感じる目の奥から、涙が溢れて、止まらない。

「あり、がとう……」
 咽喉が詰まって、きちんと喋れない。
 彼女にだけは、涙を見せたくなかったのに。
 僕が泣いてる事に気付くと、芹那は、
「ごめんね、ひとりぼっちにさせちゃうね」
 優しい声で謝った。
「……ううん……」
 僕は首を振る。
 でも、彼女が言う事は事実になる。
 それは、僕も彼女も知っているし、ずっと前から覚悟していた事だ。
「僕がせりちゃんといた時間は消えない。ひとりぼっちでも、大丈夫だよ」
 僕は、すぐにバレるような嘘を吐いて、それはいなくなってしまう芹那の為に言ったのか、僕自身を慰める為に言ったのかも判らなくて……。

 ただ、その時は、もうカタチに残す事が出来ない僕ら二人の気持ちを、ただただ惜しみながら、泣く事しか出来なかった。


 * * * * *


 大学卒業間際。
 就職も決まらず、フリーターで春を迎える事が確定していた僕は、憂鬱な日々を過ごしていた。
 滅多にない母から電話が掛かってきたのは、そんなある日の夜だった。
 僕は、今後どうするつもりなのかを問い詰められるのだろうと思った。
 言い訳でも何でも答える準備をしなくてはならない事にストレスを感じて、適当な言葉が浮かぶまで、ぼんやりとしながら、電話は無視していると、今度はメッセージが入った。
 芹那の母が連絡を取りたがっているから、僕のIDを教えても良いか、という内容だ。
 どうして今頃……という疑問が脳裏に浮かんだ直後、僕の胸は言いようの無い不安に包まれた。

『急なご連絡、申し訳ありません。ご無沙汰しております。中学の時にお世話になった、茅嶋芹那の母です。』

 その書き出しから始まった芹那のお母さんが送ってきたメッセージは、芹那の中卒後のあらましが書かれていた。
 アルバイト先で出会った交際相手との問題や、大学受験を諦め、キャバクラに勤め出した事、お酒が原因で何度も病院に運ばれた事……。
 それは、今思い返しても酷く辛い内容で……僕は目を通しながら、終始口元を押さえていた。
 全て読み終える時には、抱え切れない後悔に押し潰されてしまいそうで、返事を書こうにも、頭の中はぐちゃぐちゃになったまま、何一つ纏まらなかった。
 何をどう書いたらいいのかも分からず、何かを書き出しては何度も消して書き直し、結局、明け方までかかって、僕は二人と会って話す事を提案する文だけを送った。

 僕は……芹那の事を、どう思っているんだろう?
 僕に判るのは、その答えをはっきりさせてから、彼女に会うべきだという確信だけだった。


 * * * * *


「……ほっ…………けほ…………」
 赤ん坊のような、小さな空咳。
 芹那の眉間に微かな皺が寄って、すぅ、と消えていく。
 息を止めて見守っていた僕は、彼女が穏やかな寝顔に戻った事を確認して、音を立てないように深呼吸した。
 肺炎が治って一ヶ月。
 彼女の体力は、見る間に落ちていく。
 眠っている時間が増えて、僕は医者から聞きたく無い話ばかりを聞かされていた。
 希望なんてない。
 後には何も残らない。
 その真っ白な時間を、両親も妹も黙って見過ごしてくれていた。

 ああして、眠っているようにしか見えないけれど。
 この時間は、彼女が僕にくれた、覚悟を決めるまでの猶予なのかも知れない。

 ……そう思うと、一秒でも長く、彼女の隣に居たかった。
 何十年も先、僕が老けて死ぬ瞬間まで、彼女の姿を色褪せないまま覚えておけるように。
 僕は、ただ黙って、彼女との思い出を胸に焼き付けていた。


 * * * * *


 数年振りに訪れた芹那の実家は、相変わらずの寂しさで、懐かしさよりも当時の悲しい感情を思い出させた。
 冷たいコンクリートの階段を登って行くと、どこからか言い争う声が聞こえてきた。
『何で勝手な事したのッ⁉︎』
 息を荒げて叫ぶ声が芹那のものだと、最初は分からなかった。
『アンタって、いっつもそう‼︎ 私に言わないで、全部勝手に決めて……‼︎』
『落ち着いて、せり……。ごめんね、わたしが……私が悪かったから……』
 彼女の家のドアの前、中から漏れ聞こえてくる、一方的に怒鳴りつける声と、それを誰かが弱々しく宥めているようなやり取りに、僕は思わず息を呑んだ。
 その言葉の端々に、僕の名前が混じっていたからだ。
 芹那は、今日僕がここに来ると知らされていなかったのだろう。
 でも、と唇を結ぶ。
 震える指でインターホンを押すと、部屋の中の言い合いはピタリと止まった。
「………………」
 緊張で心臓が跳ね周る。
 軽い足音が、近づいてくる。
『………………』
 ざり、という砂を擦る音で、扉のすぐ向こうに誰かが居るのは判る。
 でも、その誰かはこちらの様子を窺うだけで、沈黙したままだった。
 僕は意を決して、
「せりちゃん……?」
 短く呼び掛ける。
『………………』
 ……返事は無い。
「そこにいる? あの……ごめん、勝手な事して」
 扉の真ん中の覗き穴を意識してしまって、どんな顔をしたらいいのかも、判らなくなった。
『謝らないで、大丈夫だから』
 少し、涙が混じったような声が返ってきて、僕は胸が締め付けられた。
『……こうちゃん、だよね? 久しぶりなのに、ゴメンね』
「……会って、話さない? こんな……家の前まで押しかけておいて、なんだけどさ」
『………………』
「せりちゃん?」
『………………ゴメン。無理』
「………………」
『今日は帰って。私もまだ、気持ちの整理が追いついてないし』
「でも……」
『お願い。……お願いだから、こうちゃん、帰って』
 それは、悲痛な叫びを、理性で必死に押し潰したような声だった。
 今ここで僕が何を言っても、彼女はこのまま耳を塞いでしまうだろう。
 彼女の傷、その真新しいかさぶたを剥がし続けるような事は、僕もしたくない。……でも、時間に庇わせ続ける事は、とても危険だと感じた。
 ……だから、僕は、

「わかった。……一回だけ、顔見せてよ」

 引き下がるフリをして、粘る事にした。
 それは、昔の僕には出来なかったような、狡い手段だ。
 ……返事は無い。
 でも、断って、追い返すのなら、それを言えば良いだけだ。
 ……迷っているのだろう。それなら、待つ価値はある。

 暫くして、カチャリ、と控えめに開いた扉の陰に、こちらを覗く彼女の姿があった。
 数年振りに目にした芹那は、すっかり見違えていて、僕のような日陰者には一生縁が無さそうな美しい女性になっていた。
 ライトベージュのノースリーブニットに、ツヤのあるキャラメル色に染まったセミロングの髪。
 露わになった肩と膝がとてもきれいで、……何故か、それが少し悲しかった。
「……久しぶり、せりちゃん」
「……こうちゃん」
 昔のように呼び合う僕らは、お互いの名前以外がすっかり変わってしまっていて、知っているはずの相手なのに、どう接したらいいか判らない、歯痒い時間が流れていくのを感じていた。
 見つめ合う内に、戸惑いが強くなっていく。
 僕は、
「やっと顔が見れた」
 なんだか、心底ほっとして、そう呟いた。
 その一言が、芹那の何かに触れたのだろう。
「こうちゃん!」
 彼女は扉を跳ね除けて、僕の胸に飛び込むと、嗚咽を漏らした。
 迷いながら、恐る恐る彼女の背中に手を回す。
 泣いてしゃくり上げる彼女の細い身体が、人と触れ合うのが苦手な僕の腕の中で小刻みに跳ねた。
 色んな感情が胸の内に湧き起こっているのに、吐き出せる場所も無く、ただただ嵐の様に吹き荒れている。
 それは、こんな僕よりも、はるかに傷付いて痛んできた彼女の苛酷さが、肌を通じて流れ込んできたような……そんな錯覚のせいだった。

 もう、迷う事はしない。
 僕は、芹那を守っていこうと決めた。


 * * * * *


「………………」
 愛おしげに見つめてくる芹那の頬に触れる。
 ゆっくりと、気持ちが温まっていくように。
「………………」
 話せる日でない時は、とにかくこうして過ごすようにしていた。
 言葉ばかりが、気持ちを伝える手段じゃ無い。
 僕は、彼女にそう教えられた。
 それを、返していくのが、今の僕にできる事なのだと思った。
「………………」
 何も言わずに、頬をさする。
 潤いを無くしてしまった彼女に、少し艶が戻って来たような気がした。
 彼女は僕の為に、僕は彼女の為に生きている。
 ただ見つめて、触れ合って、僕らは一番大事な事を確かめ合う。
「………………」

 この辛くて、痛くて、暖かくて、幸せな時間が、今は何よりも愛おしい。


 * * * * *


「同情?」
「違うよ」
「じゃあ、……なに?」
「………………」
「……答えられないんじゃん」
「……難しいんだ、その質問の答え」
「どういう事?」
「好きだったんだ。僕は、せりちゃんの事が。……ずっと、長い間」
「………………」
「だから、だと思う。今感じてるのは、後悔の方がずっと強い」
「後悔って?」
「僕は何もしてこなかった。大好きな子の為に、何も」
「そんな事……ないでしょ」
「せりちゃんが辛かった時、傍に居ていいのか、ずっと迷ってた。……でも本当は、責任を負うに足る男じゃないって拒絶されるのが、怖かっただけなんだと思う」
「………………」
「……引いた?」
「……まぁ、少し」
「ふふ……」
「……フフ」

「……まぁ、それで、日和って、逃げたんだ。大丈夫って思い込んで、僕自身の問題じゃないからって言い訳して」
「……でも、それって、やっぱり同情じゃない?」
「そうかな……そうなのかな……」
「死にかけの女に、情けを掛けに来てくれたんでしょ?」
「そんな言い方……。芹那は今でも僕の憧れなんだ」
「こんなに落ちぶれたのに?」
「芹那は何も悪くない。それに、同情なんて……そんな貧しい理由だけで芹那に会いに来るほど、僕は軽薄じゃないよ」
「…………うん」

「芹那は……」
「ん?」
「…………いや、なんでもない」
「…………私は、今はまだ、半分かも」
「半分?」
「……ごめんね。正直に言うと、ヤケになって、それでも話を聞いてくれそうなの、こうちゃんだけだと思ったから」
「………………」
「だから、利用したのは、こうちゃんじゃなくて、私の方。……今日だって」
「…………それでも。……僕は後悔してないよ」
「悪い女だよ?」
「良いとか悪いとかじゃない。芹那は……僕の大切な人だ」
「………………」
「確かめよう。嘘か、本当か」
「…………信じて、いいの?」
「君の傍にいたい。これから先、ずっと」
「ずっと、って……。私、先が無いんだよ? それ、判ってる?」
「判ってるよ。……その、芹那の貴重な未来を、僕に分けて欲しい」
「………………うん」

 ………………。


 * * * * *


「たんぽぽ……」
 掠れる声で、芹那が呟いた。
 ゆらりと、花瓶の横に添えられた黄色い花に手を伸ばす。
 僕はそれを取って、そっと渡してあげた。
 慈しむような目でたんぽぽを見つめながら、
「むかし、ね…………」
 ぽつりと、彼女は漏らす。
「うん?」
 僕は彼女に顔を近づけて、その小さな声を拾おうと、耳を傾ける。
「わたし、おままごとが好きで」
 虚ろな表情のまま、彼女が口に出した言葉に、僕は目を見開いた。
「……ある日、名前も知らない男の子が、たんぽぽをくれたの」
「せり…………」
「いま、フッて……それを思い出して……。凄く、嬉しかった」
 こちらを見る芹那の目は、
「……あぁ、」
 はっきりと確信をもっていた。


「あれって、やっぱり、こうちゃんだったんだ━━」


 僕は、シャツの袖口を目に当てて、声を殺しながら泣いた。

「せり、ちゃん…………」
「うん…………」
「やっと、返せる」
「……うん」

 僕はそっと身を乗り出して、

 芹那に、くちづけをした。


 * * * * *


 高い煙突を、見上げている。
 僕の心は、透明で。
 あの日から、感情を失くしてしまったみたいだ。
 曇天に吸い込まれていく煙は、見ていると心臓が潰れてしまいそうになるのに……。
 ……なぜか、目が離せない。

「晃樹くん」

 その声に振り返ると、黒い服に身を包んだ女性が、真っ赤に目を腫らしたまま、こちらを見ていた。
 正直、この人は苦手だ。
 ……あの顔を見ていると、亡くした人を思い出すから。
「これ」
 その人は、黒いハンドバッグの中から、白い何かを取り、こちらに差し出した。
 それは、封筒で、
 差出人は━━

「せりな……」

 僕の視界が、熱と共にぐにゃりと歪む。

 ……泣いているのか、僕は。

「あの子に頼まれていたの。これを晃樹くんに渡すようにって」
 僕は、震えながら、その封筒を受け取った。
 ……芹那の字だ。
 もう、ずっと前から見ることが出来なくなっていた、彼女の。
「あの子と、最後までいてくれて、ありがとう」
 僕の前で、その人は……芹那の、お母さんは、泣いていた。
 ハンカチで目を拭いながら、深く頭を下げて、彼女は去って行く。
 残された僕は、封筒を開け、便箋に涙を落とさない様に気を付けながら、目を通した。

 ………………

『こうちゃんへ

 これを読むのがいつ頃になるのかわからないけど、私はそんな日がずっとこなければいいな、って思いながら、今これを書いています。

 大丈夫?
 私のワガママに付き合い過ぎて、身体壊してない?(笑
 こうちゃんは優しいから、〝最後まで〟って言ったら、ホントに最後まで一緒にいてくれてるんじゃないかと思います。
 だとしたら、コレを読んでる今、きっとすごくツラいよね? …そうでもないかな?
 私の事、いつも〝好き〟って言ってくれてるこうちゃんだから、(疑うワケじゃないけど…)その分、いっぱい落ち込むんじゃないかなって、すごく心配です。
 今まで、散々ヒドい事も言ってきちゃったし、こうちゃんからすると、今さらって思うかもしれないけど、私はこれを書いてる今も、こうちゃんには幸せになって欲しいって、本気で思ってるんだよ。
 私はどうせ死んじゃうんだから、後の事は分かりようも無いんだし、こうちゃんが好きになるような人がいたら、その人と幸せになって欲しいなって思います。
 …でも、私が生きてる内は、目いっぱい私の事好きでいて欲しいかな。(笑
 こうちゃんに愛されて、私はきっと幸せな最後を迎えるんだと思う。
 ううん、絶対そうなるってわかるよ。
 だから、その時になったら伝えられないかも知れない言葉を、ここに残しておこうと思います。

 こうちゃん、私のこと、愛してくれてありがとう。
 私も、こうちゃんのこと、愛してるよ。

 優しいこうちゃんを独り占めするのは、私が生きてる間だけにします。
 後は、こうちゃんの好きに生きてね。

                       芹那 』

 ………………

 手紙を濡らさない様に、僕は溢れ出す涙には一切触れずに。
 彼女の言葉を、大事にしまい込む。
 それは、もう二度と返ってこない時間を、未来に繋ぎ止めてくれる、大切な思い出。
 胸にしっかり抱き締めて。
 抑え切れない気持ちが、声になって。
 僕は、空に向かって、

「━━━━━━━━━━」

 喪失ったものの大きさを嘆くように、
 ただ、ただ、大声で啼いた。

 ………………。

 …………。

 ……。

「芹那…………」

 煙突の煙に、お別れを告げる。

 たんぽぽの綿毛が風に乗って舞うように。

 彼方に消えて行くそれを、いつまでも見守っていた。

                            了
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