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豆腐小僧・邪
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豆腐小僧・邪
笠を被り。
笑って駆ける。
胸の前に、大事そうに皿を抱え。
その皿には、真白き豆腐が載っている。
うふふ
あはは
笑い、奔る。
皿の上の豆腐が、ふるふると震える。
その様が楽しくて仕方ないと云うように。奔る、震える、笑う。うふふ。
甘い、大豆の匂い。涎が垂れる。舌舐めずり。あはは。
その、繰り返し。
小僧の姿を見た町民は、気味悪がった。
気触れの童には、同情も憐憫も、掛ける義理は無い、と云わん許りに、顔を顰めたり、見ない振りをした。
あはは
うふふ
黄昏時、嬉しそうに駆け回る小僧は、忽ち噂になった。
如何にも様子がおかしい、と囁かれ出したのは、季節が変わり、巡り、梅の花が二度散ってからだ。
小僧は、いつ迄経っても小僧だった。
すわ、もののけか──。
誰かが、そう嘯いた。
妖怪、豆腐小僧。
豆腐一丁を載せた皿を手にした童子。
何処からとも無く現れ出でては、何処へなりと去って行く。それだけ。
しかし、それが、却って不気味である。
悪さの一つもしようものなら捕まえて折檻せんと構える者達を尻目に、小僧は豆腐を手に、笑って奔る。奔る。奔る……。
陽が傾き出すと現れ、通りを駆け抜けて──真実、只、それだけ。
もののけ奴……何を企む。
駆けて行く背中を見て、伸びた月代をひと撫でし、飯田藤介は呟いた。
余所の郷から流れてきた、日日を活計の傘作りに明け暮れ過ごす、やや朴訥とした元御家人である。
藤介は思う。人は、判らぬモノが畏ろしい。
その、畏ろしいモノに対して、人が出来ることは二ツだけ。目を逸らすか、排するかだ。
豆腐小僧は、徹頭徹尾、何から何まで判らぬ。
理由も目的も、所作の意味もだ。
何故豆腐なぞを抱え、何故奔り廻り、何故笑うのか。皆目判らぬ。判らぬから、怖い。
只只笑って駆けるだけに見える小僧ではあるが、その肚で善からぬ何事かを企んでいるのかも知れぬ。
その疑いに、証拠は無い。
だが、疑わぬ根拠も無い。
つまり、正確に云えば、藤介は小僧が畏いのではない。
小僧に感じる不安が畏ろしいのだ。
そんな藤介の不安を余所に、妖怪は一向に馬脚を顕さなかった。
そこらの童子でも、蜻蛉の尻に藁を括って玩具にしたり、夕餉の支度をする母親の背中に蛙を入れたりするものだが、豆腐小僧は、そんな悪戯すらする気配がない。
何せ、手にしているのは豆腐だ。
それに、両手で大事そうに豆腐の皿を支えているものだから、あの様子では蜻蛉も蛙も捕えられぬであろう。
豆腐に鎹、とも云う。……豆腐なぞ、何にもならぬ。
そう──もしかしたら。
やはり、企みなど無いのやも知れぬ──。
顕す馬脚など、始めから無いのであろう。
豆腐を抱えて駆ける小僧の姿に見慣れた頃、藤介はそう思うようになった。
そうして、ひとたび鼻から息を漏らし、警戒を解いてしまえば何と云う事も無い。大根を狙う烏よりも、干物に近づく蠅よりも、豆腐小僧は無害なのだと実感し、胸中の霧は嘘のように晴れた。
訥訥と、駆けてくる足音。
あはは
うふふ
害無しと識れば、珍しき虫や鳥獣と差して変わらぬ。やがて面白がる程の余裕も湧いた。
やがて、巷では。
白豆腐の拍子木。豆腐で歯を痛む。豆腐に釘。豆腐に腕押し……。
……何でも勘でも、豆腐豆腐。
人々の口からは、小僧に肖る如く、豆腐の二文字が矢鱈と聞こえるようになった。認識を改める事で、異質なるモノとの距離を量る、ひとつの智慧であろう。
藤介自身も、もう何も感じなくなっていた。
柳の傍で花巻蕎麦を啜り、去っていく小僧の後ろ姿を眺めて、感慨の一つも浮かばない冷めた己を実感するばかりである。
「薄気味悪う御座んすね」
何者かの声に、藤介はびくりと震えて振り向いた。
見れば、脇腹のあたりで、ずずと音を立てて丼を煽っている行者姿の小男が居た。
藤介には、修験者と山伏と僧の区別もつかぬ。
いつから、そこに居たのだろうか……藤介は、全く気がつかなかった。
「そう、かのう」
茶を濁すような間抜けな言葉を返した己に、思わず唇を強く結んだ。
「ありゃあ……物怪の類で御座いましょうな」
夕暮れの冷たい空気に、白い湯気の吐息を溶かしながら、行者は言う。
藤介は何故か、むっとした。
「そうであろうが……害が無ければ問題なかろう」
「害が無ければ」
くつくつと、可笑しそうに、行者は肩を震わせる。
あまりの小柄に、藤介からは白頭巾の頂きしか見えぬ。
「ではもし、害があるなら」
「害があるなら……退けねばなるまい」
その問答はつまらない。藤介は十六文を握って蕎麦屋に突き出す。老いた蕎麦屋は恭しく両手で戴いた。
「斬る──んですかい」
「まさか」
似つかわしく無い言葉を発する行者に、藤介はギョッとしてから、顔を顰めた。
「フフ。まァ……餓鬼ですからね」
「歳の問題でもなかろう」
物怪に、歳というものがあればの話だが。
……あの小僧は、現に、いつまで経っても、小僧なのである。
「丹波に、──」
不意に声色を変えたので、藤介は去り損ねてしまった。
「居たと、聞きましたがね……」
「丹波、に?」
「豆腐を抱えた、小僧でさァ」
行者が言い、藤介は通りの向こうに目をやった。
そちらにはもう、何も居ない。
「あすこの豆ぁ旨いと聞きやす」
「……う、む……?」
惑い、答えに窮する藤介を尻目に、行者はのんびりと丼の中の汁を啜っていた。
「それだけに、豆作りが活計の百姓にぁ、大豆ってなァ死ぬの生きるのの大事になっちまうそうで……」
だいじな、だいず──ですよゥ。行者は言うが、何も笑えない。
「中にはね、そりゃァえげつねぇ企みで取り潰されたって家も、在ったそうでさァ……」
行者の語り口は、蕎麦を喰ったばかりの腹の具合を悪くさせる程、不気味であった。
「たかが豆でか。騙りであろう」
「だと、良いんですがねェ」
ふふふ、と小男が笑う。真か、法螺か。
「土が痩せちまって、水が澱んじまって──ああ、この豆が最後……だが、この豆が御殿様のお気に召して呉れるのならば、と……何某の家の小僧が豆を持って、御屋敷まで奔ったそうで御座いやすよ」
両手で籔を抱えるような仕草をする小男を、藤介は何も言わずに凝と見ていた。
「……ところが。小僧は屋敷に行ったきり、フッと何処かへ消えちまったらしい」
「……どういう、ことだ?」
藤介は眉間に皺を刻んだ。
「さァね」
行者は、嗤う。
「なァんにも、判りゃァしねェ。兎に角、小僧は消えちまった。同じ頃に、他の百姓も、何人か。……そいつらと引き換えに、その土地にゃァ豆腐抱えて笑い乍ら奔る小僧が現るようンなった」
藤介は、ぐっと感情を飲み込む。
「何も判らん」
「そりゃァそうです。まったくその通りでさァ」
藤介は苛苛としてきたが、小男は愉しげである。それが更に不快を煽る。
「小僧は少々〝足りなかった〟ってェ話だ。道に迷って死んだのかも知れねェ。他の家の者に殺されちまったのかも知れねェ。天狗に遭ったか河童に遭ったか……。いやいや、大事な大豆を駄目にしちまったってんで、蒸して潰して漉して拵えた豆腐を持ってったら、そいつが御殿様の怒りを買って、そのまま手打ちンなったンだ──とも、言われておりやす」
「して、どれが本当なのだ?」
「判りゃァしませんよゥ。もう、何ン年も昔の話でさァ」
行者は汁を飲み終わったのか、懐に手を入れて銭入れを鳴らす。
「何故……豆腐なのだ」
藤介の言葉に、
「さて。あのナリで油断を誘って、誰も構えなくなるのを待っているんだとか」
「油断だと」
「豆腐を持っていやすでしょう? 確かに、あんなモン抱えて奔ったって、何ンにも出来やしねェ。……でもね、そう思い込ませるのが、奴の狙いだッてンですよ」
「どう云うことだ?」
「怨んだ相手に出会した時だけ……あの豆腐は黒鉄よりも硬く、重くなるンだとか。……そして、そいつをね……」
小男は思わせぶりに、小銭入れを握った手を中空で振り下ろす。
その先で、何やら赤いモノが弾けたように見えた。
幻、であろう。
「あの、豆腐が……意趣返しの手段だと?」
莫迦な。
そんな話、聞いた事もない。
──否、然し。
藤介の頭の中で、先程の話と併せた瞬間に結び付き、薄すらと理屈めいた考えが湧いた。
『豆腐小僧は、何も出来ぬ。』
然し、それは、単に誰も真実を知らないだけ、と云う事にならないか?
この小男の言う通り、あの小僧が何処かで誰かを手に掛けていたとしても、『何も出来ぬ』と思い込んでいる民衆の中で、事実が黙殺されていたのだとしても……それを明らかにする術はどこにも無い。
逆を云えば、斯様な凶行が有ったのだという証明も不可能なのだ。
凡ては、正体の判らぬ霞か霧の向こう側、という事になる。
その曖昧さが、判然とせぬ不気味さを、更に複雑な印象に変えてしまうのだ。
「……フフ……」
鼻息だけで嗤う行者に、藤介は青くなった。
「ふん。 ……つ、創りであろう。お主の」
「サァ、如何でしょうねえ」
「おのれ、俺を愚弄するか」
「いいえェ、滅相も無い」
声色が落ちる。だが、詫びる態度では無い。
「……然し、まァ……なんと云いましょうか……」
「何だ」
「いえね、実に妙な話じゃ御座いやせんか──」
小男の唇の端が吊り上がる、気配。
「──旦那は、こんな与太話の一体なにが──畏怖しいんでしょうなァ……」
刹那、藤介を襲う、蟲の如く背筋を這う、極めて不快な……羞恥と罪悪感。
それらが肌から這入ってきて、心を、侵してゆく。
小男の噺に呑まれ、藤介の咽喉はすっかり張り付いてしまっている。最早、『うう』とも、『ああ』とも漏らす事すら出来ぬ程の憔悴に曝されていた。
「あぁ、御気を悪くせんでくだせえ。実のところ、旦那の仰る通りなンでさァ」
怯え乍ら顔を上げる。小男は相変わらず、悪びれた様子は無かった。
「今の話は、まるっと凡て、真っ赤な嘘なンですよゥ」
小男は物怖じもせず、早々に謀った事を白状した。藤介の中には刀の柄に手を置く気力も残っていないと知っているのだろう。
「……そうであろうな」
藤介の肩が些か下がるが、勿論安堵した訳ではない。
「豆腐を持った小僧なんぞ、事実何ンにもできやしねェ」
……そうだ。そうなのだ。
斯様な法螺話など、畏れるに足らぬ。
胸中に響くそれは、己に言い聞かせんと説く声である。
然し。
小僧は、──在るのだ。
其の事実が覆らぬ限り、小男の声が、言葉が、所作が、赤い幻覚が、藤介の心を捕え続けるのである。
藤介の中で、半紙に垂らした薄墨の如く、ぼたり、じわりと──恐怖が広がってゆくのだ。
「つまらねェ話で御座いましたね。何卒、御容赦を……」
「…………いや」
ここで怒る訳にも、震える訳にもいかぬ。藤介は出来得る限り憮然と構え、低い声で返答した。
豆腐小僧は、何もしない。
──だが、真実は誰も知らぬ。
あの小僧の姿が──そして。皿の上で滑稽なまでに震える豆腐が、もう再び以前のような心持ちで眺められぬ事態になってしまった事を、藤介は静かに実感していた。
物怪を形創るのは、物怪自身ではない。
豆腐を抱えた小僧の実態とは、『それを捉えた者』が生み出す、只の『像』に過ぎぬ。
邪なる心の持ち主は、金剛力士の顔に恐怖する……それと同様であろう。
「──物怪とは〝そう云うモノ〟なんでさァ」
厭な嗤いを一つ残して、行者は踵を返した。
取り残された藤介は、やり場のない気持ちを腹の中に沈めたまま、両の腕を袂に忍ばせ、歩き出した。
了
笠を被り。
笑って駆ける。
胸の前に、大事そうに皿を抱え。
その皿には、真白き豆腐が載っている。
うふふ
あはは
笑い、奔る。
皿の上の豆腐が、ふるふると震える。
その様が楽しくて仕方ないと云うように。奔る、震える、笑う。うふふ。
甘い、大豆の匂い。涎が垂れる。舌舐めずり。あはは。
その、繰り返し。
小僧の姿を見た町民は、気味悪がった。
気触れの童には、同情も憐憫も、掛ける義理は無い、と云わん許りに、顔を顰めたり、見ない振りをした。
あはは
うふふ
黄昏時、嬉しそうに駆け回る小僧は、忽ち噂になった。
如何にも様子がおかしい、と囁かれ出したのは、季節が変わり、巡り、梅の花が二度散ってからだ。
小僧は、いつ迄経っても小僧だった。
すわ、もののけか──。
誰かが、そう嘯いた。
妖怪、豆腐小僧。
豆腐一丁を載せた皿を手にした童子。
何処からとも無く現れ出でては、何処へなりと去って行く。それだけ。
しかし、それが、却って不気味である。
悪さの一つもしようものなら捕まえて折檻せんと構える者達を尻目に、小僧は豆腐を手に、笑って奔る。奔る。奔る……。
陽が傾き出すと現れ、通りを駆け抜けて──真実、只、それだけ。
もののけ奴……何を企む。
駆けて行く背中を見て、伸びた月代をひと撫でし、飯田藤介は呟いた。
余所の郷から流れてきた、日日を活計の傘作りに明け暮れ過ごす、やや朴訥とした元御家人である。
藤介は思う。人は、判らぬモノが畏ろしい。
その、畏ろしいモノに対して、人が出来ることは二ツだけ。目を逸らすか、排するかだ。
豆腐小僧は、徹頭徹尾、何から何まで判らぬ。
理由も目的も、所作の意味もだ。
何故豆腐なぞを抱え、何故奔り廻り、何故笑うのか。皆目判らぬ。判らぬから、怖い。
只只笑って駆けるだけに見える小僧ではあるが、その肚で善からぬ何事かを企んでいるのかも知れぬ。
その疑いに、証拠は無い。
だが、疑わぬ根拠も無い。
つまり、正確に云えば、藤介は小僧が畏いのではない。
小僧に感じる不安が畏ろしいのだ。
そんな藤介の不安を余所に、妖怪は一向に馬脚を顕さなかった。
そこらの童子でも、蜻蛉の尻に藁を括って玩具にしたり、夕餉の支度をする母親の背中に蛙を入れたりするものだが、豆腐小僧は、そんな悪戯すらする気配がない。
何せ、手にしているのは豆腐だ。
それに、両手で大事そうに豆腐の皿を支えているものだから、あの様子では蜻蛉も蛙も捕えられぬであろう。
豆腐に鎹、とも云う。……豆腐なぞ、何にもならぬ。
そう──もしかしたら。
やはり、企みなど無いのやも知れぬ──。
顕す馬脚など、始めから無いのであろう。
豆腐を抱えて駆ける小僧の姿に見慣れた頃、藤介はそう思うようになった。
そうして、ひとたび鼻から息を漏らし、警戒を解いてしまえば何と云う事も無い。大根を狙う烏よりも、干物に近づく蠅よりも、豆腐小僧は無害なのだと実感し、胸中の霧は嘘のように晴れた。
訥訥と、駆けてくる足音。
あはは
うふふ
害無しと識れば、珍しき虫や鳥獣と差して変わらぬ。やがて面白がる程の余裕も湧いた。
やがて、巷では。
白豆腐の拍子木。豆腐で歯を痛む。豆腐に釘。豆腐に腕押し……。
……何でも勘でも、豆腐豆腐。
人々の口からは、小僧に肖る如く、豆腐の二文字が矢鱈と聞こえるようになった。認識を改める事で、異質なるモノとの距離を量る、ひとつの智慧であろう。
藤介自身も、もう何も感じなくなっていた。
柳の傍で花巻蕎麦を啜り、去っていく小僧の後ろ姿を眺めて、感慨の一つも浮かばない冷めた己を実感するばかりである。
「薄気味悪う御座んすね」
何者かの声に、藤介はびくりと震えて振り向いた。
見れば、脇腹のあたりで、ずずと音を立てて丼を煽っている行者姿の小男が居た。
藤介には、修験者と山伏と僧の区別もつかぬ。
いつから、そこに居たのだろうか……藤介は、全く気がつかなかった。
「そう、かのう」
茶を濁すような間抜けな言葉を返した己に、思わず唇を強く結んだ。
「ありゃあ……物怪の類で御座いましょうな」
夕暮れの冷たい空気に、白い湯気の吐息を溶かしながら、行者は言う。
藤介は何故か、むっとした。
「そうであろうが……害が無ければ問題なかろう」
「害が無ければ」
くつくつと、可笑しそうに、行者は肩を震わせる。
あまりの小柄に、藤介からは白頭巾の頂きしか見えぬ。
「ではもし、害があるなら」
「害があるなら……退けねばなるまい」
その問答はつまらない。藤介は十六文を握って蕎麦屋に突き出す。老いた蕎麦屋は恭しく両手で戴いた。
「斬る──んですかい」
「まさか」
似つかわしく無い言葉を発する行者に、藤介はギョッとしてから、顔を顰めた。
「フフ。まァ……餓鬼ですからね」
「歳の問題でもなかろう」
物怪に、歳というものがあればの話だが。
……あの小僧は、現に、いつまで経っても、小僧なのである。
「丹波に、──」
不意に声色を変えたので、藤介は去り損ねてしまった。
「居たと、聞きましたがね……」
「丹波、に?」
「豆腐を抱えた、小僧でさァ」
行者が言い、藤介は通りの向こうに目をやった。
そちらにはもう、何も居ない。
「あすこの豆ぁ旨いと聞きやす」
「……う、む……?」
惑い、答えに窮する藤介を尻目に、行者はのんびりと丼の中の汁を啜っていた。
「それだけに、豆作りが活計の百姓にぁ、大豆ってなァ死ぬの生きるのの大事になっちまうそうで……」
だいじな、だいず──ですよゥ。行者は言うが、何も笑えない。
「中にはね、そりゃァえげつねぇ企みで取り潰されたって家も、在ったそうでさァ……」
行者の語り口は、蕎麦を喰ったばかりの腹の具合を悪くさせる程、不気味であった。
「たかが豆でか。騙りであろう」
「だと、良いんですがねェ」
ふふふ、と小男が笑う。真か、法螺か。
「土が痩せちまって、水が澱んじまって──ああ、この豆が最後……だが、この豆が御殿様のお気に召して呉れるのならば、と……何某の家の小僧が豆を持って、御屋敷まで奔ったそうで御座いやすよ」
両手で籔を抱えるような仕草をする小男を、藤介は何も言わずに凝と見ていた。
「……ところが。小僧は屋敷に行ったきり、フッと何処かへ消えちまったらしい」
「……どういう、ことだ?」
藤介は眉間に皺を刻んだ。
「さァね」
行者は、嗤う。
「なァんにも、判りゃァしねェ。兎に角、小僧は消えちまった。同じ頃に、他の百姓も、何人か。……そいつらと引き換えに、その土地にゃァ豆腐抱えて笑い乍ら奔る小僧が現るようンなった」
藤介は、ぐっと感情を飲み込む。
「何も判らん」
「そりゃァそうです。まったくその通りでさァ」
藤介は苛苛としてきたが、小男は愉しげである。それが更に不快を煽る。
「小僧は少々〝足りなかった〟ってェ話だ。道に迷って死んだのかも知れねェ。他の家の者に殺されちまったのかも知れねェ。天狗に遭ったか河童に遭ったか……。いやいや、大事な大豆を駄目にしちまったってんで、蒸して潰して漉して拵えた豆腐を持ってったら、そいつが御殿様の怒りを買って、そのまま手打ちンなったンだ──とも、言われておりやす」
「して、どれが本当なのだ?」
「判りゃァしませんよゥ。もう、何ン年も昔の話でさァ」
行者は汁を飲み終わったのか、懐に手を入れて銭入れを鳴らす。
「何故……豆腐なのだ」
藤介の言葉に、
「さて。あのナリで油断を誘って、誰も構えなくなるのを待っているんだとか」
「油断だと」
「豆腐を持っていやすでしょう? 確かに、あんなモン抱えて奔ったって、何ンにも出来やしねェ。……でもね、そう思い込ませるのが、奴の狙いだッてンですよ」
「どう云うことだ?」
「怨んだ相手に出会した時だけ……あの豆腐は黒鉄よりも硬く、重くなるンだとか。……そして、そいつをね……」
小男は思わせぶりに、小銭入れを握った手を中空で振り下ろす。
その先で、何やら赤いモノが弾けたように見えた。
幻、であろう。
「あの、豆腐が……意趣返しの手段だと?」
莫迦な。
そんな話、聞いた事もない。
──否、然し。
藤介の頭の中で、先程の話と併せた瞬間に結び付き、薄すらと理屈めいた考えが湧いた。
『豆腐小僧は、何も出来ぬ。』
然し、それは、単に誰も真実を知らないだけ、と云う事にならないか?
この小男の言う通り、あの小僧が何処かで誰かを手に掛けていたとしても、『何も出来ぬ』と思い込んでいる民衆の中で、事実が黙殺されていたのだとしても……それを明らかにする術はどこにも無い。
逆を云えば、斯様な凶行が有ったのだという証明も不可能なのだ。
凡ては、正体の判らぬ霞か霧の向こう側、という事になる。
その曖昧さが、判然とせぬ不気味さを、更に複雑な印象に変えてしまうのだ。
「……フフ……」
鼻息だけで嗤う行者に、藤介は青くなった。
「ふん。 ……つ、創りであろう。お主の」
「サァ、如何でしょうねえ」
「おのれ、俺を愚弄するか」
「いいえェ、滅相も無い」
声色が落ちる。だが、詫びる態度では無い。
「……然し、まァ……なんと云いましょうか……」
「何だ」
「いえね、実に妙な話じゃ御座いやせんか──」
小男の唇の端が吊り上がる、気配。
「──旦那は、こんな与太話の一体なにが──畏怖しいんでしょうなァ……」
刹那、藤介を襲う、蟲の如く背筋を這う、極めて不快な……羞恥と罪悪感。
それらが肌から這入ってきて、心を、侵してゆく。
小男の噺に呑まれ、藤介の咽喉はすっかり張り付いてしまっている。最早、『うう』とも、『ああ』とも漏らす事すら出来ぬ程の憔悴に曝されていた。
「あぁ、御気を悪くせんでくだせえ。実のところ、旦那の仰る通りなンでさァ」
怯え乍ら顔を上げる。小男は相変わらず、悪びれた様子は無かった。
「今の話は、まるっと凡て、真っ赤な嘘なンですよゥ」
小男は物怖じもせず、早々に謀った事を白状した。藤介の中には刀の柄に手を置く気力も残っていないと知っているのだろう。
「……そうであろうな」
藤介の肩が些か下がるが、勿論安堵した訳ではない。
「豆腐を持った小僧なんぞ、事実何ンにもできやしねェ」
……そうだ。そうなのだ。
斯様な法螺話など、畏れるに足らぬ。
胸中に響くそれは、己に言い聞かせんと説く声である。
然し。
小僧は、──在るのだ。
其の事実が覆らぬ限り、小男の声が、言葉が、所作が、赤い幻覚が、藤介の心を捕え続けるのである。
藤介の中で、半紙に垂らした薄墨の如く、ぼたり、じわりと──恐怖が広がってゆくのだ。
「つまらねェ話で御座いましたね。何卒、御容赦を……」
「…………いや」
ここで怒る訳にも、震える訳にもいかぬ。藤介は出来得る限り憮然と構え、低い声で返答した。
豆腐小僧は、何もしない。
──だが、真実は誰も知らぬ。
あの小僧の姿が──そして。皿の上で滑稽なまでに震える豆腐が、もう再び以前のような心持ちで眺められぬ事態になってしまった事を、藤介は静かに実感していた。
物怪を形創るのは、物怪自身ではない。
豆腐を抱えた小僧の実態とは、『それを捉えた者』が生み出す、只の『像』に過ぎぬ。
邪なる心の持ち主は、金剛力士の顔に恐怖する……それと同様であろう。
「──物怪とは〝そう云うモノ〟なんでさァ」
厭な嗤いを一つ残して、行者は踵を返した。
取り残された藤介は、やり場のない気持ちを腹の中に沈めたまま、両の腕を袂に忍ばせ、歩き出した。
了
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