『世界は救えないと知っている勇者が、それでも剣を取る理由』

夜澄 文

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第三十五話 名のない判断

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 名を名乗らなかった。

 それが、
 一番楽だった。

 山沿いの小さな集落。
 通りすがりの旅人として、
 俺はそこにいた。

 村は、
 落ち着いている。

 だが、
 静かすぎる。

 畑は耕され、
 家も壊れていない。

 それなのに、
 人の動きが、
 慎重すぎた。

「何か、
 あったのか」

 焚き火のそばで、
 声をかける。

 若い男が、
 首を振る。

「……判断待ちです」

 また、
 それだ。

「誰の」

「誰でも、
 ありません」

 言い直す。

「決めるのが、
 怖いだけです」

 理由は、
 単純だった。

 隣村との水利争い。

 川の分流を、
 どう扱うか。

 武器は出ていない。
 死人も、
 いない。

 だが、
 放っておけば、
 拗れる。

 俺は、
 地図を見る。

 村の古老が、
 説明する。

「昔は、
 雨の多い年だけ
 分けていた」

「だが、
 今は
 毎年やれと
 言ってくる」

 若者が、
 言葉を継ぐ。

「拒めば、
 争いになる」

「譲れば、
 次がある」

 正解は、
 ない。

 だから、
 止まる。

 俺は、
 一歩引く。

「俺は、
 決めない」

 村人たちが、
 こちらを見る。

「代わりに、
 一つだけ
 提案する」

 川の支流を、
 指す。

「ここを、
 一部掘り下げろ」

「雨期だけ、
 自然に流れる形に」

「人が、
 操作しない」

 古老が、
 眉をひそめる。

「それでは、
 完全に
 分けられん」

「完全じゃなくていい」

 即答する。

「完全は、
 誰かの勝ちになる」

 沈黙。

 若者が、
 ぽつりと言う。

「……それなら、
 争う理由が
 なくなる」

 数日後、
 作業は終わった。

 水は、
 雨期にだけ
 分かれる。

 隣村は、
 不満そうだったが、
 抗議はしなかった。

 抗議する
 相手が、
 いないからだ。

 俺は、
 そこを去る。

 名も、
 記録も、
 残さず。

 夜、
 魔王が現れる。

「完全に、
 裏方だね」

「それでいい」

「もう、
 勇者じゃない」

「最初から、
 そうだ」

 魔王は、
 少しだけ
 笑った。

「世界は、
 君に
 気づかなくなった」

「それで、
 続いている」

 焚き火が、
 静かに燃える。

 誰も、
 英雄を
 求めていない。

 ただ、
 今日を
 越えたいだけだ。

 世界は救えない。

 だが、
 名のない判断が
 名のない一日を
 支えることはある。
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