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シアンクレール
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寒さで目が覚めた。
暗い天井には雨漏りの痕あとも見える。
その間を私の白い息がさまよっている。
「そうや、久志ひさしは…」
私は同衾どうきんしていたはずの倉田久志がいないのに気づく。
「こんな朝の早うから、どこ行ってんな」
私は独り言をつぶやきながら、半身はんみを起こした。
せんべい布団は重く畳に貼りついて、久志の寝ていた部分は遠とおに冷え切っていた。
私と久志がこの東雲荘しののめそうというアパートに同棲するようになったのは去年の秋のことだった。
広小路(立命館大学の文学部のあるところ)に通うには、自宅のある枚方ひらかたよりは便利なので、すでに久志が一人暮らしをしていたここに私が転がり込んだというわけだ。
私の両親はいぶかしんだが「女友達と一緒に借りるんや」と嘘をつきとおした。
実家は「お好み焼き屋」を京阪枚方市駅前で営んでいたので、両親も三人娘の末っ子の私のことなどハナからあきらめていたのだ。
それでも大学にまでやってくれたのは長女の澄子が「これからは女も学問や」と推してくれたからだ。中の姉の靖子はすでに結婚して大阪の法円坂ほうえんざかで暮らしている。
部屋の建付けの悪い戸が開いて、久志がタオルを首にかけてよれよれのシャツ姿に「おでんち(綿入れ半纏はんてん)」をひっかぶって入ってきた。
「外、つべたいわぁ(冷たいわぁ)」
揉み手で私に言うのだった。
「周子ちかこ、めし、どうする?」
「なんもないよぉ。食パンが二枚ほど机の上にあるけど」
古本の積みあがった、木製の机が六畳間に場所をとっていた。その上に紙袋に入った食パンが、本と一緒に積んである。
大学は、学生たちのバリケードでほとんど閉鎖状態だった。
年が明けて一月になって、期末考査がどうなるのか危ぶまれていた。
私は「もう、ないんやないか?」と思っているし、久志も友達と語らって「入試阻止」だの、「学長更迭がくちょうこうてつ」だのと二部学生(夜間)を巻き込んでデモを計画していた。
「おくどはんでうどんでも食うか」
「おくどはん」とは東山通ひがしやまどおりの麺類や丼物どんぶりものの店の屋号で、その意味は京ことばで「かまど」のことだそうだ。ここは私たちがよくいくので、おかみさんとも懇意こんいにしていた。
「お金、あんの?」
「あるわい。それくらい」
色の変わったタオルで顔を拭ぬぐいながら、白い歯を見せて笑う。
久志のそういう表情が好きだった。
久志の家は、綾部あやべで、豪農の家柄だった。そこの次男坊である。
お兄さんが家を継いでいると言っていたが、兄弟の仲が悪いらしい。
お酒が入ると、久志はよくお兄さんを悪しざまに言うのだった。
「兄貴は百姓のくせに、百姓を下に見よる」と。
マルクス主義にかぶれた久志なら言いそうなことだ。
私たちは荒神橋口こうじんばしぐちの「シアンクレール」というジャズ喫茶で知り合った。
ここは大学からも近く、京都大学の活動家もよく出入りしていた。
私がマイルス・デイヴィスだの、チック・コリアだの、アメリカのジャズメンの名前を覚えたのもここだった。
中でもチック・コリアのピアノが、私の心に響いた。
久志も仲間とそこによく来ていた。
満員で彼と相席になったことがあり、久志の勧めでチック・コリアを聴くようになったのだった。
あの日も寒い雪のちらつく日で、もう一年近くも前のことだ。
私たちは「ドカジャン」を着て、表に出ていった。
バリケードを築く学生はたいていこの「ドカジャン」を着て、綿めんのズボンを履き、ヘルメットとタオルマスクをして、ゲバ棒を握るのだ。
ゲバ棒という特定の棒はない、人によっては竹刀しないだったり、立派な樫かしの棒もあれば、建築資材の角材や重い丸太など様々だった。
私のは、久志が用意してくれた農具の鍬くわの棒だった。握りやすくて硬いのである。
「おくどはん」で朝定食を平らげ、大学に向かうべくバスを待つ。
「日が照ってきたら、ぬくいね(あたたかいね)」「ああ」
手袋も軍手しかない。もはや女のいでたちではなかった。
「政府はな、オリンピックとか万国博とかのお祭り騒ぎで、わしら活動家の気をそらそうとしとんのや」
「そうかもね。そやけど、私らもそろそろ将来のこと考えんと」
「わかってんね。わかってんねんて。おれかて」
「きんの(昨日)も言うたけど、あたし大学、辞めよかなと思ってんねん」
そう。私は、こうやって日ごとに荒れていく大学に愛想が尽きかけていた。
「おまえは女やさかい、それでもええやろ。そやけど、おれは違うんや」
また始まった。「女は家におれ」という久志の持論だった。
清心館(立命館大の文学部棟)でがんばっている「反代々木系」の澤木瑛治なら「女も男もあらへん。みんな平等や」とはっきり言ってくれる。
「寺島さん」後ろから、私を呼ぶ声がした。
同じ国文学部の津村里美だった。彼女は地元、京都の扇子屋さんの娘さんだった。
「あら、彼氏?」
里美が久志を見て言う。
「そんなんや、あれへん。同志っていうやつよ」
私は急いで弁明した。久志が、
「君も、バリケードに参加するんか?」
すると、里美は「したいけどぉ…家が反対するから」
「ちっ。お嬢さんには無理やわな」と吐き捨てるように言い、ちょうど来たバスに先に乗り込んでしまった。
「きにせんといて。里美」「うん」
お嬢さんらしく、クリーム色のコートに身を包んだ里美が、私はうらやましかった。
バスの中は空いていて、一番後ろの席に私たち二人が座り、里美は窓際の一人席に落ち着いた。
清心館前は物々しい雰囲気になっている。机やいすがうずたかく積み上げられていた。
バスから降りると機動隊の姿も見えた。
昨日より機動隊の人数が増えている。
里美と別れて、私たちは「全共闘準備会」の横断幕のある講義室に向かった。
これが俗にいう「反代々木系」と呼ばれる活動家たちである。
十一時になってオルグが始まった。
ビラを撒く者、拡声器をもってがなり立てる者、気勢を上げる者、取り巻いて無表情のノンポリども。
私と久志はヘルメットをかぶって、タオルを巻いて顔を隠し、最前列に出る。
放水車が見えた。
「水ぶっかけられたら、この寒ぞらに耐えられへん」
私は、恐怖におののいた。
ついこのあいだの十八日だったか、東大の安田講堂で占拠事件があったとき、大量の放水が講堂を襲い、活動家は水浸しにされて陥落したのだった。
「日米安保の継続阻止!」
1970年に期限を迎える「日米安全保障条約」を延長させないことを佐藤内閣に訴える行動だった。
しかし、あえなく鎮圧されたのである。
ここも同じような攻撃にさらされるのだろう。
「押し出せぇ」の号令がかかる。
機動隊の盾が鈍く光った。
吶喊とっかんの声があがり、火炎瓶が飛び交う。
凄まじい石油の燃える匂いがし、黒い煙が目を刺激する。
「わっしょい、わっしょい」
もう何が何だかわからなかった。
放水が始まったらしい。
「つべたぁい!」「あほ、しんぼうせぇ!」
ずくずくになって私たちはおしくらまんじゅうを努めた。
みごとに私たちは蹴散らされてしまった。
川端通かわばたどおりの京阪沿線に逃げて、私は東雲荘に向かって歩いていた。
久志はどうなったのだろう?
たとえ、ばらばらになっても東雲荘で落ち合えばいいと、私は信じていた。
一時間ほどで東雲荘に着いたが、日はすでに落ちていた。
「さぶい…」
銭湯に行くほかなかった。久志はまだ帰っていなかったので置手紙をして、「玉乃湯に行く」とだけ記しておいた。
濡れた「ドカジャン」を脱いで鴨居に掛け、湿ったズボンも脱いだ。
下着も水と汗を吸ってしまっている。
汚れものをまとめて、私は素っ裸のまま電熱器をつけた。
二人の暖房はこれしかなかったのである。
「うるるる」
震えながら、新しいショーツを履き、厚手のスリーマーを着る。
ブラはしない。するほど胸はない。
ドアが音を立てて開いた。
久志だった。
「帰ってたか…」
「あんた、どこに行ってたん?」
「警察にしょっぴかれた」「うそ…」「ほんまや。けど釈放された」
「よかった」
「ええことあるかい」と捨てるように言い放つ。
「指紋とられて、前科もんや」
「無事やったらええやないの。ここ来て温まり。そや、いっしょにお風呂行こ」
「ふん…」
そういうと、久志は濡れた着衣を脱ぎだしたのである。
そして裸になったとき…私は抱かれてしまった。
「ちかこ…」
「ちょ、ちょっと」
「ちかこ。好きや」
そのまま畳の上のせんべい布団に押し倒された。
こうなるのは初めてではない。
もう何度か、肌を重ねた私たちだった。
でも今日は違った。
戦闘で傷ついた兵士が、母親に甘えるそれだった。
スリーマーがたくし上げられ、お乳を激しく吸われた。
むっちゅう…
「ひさし…」
私は彼の頭を撫でていた。赤子に乳を含ませる気持ちで。
もう寒くはなかった。
私は久志にしがみついて、交接を愉しんだ。
太い肉の塊が私を貫く。
私は組み敷かれ、膝を左右に割られ、激しく突き上げられる。
お腹の中身が口から出そうな気がする性交だった。
「ちか…おれはもう、やめる」
「うん、うん」
「そやから、一緒になろ」
「うん、いいよ、いいよ。ひさし…わかったよ」
私はそう言うしかなかった。
幼児のようになった久志が愛おしかった。
しょせん、学生の政治活動など「子供の遊び」なのだ。
そんな風邪のような流行り病に冒され、人生を棒に振るようなまねは愚の骨頂である。
黄色いくちばしで、青いさえずりを精一杯して、飛べないでいる小鳥だ。
トンビにさらわれるのが落ちである。
「ちかぁ!」
一段と深く差し込まれ、久志が果てた。
私は妊娠するかもしれなかった。
結局、お風呂に行かず、私は久志に何度も貫かれ、注ぎ込まれたのである。
「シアンクレールに行こうか」
翌朝、私は久志を誘ってみた。
「思案暮れる…か。マイルス・デイヴィスでも聴くか」
「そうしよ。モーニングでも食べながら」
私たちは、新しい朝を迎えたのだった。
Fin... Champ Clair in 1969.
この年の6月24日、高野悦子という立命館大生が山陰本線の列車に飛び込んで二十年の生涯を閉じた。
暗い天井には雨漏りの痕あとも見える。
その間を私の白い息がさまよっている。
「そうや、久志ひさしは…」
私は同衾どうきんしていたはずの倉田久志がいないのに気づく。
「こんな朝の早うから、どこ行ってんな」
私は独り言をつぶやきながら、半身はんみを起こした。
せんべい布団は重く畳に貼りついて、久志の寝ていた部分は遠とおに冷え切っていた。
私と久志がこの東雲荘しののめそうというアパートに同棲するようになったのは去年の秋のことだった。
広小路(立命館大学の文学部のあるところ)に通うには、自宅のある枚方ひらかたよりは便利なので、すでに久志が一人暮らしをしていたここに私が転がり込んだというわけだ。
私の両親はいぶかしんだが「女友達と一緒に借りるんや」と嘘をつきとおした。
実家は「お好み焼き屋」を京阪枚方市駅前で営んでいたので、両親も三人娘の末っ子の私のことなどハナからあきらめていたのだ。
それでも大学にまでやってくれたのは長女の澄子が「これからは女も学問や」と推してくれたからだ。中の姉の靖子はすでに結婚して大阪の法円坂ほうえんざかで暮らしている。
部屋の建付けの悪い戸が開いて、久志がタオルを首にかけてよれよれのシャツ姿に「おでんち(綿入れ半纏はんてん)」をひっかぶって入ってきた。
「外、つべたいわぁ(冷たいわぁ)」
揉み手で私に言うのだった。
「周子ちかこ、めし、どうする?」
「なんもないよぉ。食パンが二枚ほど机の上にあるけど」
古本の積みあがった、木製の机が六畳間に場所をとっていた。その上に紙袋に入った食パンが、本と一緒に積んである。
大学は、学生たちのバリケードでほとんど閉鎖状態だった。
年が明けて一月になって、期末考査がどうなるのか危ぶまれていた。
私は「もう、ないんやないか?」と思っているし、久志も友達と語らって「入試阻止」だの、「学長更迭がくちょうこうてつ」だのと二部学生(夜間)を巻き込んでデモを計画していた。
「おくどはんでうどんでも食うか」
「おくどはん」とは東山通ひがしやまどおりの麺類や丼物どんぶりものの店の屋号で、その意味は京ことばで「かまど」のことだそうだ。ここは私たちがよくいくので、おかみさんとも懇意こんいにしていた。
「お金、あんの?」
「あるわい。それくらい」
色の変わったタオルで顔を拭ぬぐいながら、白い歯を見せて笑う。
久志のそういう表情が好きだった。
久志の家は、綾部あやべで、豪農の家柄だった。そこの次男坊である。
お兄さんが家を継いでいると言っていたが、兄弟の仲が悪いらしい。
お酒が入ると、久志はよくお兄さんを悪しざまに言うのだった。
「兄貴は百姓のくせに、百姓を下に見よる」と。
マルクス主義にかぶれた久志なら言いそうなことだ。
私たちは荒神橋口こうじんばしぐちの「シアンクレール」というジャズ喫茶で知り合った。
ここは大学からも近く、京都大学の活動家もよく出入りしていた。
私がマイルス・デイヴィスだの、チック・コリアだの、アメリカのジャズメンの名前を覚えたのもここだった。
中でもチック・コリアのピアノが、私の心に響いた。
久志も仲間とそこによく来ていた。
満員で彼と相席になったことがあり、久志の勧めでチック・コリアを聴くようになったのだった。
あの日も寒い雪のちらつく日で、もう一年近くも前のことだ。
私たちは「ドカジャン」を着て、表に出ていった。
バリケードを築く学生はたいていこの「ドカジャン」を着て、綿めんのズボンを履き、ヘルメットとタオルマスクをして、ゲバ棒を握るのだ。
ゲバ棒という特定の棒はない、人によっては竹刀しないだったり、立派な樫かしの棒もあれば、建築資材の角材や重い丸太など様々だった。
私のは、久志が用意してくれた農具の鍬くわの棒だった。握りやすくて硬いのである。
「おくどはん」で朝定食を平らげ、大学に向かうべくバスを待つ。
「日が照ってきたら、ぬくいね(あたたかいね)」「ああ」
手袋も軍手しかない。もはや女のいでたちではなかった。
「政府はな、オリンピックとか万国博とかのお祭り騒ぎで、わしら活動家の気をそらそうとしとんのや」
「そうかもね。そやけど、私らもそろそろ将来のこと考えんと」
「わかってんね。わかってんねんて。おれかて」
「きんの(昨日)も言うたけど、あたし大学、辞めよかなと思ってんねん」
そう。私は、こうやって日ごとに荒れていく大学に愛想が尽きかけていた。
「おまえは女やさかい、それでもええやろ。そやけど、おれは違うんや」
また始まった。「女は家におれ」という久志の持論だった。
清心館(立命館大の文学部棟)でがんばっている「反代々木系」の澤木瑛治なら「女も男もあらへん。みんな平等や」とはっきり言ってくれる。
「寺島さん」後ろから、私を呼ぶ声がした。
同じ国文学部の津村里美だった。彼女は地元、京都の扇子屋さんの娘さんだった。
「あら、彼氏?」
里美が久志を見て言う。
「そんなんや、あれへん。同志っていうやつよ」
私は急いで弁明した。久志が、
「君も、バリケードに参加するんか?」
すると、里美は「したいけどぉ…家が反対するから」
「ちっ。お嬢さんには無理やわな」と吐き捨てるように言い、ちょうど来たバスに先に乗り込んでしまった。
「きにせんといて。里美」「うん」
お嬢さんらしく、クリーム色のコートに身を包んだ里美が、私はうらやましかった。
バスの中は空いていて、一番後ろの席に私たち二人が座り、里美は窓際の一人席に落ち着いた。
清心館前は物々しい雰囲気になっている。机やいすがうずたかく積み上げられていた。
バスから降りると機動隊の姿も見えた。
昨日より機動隊の人数が増えている。
里美と別れて、私たちは「全共闘準備会」の横断幕のある講義室に向かった。
これが俗にいう「反代々木系」と呼ばれる活動家たちである。
十一時になってオルグが始まった。
ビラを撒く者、拡声器をもってがなり立てる者、気勢を上げる者、取り巻いて無表情のノンポリども。
私と久志はヘルメットをかぶって、タオルを巻いて顔を隠し、最前列に出る。
放水車が見えた。
「水ぶっかけられたら、この寒ぞらに耐えられへん」
私は、恐怖におののいた。
ついこのあいだの十八日だったか、東大の安田講堂で占拠事件があったとき、大量の放水が講堂を襲い、活動家は水浸しにされて陥落したのだった。
「日米安保の継続阻止!」
1970年に期限を迎える「日米安全保障条約」を延長させないことを佐藤内閣に訴える行動だった。
しかし、あえなく鎮圧されたのである。
ここも同じような攻撃にさらされるのだろう。
「押し出せぇ」の号令がかかる。
機動隊の盾が鈍く光った。
吶喊とっかんの声があがり、火炎瓶が飛び交う。
凄まじい石油の燃える匂いがし、黒い煙が目を刺激する。
「わっしょい、わっしょい」
もう何が何だかわからなかった。
放水が始まったらしい。
「つべたぁい!」「あほ、しんぼうせぇ!」
ずくずくになって私たちはおしくらまんじゅうを努めた。
みごとに私たちは蹴散らされてしまった。
川端通かわばたどおりの京阪沿線に逃げて、私は東雲荘に向かって歩いていた。
久志はどうなったのだろう?
たとえ、ばらばらになっても東雲荘で落ち合えばいいと、私は信じていた。
一時間ほどで東雲荘に着いたが、日はすでに落ちていた。
「さぶい…」
銭湯に行くほかなかった。久志はまだ帰っていなかったので置手紙をして、「玉乃湯に行く」とだけ記しておいた。
濡れた「ドカジャン」を脱いで鴨居に掛け、湿ったズボンも脱いだ。
下着も水と汗を吸ってしまっている。
汚れものをまとめて、私は素っ裸のまま電熱器をつけた。
二人の暖房はこれしかなかったのである。
「うるるる」
震えながら、新しいショーツを履き、厚手のスリーマーを着る。
ブラはしない。するほど胸はない。
ドアが音を立てて開いた。
久志だった。
「帰ってたか…」
「あんた、どこに行ってたん?」
「警察にしょっぴかれた」「うそ…」「ほんまや。けど釈放された」
「よかった」
「ええことあるかい」と捨てるように言い放つ。
「指紋とられて、前科もんや」
「無事やったらええやないの。ここ来て温まり。そや、いっしょにお風呂行こ」
「ふん…」
そういうと、久志は濡れた着衣を脱ぎだしたのである。
そして裸になったとき…私は抱かれてしまった。
「ちかこ…」
「ちょ、ちょっと」
「ちかこ。好きや」
そのまま畳の上のせんべい布団に押し倒された。
こうなるのは初めてではない。
もう何度か、肌を重ねた私たちだった。
でも今日は違った。
戦闘で傷ついた兵士が、母親に甘えるそれだった。
スリーマーがたくし上げられ、お乳を激しく吸われた。
むっちゅう…
「ひさし…」
私は彼の頭を撫でていた。赤子に乳を含ませる気持ちで。
もう寒くはなかった。
私は久志にしがみついて、交接を愉しんだ。
太い肉の塊が私を貫く。
私は組み敷かれ、膝を左右に割られ、激しく突き上げられる。
お腹の中身が口から出そうな気がする性交だった。
「ちか…おれはもう、やめる」
「うん、うん」
「そやから、一緒になろ」
「うん、いいよ、いいよ。ひさし…わかったよ」
私はそう言うしかなかった。
幼児のようになった久志が愛おしかった。
しょせん、学生の政治活動など「子供の遊び」なのだ。
そんな風邪のような流行り病に冒され、人生を棒に振るようなまねは愚の骨頂である。
黄色いくちばしで、青いさえずりを精一杯して、飛べないでいる小鳥だ。
トンビにさらわれるのが落ちである。
「ちかぁ!」
一段と深く差し込まれ、久志が果てた。
私は妊娠するかもしれなかった。
結局、お風呂に行かず、私は久志に何度も貫かれ、注ぎ込まれたのである。
「シアンクレールに行こうか」
翌朝、私は久志を誘ってみた。
「思案暮れる…か。マイルス・デイヴィスでも聴くか」
「そうしよ。モーニングでも食べながら」
私たちは、新しい朝を迎えたのだった。
Fin... Champ Clair in 1969.
この年の6月24日、高野悦子という立命館大生が山陰本線の列車に飛び込んで二十年の生涯を閉じた。
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