ワルター機関

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ワルター機関

 この、いつ果てるともわからない戦争で、日本が一方的に不利になっていた昭和十九年の暮れのことだった。

 わたくしは、ワルター機関について調べていた。

 ナチス・ドイツの秘密組織を通じて、京都帝大の日下部(くさかべ)研究室に「ワルター機関」についての膨大な資料が日本の潜水艦によってもたらされていた。この画期的な技術があれば、日本に起死回生の機会が訪れる…そう信じられていたのだった。


「横山くん、独和辞典のよいものがあったんで、研究費で買ったよ。使ってくれたまえ」

 日下部俊史(としふみ)教授が分厚い革張りの辞書を差し出した。

「うわあ、ありがとうございます。学生用の辞典しかなくって、困っていたんですよ」

 日下部研究室は京都府下宇治村(現京都府宇治市黄檗)の帝大研究施設(現京大宇治おうばくキャンパス)にあり、兵器の研究を行っていた。

 ここには陸軍も駐屯していて敷地が隣接している。

 わたくしは、横山子爵家の長女として生まれ、成績はさほど優秀ではなかったけれど理学部予備門に進み、戦時下において火薬類の研究助手をしていた。



 ワルター機関とは、ドイツの技師、ヘルムート・ワルターの考案による過酸化水素を使った発動機(エンジン)である。

 酸素を供給する必要のない内燃機関としては画期的な発明だった。

 これによれば、潜水艦などは海に潜ったままで活動でき、吸気のために浮上する必要が無い、原子力がまだ発展途上であった頃の夢の技術であった。

 また一方で、その爆発的反応のために、砲弾よりも長い距離を正確に飛んで敵陣に落ちて爆発するという新型兵器が考えられ、すでにこの技術を援用したドイツ軍のロケット兵器「V-2号」なるものが倫敦(ロンドン)を襲ったというではないか。


 わたくしたちは海軍から、水雷に「ワルター機関を用いよ」という下命を受けていた。

 過酸化水素という特殊な燃料は、わたくしの父が興した「帝国化薬工業」が専門に供給するといってくれている。


 同僚の岡野勝敏(かつとし)海軍技術少尉は、化学反応推進戦闘機「秋水(しゅうすい)」の開発にいそしんでいた。

 この、いわゆる「ロケット機」は日本の防空を担う新兵器と目されているのである。

 実は「秋水」もワルター機関から派生したドイツのメッサーシュミットMe163「コメート」を真似(まね)て作られた。

 爆発で飛ぶので、その速度はプロペラを用いる飛行機の比ではない。

 憎きB-29など「止まった蝿」だと軍関係者らの間では評判だった。

 なにより発動機に空気、つまり酸素が必要ないので、高々度性能も良いはずで、超高空から攻め入って来るB-29と刺し違えられる機体は「秋水」をおいて他にないのだとうわさされた。



 配給の石炭も少なく、研究室の暖房はいつしか薪(たきぎ)になった。この薪は宇治の黄檗山萬福寺(おうばくさんまぷくじ)の裏山からお坊さんたちが刈り取ってきてくれるのである。

 日下部先生が、薪を細かく砕いて、小さな炉の口からそれをくべている。

 初老のこの先生は、ワルター機関に懐疑的だった。



 過酸化水素を含む「燃料」は「インゴリン」と呼び習わされていた。

 軍がそう言えと言うのだ。

 なんのことはない「インゴリン」は80%過酸化水素水である。



「インゴリン」は腐食性の液体であるから、清水焼(きよみずやき)の窯元に作らせた陶器の容器に入れて保存し、持ち運ぶ。

「インゴリン」と触媒液の過マンガン酸塩水溶液、通称「ゼット液」を、わたくしたちは窮乏下になんとか用意した。



 ワルター機関は、潜水艦に用いる場合、一般の内燃機関のごとく、発生するガスでピストンを動かし、回転運動を得る。

 しかしながら、排気が船外で気泡となって浮かび上がり、敵の哨戒機には格好の標的となるだろう。

 ワルター機関の弱点だった。



 反応によって高温を生じることも機関の耐久性を損なう。

 いやはや、なんとも扱いにくい機関である。

 わたくしは、頭を悩ませた。

 図面を見る限り、現状の日本の物資逼迫(ひっぱく)のさなか、調達はかなりの困難を予想させる。



 わたくしは、密かに家に持ち帰って、当該報文翻訳の仕事を続けることもあった。

 岩倉の実家には、陸軍士官で満州に配属されたが、戦闘で右足を負傷して内地に帰され、第十六師団で暗号解読の任務についている従弟の高安浩二(たかやすこうじ)が同居していた。

 彼は、ドイツに留学していたことがあり、ドイツ語ができた。

「こうちゃん、これなんやけど、手伝うてくれへん?」

「なおぼん、これって機密書類やんか、ええんか持ち帰って」

 浩二はわたしのことを、幼い頃から「なおぼん」と呼んでいた。

「あかんけど、もう、時間がないねん。あんたやったら秘密は守るやろ?」

「そらそうやけど…」

 そうして、ふたりして夜更けまで、ドイツ語に立ち向かった。

「ふう…。これはしかし、なおぼん、日本の技術では無理やないか?」

「あんたもそう思うか?」

「反応が爆発的って書いてあるし」

「圧力と熱をどう逃がすかが問題やね。気筒が持たへんかもしれんね」

「でも、なおぼんは水雷をやるんやろ」

「うん」

「なら、丈夫な容器があればええのとちゃうの?」

「スクリューを回すか、ノズルというて、噴射口を設けるかで変わってくるわね」

「もう、やめやぁ。つかれた」

 あたしたちは、部屋にどっかと大の字になった。

 しばらくして、こうちゃんが、あたしにかぶさってきた。

「なおぼん…」

「こうちゃん」

 ふたりはどちらからともなく口づけを交わした。

 寒い部屋で、二人は交わった。

 モンペを脱がされ、生理帯を下ろされ…

「こうちゃん、あたし、生理やねん」

「かまへん」

 血がまだ止まっていないのに、貫かれた。

 ぶじゅ、ぶじゅとひどい音が部屋に響く。

 傷んだ干物のようなにおいまでしている。

「うあ、畳がべたべたになった」

「そやから、あかんて言うてるのに」

「でも滑りがええよ。あったかい」

「気持ちええけど…外がさぶいから暖かいねん」

「ゆたんぽなおぼん」

「あほ」

 抱き合った。

 あたたかい。

 いつまでもこうしていたい。

 この戦争が、はやく終わりますように…



 じきに、浩二はあたしの中で果てて、後始末をしてくれた。

 あたしは、いそいで、お便所に走った。



 窓から冬の月がこうこうと照っていた。
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