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一章

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 全くの不本意ながら、僕は猫を飼っている。
 癖のある焦げ茶の毛並みはまずまずだが、何せ性格が良くない。こちらが痛い目を見たのは数えるのも馬鹿らしくなる程で、そのくせ、さもこの世の全てが自分の思い通りになるのが当然と言わんばかりの態度で鼻を鳴らす。あっちへこっちへ飛び回るその尻尾を、僕が必死に追いかけているのを見て笑いながら、だ。どう育ったらあんな性格になるのか。
 今宵もまた、ふらりと勝手に姿を消したにもかかわらず、「迎えにこい」と言う旨の理不尽なメールに付き合って、僕は恐ろしい場所までやって来ていた。
 メールの住所曰く、不健全な路地裏の雑居ビル、なのだが、その地下へ伸びる階段の前の男に、指定された合言葉を言えば、この通り、開けゴマのアリババよろしく違法カジノへの道が開くのである。
 ああ、あの猫め、今回もとんでもない場所に潜り込みやがって。愚痴を堪えてメールの指示に従い、おっかなびっくり入店したのがついさっきだ。
 薄暗い店内は人で溢れ、光に誘われる虫の様にテーブルに群がっては離れ、また違うテーブルに飛んで行く。店の広さもゲームの数も中々の物で、ポーカー、ブラックジャック、ルーレットにスロットマシンと、ラスベガスにでも迷い込んだ気分だ。人々はサイコロやカードの数字に一喜一憂し、非現実的な空気にあてられ、無我夢中になっていた。
 十九世紀の高級サロンを思わせる店内は豪奢ながらもクラシックにまとめられており、壁に伝うビロード一つとっても、客が座る椅子一つとっても、嫌味な程の高級感が溢れている。恐らく、ここのオーナーが自らの財力をとにかく示したいのか、或いは無学な連中に仮初の優越感を与えたいのだろう。
 店内に居る者は、その年齢も性別もまるでバラバラで共通点を見出だす事は出来ない。露出の高い服を着た若い女性が楽しげに酒を飲む向こうで、スーツ姿の老人が額を突き合わせ話し込んだりしているのだ。僕には彼らが何者なのか――善良な一般市民ではないと言う事を除けば――全く見当もつかないし、知りたいとも思えなかった。
 僕は視線を行ったりきたりさせながら、人々の間を縫って進んだ。どこそこに居ると言う指定がないと言う事は、つまり僕が見つけ出すのに苦労しない場所に居ると言う事のはず。一体どこだ、トイレか、バーカウンターか……。
「あ…アッ……!」
 考え込んでいた僕の左後方で声がした。聞き間違いではないだろうかと振り返ると、ビロードが一枚壁に垂れているのが目に入る。しかしそのビロードは、内側から盛り上がったり揺れたりしているではないか。後ろは壁かと思っていたのだが、空間があるらしい。これはカーテンの役割をしているのだ。
「…っと、ハ……あぁ…!」
 ……なるほど、これは目隠しもしなければならない。ビロードの奥から聞こえてくるのは喘ぎ声だ。
 そして幸か不幸かそれは、聞き慣れた男のものであった。つまりは、今探している男の。
「……ナイトレイ」
 ビロードに背を向け、店内を眺めながら、呆れ半分苛立ち半分で声をかけてみる。決して大声ではなかったが向こう側には十分聞こえたらしく、喘ぎ声がピタリと止み、中で動く気配がした。
 やや間があって、ビロードの隙間からひょっこり顔が突き出てきた。その顔が僕を見つけるや、のんきに笑みを浮かべた。
「やあ、ローガン。良く来てくれた」
 そう言った彼こそ誰あろう僕の猫、ウィリアム・ナイトレイその人……厳密に言うなら、その人の頭、である。
「ナイトレイ、そこで何をしてるんだ」
 彼の有様を見て僕は声を低くした。ビロードの隙間からはむき出しの首と肩がチラチラと目に入り、彼が少なくとも上半身は裸であることが見て取れる。
「お察しの通り」ナイトレイは眉を持ち上げて、まったく悪びれない様子で答えた。「少々個人的に楽しんでいた」
「人を呼びつけておいて、楽しんでた、だ? こんな時間にレンタカーを借りるのがどれだけ大変だったか……!」
「誰なンだよ?」
 不意にナイトレイの奥から訛りの強い野太い声が聞こえ、一瞬にして彼は楽しげな笑い声をあげながらビロードの向こうに引きずり込まれていった。そうだ、喘ぎ声をあげていた以上、どこの誰とも知らない相手が居るのだった。
「私の知り合いさ」
 布一枚隔てて、少々くぐもったナイトレイの声が聞こえる。男の声もそれに続いた。
「知り合い? お前の彼氏か?」
「そう言うと彼は否定するがね。恋人以外で的確に表現出来る言葉があるなら、飼い主と言ったところかな。ほら手を放して……」
「そいつも交ぜて楽しもうってハラか? お前、どうしようもない好き者だな」
 男の下卑た笑いを背中に、解放されたらしいナイトレイの頭が再びにゅっと突き出てきた。男に見えてないのを良い事に、彼は顔をしかめ、声を潜めてこっそり僕に囁く。
「聞いたか、ローガン。あいつは私を淫売か何かだと思ってるらしい」
「実際そうだろう」
「ところで、メールには従ってくれたか?」
 手ひどく返しても、てんで気にしていないこの反応である。僕は呆れながらも首を縦に振ってやった。
「ああ、言われた通り車を用意したよ」
「流石だ、ローガン。でも後十分遅く来てくれたなら、私はもう少し楽しむ事が出来たんだが……」
「おい、さっさと戻って来いよ」
 中から男の苛ついた声が聞こえる。機嫌をとる様にナイトレイは振り返って笑いかけ、私に向き直ると「ちょっと失礼」とだけ言い残して再びビロードのカーテンを閉ざした。
 すぐにゴッと言う恐ろしい音と共に男の呻き声が聞こえ、人の倒れる音が続いた。間もなくビロードからむき出しの腕が突き出し、指でちょいちょいと僕を呼んだ。
「誰も気づかなかったろう? この店は煩いからね」
 招き入れられた空間はソファが一つあるだけの狭いもので、床に半裸の男が倒れている以外は特筆すべき点は何もない。ソファの両脇はすぐ壁で、ちょっと広めの個室トイレといった印象だ。
「ナイトレイ、殺したのか?」思わず僕は問うた。
「いいや、気絶させただけだ。そこの上着を取ってくれ」
「状況が全く掴めないぞ、説明しろ。……お前がそんな恰好をしてる理由以外を」――結局のところ、ナイトレイはお座なりにスラックスを穿いただけの姿だった。
 ナイトレイはふんと鼻を鳴らして笑い、僕が寄越した男の小汚いジャケットをまさぐりながら口を開いた。
「私が今回ニューヨークまで君を連れてやってきたのは、依頼の為だというのは勿論わかっていると思うが――これが目的の物だ」
 ナイトレイが取り出したのは、長方形のシガレットケースだった。鈍く銀色に光るそれを見て僕が訝しそうな顔をすると、また彼はふふんと笑って見せて、仰々しく細い指でケースを開いた。
 僕の顔はますます顰められる事となった。それが輝く宝石だったなら納得もいくのだが、ケースに収められていたのは、酷く古い木製の十字架のネックレスだったのだ。
 ケースの中にはわざわざ厚手の赤い布がクッション代わりに敷かれていた。だが、飾り気のない十字架も、何かの革で出来ている紐も、あまりに古く汚くて、そこら辺に捨てられたゴミにしか見えない。
「さてはこれが何なのか、分かってない様だな」
 説明したくてたまらない、とばかりにナイトレイの声が弾んでいた。僕は仕方なく折れてやり「これが価値のある物には見えないよ」と彼が喜びそうな事を言ってやる。案の定、ナイトレイは嬉々として語り出した。
「これは世にも希少な物さ。グリゴリー・エフィモビッチ・ラスプーチンのネックレスだ」
「ラスプーチン? あの、ロシアの怪僧の?」
「そう、あの有名な男だ。この十字架のネックレスはカナダのとある博物館に寄贈された物だが、そこに盗みに入ったのがこの男が率いる窃盗団という訳さ。今回の依頼は博物館の館長からで、この歴史的に大変価値のある逸品を取り返す事だった」
 改めてシガレットケースの中に鎮座ましますネックレスを見てみるが、僕には結局そんな御大層なものには見えなかった。
「とにかく、仕事は済んだろう。こいつが起きる前に逃げないと」
「その通りだ」ナイトレイはケースの蓋を大事そうに閉めた後、勇んでビロードのカーテンから出て行こうとした。「裏口から出るぞ」
「……ナイトレイ」
「うん?」
「服を着ろ」
「おお」
 今気づいたと言わんばかりに彼は声をあげ、自分を見下ろした。仕事となると、それ以外の事が完全に思考回路から弾き出されてしまうのだから困ったものだ。
 ナイトレイが皺のよったシャツを着て、ジャケットを羽織ったのを見計らい、我々はビロードを押しのけてカジノへと再び現れた。人々はこちらには何の興味も示さず、好きに騒いでいる。これなら難なく抜け出せそうだ。
 ……と言う僕の考えは、どうやら甘かったみたいだ。ふと横を見れば、ナイトレイは顔色を変えてある一点を見つめている。視線を同じ所へ注いだ途端、僕は彼と同じ様な顔色になってしまった。
 二人の男がこちらに鋭い視線を向けている。その視線は、僕らはおろか、ビロードの奥に隠された秘密にまで注がれている様であった。
「あの男の仲間だ」ほとんど唇を動かさず、ナイトレイが言った。
「バレたか?」
「私がボスを張り倒したのは気づいてないだろうさ。でも……」ナイトレイが皆まで言う前に、男達は静かに歩きだした。水辺の鰐が水牛の子を狙うが如く、射抜くような視線を我々に向けて、するする人波の間を近づいてくる。「……一緒に部屋に入っていくのは見られている。つまり、ボスは出てこないのに知らない男二人が部屋から出てきた訳だ」
「誤魔化せるのか?」
「誤魔化すだって? すぐ後ろに倒れてる男が居るのに? ローガン、何のために君に車で来てもらったと思ってるんだ」
 笑いながらそう言うや否や、ナイトレイはさっと踵を返して脱兎の勢いで逃げ出した。
 一瞬遅れてその後を追った僕の後ろから、俄かに騒ぎ声が聞こえる。振り返ると、男たちが客を突き飛ばしながらこちらへ走ってくるではないか。そして血の気が引いた事に、彼らは懐から鈍く光るものを抜き放った。
「ナイトレイ、銃だ!」
 僕の怒鳴り声が終わらぬうちに、人垣を抜け出した僕らの合間を稲妻の様に銃弾が走って行き、目の前の壁にめり込んだ。
「……そのようだな!」引きつった笑顔を浮かべてナイトレイが言った。
 ホールの先は右に折れ、薄暗い廊下が続いて、扉につき当たる。その扉目指して、息をするのも忘れて走る我々の背後から発砲が続き、すぐ脇の壁が屑となって弾け飛んだ。サイレンサーでもついているのか、派手な発砲音は聞こえない。
 室内に転がり込むと、数人のコックが仰天して一斉にこちらを見てきた。どうやら厨房の様だ。ナイトレイは素早く厨房内を一瞥すると、コックを押しのけて火にかかっていたフライパンに飛びつき、横に置いてあったワインを、一気に熱せられたフライパンの上へとぶちまけた。
 コックの悲鳴と、火柱が一度に噴き上がる。間髪いれずにナイトレイは燃え盛るフライパンを、天井に向かって放り投げた。
 甲高い電子音が鳴り響き、一拍の間をおいて天井のスプリンクラーから水が噴き出してきた。僅かの間にこの目くらましを成功させたナイトレイは、僕の腕を引いて再び走り出す。厨房を突っ切って階段へ出ると、それを駆け上った。
 スプリンクラーの水をしこたま被ったが、それは敵も同じこと。男たちはこの猛烈な消火の雨に視界を遮られろくに銃は使えず、必死に追いかけたものの、僕たちが裏通りへ喘ぎながら転がり出た時は、まだ階段の下にも辿りつけていなかった。
「車は、どこだ!」顔の水をぬぐいながらナイトレイが掠れた声をあげた。
「一本向こうの路地に……」
「よし。さあ、このまま逃げ切れるかな」
「縁起でもない事言うな!」
 車まで走り、キーを取り出すのさえもどかしく思いながら、どうにかエンジンをかけた。男たちの姿は見えない。このまま大通りに出てしまえば逃げ切れる。
 ……しかし、今日の僕の考えはつくづく甘いらしい。ライトをつけた先に浮かび上がったのは、銃を構えた男の姿だった。
「アクセル!」ナイトレイが叫んだ。僕は弾かれたようにアクセルを踏み込み、耳障りな音を立てて車を急発進させる。銃声はやはり聞こえなかった。それでも弾はフロントガラスの上部を貫いた。悲鳴をあげる事もできず、これ以上は無理だというほどアクセルを踏みつけると、男は二発目の発砲を諦めて、車の前から慌てて逃げ出した。
 こんな時でも、人間を轢かずに済んだ事を神に感謝しながらハンドルをきり、車は大通りへと飛び出した。幸い時刻は真夜中を過ぎた頃で、車通りは静かなものだ。
「ナイトレイ、どこへ向かう?」心臓はまだ早鐘の様だが、銃弾に晒されている時よりは落ち着いて僕は問いかけた。「まさかホテルに戻る訳にはいかないだろう」
「そうだな。ホテルに戻れるのは、まだしばらく先になりそうだ」
 低いナイトレイの声に気づき、彼が睨みつけているバックミラーを注視した途端、ハンドルを握る手が強張った。後ろから、荒っぽい運転で他の車をぐんぐん追い抜いて近づいてくる車が一台。ギラつくライトが、獲物に襲い掛かる蛇の眼光の様に輝いている。
「やつらか?」
「ああ。あまり派手なことはしないと思っていたが、連中、是が非でもこのネックレスを手に入れたいらしい。しかしな、こちらだってプロだ。依頼された仕事を失敗するなんて言語道断。ここからは、より直接的に、生命の危機に身を晒さねばなるまいよ」
「拳銃で狙いをつけられる事よりもか?」隣で落ち着き払っている彼の態度が癪に触って、言葉を荒げた。銃を持った男二人に猛スピードの車で追いかけられて、余裕がある方がおかしいのだ。
「あっ」バックミラーを見ていたナイトレイが唐突に声をあげた。「撃ってくるぞ、気をつけろ」
 敵の車はすぐ後ろまで迫り、助手席から男が身を乗り出して片手を突き出した。勿論、その手に握られている物は言わずもがなである。高い金属音がして、銃弾が車体のどこかを掠めたのだと知った。流石に助手席に座るナイトレイも焦り、身を低くした。
「おい、映画みたいな真似はごめんだぞ!」
「すまない、ローガン」ナイトレイは困った様に笑った。「これからもっとドラマチックになるぞ」
 言い終えると同時に、ナイトレイは突然ハンドルに飛び掛かり、それを思い切り右にきった。車は悲鳴をあげてドリフトじみた右折をし、あわや敵の車に衝突しそうになりながら右手の茂みへと突っ込んでいった。
 ヘッドライトが木々を照らし、ぶつかるすれすれのところで僕はハンドルを奪い返すと、自分でも驚くほどの集中力でそれらを回避し、開けた場所へと抜けた。急ブレーキを踏んで、自分の心臓が止まってないことを確認する。木にぶつからなかったのは、奇跡としか言い様がない。
「……右折が、したいなら、そう言え!」
 息も絶え絶えにそう訴えると、ナイトレイは悪びれた様子もなく肩をすくめた。「茂みに突っ込めと叫んでも、君は躊躇したろうさ。ほら、早く車を出せ! 来たぞ!」
 斜め後方からさっとライトが差し、やつらの車が走ってくるのがミラーに映ったので再びアクセルを踏み込んだ。
「どこなんだ、ここは!」
「公園だ」ナイトレイは言った。「ホームレスを轢かないように注意しろ!」
 ああ、勘弁してくれ、眩暈がしそうだ。
 彼の言うとおりここは大きな公園で、ライトの先には手入れの行き届いた芝生が浮かび上がっていた。そしてもちろん、ベンチや木、寝ている浮浪者や麻薬をこっそり売り買いしているゴロツキまでをも暴き出したのである。
「なんで公園なんか!」
「やつらを振り切るのはほぼ不可能だ。なら残る手は、迎え撃つしかない。そのまままっすぐだ、ローガン。もっとアクセルを踏んでかまわない」
「お前の自殺に付き合うつもりはないからな」
「心中するならもっとロマンチックな方法を選ぶよ。私の合図で車から飛び降りるぞ」
 残念ながら僕は、このいかれた男のいかれた作戦に従うしかないのだ。いよいよぶつかりそうな距離の車を背後に、アクセルを全開にする。固唾をのんで前方を凝視するナイトレイの合図を待ちながら、二台の車は真夜中の公園を疾走した。
「準備をしろ!」突然ナイトレイは怒鳴った。そしてカウントダウンを始めたので、僕もとうとうハンドルから手を、アクセルから足を放し、扉に手をかけた。
「三、二、一、跳べ!」
 下が芝生で助かったが、それでも、爆走する車から飛び降りた衝撃は相当なものだった。しかし痛みに伏せている暇はなく、僕たちは同時に地面に転がり、同時に身を起こして事の顛末を見届けた。
 まず我々の車が突然消え、それを追って男たちも車ごと消えてしまった。何事かと呆然としていると、派手な着水音と車同士がぶつかる鼓膜を痛める様な轟音が同時に響いた。
 ナイトレイの後に続き歩き出す。と、突然芝生は途切れ、落差三メートルはあろうかという小さな崖が現れたので、僕は慌てて足を止めた。下は池になっていて、そこでは今まさに、二台の車が特大の廃棄物へと生まれ変わっていく最中だった。
「よく崖があるなんて知ってたな」
 呼吸を落ちつけながら僕が言うと、ナイトレイはさも当然と言わんばかりに「ここは有名な公園だからな」と返してきた。まるで僕が浮世に疎いような言い草にカチンと来たが、小言を言う気力はもう残っていなかった。
「……ではホテルに戻ろう、ローガン。タクシーを拾って、君はレンタカー屋に電話して、車を一台公園の池に水没させた場合の料金を聞き出し、私は依頼人へ仕事が完了した旨を報告するんだ……」

 



 濡れ鼠の僕たちが部屋へ戻れたのは、真夜中なのか早朝なのか曖昧な時間の事だった。二人ともくたくたで、傷だらけで、着ていた服も無残な状態だったから、ホテルのフロントを通る時に目を丸くされてしまった。
「では今日戻ります。飛行機だから……そうだな、午後一時にしましょう。一時に我が家へお越し下さい」ナイトレイは依頼者との電話を終えるや、突然どっと老け込んだ様に見え、ため息と一緒に携帯を放り出してベッドに倒れこんだ。
「こら、濡れたままでベッドにあがるな」僕が咎めても彼は聞く耳をもたず、枕に顔をうずめてもごもご喋るばかりだ。
「私はね、こんな事になるとは思ってなかったんだよ、ローガン。窃盗団と言うのは……と言うより、大概の犯罪者は、事が大きくなるのを嫌う。それだけ捕まるリスクも大きくなる訳だからね。誰にも知られない事こそが、完全犯罪成功の秘訣なんだ。だのに今回の連中はどうだい。こっそり博物館から盗んだくせに、私が奪い返した途端、カーチェイスに銃撃戦ときたもんだ。確かに価値のある物だが、何故あんなに躍起になるんだ……」
 ナイトレイはしつこく何か考えている風であったが、とにかく僕は冷え切った体をどうにかしたくてたまらず、バスルームへと逃げ込んだ。自分の思考の世界に迷い込んだ彼は放っておくに限るのだ。
 その空想の旅に出発したまま、彼はシャワーも浴びずに寝るのではと思っていたのだが、意外にもナイトレイはすぐにバスルームに姿を現した。口をもぐもぐやりながら、全裸にクッキーを持っている男と言うのは、なかなかシュールな光景である。
「なんで入ってくる」呆れ果てて僕は聞いた。
「寒いからさ」
「違う、何故人がシャワーを浴びてるのに、さも当然の様に入ってこられるのか聞いてるんだ。クッキーまで持って」
「空腹だからさ。君も食べるか?」
「風呂場で食事なんかしない」
 いくら僕が言っても、ナイトレイは気にせず肩をすくめてクッキーを頬張った。説教が彼に効かない事は、嫌と言うほど分かっている。寝たい時に寝て、食べたい時に食べて、やりたい事しかやらない。自由奔放な気まぐれ猫こそ、ウィリアム・ナイトレイなのだ。
 だから僕はもうすっかり諦める事にして、とっとと温まって出て行こうとした。
「ローガン」
 なのにナイトレイときたら、両手を後ろから僕に回して、抱きついてきたではないか。せっかくシャワーで温もりのなんたるかを思い出した皮膚に、彼の冷たい体が張り付いたものだからたまらない。
「おい、冷たいぞ!」
「じゃあ温めてくれ」
 妙に甘ったるい彼の口ぶりにぎょっとして振り返ると、ナイトレイは僕に抱きついたまま上目づかいを発動させていた。子供が親に何かをねだる時に使う、俗にいう「子犬顔」とやらと種類は一緒だが、ナイトレイのそれはもっと堕落した願いに使用される分質が悪い。バスルームの暖色系の光をその灰色の瞳に灯らせて、彼の瞳は妖しく輝いていた。
 ナイトレイの手がするすると僕の体を撫でだしたので、慌てて身を反転させ正面から向き合う形になった。
「ナイトレイ」咎めるように名前を呼んで、華奢気味な彼の肩に両手をかける。しかし、やはりと言うか、彼は離れるどころか両手を僕の首筋に回して、更には一度、二度とキスまでしてきた。
「珍しく考え事を打ち切って来たと思ったら、このためだな?」
「君のせいでもあるんだぞ」彼の声も表情も、今や批難する響きさえ含んでいる。「君が早く来たばっかりに、私は中途半端に投げ出されてしまった。良いところだったのに」
「つい二時間前に殺されかけたんだぞ、この状況でどうしてそんな気が起こる?」
「吊り橋効果と言うのがあってだな……」
「そう言う事を聞きたいんじゃない!」
 形だけの抵抗をしてみても、これまでの経験から逃げ道がないのは分かっており、情けないかな、すでに僕は自らの敗北を認めていた。結局こうして流されてしまい、この猫が更に調子に乗るのだ。
 すっかりスイッチの入ったナイトレイは、僕の諦めを敏感に感じ取ると、嬉々として口付を深めていった。口内にするりと舌が差し込まれ、仕方なくそれに応えると鼻にかかった声が聞こえてくる。
 冷たかった体も、シャワーのせいか抱き合っているせいか生き物としての温度を取り戻し、触れ合った箇所は熱くさえ感じる。特に、絡む舌は、火傷をしそうな錯覚までした。
「ん……っはぁ…」
 掠れた声が鼓膜を震わせ、唇に、舌に、柔らかくも官能的な刺激が与えられると、抗いがたい熱が腹の底から溢れてくるのがよく分かる。ウィリアム・ナイトレイは、無意識のうちなのか計算ずくなのか知らないが、恐ろしく男の性を刺激する人間だった。
「ローガン……ッ」
 毎回この声に煽られて、彼の痴態に我慢がきかず、吐き出す吐息一つにも意識を持って行かれる。だから僕は、ナイトレイのスイッチが入ると逃げられなくなるのだ。意志薄弱と言うなかれ。
 ナイトレイの唇が僕の首筋を滑り、甘く噛みついてくる。回した手でつっと背中を撫で上げてやれば、それだけで彼は息を詰めて体を震わせた。この反応がたまらない。
 背を反らせた彼の首に歯を立てると、回された腕に一瞬力がこもり、いよいよ甘い声が聞こえてきた。薄く頬と目元が上気して、ハッとさせられる程艶めかしさを増しているその顔を見たら、もう駄目だ。ああ、くそ。
 胸の中で毒づいて、理性を放棄する事にした。ここまできて我慢なんて出来るものか。
「ナイトレイ……――」
 シャワーの水音に紛れて名前を呼び、その体のラインを掌で上へとなぞっていく。彼の口から期待に満ちた震えるため息が零れた。
 その時、バスルームに飛び込む音があった。チャイムである。二人して思わず顔を見合わせたが、すぐにナイトレイは気を取り直して僕に口付けてきた。
「気にしなくていい、部屋を間違えたんだ」
 しかし扉の向こうの人物は、まさにこの部屋に用事があるらしかった。我々がキスをして抱き合っている間、二度、三度とチャイムが続き、とうとうドアを乱暴にノックする音まで聞こえ出した。そして極めつけは、「エドワード・ローガン、警察だ。ここを開けなさい」
「警察?」僕は素っ頓狂な声をあげて仰天した。ナイトレイは変わらず、僕の首筋や鎖骨の辺りにじゃれ付いてキスを続けている。
「レンタカーは君の名義で借りたのか?」
「さっきのカーチェイスのせいか?」
「ほっときゃ良いさ。いいから続きを……」
「警察が僕の名前を呼んでるんだぞ!」
「それがどうした。こっちは取り込み中なんだ。あっちが出直せばいい」
 邪魔をされて苛ついてきたのか、ナイトレイの声に棘が生え始めた。彼の気迫に思わず尻込みしたが、警察は勿論そんな事情を知る訳もなく、こん棒でぶん殴っているのではと思う程強くドアを打ち鳴らした。
「エドワード・ローガン、居るのは分かってる! 扉を開けないなら、無理やり入ることになるぞ!」
 ナイトレイがとうとう僕から離れて、荒々しくバスルームから飛び出していった。ちらりと見えた彼の目は完全に据わっており、嫌な予感しかない。何よりもまず、裸で出て行ったのがすでに洒落にならない訳だが。
「ナイトレイ、待て! 素っ裸だぞ!」
 慌てて後を追おうにも、僕も裸だ。バスローブを探している間に、ドアを開ける音が聞こえ、警察の息をのんだ気配がこちらまで伝わってきた。不機嫌丸出しで出迎えた男が、他の物まで丸出しなのだから無理もない。
「……エ、エドワード・ローガンですか?」警官が、掠れた声で問うた。
「彼は奥にいる。ところで貴方は、時計を見るという文化のない国の出身ですか? こんな時間に喚き散らすなんて、非常識だとは思わないんですか、お巡りさん」
「ナイトレイ、やめろ!」どうにか探し当てたバスローブを着て僕がその場に駆けつけると、警察は「お巡りさん」呼ばわりを不愉快に思ったらしく、ナイトレイを信じられない物でも見るような目つきになっていた。
「失礼、彼は酔っているんです。さあ、さっさとこれを着ろ」警官を睨みつけているナイトレイにバスローブを羽織らせて、改めて真夜中の訪問者に白々しく向き直った。「僕がローガンです。一体なんの用でしょう?」
 警官は怒りで自尊心を取り戻したらしく、ふてぶてしい態度で僕を睨めつけた。
「署にご同行願いたい。貴方がカーチェイスを繰り広げ、公園の池に突っ込んだ事について話を聞かせて貰いたいのでね」
「もう一台の車に、死体は?」横からナイトレイが口をはさんだ。
「死体だって!」警官は途端に青い顔をして、我々を交互に見やった。ああ、今確実に殺人犯だと思われている……。
「違います、僕らを追っていた男たちの事です。車と一緒に池に落ちたのですが、僕らは奴らの末路を知らないんです」
 努めて人当りよく説明を試みるのだが、警官は応援を乞いたくて仕方ない様子で、視線がしきりにトランシーバーに注がれていた。      
 この場合、果たして僕はなんの罪に問われるのだろう。そもそもの発端、違法カジノの件から話をしなければならないのだろうか。正当防衛として認められなければ、かなり面倒なことになる。
「ところで教えていただきたいのですが、ここにやってくる前に、勿論、悪党を捕まえたんですよね?」突然ナイトレイが、酷く小馬鹿にした口ぶりで警官に話しかけた。
「シュナイダー通りにある違法カジノで通報があったはずだが、火災報知器を作動させたのは私だ。警察は迅速に現場に駆け付け、逃げ遅れた武器商人やマフィアなんかを捕まえたんですよね? 麻薬王のジェファーソンも居たが、彼も捕まえたんでしょう。逃がす理由がありませんから。で、それらを全部終えたうえで、貴方がたニューヨーク市警の大手柄に一躍買った私とローガンに事情を聞きにきたんですよね、こんな時間に。失礼、なんだか貴方の口ぶりからして、我々を逮捕でもしようと言うのかと思いましてね」
「ナイトレイ、落ち着け。車を池に落としたのは事実だろう」僕は必死にナイトレイの機嫌を取ろうとしてみたが、彼の眉間の皺はちっとも消えない。
「だからなんだ、レンタカーを守る代わりに我々が死ねと言うのか。私は、こいつが生涯かけても逮捕出来ない様な犯罪者に手錠をかけるお膳立てをしたんだぞ。なのにこの扱いはなんだ、夜中に押しかけて人を極悪人みたいに言い、署までついて来いだって? ついてきて欲しいなら、リムジンと三ツ星レストランのフルコースでも用意してこい!」
 疲労に加えて、空腹もナイトレイの怒りに一役買っているらしい。残念ながら、怒りの中から彼を救い出す術を僕は知らなかった。
「彼らも仕事なんだ、そう怒るな」
「人が命の危機から脱して、ようやく一息ついてるところに怒鳴り込んでくるのが警察の仕事なのか? おい、あんたの名前と階級を教えろ」
 警官は言いよどんだが、ナイトレイが一喝すると、吐き捨てる様に「ジョナサン・バーバー警部補」と呟いた。それを聞くや、ナイトレイは荒い足取りでベッドの方へ向かっていく。僕はどちらの味方にもなれず、彼の背中を眺めた。
「冷静になれって。怒っていても話はすすまないぞ」
「セックスの途中だったんだぞ、怒らずにいられるか!」
「なっ……!」
 不意の爆弾投下に、ジョナサン・バーバー警部補が目をむいて僕を見てきたので、咄嗟に酷い作り笑いを浮かべてしまった。よく考えれば、二人して濡れた頭にバスローブ姿。一緒にシャワーを浴びていたなんて一目瞭然だ。なんたる不覚だ!
 恐ろしく気まずい沈黙の中に、突然ナイトレイの声が飛び込んできた。彼は携帯でどこかに電話をかけた様だ。
「もしもし、こんな時間に悪いね、チャック。実は今ニューヨークにいるんだが、ちょっとした事件に巻き込まれてね。道路交通法を七つ程破り、公園の芝生やらなんやらをめちゃくちゃにして、乗っていたレンタカーを池に落としたんだ。ああ、笑えるだろう。でも銃を持った男に追いかけられていたんだ、正当防衛になるよな? ……ああ、仕事で。……うん、朝一の飛行機に乗って帰らないとならないんだ。後は上手いこと頼むよ。ああ、また食事でもしよう」ここで一旦ナイトレイは言葉を切り、これ見よがしにちらりと警部補の方を見てから再び口を開いた。「ところで、おたくの部下はあまり躾がなっていない様だねえ。大捕物に協力した我々に対して、非常に不愉快な態度をとったよ。ジョナサン・バーバー警部補と言うらしい、ちょっと話してくれないかな」
 彼は帯電話を警部補へと渡した。戸惑いつつも警部補は電話を耳に押し当て、口を開く。
「はい……? ……け、警視総監!」警部補は悲鳴をあげた。
 それは見ているこちらが可哀そうになってくる光景だった。警部補は顔色をコロコロ変えて、どっと汗をかき口が回らないでいる。
 やがて何か話し終えたらしい警部補は、呆然と青白い顔をしていた。
「これで我々の身の潔白は証明されましたね。おやおや、顔色が悪いですよ、警部補」いやらしい口調でナイトレイはそう言い、警部補の手からひょいと携帯を奪い返した。
 はたして電話越しに警視総監から何を言われたのかは分からないが、警部補がのろのろ顔をあげてナイトレイを見る目には、驚愕と絶望とが入り混じっている。それを見るやナイトレイはニコリと笑った。
「では、ご機嫌よう!」声高に言った後、哀れな警部補は荒く閉められた扉の向こうへと消えてしまった。
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