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1. ドラキュラ総会

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1. ドラキュラ総会


 トランシルバニアの空に赤い月が上る夜。それは、十年に一度のドラキュラ総会が開かれる夜だ。
 ドラキュラ総会とは、ドラキュラ一族の健やかな繁栄の為に、世界中のヴァンパイア達が、ここトランシルバニアのドラキュラ伯爵の城に集まる、十年に一度の大切な集まりである。
 世界中の、と言ったが、ヴァンパイアであれば誰でもドラキュラ一族に入れるかと言うとそうではない。ドラキュラに直接血を与えられた“第一世代”と、その第一世代から血を与えられた“第二世代”までの、所謂“純血”の者だけが栄誉あるドラキュラ一族の仲間と認められ、そこから先の木の根の様に広がるヴァンパイア達は「雑種」と一まとめに呼ばれているのだ。二〇十七年現在、この純血にあたるヴァンパイアの数は、霧と夜闇に包まれた栄光の時代から随分と減り、たったの二十三人になっていた。
「ドラキュラ総会を始める」
 重々しい声でそう切り出したのは、誰あろう全てのヴァンパイアの王、ヴラド・ドラキュラ伯爵だ。総会に集まった者達は玉座に座る彼らの王の前に並び、じっとその言葉を聞いていた。
 豪奢な装飾のついたその玉座の横には、彼の四人の花嫁の内、一番のお気に入りであるミナが立っていた。ヴラドがしわだらけの老人であるのに対し、ミナは数百年の時を生きた今でもまだ若々しく美しい。その歪な対比が、ヴラドを見る者にある種の威厳を覚えさせるのだった。
「今回の議題は、今までの総会の中で扱ってきたものの中で一番重要じゃ」
 ヴラドのしゃがれた声がぐるりを囲む石柱に跳ね返って何重にも重なって聞こえる。その反響で遥か頭上の天井に釣り下がって寝ていたコウモリ達が目を覚まし、真っ赤な瞳を輝かせてキィキィと鳴き出した。
 ヴラドは目を細めて、その場に居る全員を睨み付けた。
「わしの後継者……ドラキュラ一族の次期族長を決めようと思う」
 人々は驚き、すぐに興奮と戸惑いの囁きが広間をに広がった。誰もかれもが、ヴラドはまだ若く現役で、永遠に一族をおさめてくれるものと信じてやまなかったのだ。
「ベラ、クリストファー。こちらへ」
 人々がさっと左右に割れ、中から二人の男が進み出てきた。
 黒髪をべったりと撫でつけ、尖った鼻に血色の悪い顔、黒づくめの服に身を包んでいるベラは、まるで若き日のドラキュラ伯爵の生き写しであった。それもそのはず、彼はドラキュラの実の息子なのだ。彼はやたらと神妙な顔つきで、厳かに足音もなく現れた。
 もう一人の男クリストファーは、少し長い金髪にワックスをつけて散らし、この場の人々とは全く違って、白いシャツに黒いスキニージーンズにブーツと言う、とても現代的な服装をしている。口端には常ににやけた笑みを含ませ、人を小馬鹿にしたような……良く言えば悪戯っ子のような目つきをしているせいで、兄であるベラとも、父であるヴラドとも似ていないと評判だった。彼は飄々とした態度を崩さず、だらしない足取りで兄の横へと並んだ。
 こうして目の前に二人の息子が立つと、ヴラドは彼らを交互に見やって目を細めた。
「久しぶりだな、息子達よ」
「ご無沙汰しています、父さん」とすかさずベラ。
「やあ、父さん」と砕けた口調でクリストファー。
 ベラは横目でじろりと弟を睨んだが、クリストファーはひょいと肩を竦めただけだった。ヴラドは話を続ける。
「永遠の命があるとは言え、わしももう年じゃ。そろそろ引退し、若い者に一族を導いてもらいたいと思っておる。して、次期ドラキュラ一族の族長は、わしの実の息子が適任であると皆も納得してくれると思うのだが、問題は、どちらが適任かじゃ……」
 この時、その場に居る全員が(誰よりもベラ自身が)、次期族長に相応しいのはベラだと思っていた。なにも難しい問題ではない。ドラキュラ然としたベラのまっすぐな立ち姿の横に、そこらのクラブで夜通し遊んできたようなクリストファーがあくびをしながら猫背で立っているのだ。どちらが適任かは一目瞭然である。
 ベラは期待を込めて闇色の瞳を父へと向けた。そして、父が喜びと親しみの詰まった声で自分の名前を呼んでくれるのを待った。名前を呼ばれた瞬間に湧き起こる拍手の感動を、空想の中でしっかりとかみしめさえしていた。
 しかし。
「……皆も知ってのとおり」ヴラドは両手の節くれだった指で目元を覆った。「族長になるにはいくつか条件がある。一つ、皆の上に立つ素質がある事。二つ、一族の繁栄の為に常に最善を尽くす覚悟がある事。そして三つ――……」
 その規律はベラも勿論知っている。父の声に合わせて胸中で一つずつ族長になるための条件を唱えたベラだったが、最後の一つに差し掛かり、はっとして顔色を変えてしまった。
「……三人の花嫁を娶っている事」
 落胆したヴラドの声は、凍てつく極寒の息吹となってベラへと吹きかかり、彼を凍りつかせてしまった。
 クリストファーが真っ青になっている兄を見やった。他の者達も、両親も、その場に居る全員がベラを見た。
「我が二人の息子のうち、クリストファーはすでに妻が居る」
「ああ、21人ね」
 へらへら笑いながらクリストファーが付け加える。ヴラドの溜息が大きくなった。
「しかし、ベラは……」
「父さん、待ってください!」ようやく金縛りからとけたベラは、慌てて一歩踏み出した。「確かに私は結婚していませんが、妻なんて必要ありません! 身の回りの事は全部自分で出来ますし、フランケンシュタインの怪物が居ます。召使が一人いれば、私にはそれで十分です!」
「わしが定めた規律を、わしの息子が破ろうと言うのか」
 途端、恐ろしい声でヴラドは唸り、彼の目が真っ赤に輝いた。ベラはぐっと息をのんで俯いたが、その顔は焦りに歪んでいる。しかし、焦っているのはベラだけではなかった。
「ちょっと待ってよ父さん、まさか僕に族長になれって言うんじゃないよね?」
 兄と父を交互に見やり、今度はクリストファーが一歩踏み出した。ヴラドは目を細め、末の息子をじっくりと眺める。
「族長になりたいのか?」
「冗談だろ!」クリストファーは両手を振った。「僕は自由気ままにやる性分なんだよ、一族の長なんて勤まらない。他の皆だってそう思ってるし、父さんだってそれは承知だろ。次の族長は、兄さんが適任だ」
 この言葉に反論する者は誰もおらず、皆は心配そうにベラを見つめた。
 なんたる屈辱! 今までかの有名なドラキュラの名に恥じぬよう努力を怠った事のないベラが、この瞬間初めて落ちこぼれとなったのだ。彼は何も言えずに床のヒビを睨みながら、必死に考えを巡らせていた。
「わしも、ベラが適任だと思う」
 厳かな父の声に、ベラは死にかけていた望みが息を吹き返すのを感じた。しかし、急いで顔をあげた先で見た父の渋い顔に、再び希望の呼吸が弱まってしまう。
「だが、決まりは決まり。ドラキュラ一族の約束は岩よりも硬い。わしは、この決まりを変えるつもりはない」
「じゃあ――」
 兄弟の顔色が、同じ理由で青くなった。
「ベラ、お前に一週間やろう」
 しかし、ドラキュラ一族の約束は岩のように硬くとも、長の頭はそこまで硬くは無い。だしぬけにヴラドはそう言うと、ずいっと前のめりになり長男を睨み付けた。
「一週間以内に三人の花嫁を連れてこい。一週間後の今日、ここで新族長就任の祝いの宴を行う。万が一それまでに花嫁を見つけてこなかった場合、弟のクリストファーを新しい族長とする」
「そんな!」
 兄弟は同時に叫んだ。
「今回の話し合いは以上じゃ。これにてドラキュラ総会を終了する! 後は好きに近況報告でもしておれ」
 ヴラドは立ち上がると、するすると足音もなく玉座から離れていった。人々はこの一大事に動揺し、ああでもないこうでもないと早口に話し合っている。ベラとクリストファーはお互いに青白い顔で見つめ合ったが、耐え切れずにベラは父親の元まで走って行った。
「父さん、待ってください!」ヴラドは立ち止まった。「本気なんですか、クリストファーを族長にするって! いや、実の弟ですから悪くは言いませんし、あいつにも良い所はありますが、でも、あいつは金髪なんですよ!」
「ベラよ」
 父は物憂げに目を細めた。
「お前はわしの自慢の息子じゃ。幼い頃から常にドラキュラ一族の事を考え、伝統を重んじ、一族に忠誠を誓ってその身を捧げてくれていた。お前がわしの跡を継いでくれるなら、わしはいつこの胸を杭で貫かれても惜しくは無い」
「ではどうして、花嫁を迎えなければ族長にしてくれないのですか! 私は一人でなんでもできます! 本当に必要ないんです!」
「お前はまだ若い。永遠の重みを分かっておらんのじゃ」ヴラドは深いため息を吐き、息子の肩に手を置いた。「三人の花嫁を娶らなければならない理由はただ一つ。“永遠”に押しつぶされてしまわぬようにするためじゃ。孤独と言う毒はお前の思う以上に強く、厄介で、邪悪なもの。その脅威から逃れるために花嫁が必要となる」
「だとしても、何故三人も!」
「一人では花嫁の方が参ってしまうのじゃ。我々の命は永遠でも、愛は永遠ではない。だから三人で少しずつ分担し、彼女達の重荷を減らしてやるのじゃ。まあほれ、毎日パンだと飽きるじゃろ」
「そのパンを愛しているなら、私は毎日パンでも構いません。父さんだって結局、花嫁が四人居ても、母さんを一番に愛しているでしょう? だったら花嫁は一人でも構わないはずだ。それに、一週間ではその一人だって見つけられませんよ! だって、出会って、デートして、恋人同士になって、プロポーズするまで、普通は何年もかかるのに!」
 ヴラドはベラを見つめ、息子の頬を優しく二度叩いた。老人の瞳には何とも言えない複雑な光が揺れている。
「ああ、ベラ。お前は昔からそうだな。情熱的で、感受性にすぐれ、心根が優しい」
「優しいですって? この私が!」
「初めてネズミの血を吸った時は、一晩中ベッドで泣いておったろう」
 ベラはひゅっと息を吸い込んで黙った。まさかそれを知られているとは思っていなかったのだ。
 ヴラドは深い声で続けた。
「わしも、クリストファーも、他のどのヴァンパイアも、お前のような優しい心は持ち合わせていない。しかし、その優しさこそが、ヴァンパイアとしてのお前の枷になっておる……女の意思など関係なく、魔力で操り、さらってくるのじゃ。デートやプロポーズなんて馬鹿なものに割いている時間はない。皆そうして花嫁を迎えておる。お前の母さんだって、そうやってわしの嫁になった。……優しさは、ヴァンパイアには邪魔なだけじゃぞ」
 ベラはショックで何も言えなかった。そんな悲しい出会いであっても、自分の両親は愛し合っていると確証が欲しかったのだが、言葉として問いかけて、否定されてしまうのが怖かった。
 老ヴァンパイアは静かに息子から離れると、やはり音もなく歩き出し、去り際に消え入りそうな声で呟いた。
「お前に弟程の狡猾さがあればな」
 暗闇に溶けた父親の後ろ姿をいつまでも見つめながら、ベラは暫くその場から動く事が出来なかった。けっして優しい父ではなかったが、それでも、頑張るベラを誇りに思っている事は伝わっていた。その父に、こんなにもハッキリと落胆されたのは初めてだった。
「ベラ」背後からミナが近づき、息子の肩を叩いた。若さを保っているミナがベラの横に並ぶと、ともすれば母の方が息子より若く見えてしまうのは不思議な光景だ。
「大丈夫?」
「母さん、私はどうしたら良いのか……。父さんを失望させてしまった」
「そんな事ないわよ。ただあの人は最近少し憂鬱でね、なんでも悪い方に考えてしまうの。だから安心したいだけなのよ。お前への愛情は少しも変わってないわ」
「私だって父さんを安心させたい。でも、たった一週間で三人も花嫁を見つけてくるなんて! 分かっているでしょう、母さん。私はクリストファーとは違う。あいつみたいに上手く女性と接する事が出来ませんし、それに」ベラは一度言葉を切って俯いた。「私なんかの妻になるなんて、可哀想です……」
「馬鹿な事言うんじゃないの、お前は自慢の息子だわ。頑張り屋で、誠実で、優しくて、父さんに似てハンサムだし」
「優しい!?」ベラは絶望的な顔でミナを見つめた。「どうして母さんまでそんな事を言うんですか! 私のどこが優しいと言うんです! 私はあのドラキュラ伯爵の第一子、優しさとは無縁の残忍な男ですよ!」
「なら女性を三人さらってくるくらい訳ないわよね?」
 我が子の事ならなんでも見透かす母の瞳に見つめられ、ベラは固まってしまった。あまりの正論にぐうの音も出ず黙りこくってしまった息子を見たミナは、かつてドラキュラ伯爵の心を奪った美しい微笑みでベラを慰めると、彼の顔を覗き込む。
「優しいベラ。お前の悩みはよく分かるわ。本当よ。だって、私はさらわれた張本人なんだから。確かにお前が心配しているとおり、最初は悲しくて、怖くて、戸惑っていた。でもね、今ではこんなに立派な二人の息子に恵まれて、心から幸せなのよ。あれであの人も、なかなか優しいしね」
 その言葉と、母に両手を握られた温もりで、ベラは少し気分が良くなった。ミナがヴラドへ使った“優しい”と言うのは、ベラを表す“優しい”とは違うものなのだが、先ほど優しさを全否定した父が優しいと称されるのは小気味が良かったし、何より両親の仲の良さを垣間見れる瞬間は、子供にとってこれ以上ない歓びであった。
「重要なのは誰と結婚するかではなく、どんな結婚生活を送るかなのよ」ミナは続けた。「お前ならきっと、どんな花嫁でも幸せにしてあげられるわ。だから自信を持って、誰でも良いからさらっていらっしゃい。そして父さんを安心させてあげて。……お前が頼りなのよ」
「……分かりました」
 親に頼られる喜びがベラの顔の半分を微笑ませ、その責任の大きさがベラの顔の半分を翳らせたせいで、彼の笑顔は子供が描いた絵のように歪んだ。ミナはそっと息子を抱きしめて励ますと、今度はヴラドを元気づけるべく、夫の後を追って闇に消えてしまった。
 ベラは深い溜息をつきそうになるのをぐっとこらえた。それから背筋を伸ばして、黴臭い城の匂いをいっぱいに吸い込んで胸を膨らませると、「私はドラキュラ伯爵の息子だぞ」と、声に出して自分に言い聞かせた。
 弱気になっている暇はない。父親のためにも、一族のためにも、なにがなんでも花嫁を連れて来なければいけないのだ!



「フランク! おい、フランク!」
 自分の城に戻ったベラは、帰宅するや否や決意に満ちた声で呼ばわった。彼の声が暗い廊下に吸い込まれると、奥の方からドスドスと大きな物が歩いてくる音がして、すぐにその足音に見合った巨体が現れた。
「はいはい、坊ちゃん、おかえりなさい」
 ベラの声に応じて城の奥から現れたのは、「フランケンシュタインの怪物」であった。名前が長すぎるのでベラは縮めてフランクと呼んでいるが、プロレスラーでも首が痛くなるほど見上げなければならない大きな体に、ツギハギやボルトが見え隠れする緑色の肌を見れば、わざわざ「怪物」なんて呼ばなくても十分だろう。
フランクは自分の主人を見下ろした。「ドラキュラ総会はどうでした?」
「その話は後だ! すぐに車を用意しろ、今から町へ向かう!」
「町へ? 一体何しに?」
「説明は後だ、良いからさっさと車を用意してくれ!」
 傍若無人な命令は慣れっこなフランクが、はいはいと主人の言葉に従おうとすると、二人しかいないはずのその場に、何の前触れもなく第三の声が飛び込んできた。
「やあ、兄さん」
 ベラはぎゃっと悲鳴を上げて、文字通り飛び上がった。
「クリストファー!」口から飛び出してしまいそうな心臓を飲み込んで、ベラは喘ぎ喘ぎ弟の名前を呼んだ。ついさっきまで居なかったクリストファーが、悪びれた様子もなくそこに立っているではないか。
「一体、どこから……何故お前はいつも扉を使わない!」
「そりゃあ、一回でも招かれたらヴァンパイアはどの家でも入れるし、兄さんの城のドアノッカーって陰気すぎて触りたくないんだもん。下痢してるガーゴイルみたいなやつ」
「だとしても、親しき仲にも礼儀ありだぞ! いくら兄弟と言えど、毎回毎回こうやって後ろに立たれちゃあ、こっちの心臓がもたない!」
「臆病だなあ、それでもドラキュラ伯爵の息子かい?」
 ベラはじろりと弟を睨み付けたのだが、このちゃらんぽらんな弟にそんなものは通用しない。クリストファーは、薄暗く、湿っぽく、鬱々とした、家主そっくりな城内を無作法に眺めながら、落ち着きない子供のようにあれこれと触りだした。
「兄さんを脅かしに来たんじゃないよ。手伝いに来たんだ」
「手伝い? なんの手伝いだ?」
「花嫁探しだよ!」クリストファーは大げさに両手を広げた。「だって兄さん、一人じゃ絶対に花嫁を連れてこれっこないだろ。兄さんがちゃんとやってくれなきゃ、僕が困るんだよ。もし僕が族長になったらどうするの?」
 何も知らないフランクは兄弟を見下ろし、一体何の話をしているのだろうかと頭を掻く。その横でベラはバツの悪そうな顔になると、頭を抱えた。
「分かっている、だから私なりに全力を尽くして……」
「ああ、よしてよ! 今まで女の人と手をつないだことがあるの? 母さん以外で?」
 ベラの喉から変な音が鳴った。
「ベラ、現実的な作戦を立てなきゃ。まあ、兄さんが僕の妻をくれって言うなら、三人くらい別にあげても良いんだけどさ、いっぱい居るし」
「はあ!?」
「冗談だよ、怖い顔しないで。……いや、本当は本気。でも兄さんそう言うの嫌いだろ?」
 自分の非情な発言に顔色を変えた兄が説教をし出す前に、クリストファーは肩を竦めると先を続けた。
「とにかく僕が言いたいのは、兄さんみたいな初心者は、海じゃなく釣り堀で魚を釣った方が良いって事さ」クリストファーは兄の肩を抱き寄せると、ドラマチックに声を低くした。「ルーマニアの女は兄さんにはハードルが高すぎる、だからもっと食いつきの良い、飢えてる女が居る所に行くんだ。そうすりゃ、向こうから勝手にやってくる。信じてよ、僕もよくナンパしに行くんだから。積極的すぎて、兄さんにはちょっと刺激が強いかもしれないけどね」
 にんまりと人の悪い笑みを浮かべるクリストファーの口元に鋭い犬歯が覗いている。ベラは弟の台詞を理解しようと努めたが、やっぱりよく分からなかった。
「つまり、私にどうしろと言うんだ?」
「準備は僕が全部整えてあげるよ。兄さんはただ、飛行機に乗るだけで良い」
「飛行機だと!」
ベラは叫んだ。
「一体私をどこへ連れて行くつもりだ!」
 悪戯な喜びに満ちたクリストファーのこの笑顔でさえ、女性達は見惚れて頬を染めるのだろうか。しかし、数百年一緒に暮らしてきた実の兄であるベラは、その爛々と輝く瞳の危うさを十二分に承知している。

 そして残念な事に、ベラの予感はやはり的中してしまったのだ。
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