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6.それから

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6.それから


 ゆっくりと意識が浮上した途端、ベラは不思議な感覚に気が付いた。背中がやけにふかふかしている。それに後頭部も、柔らかいものに包まれているようだ。更に両腕と胸の上に重たい物が乗っかっていて、身動きがとれない。磔にでもされた状態で、一体自分の身に何が起こっていると言うのだろう。
 恐る恐るベラは目を開けた。自分の胸の上に何が乗っかっているのかと確認しようとしたが、目に飛び込んできたのはなんだかよく分からない物だった。大きくは無い。かと言って小さくもない。茶色い妙な物体。次にベラは自分の両腕を交互に見やって、腕を抑え付けているものの正体を探った。
 そこに居たのは、ガーティとケイトだった。二人はそれぞれベラの腕に頭を乗せて、小さな寝息をたてて眠っている。まさかと思い、首を傾いで改めて胸の上の物体を横から覗き込んでみると、やはりすやすやと眠っているメイだった。茶色いのは彼女の髪の毛だったのだ。三人の子供達にぴったり寄り添われ(あるいはのしかかられ)、ベラが眠っていたのは、ベッドの上だった。首だけ動かして室内を見渡せば、そこはドラキュラ城の昔の自分の部屋であり、窓の外はとっぷりと日が暮れている事が分かった。
 今は一体いつの何時だろうとぼんやり考えながら、ベラは頭を枕に埋め直す。物心をついてから、かたくなに棺で眠っている彼にとって、ベッドと枕と上掛けに包み込まれる感覚は、驚きと感動でいっぱいだった。何より、広い。三人の子供達と一緒に眠って、まだ余裕があるなんて。
「そろそろベッドに鞍替えするのも悪くないな」と、口には出さずベラは考えた。途端に、今まで数百年、意固地になって棺桶にこだわり続けていたのが馬鹿らしくなって、くっと小さく笑いをこぼしてしまう。彼の胸が笑ったせいで波打つと、その上に乗っていたメイが目をさまし、ぼんやりとベラを見上げた。
「おはよう、メイ」
 ぐっすり眠っている姉達を起こさないように、ベラは声を潜めてメイに話しかける。しかし、メイはその声を聞くや否や、城中の人々が飛び起きそうな悲鳴をあげてベラの上で跳ねた。
「ベラが起きた! おねえちゃん、ベラが起きた!」
 勿論、この騒ぎに姉二人は目を覚ました。そしてベラの目がぱっちり開いているのを見ると、妹と同じように喜びの悲鳴をあげ、彼の首筋に抱きつき、キスをし、部屋から飛び出して行ってしまった。「ベラが起きたわ、ねえ、ベラが起きた!」
 悲鳴が遠ざかると、ベラはゆっくりと身を起こして自分の具合を確かめた。気分は悪くないが、まだぼんやりする。体に痛みはなく、傷もすっかり治っていた(ヴァンパイアは治癒能力が高いのだ)。足も腕も動くし、無くなってしまった部分も見当たらない。どうやら、自分は健康なようだ。
 廊下が騒がしくなって、子供達と、フランクと、ミナと、ヴラドと、彼の三人の花嫁がどっと部屋の中に雪崩れ込んできた。急に賑やかになった部屋の中で、一体誰に話しかければいいか分からないでいると、ミナが真っ先に息子を抱きしめて、頬に熱いキスを送った。
「良かった、三日も目が覚めないから心配してたのよ!」
「三日ですって!」ベラは仰天した。「あれから三日も経ったと言うのですか? あの後、一体何があったのです? ぼんやりして、記憶があやふやなんです。確か、ハンター達が乗り込んできて、それで……」ベラははっとした。「クリストファーは!?」
「心配するな」ヴラドは優しい声で言う。「火傷は残ったが、すっかり元気になった。あの後、お前達を城に運んで治療したのじゃ。ハンター達はまだわしらを倒したそうにしていたが、それを説き伏せたのはこの子達じゃぞ。まったく、わしはこんなに肝の据わった子供を見た事がないわい」
 信じられない事に、ヴラドは笑顔で(本物の笑顔で!)三姉妹を見下ろし、彼女達を褒めた。ベラはすっかり打ち解けている彼らをぽかんとした顔で見つめ、一体どんな魔法が働いているのだろうと考えた。
「どうして助けにきてくれたんです?」
「フランクから伝書コウモリを受け取ったのよ」ミナが答えた。曰く、ドラキュラの息子の大喧嘩を止められる者が居るとすれば、それはドラキュラ本人以外に居ないと考えたフランクが、地下牢から逃げおおせた後に、クリストファーの城の伝書コウモリをふん捕まえて、急いでヴラドへ飛ばしたのだそうだ。戦っている最中の到着は叶わなかったが、あそこでヴラドが乱入しなければ今頃クリストファーは死んでいただろう。ベラは感謝と尊敬の眼差しをフランクに送り、優しく微笑んだ。
「それで、ハンター達は?」とベラは問うた。
「帰って行った。驚いた事に、奴らは話せば分かる連中なようじゃ。ただの野蛮なヴァンパイア殺しかと思っておったが、奴らなりに言い分があるらしい」
「第三世代以降にドラキュラのなんたるかを教えず、野放しにしているから人間が意味もなく襲われるのです、父さん。雑種と突き放さず、我々と同じ教育を与えれば、無駄な争いも避けられるはずです。現に我々ドラキュラ一族の者は、ハンターといざこざになった事なんてないじゃないですか」
 病み上がりだと言うのに、朗々と演説をうちはじめた生真面目な息子を見て、ヴラドは溜息をついた。「お前が族長になったあかつきには、好きにするがよい。一族の者を納得させることが出来るのならな」
「勿論です、私が族長になったら――……」
 ふっつりとベラの言葉が途切れ、彼の目は子供達へと吸い寄せられていった。族長になったら……それはつまり、ドラキュラ一族のために心身を捧げ、それ以外の全てを切り捨てる事に他ならない。
 もし、族長になったら、子供達とは居られない。
 ベラはゆっくりと息を吸い込んで、父を見上げた。
「父さん、その子達は……」
「話は全て、この子達とフランクから聞いた」ヴラドはベラの言葉を遮った。「まったく、お前の優しさにはほとほと呆れ果てる。一体どこのお人よしが、人助けに養子をとるのじゃ。お前には、三人の花嫁を見つけると言う大切な仕事があったと言うのに! あれほど優しさなど捨ててしまえと言ったのに、お前の心は結局変わらなかった。その結果がこれじゃ。わしは一族の長として、そしてお前の父親として、こう宣言せねばなるまい」
 ベラは悲しげに俯いて目を閉じた。ヴラドもまた目を伏せ、次の言葉を口にする準備のために、一度大きく深呼吸をする。それから、ゆっくりと深い声で言った。
「……心の底から、お前に謝罪すると」
 ベラは驚いて顔をあげた。彼の目に映った父親の顔は、今まで見た事もないほど力なく、更に百歳は老けたように思われたが、瞳には確かに愛情の光が灯っている。
「今まですまなかった、息子よ。クリストファーと話をして、目が覚めたよ。しかし、わしがお前を愛していなかったとは、決して思わないでくれ。わしは、ドラキュラ一族の族長になる事こそ最高の名誉で、お前がそれを望んでいるものだと思っていた。父と同じ道をたどるのが、お前の幸せなのだろうと……傲慢じゃな」
「そんな事ありません」ベラは、薄く火傷の残る父親の手を握りしめた。「全く同じ勘違いを、私もクリストファーにしていました。傲慢ではなく、ただ、我々はあまりに話す機会がなかったんです。家族である前に、ドラキュラ一族だったから。コウモリになる特訓はしても、週末一緒に映画を見なかった。人間の血を飲むために街におりても、酒を飲み明かしたりはしなかった。ドラキュラらしい事はしても、家族らしい事はほとんどしてこなかったんです。だから我々の間にズレが生じているのも、何も不思議じゃない。……それに、私は父さんのようになるのが幸せだと、本当に思っていました。昔は、それ以外の幸せを知らなかったから。でも今は……」
 そこまで言ったベラは子供達を見つめた。目が合うと、三人のふっくらした頬が持ち上がり、照れくさそうな笑みが浮かぶ。つられて微笑むベラと三姉妹の姿に、ヴラドの顔から少しずつ苦悩が薄れていくのが見えた。ベラは顔をあげ、父に向き直った。
「父さん、お願いです。わがままなのは重々承知ですが、どうか、族長になるのを数年遅らせて頂けませんか。せめてこの子達が成人するまで、面倒を見たいのです。勿論、その間に花嫁探しは続けますし、一族に問題があれば全力を尽くします。だから、お願いです。私は、家族と言うものに向き合ってみたいのです」
「……勿論、その家族には我々も含まれているな?」
「当たり前でしょう!」
 親子はにっこり笑いあうと、抱擁を交わした。多少ぎこちない抱擁ではあったが、愛情にあふれたその腕は、どんな褒め言葉よりもベラを暖かく包み込んでくれる。和解した二人の喜びは、子供達にも感染して、彼女達はベラのベッドに飛び上がると、今度は自分達の番だとばかりに抱きついてきた。
「これでわたしたち、家族だよね?」と、弾んだ声でメイが聞く。
「ああ、そうだとも。お前達も我がドラキュラ一族の一員だぞ!」ベラが負けないくらい明るく言うと、メイが我慢できずに腕を振り回して狂喜した。
「パパができた、パパができた! 生まれて初めて、パパができた! それに、じいじにばあばも!」
「じいじにばあば?」
 素っ頓狂な声をあげるベラの横から、さっとメイを抱き上げたヴラドが、見た事もない程目尻をさげて笑った。
「おお、おお、そうとも! わしがじいじじゃよ。わしも孫が出来て嬉しいぞお」
 一体全体、かの有名なドラキュラ伯爵はどこへ飛んで行ってしまったのだろう。今ここに居るのは、初孫にメロメロになっている一人の老人しかいない。ミナが腰をかがめて、ベラに耳打ちした。
「あの人ったら、孫が出来て相当浮かれてるのよ。数百年一緒に居るけど、あんなに嬉しそうな顔は初めて見るわ。じいじって呼ばれるだけで、感激して涙が浮かぶのよ」
「なんで父さんと人間の子供が仲良くなれているのか不思議でしたが、孫と言うだけであんなに人が変わったようになるんですね……」
「実の息子より、孫の方が嬉しいらしいわ。うちは女の子が生まれなかったし、初日に子供達と和解した途端、プレゼント攻撃の嵐よ。私も孫が出来て嬉しいけれど、あの人の暴走を止めるためにしっかりしなきゃ」
 まあ、自分が意識を失っていた間に、子供達が手厚くもてなされていたならそれに越したことは無い。子供達はすっかり他のヴァンパイア達とも馴染んでおり、すでにこの城の中を自由に歩き回れるくらいくつろいでいる。三人の花嫁もそれぞれ子供達の面倒を見てくれて、数百年ぶりの子供の世話に母性本能をくすぐられるのか、うっとりした顔でヴラドの肩に手をまわしていた。
「ああ、可愛いわ、子供って!」
「ヴラド様、私達も子供が欲しいわ」
「そうよ、いつもミナ様ばかりずるいわよ!」
 子供を産ませた女はミナだけなのだから、こんな文句が出ても不思議ではない。ヴラドがメイを抱えたままたじたじしていると、ミナが花嫁達に艶やかに手を伸ばした。
「こらこら、あまり困らせないの。いらっしゃい、貴女達の相手は私がしてあげる」
「お姉さまあ」
 甘い声をあげてミナにすり寄る花嫁達。子供達はぽかんとして、ベラはげんなりと肩を落としている。皆が幸せにやっているのであれば、どんな形でも文句は言うまい……。
 ふとベラは、ガーティがボロボロのクマのぬいぐるみを抱えているのに気がついた。クリストファーに踏みつけられたせいで汚れ、糸がほつれ、ぐったりしているぬいぐるみを持たせているのは痛々しいし、そのぬいぐるみに詰まった思い出は良い思い出とは言い難い。彼はゆっくりとベッドから降りると、昔の自分のおもちゃ箱をクローゼットから引っ張りだし、中を漁った。すぐに目当てのものは見つかった。それは、ベラが子供の頃に持っていたクマのぬいぐるみであった。両親が部屋ごと残しておいてくれたおかげで、まだ残っていたのだ。
「ガーティ、おいで」ベラは彼女を呼び寄せると、博物館にあっても不思議じゃない程古く、けれど可愛らしい貴族の服を着たクマのぬいぐるみを、目の前に差し出した。「これは、私が子供の頃に大切にしていたぬいぐるみだ。ここにしまっておくのも可哀想だし、もしお前が大切にすると約束するならば、もらって欲しいのだが」
 今度こそ、ガーティは意地を張ったりせずに、喜色満面の笑みを浮かべてベラのぬいぐるみを受け取った。ケイトとメイは、それをからかうでもなく嬉しそうに見つめている。
 皆はすっかりベラが動けるのでほっとし、部屋の空気が和やかになった。立ち上がったついでに、ベラが弟の見舞いに行きたいと言うと、ヴラドは複雑そうな顔になった。
「クリストファーは罪人として、今から地獄に行くのじゃ」
「え、なに、地獄ですって?」
「理由はどうあれ、ヴァンパイアのねぐらをハンターに教えた事、子供達をさらった事、お前を殺しかけた事は、見過ごすわけにはゆかぬ。わしは族長として、あの子を裁かねばならなかった」
「でも、父さん!」ベラが憤然として詰め寄ったので、ヴラドは手を挙げる。
「分かっておる、永遠に地獄に閉じ込める訳ではない。暫くの間、父上のところで面倒を見てもらい、ヴァンパイアのなんたるかを叩きこんでもらうだけじゃ。いつだって会いに行けるし、今回の事を反省したらまた戻ってくる」
「……父上って、つまりノスフェラトゥおじい様の所でクリストファーが暮らすというのですか?」
 ベラの顔色がさっと変わったが、ヴラドはそれに気が付かなかった。
「暫くな。本来なら反逆罪で死刑になっても不思議ではないが、大切な息子にそんな判決を下せる親がいるものか。わしも、なかなかどうして、優しさが捨てきれんようじゃ。そろそろ出発の時間だと思うが……そら、来たぞ」
 窓から見下ろした先で、二人の男に両脇を挟まれた男が、城から出てくるのが見えた。全員黒髪で、あの目立つブロンドはどこにも見えない。ベラが不思議そうにヴラドを見やると、父親は目を細めて笑い、鷹揚に頷いた。ベラははっとした。そしてそのままひらりと窓枠を飛び越えてしまった。子供達は悲鳴をあげたが、彼がヴァンパイアなのを思い出すと、今度は好奇心が勝って、窓枠に噛り付いて彼らを覗き込む事にした。
「……クリストファー?」
 猫のように静かに石畳に着地したベラは、真ん中の男の後ろ姿に声をかける。一瞬の間があって、クリストファーはゆっくりと振り返った。横顔だけをベラに晒した彼は、不貞腐れた顔でじっとりと兄を睨み付ける。その顔を縁取る黒髪が、夜風になびいて少し揺れた。
「お前、髪が……!」嬉しそうにベラがそう言うものだから、クリストファーはふいっと前を向いてしまった。
「色を戻しただけで騒がないでよ」
「いや、そうだが……金髪も似合うが、やはりお前は黒髪が一番だな!」
「あっそう」
 クリストファーが万が一にも逃げないように連行する二人の男は、すぐ近くに住む一族の男達だった。彼らは兄弟に気を遣い、少し離れた所に移動する。ベラは彼らに目礼を送って礼とし、もう少し弟に近づいた。
「その……あー……」言葉が出ずに、頬をかく。クリストファーは前を向いたままだ。「……おじい様の所に行くんだってな。大丈夫、もう年だし、力も弱っているさ。それでも一応、背骨には気を付けるんだぞ」
「うん」
「……子供のころから、おじい様の家に行くのは嫌だったよなあ」ベラはクリストファーを窺いながら続けた。「一度なんて、行きたくないあまり、二人で馬車の車輪を燃やした事もあったな。それにあのシチューの味ときたら! ゴムみたいな肉が出る度に、犬にこっそり食わせていたっけ」
「慰めようとしてるなら、大失敗だからね」
「す、すまん……」ぴしゃりと食らわされたベラは、たじろいで唸るように謝った。それから少し息苦しい間があって、ベラがどうにか会話の切り口を探して目を泳がせていると、ふっとクリストファーの肩の力が抜けたのが目に入る。彼は、笑っていた。
「ああ、でも」穏やかな声でクリストファーが呟く。「本当にまずいよね、おじいちゃん家のシチューって」
 クリストファーは遠慮がちにベラを見やる。ベラが感激して目を細めると、弟もつられて曖昧に笑い、その瞬間、兄弟の合間に築かれていた見えない壁が、シャボン玉が割れるように霧散していった。それは目に見えるものではなかったが、二人はそれをしっかりと悟ることが出来たのだった。
 ベラは微笑んだまま続ける。
「……父さんと話したそうだな」
「ああ」
「大丈夫か」
「すごく疲れた」クリストファーは肩を竦めた。「本音を言うのも、本音を聞くのも、慣れてないせいか、物凄い負担なんだ。しかもまだ話しきれてない。これから何度も話さなきゃいけないと思うけど……」
 ここで彼はいったん言葉を切ると、ベラが幼い頃に見た懐かしい笑い方で牙を見せた。
「父さんに抱きしめてもらっちゃった」
 屈託ない弟の笑顔を見たのは何百年ぶりだろうか。ベラは嬉しくなって弟の髪の毛を片手でわしゃわしゃとかきまわす。そこで、ふとクリストファーの容態が気になって、彼の横顔を眺めた。
「体調はどうなのだ?」と、ベラが問うた瞬間、クリストファーは気まずそうに押し黙り、俯いてしまった。しかし、少し迷った後、彼は意を決して、ゆっくりとベラへと正面から向き直る。今まで弟の横顔しか見られなかったベラは、改めて彼の全貌を直視し、言葉を失った。
 いくら治癒力の高いヴァンパイアであろうと、天敵の日光を浴びた傷が完璧に癒えることは無い。クリストファーの顔の左半分は痛々しくただれて、消える事のない焼け跡が首まで広がっていた。日光を浴びたヴァンパイアが生還を果たすなんて、ほとんど奇跡と言っても良いが、その代償は大きい。それを目の当たりにし、絶句するベラを見て、クリストファーはさびしげに笑った。
「この顔に恐れをなして、花嫁も全員逃げてっちゃったよ。一人も残ってくれないなんて、薄情だよね。まあ、この顔じゃあしょうがないし、本気で僕を愛してないのは分かってたし、驚きはしないけど……これで僕、なーんにもなくなっちゃった」
「私達家族が居るだろう。お前を愛する者が居るだろう」たまりかねたベラが訴えた。「我々はどんなお前でも気にしない。生きていてくれただけで、心から嬉しいのだ」
 真摯なベラの瞳を受けて、クリストファーは口をもごもごやりながら何事かを唸った。もしかしたら「ありがとう」と言ったのかもしれないし、「やめてよ」と言ったのかもしれない。それでも、頬がひくひくしているのを見れば、彼が笑みを我慢しようとしているのは一目瞭然だった。
 その時、門の方から馬車の車輪がガラガラ言う音が聞こえ、暗闇をぬって恐ろしく古い二頭立ての馬車が現れた。車体は間違いなく馬車であるのだが、肝心の馬も居なければ御者台に御者の姿もない。闇を切り取ったように真っ黒でてらてら輝く車体は、一人でに走ってくる。
 男達は深くこうべを垂れた。ヴラドが不意に息子達の横に現れ、馬車がゆっくりと停車するのを見やる。そうして馬車が動きを止めると、静かに扉が開いて、中から一人の男が出てきた。ドラキュラ一族らしい黒のコートにすっぽり身を包み、唯一見える顔は死人のような肌色で、頭に毛は無く、耳はつんととんがって、まるで醜悪なネズミのような恐ろしい風体の彼こそ、全てのヴァンパイアの父、悪魔ノスフェラトゥその人だった。彼は恐怖と不吉を従えて、血走った瞳をぎょろりとさせながら地面に音もなく降り立つ。その場は墓地より静まり返った。しかし、次の瞬間。
「おお、孫よ!」
 ノスフェラトゥはしゃがれ声で叫んだと思うや、ヴラドより老いた見た目からは想像もつかない程素早い動きで、クリストファーを力いっぱい抱きしめた。恐ろしい音がクリストファーの背骨から聞こえた。
「久しぶりじゃ、まったく、こんなに大きくなりおって! そら、じいじに顔を見せてごらん! ああ、良い火傷じゃ、男は傷がある方がはくがつくぞ! ヴラドから話は聞いた、まあ、男の子は一族を滅ぼすくらいやんちゃな方が、元気があってよろしいな! おや、そっちはベラか! さあ、おいで!」
「い、いや、良いです、おじい様、私は……ぎゃあ!」
 こうして孫二人の背骨を痛めるほどたっぷり抱きしめた祖父は、満足したのか兄弟を解放して、息子のヴラドに向き直った。久しぶりの挨拶を交わす二人の横で、ベラとクリストファーはお互いに支え合ってなんとか倒れるのを耐えている。
「父上、実はあなたにひ孫が出来たのですぞ」とヴラド。
「おお、そう言えば! ベラの子じゃな、人間を養子にするとは時代は変わったものじゃ。どこにおる?」
 ヴラドに示された窓を見上げると、ノスフェラトゥはふわりと浮きあがってそこまで飛んで行き(子供達は「きゃっ」と悲鳴をあげた)、そして興奮気味に三姉妹の可愛らしさをほめそやして、お得意の熱烈なハグを与え(子供達は「ぎゃっ」と悲鳴をあげた)、また地上へと戻ってきた。
「ううん、ひ孫と遊ぶために、暫く地上に滞在するのも悪くなさそうじゃ。さ、そろそろゆこう、クリストファー。煉獄を一望できる部屋を用意したぞ、気に居ると良いんじゃが……」
 出発の時となった。クリストファーとヴラドはぎこちなく見つめて微笑み合い「いってきます」と「気を付けてな」を最後の言葉とした。次に彼は兄を見やって、努めていつもの飄々とした調子で振る舞おうとした。
「じゃあね、兄さん。暇なら遊びに来ても良いよ……ああ、駄目か。兄さんはもう、パパだもんね」
 嫌味っぽくそう言って、クリストファーは片方の眉をひょいと持ち上げる。これで全て元通りにしようと彼は目論んだのだが、ベラは最後まで優しい笑みを絶やさなかった。
「確かに私は父となったが」ベラは弟の肩に手を置いた。「お前の兄である事に、一生変わりはないんだぞ、クリストファー」
 途端、クリストファーは泣きそうな顔になった。きっと彼は泣き顔を見られるなんてごめんだろうから、ベラは肩に置いた手で弟を抱きよせ、そのまま抱きしめてやる。クリストファーの手が、どうしたら良いか分からずにしばらく宙をさまよっていたが、やがてゆっくりと、ベラの背中に回された。
「……あの子達に、謝っておいて」ベラの胸から、くぐもった声。それが震えているのを、ベラは気づかないふりをした。
「ああ、伝えておく」
「それと、戻ってきたら、兄さんにクラブの楽しみ方を教えてあげる」
 ベラは笑った。
「それは遠慮しておくよ」
 こうして、クリストファーは馬車に乗り、祖父と一緒に暗闇の中に消えていった。ベラとヴラドは馬車が完全に闇に溶けるまで見送り、一族の男達に礼を述べて帰らせると、静かになってしまった城の前で、ぼんやりと立ち尽くした。
「それで」気持ちを切り替えるように、ヴラドが明るい声を出す。「新族長就任の宴はパーになったが、代わりに、新しい家族を迎える宴を開こうと思うのじゃが、どうじゃ」
「ええ、あの子達も喜びます」
「今まではドラキュラ総会を十年に一度にしていたが、今後は一年に一度にしよう。いや、半年に一度でも良いな! 孫達の成長を見逃す手は無いぞ……アメリカに戻るつもりなのじゃろう?」
 静かな声でそう言われ、ベラは申し訳なさそうに微笑んだ。トランシルバニアに引っ越して、父の近くで暮らしたいのはやまやまなのだが、学校の事や、生活がまるで変ってしまう事を考えると、あの子達の国であるアメリカで暮らした方が良いだろうと、ベラは考えていたのだ。何せ彼女達は人間なのだから、ヴァンパイアの中で育てるより、人間の中で育てる方が良いに決まっている。ヴラドもそれは考えていたらしく、否定しない息子を見て残念そうに肩を落とした。
「仕方あるまいな。親はお前じゃ、あの子達にとって何が一番か決めるのはお前の仕事。親としての責任をしっかり果たすのじゃぞ」
「さびしくなります、父さん」
「今生の別れでもあるまいに。独り立ちするにはちょうど良い機会じゃ」親子は精いっぱいの愛情をこめて微笑み合った。「今までありがとう、ベラ。お前と孫達の今後が楽しみじゃぞ。何かあればいつでも連絡してこい、すぐに海を越えて飛んでいく」
「あまり無理はなさらないでくださいね」
「年寄扱いするでない、わしは今、孫達の超イケてるクールなじいじなのじゃ!」
 “超イケてる”! “クール”! 目を丸くするベラの前でからからと笑うヴラドの、なんと幸せそうなことだろう。その姿にベラは思わず吹き出すと、二人は笑いながらゆっくりと城の中に戻って行った。
「よきかな、これで全て一件落着じゃな」
 晴れやかなヴラドの声に、ベラははたと思い出したように振り返り、遠い夜空を静かに睨み付けた。
「いいえ、後一つだけやり残したことがあります……」


 消灯時間を過ぎた聖ケビン孤児院の中は、照明が落とされどこもかしこも真っ暗になっていたが、唯一院長室にだけはぼんやりとした明かりが灯されていた。そのオレンジ色のライトに怯える表情を照らされて、部屋の中央に立っている少女はナンシーと言う。彼女は今日、夕食の皿をひっくり返してしまった。そのせいでこうして呼び出しを食らったわけなのだが、目の前の椅子にふんぞり返って座っているスターキー氏を見ると、怒られる事への恐怖以外の、もっと本能的な、胃がムカムカするような恐れが心の底から湧き上がってくるのを感じていた。
「ナンシー、まったく君はなんて悪い子なんだ」スターキー氏はわざとらしい嘆き方をして、椅子から立ち上がった。「夕食を無駄にするなんて、世界には餓死する人が大勢いるのに、悪いと思わないのかい?」
「ごめんなさい、スターキーさん……」蚊のなくようなナンシーの声。
「うそつきめ!」突然スターキー氏は声を荒げた。「口だけでそう言って、本当は少しも反省なんかしてないんだろう! 大人を馬鹿にするんじゃない! お前のような悪い子は、たっぷりとお仕置きしなきゃならないな!」
 スターキー氏の大きな手が伸びてきた。ナンシーは鋭い悲鳴をあげて逃げ出そうとしたが、僅かに間に合わず、肩を掴まれて引き戻されてしまう。
「ごめんなさい、やめて、スターキーさん、やめて!」
 引き攣った彼女の声は、友達には届かない。この院長室は、子供達の部屋からうんと遠くに作られているのだ。スターキー氏はいやらしい笑みを浮かべてかぶりをふった。
「私だってこんなことはしたくないが、君のためを思ってお仕置きするんだよ」
 大人の手がナンシーの口を覆った瞬間、突然、扉が大きな音を立てて開かれた。二人が驚いてそちらを見やれば、禍々しい霧の立ち込める暗闇を背にして、長身の男が立っているのが見える。彼は闇と同じ色のマントを身にまとい、恐ろしい形相でスターキー氏を睨み付けていた。スターキー氏はこの男を知っていた。
「お前は、あの時の誘拐犯……!」
「貴様」ベラ・ドラキュラはスターキー氏の声を遮って、低い声で呼ばわる。「この卑劣な人でなしの犯罪者め、貴様のような最低最悪の生きる価値のない虫けらは、地獄の悪態を全て浴びせてもまだ足りぬ」
 ナンシーは恐れおののいて動けなくなってしまったスターキー氏から逃れ、部屋の隅で頭を抱えて丸くなった。ベラは射るような視線を一瞬たりとも離さず、するすると亡霊のようにスターキー氏に近づいていく。彼は喘ぎながらどうにか逃げようとしたが、後ずさった拍子にひっくり返って、もがいているうちに壁に追い詰められてしまった。
「わ、私をどうする気だ!」
 ひいひい言う合間に、やっとのことで彼は声を絞り出す。その瞬間、ベラの瞳が真っ赤に輝いた。
「罪を償うのだ――!」

 それから一時間の後、孤児院の前は大変な騒ぎになっていた。パトカーが何台も赤色灯を点滅させながら押し寄せ、更にその周りに野次馬の大きな円が出来上がっている。孤児院の子供達は全員、親切そうな警官に付き添われて救急車で様子を確認されており、年長の子供達は身を寄せ合い、わけの分かっていない幼い子供達はきょとんとしていた。スターキー氏と言えば、手錠をかけられて警察に引っ立てられていったのだが、ヘラヘラ笑いながら、ひたすらに自分の所業をあらいざらいぶちまけ続けている。
「私は子供に手を出す、どうしようもない変態の、生きてる価値のない人間なんですよう! 警察の皆さん、さあ私を逮捕して、死刑にしてくださあい……!」
 スターキー氏が自分で自分を通報したものだから、警察は始終首を傾げていたのだが、それでもこの悪漢を捕まえ、子供達を悪夢から解放できた事に変わりはない。
 ナンシーは全てがまるで夢のように思われて、救急車の中で掴まれた肩の手当てをうけながら、ぼんやりと騒がしい孤児院の庭を眺めていた。数人の子供達が泣きながら抱き合い、院長の逮捕を心底から喜んでいる。一体、あの男は誰だったのだろう。どうしてこんな騒ぎになっているのだろう。駆けつけたマスコミが必死に院の中を撮影しようとして、チカチカとフラッシュが瞬き、ナンシーは目をしばたかせた。
 孤児院の中を探っていたのは、マスコミのカメラだけではなかった。近くの家の屋根の上に、二つの人影が座り込んでいる。ベラとケイトは、ハチの巣をつついたような大騒ぎのその場を見下ろして、事の成り行きを見守っていた。
「本当にこれだけで良かったのか?」と、不意にベラが問うた。ケイトは不思議そうに彼を振り返る。「あいつを殺してやる事も出来たのだぞ」
 ケイトは大人びた顔で微笑んだ。
「もういいのよ、終わった事だから。それに、優しい貴方を人殺しなんかにしたくないもの。復讐じゃなく、裁きがくだればそれで良いの……ああ、私、裁判で証言しなきゃならないわね。頭の中を整理しておかないと」
 ベラは改めて、ケイトの横顔を観察した。子供らしくない穏やかな笑みを下へと辿っていけば、首筋には四つの牙の跡がある。きっと一生消える事のない傷になるだろう。首の噛み跡だけではない、彼女は身も心も、永遠に癒えることのない傷で溢れている。
 こんなに幼い、子供だと言うのに。
「……無理に証言しなくても良いんだぞ」
 ケイトはまた笑った。
「大丈夫よ、他の子が証言できるか分からないし、それに、多分私が一番……」そこでケイトは言葉を切ったが、何を言わんとしたかはベラにも分かってしまった。言葉を失うベラに、ケイトは慌てて微笑む。「とにかく、私なら平気」
 言葉を探すために、少しの間があった。被害者であるケイトは笑っているのに、ベラの方がひどく辛そうな顔をしている。ともすれば、泣いてしまいそうだ。
「平気じゃなくても良いんだ、ケイト」
 彼がこう言った途端、ケイトは驚いて目を丸くした。笑顔が消えた幼い顔に、衝撃と混乱の影が見える。ベラは続けた。
「笑わなくていい、物分かりが良くなくていい、傷ついたり、取り乱したりしたって構わない。それはちっとも迷惑な事じゃないんだ。妹達にそんな姿を見せまいと、頑張ってきたのは分かっている。だがもう、無理をしなくて良いんだよ」
「無理なんか……」
「ケイト、私は、お前の父親だ」
 見開かれた瞳の中で、夜空の星がまたたいて見える。綺麗に輝いているのは、彼女の瞳がじわじわと滲む涙で潤っているせいだろうか。ケイトはどうしたら良いか分からず、固まったままでベラを見上げる事しかできない。
「本来なら、私がお前を守らなければいけなかったんだ。お前が傷つく必要なんてなかった。すまない、ああ、本当にすまない……!」
 この状況で尚、無垢な子供の瞳を見つめるうちに、ベラはあまりに色々な感情がせりあがって来て、声が震え、鼻の奥がツンとするのを我慢できなかった。途端に、ケイトが動揺してベラの方へ身を乗り出す。
「だって、その時はまだ出会ってすらいなかったじゃない! どうしてベラが気に病む必要があるの? そんな、うそ、ベラ、貴方泣いてるの?」
 ケイトはびっくり仰天した。大人が泣いているところなんて、生まれて初めて見たのだ。今まで彼女の中で“大人”と言うのは、絶対的に上の、逆らう事の出来ない、神のような存在だった。だのにベラときたら、長い鼻をずびずび言わせながら、両手で顔を覆って子供のように泣いているではないか。
「お前が受けた痛みを思うと、自分が不甲斐無くて仕方ないんだ!」ベラは嗚咽の合間に唸った。「大人として、男として、父親として、恥ずかしくて仕方がない……! すまなかった、ケイト、ああ、すまなかった……!」
「謝らないでよ、ベラは何も悪くないでしょ!」
「お前もだ!」
「そんな、でも……」すっかりわけが分からなくなってしまったケイトは、急に目頭が熱くなって更に困惑した。ベラの泣き声を聞くと、何故だか自分も泣きたくて泣きたくて仕方がなくなってしまうのだ。かつて一人だって、自分の事を思って泣いてくれた人など居なかった。当たり前だ、誰かを泣かせるような真似なんてしたくない。だからどんなに辛く痛い目に遭っても、妹達が心配しないように、いつも笑って部屋に戻っていたのだ。しかし、今こうして、ケイトの不幸に心を痛めて泣いてくれる人を目の前にすると、どうにもたまらなかった。
「お願い、泣かないで、私もなんだか、泣きたくなっちゃうの……!」
 懇願するようにそう言ったが、遅かった。ケイトの目から暖かい涙があふれたかと思うと、後はせきを切ったように泣き出してしまった。こんなに泣きじゃくったのは、生まれて初めてだった。必死に涙を拭っても全く意味はなくて、泣けばなく程、もっと涙が出てくる始末だ。
「泣いたってかまわない」鼻をすすりながらベラが優しく言うと、ケイトの泣き声は大きくなり、そのまま彼の腕の中へと飛び込んでいった。ベラはきつく、小さな体を抱きしめた。「今までよく頑張ったな、ケイト。もう大丈夫だ……これからは何があっても、私が守ってやる……忘れないでくれ、お前を抱きしめるのはお前を愛しているからで、声を荒げて叱るのはお前を心配しているからだ、もう誰もお前を傷つけたりしないよ……!」
 親子は抱き合ったまま、屋根の上で星々に見つめられながら、声をあげて泣き続けた。こんなに心臓が破れんばかりに泣いたのは、二人とも初めてだ。そうして声がかれるまで泣き、警察もマスコミも居なくなって、孤児院の騒ぎが収まる頃には、二人とも泣き疲れてぐったりと寄り添っていた。疲れ切っていたが、さんざん泣いた後に訪れる、あの澄み切った心の静寂に包まれた二人の顔は、晴れやかであった。
「……そろそろ家に帰るか」
 魔法のせいでなく、目を真っ赤にしたベラがゆるく微笑む。ケイトもウサギのように赤い目で父親を見返し、微笑んだ。
「うん、帰ろう……パパ」



 一週間が経った。忙しさのあまり飛ぶように日々が過ぎたが、おおよそ、こう言った出来事があった。
 まず、家を正式に買い取る手続きをした。次に、必要最低限しかなかった子供達の持ち物を、ショッピングモールでしこたま買い込んだ。子供達は部屋を自分好みに飾り立て、あの恐ろしく質素で陰気だった部屋の中を、ピンクだらけにしてのけた。勉強机や新しいクローゼットも用意され、今ではどこからどう見ても立派な子供部屋だ。それぞれのスペースに、ケイトとメイのふかふかのクマのぬいぐるみと、ガーティの古いクマのぬいぐるみが置かれて、三人は初めて与えられた自分達だけの部屋を、心から楽しんでいる。また、ベラもとうとう棺を卒業し、一階に自分の寝室をこしらえた。隣はフランクの部屋だ。
 それから、ご近所さんに挨拶をして回った。驚いた事に、ヴァンパイアハンターのエリック・コートがそのご近所さんの一人で、彼は正式にここに越してきたドラキュラ一家を見て、目を白黒させていた。彼はトランシルバニアのハンター仲間から事の顛末を聞いていたようだが、ベラからも話を聞きたがったので、ベラはかいつまんであの日何が起こったのかを話した。そして、機会を設けてハンターとヴァンパイア達で話し合おうと申し出ると、更に目を白黒させて絶句していた。何はともあれ、宿敵ではなくご近所さんになれたのは喜ばしい事だ。銀の十字架のネックレスは相変わらず首から下がっていたけれど。
 それからアメリカに住むにあたり、必要になる諸々の手続きを方々駆けずりながら(時にはちょっぴり魔法に頼りながら)こなした。その間に警察から連絡があって、今回の事件に関してケイトに証言をしてくれないかと言う打診があり、ベラとケイトと警察で長い間話した結果、彼女は勇気をもって証言台に上がると言った。裁判はまだ先の話だが、暫くは警察署に通わなければいけないようだ。ベラは心配そうにしていたが、ケイトは明るく「あいつを叩き潰してやるのよ」と笑ったので、後は娘を信じる事にした。
 こんな事をして彼らは一週間を過ごし、そうして穏やかな日曜日がやって来た。今日は学校がお休みである。毎朝子供達を起こしたり、朝食を作っていたせいで、家中のカーテンを引いてはいるが、ベラはすっかり朝方のヴァンパイアへと変身していた。子供達が夜型に合わせると言ってくれたが、学生をそんな生活に付き合わせるわけにはいかない。
 今朝も九時には全員朝食を済ませ、子供達は茶色い土しか見えない庭に繰り出していった。彼女達は庭いじりが大好きで(何せそんな事は今まで出来なかったので)、小さな庭ではあるが、思い思いに案を出して、花であふれる綺麗な園を造ろうと意気込んでいる。ベラは家の廊下の影の中で、開け放った扉からそれを眩しそうに眺めていた。
 そこでふと、ベラはある事を思いついた。彼が生きてきた中で一番危険で、一番とんでもない思いつきだった。それは弟のクリストファーは馴染みの行為であったが、ベラにとっては何よりもスリリングな挑戦である。それでも、思い立った途端にどうしても実行したくなったのは、陽の中で笑う子供達が、心から愛しく手仕方なかったからだ。
 ベラは日焼け止めを用意し、顔や手や首がベタベタになるほど刷り込んだ後、更に手袋と目だし帽とサングラスを用意して、それらを全て装備したうえで、フランクに日傘をさしてもらいながら、ゆっくりと玄関へと向かっていった。
 突然戸口に、頭からつま先まで真っ黒づくめの人が現れたものだから、子供達はシャベルを持ったままぽかんと口を開けて立ち尽くした。しかし、目だし帽の鼻の所が妙に盛り上がっていたため、その下にベラが居るのだと分かった。これだけみょうちきりんな格好であれば、例え出歩くのが昼間でも警察を呼ばれるかもしれない。
 ベラは恐る恐る手を伸ばしながら、一歩、外に出てみた。何も起こらない。今度はフランクに日傘をどかすように頼んだ。やはり何も起こらない。子供達はハラハラとベラを見つめながら、何かあればすぐに家の中に突き飛ばせるように身構えた。
 深呼吸をし、ベラはゆっくりと左手の手袋をはずした。日焼け止めの塗られた素肌が太陽の光を浴びたが、燃え上がったりはしない。今度は右手の手袋をはずした。やはり、こちらも問題ない。そしてとうとう、ベラは意を決してサングラスをはずし、目だし帽に手をかけ、それをゆっくりと脱いだ。
 身を焦がす熱さの代わりに、暖かい陽光がベラの頬を包んだ。肌の焼ける焦げた臭いの代わりに、すがすがしい朝の空気がベラの鼻に入り込んだ。そうして目を開けた先でベラが見た光景は、この先一生、忘れられるものではなかった。太陽の下に立って、無限の光で照らしだされた世界。ヴァンパイアの自分には、絶対に手の届かないと思っていた、鮮やかで温かい世界。それが今、ベラの前で燦然と輝いているのだ。月光の光とは全く違う太陽の光は、降り注ぐだけで生気と活力を与え、この世の全ての本来のきらめきを見せてくれているようであった。
「暖かい……」ベラは両手を太陽に向けて、感極まって呟いた。「こんなに世界は美しかったのか……」
「ベラ、だいじょうぶ?」
 呆然としているベラに、メイがおずおずと問いかけた。子供達はクリストファーの恐ろしい事故を目の当たりにしているので、いつベラも同じ事になるかと心配でならないのだ。しかしベラは三人を見下ろすと、子供のような笑みを浮かべて、無邪気に牙を見せつけた。
「ああ、大丈夫だ、それどころか、気分は最高だ!」興奮気味に叫ぶと、子供達をまとめて抱きしめる。三人はすっかり安心して楽しげに笑い声をあげ、戸口でそれを見守っていたフランクも心底嬉しそうに親子を眺めていた。「ヴァンパイアだって真昼を歩ける、どこへだって行けるし、なんだってしたい事が出来るぞ! ようし、決めたぞ。今日は父と娘の日とする! さあ出かけよう! どこに行きたい?」
「ゆうえんち!」とメイ。
「映画館!」とガーティ。
「一日二つはまわれないわよ」喜んでぴょんぴょん跳ねまわる妹達を見ながら、ケイトが笑った。二人はすぐ不満そうな声をあげたのだが、優しくケイトは続ける。
「焦らなくても良いじゃない、これからたくさん時間はあるんだから。毎日が父と娘の日よ、そうでしょう?」
 柔らかく笑うケイトと妹達。いつ見ても子供の笑顔は良いものだが、明るい陽射しの中で見ると、殊更胸をうつものがあった。
「……ああ、そうだな」ベラは目を細める。「では、今日は映画を見て買い物をするとしよう。次回のドラキュラ総会のために、お前達に正装を用意しなければならないな」
「それって、ドレスのこと?」ガーティの目が輝いた。
「そうだぞ、お姫様みたいなやつだ。それからダンスを教えてやろう、流行のものじゃなく、舞踏会用のダンスをな」
「舞踏会!」頬を両手で挟み込み、ガーティは喜びの悲鳴をあげた。今まで男の子と見間違えられていたガーティも、数年後には立派なレディになっていることだろう。
「フランク、さあ行こう。車を出してくれ」とベラが言うと、フランクはにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「父と娘の日じゃあなかったんですか?」
「ああ、悪かったよ、訂正する」珍しく嫌味を言われて、ベラは思わず笑った。「今日は、家族の日だ」
「おお、家族の日って言うなら、俺もご一緒しませんとね!」


 ある日のうららかな朝、傾いた真っ黒な家から繰り出したのは、幸せそうな五人の姿。購入したばかりの中古の軽自動車に乗り込んだ一行は、べっこりへこんだ郵便受けの横を通って、明るい街へと走っていく。
 長年名前を記されなかったその郵便受けには、今こう書かれている。





 ベラ、ケイト、ガーティ、メイ・ドラキュラ。それから、フランク。
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