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高い空へ唄う歌-鍵を守護する者⑤-

星が流れる夜

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雨が弱くなったら帰る、と連絡が来て1時間程経つ。
夕立と思われる強い雨は一瞬のうちに地面を濡らし、しばらく降り続いたあとぱたりと止んだ。打ち水効果を期待し窓を開けてみたが、反対に湿度が高まったおかげでさらに蒸し暑くなったようだ。
夏休み最終日、四季は丸一日部屋で勉学に励んでいた。美都から連絡が入るまで集中していたせいか雨が降り出したことにも気が付かなかった程だ。
ちょうどよい区切りとなったので勉強を切り上げリビングへ移動した。
夕飯の支度の前に一息入れようとコーヒーを飲みながらスマートフォンを確認するともう一件メッセージが届いていた。
差出人は母親である千咲からだった。内容としては大したことは無い。
【この間はありがとぉ!  明日から新学期だからしっかりね!  美都ちゃんにもよろしく♡】とのことだ。
我が母ながらもう少し落ち着いた文章を書けないものかと思ってしまう。
千咲の言う『この間』とはつい先日のことだ。
当初、美都と会わせる予定ではなかった。むしろ会わせないように工作していたはずなのに偶然が偶然を呼び自分のあずかり知らぬところで既に顔を合わせていたのだ。その時に美都とずいぶん話をしたらしくすっかり気に入ったらしい。
恐らくこの調子だと美都の連絡先も訊いて同様のメッセージを送っているに違いない。
四季は小さく息を吐くと『了解』という短絡的な文章を返した。画面の向こうでふくれっ面になっている母の顔が思い浮かぶ。
コーヒーを飲みほしてそろそろ夕飯の準備に取り掛かるかと思いながら腰を上げたところ、玄関から扉が開く音とともに「ただいまー」という声がした。ちょうど美都が帰ってきたようだ。パタパタと小刻みな足音が近づいてくる。
空いたカップを持ってキッチンへ向かうと美都の影が見えた。
「ただいま」
「ああ、おかえ……り──」
語尾が詰まったのは決してコーヒーが逆流してきたからではない。否、予想だにしていなかったのでもしかしたらそうだったのかもしれない。家を出たときと変化があれば誰でも驚くだろう。
四季は目を瞬かせながら、言葉を紡いだ。
「髪……切ったのか」
肩より下まであった茶色の髪は襟足付近できれいに切り揃えられている。うなじが出るくらいまではいかないがさっぱりとした印象だ。
「変かな?」
「いや……びっくりしただけ。似合ってる」
「ふふ、ありがと」
短くなった横髪を自分の手でつまみ上げながら美都は小首をかしげる。
驚いたことを素直に伝え、ありのままの感想を彼女に伝えると少し照れて微笑んだ。まだ見慣れないフォルムを目で追ってしまう。視線に気付いたのか美都がおもむろに訊ねてきた。
「長い方が好きだった?」
「別にこだわりはないよ」
「よかった。ご飯の準備手伝おうか?」
四季の動きに気付き、彼女から声がかかる。一瞬考えたあと美都にこう答えた。
「いや、大丈夫だ。出来たら呼ぶから」
「はーい。じゃあ明日の準備でもしてるね」
そう言うと美都は自分の部屋へ向かって歩いて行った。
彼女の背中を見送る。そして四季は一旦口に手をあて大きく息を吐いた。
危なかった。もう少しで顔に出るところだった。髪を切って幼さが増したように見える。
ずっと長い髪で見慣れていたこちらとしては完全に不意打ちだった。あんなのに横に立っていられたら作業が出来ない。美都の申し出を断ったのは動揺を悟られないようにしたかったからだ。
改めて自分がいかに彼女に惚れているかわかった。
(勘弁しろよ……)
心臓はまだ早く鳴っている。今一度大きく深呼吸をして姿勢を整えた。
もう大丈夫だ。とりあえずは夕飯を作らなければ。
脳裏に焼き付いた美都の姿を思い浮かべて、自分を納得させるように四季は一度頷いた。
一方────。
美都は自室に戻ると生温くなっていた自室を冷やすためエアコンをつけた。エアコンが稼働するまでしばらく空気を入れ替ようと思い窓へ向かう。薄暗くなった窓に反射して自分の姿が映った。
自分でもまだ新しい髪型に見慣れない。何せこの長さは一年ぶりだからだ。
思わず短くなった首筋の髪を触る。椎菜はいつも通り綺麗に切り揃えてくれた。美都は視線を落とし小さく息を吐く。
「───……」
また、一年経った。でも今年はいつもとは違う。
開けようとしていた窓の向こうに、うっすらと星が見えた。そう言えば今日はしし座流星群がピークだと言っていたのを思い出した。夜が更ければもう少し星も見やすくなるだろうか。お風呂から上がったらまた見てみよう。そうすればこの胸騒ぎも和らぐかもしれない。今日はただ、自分の気持ちを落ち着けたい。
美都は喉をぐっと引き絞る。
ふとガラスを介してベッドに置いたままのスマートフォンが光ったことに気付いた。振り向いて手に取ると新着で2件のメッセージが届いている。
差出人はそれぞれ千咲と円佳。届いたメッセージは1行目が表示されるためなんとなく内容はわかる。千咲の方は至って普通のやり取りだ。彼女は自分に対してまるで友人のように接してくれる。
問題は円佳からのメッセージだ。数日前、一瞬だけ帰った日があった。しかしあまり実のある会話はしていない。と言うのも何だか互いに距離を探りながらの応対となっていたからだ。
円佳が知っている鍵のことについて。それを聞き出したかった。守護者として今の家で暮らすことになったあの日、彼女は電話越しで『本当にわからなくなったら聞きにきなさい』と言っていた。わからないことはたくさんある。しかし内容については菫に聞いたことが全てだというのも弁えている。だとしたら円佳が他に何を知っていることがあるのか。単純にそれに興味があった。
千咲が守護者について知っていたのは、夫である透がそうであったからだということが判明した。だとしたら円佳も鍵と近しいところに身を置いていたのではないかと。
しかしタイミングが良くなかった。帰ったその日、ちょうど宿り魔が出現したのだ。常盤家に帰るたびに遭遇するような気がしてしまう。そのせいで十分に彼女と話す時間が取れなかった。
円佳からの内容はあらかた予想がつく。おそらく明日と、今後のことだ。
新学期が始まると間もなく進路を確定させなければいけなくなる。そのことについても帰ったとき話そうと思っていたのだが出来なかった。
一息ついてメッセージを開封し、予想通りの内容を確認すると【明日電話します】とだけ書いて返信する。
美都はベッドに腰かけて仰向けに寝転んだ。
円佳に申し訳ないと思いつつも今日はそのことについて考えたくない。彼女は恐らくそれを見越して連絡をしてきたのだろうが気持ちに余裕が無いのが本音だ。
頭上にある電球の光を遮るように、スマートフォンを握りしめたままの左腕を瞼の上に置いた。
目の前に暗闇が広がる。その中でだけ、安らぎを感じることが出来る。
考えなければならないことは沢山ある。それでも。いまこの時だけは。
闇の中で漂っていたい。
「──……、……」
声にならない音で口を動かす。
誰にも聞こえない。ただ自分だけに言い聞かせるように。





いつもより夕食の時間が遅かったのは四季曰く「無心で作っていたら作りすぎた」との理由だった。
そのせいか普段よりも品数が多く贅沢な夕食となった。
「まあ残ったら明日に回せばいいよ」
「そうだな……悪い」
「全然。明日のわたしが楽出来てラッキーってくらい」
案の定、二人分にしては量も品数も多く明日の夕食も作らなくて良い程度になった。手分けしてタッパーに詰め替えたとき、無心とは言いながらもこの時期でも保存できるような料理であることに甚だ感心した程だ。
そんな夕食時のことを思い出しながら、美都は一人ベランダへ出ていた。手すりに手をかけると心地よい風が風呂上りの肌を撫でる。
時刻は22時を過ぎている。空を見上げると、所々で星が輝いていた。
「きれい……」
ここに来てから星が近くなった気がする。そう感じるのはもちろん物理的な理由もあるが度々空を見るようになったからだろう。
都内と言えど、郊外であるこの場所は星の光も目に届きやすい。ましてマンションの上階だ。地上にいるときよりもふとした瞬間に窓から空が覗く。
夕方に降った雨が嘘のように今は雲一つない。気象予報士が言っていたしし座流星群はまだ見えないが、降り注ぐ星空に感嘆とした。
ふと、無意識に口が動いた。呟くような声で歌を歌う。
タイトルも、誰が歌っているかも知らない曲。物心つく頃には既に口にしていた。それなのに誰に聞いてもこの曲を知らないという。ずっと不思議に思っているがどこか愛おしく感じるのだ。
旋律を口ずさんでいたとき、背後から扉が開く音がした。
「8月とはいえ、風邪引くぞ」
「!  ありがとう」
風呂から出たばかりの四季がタオルケットを美都の肩に乗せた。彼女の行動に気付いたのか四季も横に並び空を見上げる。
「そういや今日か。しし座流星群のピーク」
「うん。今のところゼロだけど」
「もう少し暗くなってからじゃないのか?」
「やっぱり?  ひとつくらい流れないかなー」
四季の言う事ももっともだと感じながらも、やはり少しだけ期待してしまう。流れ星というものはそれだけ貴重なものだと思っているからだ。
「何か叶えたい願い事でもあるのか?」
会話の流れで四季がおもむろに美都に問う。
互いに『流れ星は願いを叶えてくれるもの』という認識がなければこの問いは出ないだろう。
「んー……──あるよ。でも内緒」
「なんだそれ」
「言ったら叶わなくなるって言うでしょ」
おどけるように四季の質問に返した。
美都の答えに「……ったく」と不服そうにしながら四季は彼女の頭をガシガシと撫でた。
おとなしく撫でられていたところ急に何か思い出したようにその手が止まる。
「……髪、なんで切ったんだ」
不意打ちの質問に少しだけドキリとする。見透かされたのではないかと一瞬ひるんだが美都はいつも通りの笑顔で返した。
「────夏が終わるから」
切ったばかりの髪が均一に揺れる。その回答が腑に落ちなかったのか四季は持論を展開した。
「夏が始まる前に切るだろ、普通」
「そうかな?  それに明日から新学期だし。気持ち新たに、みたいな」
「……なるほどな」
2つ目の理由でようやく納得したかのように彼は相槌を打った。
美都は再び夜空に目を向ける。
「なんかあっという間だったね。夏休み」
「いろいろあったけどな」
「ふふ、いろいろね」
3年生は夏休みの前半で部活動を終える。そこから先は受験勉強に明け暮れる毎日だった。
ただし美都たちはそれに加え守護者の使命があった。夏休みに入ってからも落ち着く事は無く合間合間で宿り魔と交戦した日々が続いた。そんな慌ただしい毎日を送りながらも、互いのことを気遣い親密は深めていた。
「お祭りも行けたし合唱コンクールも楽しかったし。受験生なのに満喫しちゃった」
「だな。まあ羽伸ばすのも必要だったし少しくらいいいだろ」
「あ、そう言えば千咲さんから連絡があったよ」
思い出したように先程メッセージが届いていたことを伝えると、四季は渋そうな表情を浮かべた。
「だと思った。あの時は本当に悪かった」
四季の言う『あの時』とは夏休みの最中、彼の親が突然この家に訪れた際の話だ。
そもそもその日、美都は何も知らされずただ四季に「ゆっくり帰ってきて」としか言われていなかった。その指示に従っただけだったのだが、まさかあんな形で知り合うことになるとは誰もが思わなかっただろう。千咲が被っていた帽子が飛ばされ、それを美都が掴んだのだ。偶然に偶然が重なるとはまさにあの事だ。
「私はお話が出来て楽しかったよ。千咲さんも透さんも優しかったし」
「俺が複雑なんだ……」
そういうと四季は手すりに頭を擦り付けるように項垂れた。
意図せずに両親と恋人が出逢ってしまって自分より先に話をしているという状況だった。あの瞬間の四季の引き攣った顔が思い出される。
名前を名乗ったとき、千咲と透は既に何かに気付いたような反応を見せていた。美都自身は四季の両親だとは知らず、ただ帽子を拾った礼として喫茶店でお茶を御馳走してもらったのだ。その後、千咲と二人で話している時だ。色々聞いたのは。彼女からは「何かあったら気軽に連絡ちょうだいね」と言われ、今では定期的にメールで連絡のやり取りをしている。おそらくこのことも彼の本意ではないのだろう。だからこそ彼には伝えていない。
四季は溜息を吐いたまま頭を抱えている。そんな彼を見て少し微笑むと、おもむろに口を開いた。
「四季は──……これからどうするの?」
いつになく真面目なトーンで耳に響いてきた声に四季はやっと顔を上げた。
「どうって……二学期の話?」
「それもあるけど、その……進路とか将来とか」
面食らった表情をしたあと、腕を組んで考えながら言葉にし始めた。
「正直高校はどこでも良い。勉強なんてどこでも出来るし。しいて言えばスポーツの強いとこかな」
「スポーツ推薦で行くの?」
「いや、する方じゃなくて見る方。スポーツ整形に興味があるからいろんなスポーツを見ておきたくて。まあ瑛久あきひささんを見てると到底医者だなんて言えないけどそれに近い事を目指したいと思ってる」
今までそう言った話をしてこなかったので初めて知る四季の考えだった。部活動や体育の授業などで思うところがあったのだろうか。高校がどこでも良いという回答は意外だったが彼の成績なら頷ける。それにやりたいことも明確だ。
美都はただ感嘆とした。
「そうなんだ……すごいなぁ」
「お前はどうするんだ?  何か悩んでたんじゃないのか?」
同じ質問を返されて、一瞬黙り込む。自分から切り出した話題だ。そう切り返されるのは至極当然のことである。
言葉を探すように四季から顔を逸らした。
「わたし──……」
暗闇に目を向ける。そこに答えがあるわけがないことを知っていながらも。
決めるのは自分だ。それなのに言葉が出てこない。まるで喉が絞まっているかのようだ。
四季が不思議そうに見つめているのが視界の端に映った。
「わたしは────」
その瞬間。空に一筋の光が流れたのを見逃さなかった。目を大きく見開く。
あっという間に視界から消えてしまったがそれがなんなのかはわかる。
「流れ星だ……!」
美都の言葉に、四季も空を見上げた。
ポツポツとではあるがしし座流星群が始まったようだ。
「ようやく始まったな」
一瞬の間に消えてしまった流星が、ずっと瞳の奥に映ったまま離れない。そのあとの言葉が出てこない程、光輝く星は綺麗だった。
幻のような儚さの中に、しっかりとした存在感を放つ輝きにすっかり魅了されてしまった。
こんなに綺麗に見られるのも、新月に近いせいだろう。月の光がない為、星が一層輝いて見えるのだ。
「すごい……」
普段滅多に見る事が出来ないものを目視できたせいか、気持ちが高まる。
先程までの話をすっかり忘れてしまうくらいには空に夢中だ。また次はいつ流れるのだろうと、目が離せなくなる。まるで子どものようだ。それでもその神秘的なものに胸が高鳴る。
────『君も星だよ』
それを眺めながら、ふと合唱曲のフレーズを思い出した。
暗闇の中、無数に光る星。その中に突如として現れる流星。次の瞬間を待っている間、空に目を向けながら美都が不意に四季に呼びかけた。
「ねぇ四季──……」
「なんだ?」
少しだけ視線を落とす。
きっとこれからも不安な日々はやってくる。願い事なんて意味無いのかもしれない。
それでも。この瞬間が大切だと思える。好きな人が隣にいるという事実が大切で愛おしいと思う。それだけで今までとは違う。
──だから、大丈夫だ。
美都は喉をぐっと締めて顔を横に振る。何かを自分に言い聞かせるように。
そしてそのまま顔を上げて次の言葉を待っていた四季と向き合うと微笑んで言った。
「──……なんでもない」
今、この瞬間にここにいられること。
いくつかの偶然が重なりあって、この時間がある。今はそれだけでいい。
美都の言葉を聞いた四季は一旦拍子抜けしたような表情をしたあと、彼女につられて笑顔に変わった。美都の頭に手を乗せ、ゆっくり優しく撫でる。
「何か悩んでることがあったら言えよ?」
「うん。ありがとう」
四季の大きな手が頭を二度反復する。そして今度は緩やかに彼の身体に覆われた。
彼の胸に寄せた耳から鼓動が伝わる。心地よいリズムを身体全体で感じたくて、目を閉じて小さく息を吐いた。
この温もりが、いつだって自分を包み込んでくれる。安心させてくれる。だから大丈夫だと思える。
「────明日からもよろしくね」
ポツリと美都が呟く。8月の最終日。中学最後の夏休みが終わろうとしている。もう間も無く日付が変わり、新しい月が始まる。
────『…………良い子で──』
瞼の裏に映し出される映像を消し去るように、強く目を瞑った。
この記憶は、今はいらない。せめてこの時間だけは。このままでいさせて欲しい。
たとえ、どんな明日が来ようとも。


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