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暗闇に届く一閃の -鍵を守護する者⑦-

秋が近づく

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──空気が止まる。
「まだ……わからないのか」
おおよそいつもの彼よりも低い声でそう呟いた。
その圧に喉が詰まる。呼吸さえも忘れそうな程に。
ただ真っ直ぐにその人物と向き合う。目をそらしてはダメだと本能が語っていた。しかし。
その金色の瞳には、光が宿っていない。自分を見据える眼が鋭く冷たい。初めて見る彼の表情に、身体が硬直する。
足音なくその人物が近づいてきた。その様を息を呑んで見つめる。そして、乱暴な手付きで肩を掴まれた。
「──っ!」
その力の強さに驚いて声が漏れる。不意に掴まれた痛み。だが次の言葉で、その痛みさえも忘れる程に目を見張ることとなった。
男が静かに口を開く。少しだけ苛立ちを募らせながら。
「俺は──君の敵だよ、美都。いや……《闇の鍵》の所有者」





天高く馬肥ゆる秋、という言葉がある。その時節の句に相応しい天気が連日続いている。夏の日差しはだんだんと弱まってきており過ごしやすい季節になってきていた。そして第一中学のグラウンドには活気ある生徒たちの声が響いてきている。もうすぐ体育大会が開催されるからだ。
「絶っっっ対に嫌!」
珍しく声を荒げて美都が叫んだ。普段は聞き分けの良い彼女もこれだけは譲れないといったばかりに、あやのと春香へ逆毛を立てている。
「そこをなんとか。適材適所って言うじゃない?」
「何が!  どこが⁉︎」
あやのが頭を下げながらいう言葉に疑問を呈した。全くもって適材ではないのだ。
事の発端は体育大会の競技決めだった。運動部出身者は問答無用でリレー等の走る競技へと回される。とは言え美都自身は走るのが得意というわけではなかった。だがここで文化部の生徒に押し付けるわけにもいかず、致し方なしと腹を括ってスウェーデンリレーの走者へ立候補していたのだ。しかし。
「美都しかいないんだよー」
「そんな事ないって!  わたしより適任いるはずだよ!  春香もあやのもわたしより足速いでしょう?」
「だから私たちは他の競技に回されてるんだって」
ピラッと春香が走者が決まった競技の紙を美都に見せつける。彼女の言うようにそこには既に二人の名前が記載されていた。ぐぬぬ、と歯を食い縛り首を横に振る。ここで引き下がるわけにはいかない。なんとしてでも。と珍しく強気だった。
「わたしだってスウェーデンリレー立候補してるよ!」
「残念だけどねぇ、美都。あんたより速い子が優先されるわよ」
もちろん運動部は他にもいる。バレー部にソフトボール部、そしてテニス部等々。美都の足の速さは運動部の中でも並程度だ。速くもなく遅くもない。つまり平均値。そこで白羽の矢が立ったのが今彼女に一番適任だとされる競技だった。
「でも本当に借り物競走だけは嫌なんだもん……あんな──あんな公開処刑みたいな……」
うぅ、と頭を抱えながら顔を俯かせた。借り物競走は言わばパフォーマンス競技だ。そこに足の速さはあまり関係ない。ただパフォーマンスというだけあって盛り上がる競技ではある。それこそ全校生徒が見ている中で、借り物──借り人と言う方が正しい──を探して手に取ると言う行為は、それだけで十分目立つ。平穏に過ごしたいと願う彼女にとっては真逆の競技なのだ。だからなんとしてでも阻止したいと考えているようだった。
「でもなー。男子の方は四季なんだよねー」
「え?  四季こそ足速いのになんで」
「もちろん他の競技でも走るみたいよ。ほら話題性とかさ」
男子は男子で競技決めを進めている。男子生徒の群集の方にパッと目を向けると、如何せん四季も納得はいっていないようだった。恐らく概要を聞かされたのだろう。彼の気持ちは大いにわかる。しかし先程春香が使った逆節文が喉に引っかかりその疑問を口にした。
「なんで、『でも』なの?」
眉間にしわを寄せる。当該競技の男子走者が四季になったのであれば、それはそれで一緒になりたくはない。彼は目立つ。そして更にこの関係性でより目立つ。そうなるととても得策ではない。それにしても春香が口にした逆説が結びつかない。逆説を唱えるならば自分なのだ。渋い顔で首を傾げていると彼女が説明を始めた。
「借り物競走のお題って、参加走者は借りちゃいけないことになってるでしょ?」
「うん。……だから?」
「だからもし四季が引いたお題に『彼女』とか『恋人』とか『好きな人』とか書かれてたらさぁ。うちのクラス負けるじゃん」
もし美都が走者になった場合ね、と付け加えられた。そこなのだ。毎年毎年良く飽きもせずお題には必ず色恋の単語が飛び出る。借りてきた物もしくは人を連れてゴールした後、答え合わせのためにお題を発表しなければならない。そうなると適当ではいけないのだ。
待てよ、と美都はふと頭を巡らせた。もし仮に自分が参加走者にならなかった場合。そしてその色恋のお題を四季が引いた場合。彼はもしかして自分を借りに来るのだろうか、と。それはそれで悪目立ちしてしまう。否、それこそ同じ競技に出るよりも周囲が色めきだちそうだ。
「借り物競走……」
頭が痛い。なんだかどちらを選んでも大差ないような気がしてきた。
「ね、お願い美都」
この通り、とあやのが両手を合わせて頭を下げる。その姿にうっ、と息を呑むしかなかった。こんなやり取りをしている間に着々と他の競技は走者が埋まりつつある。残りは走らなくても良い競技がほとんどだ。そちらを選ぶことだって出来る。しかしここで運動部の意地とプライドが邪魔をしてしまった。
「……わかったよぉ……」
はぁ、と大きく溜め息を吐きあやのの懇願に渋々承諾する。美都の返事を聞くと「やった!」と嬉々として走者欄に記載しに行った。結局こうなるのか、と自分の甘さにも嘆きたくなる。人助けといえば確かにそうなのだろうが。
「でもさ美都。さっきみたいなお題が出た場合どうするわけ?」
「どうするって……」
横で一連の流れを見ていた春香から疑問が飛んでくる。彼女が言いたいのは先程呈したことについてだろう。四季と自分が走者の場合、互いに借り合うことは出来ない。うーんと唸りながら妥協案を考える。
「まぁ和真あたりに頼んどくよ」
「それ四季が嫉妬しない?」
「むしろ他の人の方がやばい気がして……」
「あー、確かに」
以前四季からは態度で示されたことがある。音楽の担当教師である高階と話をしていて教室への戻りが遅くなった際だ。「取られたくない」と言う言葉とともに直後態度でも意思表示されている。それまでは彼が自身でそういった態度を示すことはなかった。なので少し驚いたのだ。予め共有しておく必要がありそうだが和真であれば当たり障りもないだろうと考えた。
「四季がそのお題を引いた場合はどうするのよ」
「うーん……別に誰でもいいんじゃない?」
「……美都は嫉妬とかしないの?」
「信頼してるんですー」
そう言うとやれやれと少しだけつまらなそうに春香が息を吐いた。彼女に答えた通りだ。四季のことを信頼している。そもそも嫉妬という感情がわからないからしようにも出来ることではない。それは彼があまり他の女子生徒と話をしないからなのかもしれない。
(……もしかしてわたしに気を遣ってるのかな)
だとしたら申し訳ないなと思う。彼にだって彼の生活範囲があるはずだ。そもそもは自分が交友関係を大切にしたいからと学校では必要以上に会話はしていない。そのせいで最近は周囲に不思議がられている。そんな関係性で大丈夫なのかと。
「四季ってやっぱりモテるよねぇ?」
「んー。まぁもう同学年の子はあんたたちが付き合ってるの知れ渡ってるけど、後輩とかからは相変わらず人気みたいよ。何、いきなり惚気?」
「違くて!  なんか……なんでやっぱりわたしなんだろうってふと……」
付き合う前から、否、転校してきた時から彼は周囲の目を惹く存在だった。背も高く顔立ちも整っている。運動も出来て頭の回転も早い。全てにおいて平均的な自分とは全く釣り合わないのだ。守護者という互いの共通点が無ければそれこそ雲の上の存在だっただろう。だから考えてしまう。本当に彼の相手が自分で良いのかと。
そんなことを考えて眉間にしわを寄せて四季を見つめていると、不意に視線が交わった。自分の表情を不思議に思ったのか小首を傾げている。そして群集の中から抜けて一人こちらに歩いてきた。
「どうした?」
「うーーーーん……」
唸りながら彼の赤茶色の瞳を見る。その瞳に映る自分の姿と見比べるようにして。やはりどう考えても不思議だ。なぜ彼が自分を?  と何度も勘繰ってしまう。
明確な答えを口に出せずにただ見つめていると今度は四季がその様子に怪訝そうに顔を顰めた。
「……何?」
「さぁ?  さっきまで惚気てたんだけどいきなり考えるモードに入っちゃって」
「は?」
黙ったまま動かない自分を指差し、四季が隣に佇んでいた春香に何事かと問いかけた。そしてその答えに更に意味がわからないといった風に首を傾げている。
ただこの疑問は以前にも口にしている。付き合い始めた当初だったか。再びそれを確認するのはくどく思われそうだなと思い直し、自分に言い聞かせるようにうんと頷いた。
「いえ、何でもないです」
「……なんで敬語?」
「なんとなく」
長い熟考の末、ようやく四季の問いに返すとその口調に突っ込まれた。以前自分もしたことがあったなと思い出す。せっかく男子の群集から抜けてきてもらって申し訳ないのだが本当に他愛ないことなのだ。ここで話さずとも、ということもある。どうせ家に帰ったらまた理由を聞かれるのだから。
だがなんとなく。なんとなく学校でこうして会話をするのは少しだけくすぐったい。普通の恋人なら何ら不思議なことはないのだが自分たちの場合は事情が違うのだ。恋人同士で同じ家で暮らすなんてことは、恐らくこの年頃だと滅多にない。とは言え立派な理由はある。それは鍵の守護者として。鍵を守るという使命のためだ。
「男子の方は終わったからもう帰れるけどそっちは?」
会話らしい会話になっていなかったがそれにも慣れた様子で四季が美都に問いかけた。女子の競技決めも今しがた自分が承諾したことでもう少しで終わりそうな気配を見せていた。HRの時間を使っているため、決まりさえすれば帰宅して良いということになっている。こちらも間も無く、と返そうとする手前でハッと思い出したことがあった。
「あ!  保健室行かなきゃ」
賑わう教室内で、一人欠けた人物が保健室で休んでいるのだ。その人物の様子を見に行かなければ、と声を上げた。
「あぁ水唯?  じゃあ美都にお願いしてもいい?」
「うん。帰って大丈夫だよって伝えてくるよ」
保健委員である春香の代わりを買って出る。睡眠不足と体調不良で6限からこのHRまで水唯が保健室で仮眠を取っているのだ。彼の具合を確認しておきたい。ついでに帰宅可能だと伝えに行こうと思い身体を捻ろうとした。
「待て。俺も行く」
「え?  いいよ、様子見に行くだけだもん」
「それでもだ」
確かに待たせてしまうのは忍びないとは思ったが、ついてきてもらう程でも無い。だから四季の申し出を丁重に断ったのだが彼の方が断固として一緒に行く、という姿勢を見せていた。
「……水唯とも何も無いよ?」
「ばっ……!  あってたまるか!」
四季は寸でのところで罵しる言葉を飲み込んだもののしっかりと苦い顔を浮かべていた。以前高階との仲を疑われたので──否、疑われた訳では無いのだが彼が気がかりな態度を見せていたため──なんとなくその線を考えてみたが違ったようだ。
「ったくお前は……行くなら早く行くぞ」
「はあい」
呆れながらも急かすように促す四季の言葉に応じる。春香に「じゃあね」と手を振り二人で教室を後にした。
「もしかして四季も体調悪かった?」
「そう見えるか?」
「全然」
他のクラスの喧騒を聞きながら他愛ない話をして廊下を歩く。チラチラと窓越しからでも視線が飛んできているな、とすぐに感じた。頻繁にこうして校内を並んで歩くことが無いため物珍しいのだろう。何ヶ月経ってもこの感覚は変わらない。少しだけ肩がくすぐったく感じるものだ。だが新鮮で嬉しくもある。決して家では感じられない空気なのだ。ここ数日の平穏と相まって口元が緩んでしまいそうだった。
「今日も寄ってくよね?」
「あぁ。いい加減話聞かないとな」
どこに、と言わずとも互いの共通認識は出来ていた。ここ最近は菫の居る教会へ足を運んでいる。しかしタイミングが合わず未だ彼女と話をするに至ってはいない。報告と聞きたいことに溢れている。というのも衣奈に憑いていた宿り魔を祓って以降、宿り魔の出現がピタリと止んだのだ。それに理由があるのかも聞いておきたいと思っている。
「こんなに平和でいいのかな……」
無論何も無いのは良いことだ。しかしこの静けさが仕組まれたもののような気がしてならない。衣奈からも警告されている。「あの子があなたを狙いに来る」と。いつでも応戦出来るように気を引き締めてはいるのだがここまで何も無いと逆に不思議にもなるのだ。
「なぁ……前に美都が見た夢、覚えてるか?」
「夢──?」
「予知夢みたいなやつ。あれってまだ解決してないんじゃ無いかと思って」
先程の自分の呟きに対して黙っていた四季が唐突に問題提起を始めた。彼が口にした予知夢について記憶を遡る。
「──『気をつけて、良くないものが近付いている』……?」
「それ。明らかに平野のことじゃないだろ」
そう諭されて言われてみれば時期的にもそうだと納得する。夢で聞いた声は確かに自分に注意喚起をしていた。それは衣奈が暗躍する途中で見た夢なのだから当然彼女に対することではない。だが解決は出来ていないが「良くないもの」が何なのかというのは彼も理解しているはずだ。
「あの宙に浮いたキツネ面のことでしょう?  それって四季が戦ったって言う男の子のこと、だよね?」
「──同級生、な」
そうだ。衣奈も言っていた。彼女同様、次に自分を狙って来る刺客は同級生の男子生徒なのだと。忘れていたわけではないがやはり無闇に疑うことはしたくない。だからこそ今この状況が少し不気味にも感じるのだ。同級生であれば、必ず自分の動きを見ているはずだ。いつ、どこで仕掛けようか企んでいる、と言うことなのだろうか。
「一応訊いておくけど心当たりは?」
「ないよ。衣奈ちゃんの時もそうだったけど……男子との接点なんて女子以上にないよ……」
眉間にしわを寄せる。衣奈の時でさえ目論見は外れている。それは見事に彼女が誘導したためでもあるが今回も心当たりは一切なかった。加えて親交のある男子生徒はほとんどいない。
「……まぁ、そうなるよな」
何かを思うように、四季がポツリとそう呟いた。自分よりも怪訝そうな顔をしている彼に首を傾げる。
「どうかしたの?」
「いや、なんでも。予知夢はあれ以降見ていないのか?」
「え?  ──あ……!」
予知夢と口にしているが決して予知ではない。ただの警告に過ぎないのだ。具体的に何かが起こることを予知出来てはいないのだから。そして彼に問われて思い出したことがあった。
「そう言えば……同じ声を夢の中で聞いたの。えっと、一緒に寝た日だったかな」
ふと、あれはいつだったかと頭の中で巡らせる。そして該当した日を口に出した。所有者だと判明したその夜。再び夢の中で声を聞いた。まるで自分の考えが分かっているかのような口調でただひたすらに会話をした。誤った思考を正すようにしながら。その状況を四季にも説明する。
「やっぱり予知夢とは違うんだよね。だから不思議なんだけど……」
「確かに予知では無いしな。知らない声が響いてくるってのも妙な話だ」
「そうだよね。でもその声の人はどことなく先に起こることを知ってるのかも──知ってて回避させようとしてるのかな」
うーんと眉間にしわを寄せる。そう考えてみたもののいまいちしっくりと来ない。もし未来が見えているのだとしたら少し回りくどいとさえ思えてしまう。起こることが分かっているのならば、もう少し進むべき道を示してくれても良いのでは無いだろうか。それは望み過ぎなのだろうか。
そもそもなぜあの声は自分の夢にしか現れないのだろうか。菫は以前、守護者の力が要因の一つではあるとは言っていたがそれは定かにはなっていない。不安な気持ちになると現れる夢。夢の中で質疑応答を繰り返し、最終的に大丈夫だと安心させてくれる。
(あれ……?)
そういえばあの声は先の警告の後に「今のきみなら間違いを正せるはずだ」と言っていた。ということはその台詞も『良くないもの』に掛かっているのだろうか。
「……頼むから声に出して考えてくれ」
「え?」
会話が急に止まったのを不思議に思ったのか、不意に隣からそう声が飛んできた。パッと顔を上げると四季は呆れた顔を覗かせている。
「じゃないと意見も言えないだろ」
「あ、そっか。ごめん──えっと『間違いを正せるはずだ』って言われたことなんだけど、あれって衣奈ちゃんのことじゃなかったのかなって」
「……──は?」
言われた通り口に出して意見を求めてみたが、意に反して怪訝な表情を浮かべている。彼の解釈が違ったのだろうかと首を傾げているとその顔のまま言葉を続けた。
「そんなこと言ってたっけか?」
「言っ──……」
た、と主張しようと思った手前ではたと思い返す。あの時のことを。曖昧な言葉だから確証がないうちに彼を惑わすのは良くないと考えたのではなかっただろうか、と。だんだんと思い出してきた。そして同時にやってしまった、とも。返事を待つ彼の瞳から目を逸らさざるを得ない。
「……ってなかったっけ?」
口走った第一声に続けるように、出来るだけしれっと。しかしそんな小細工やはり意味をなさなかった。少年からはふつふつと怒りの雰囲気が漂っていきたからだ。
「お、まえは──っ!」
「わー!  ごめんって!」
声を荒げる四季をなんとか宥めるためすぐに謝罪する。良かれと思ってのことだったが結局裏目に出てしまった。とは言え間も無く目的地に到着するといったところだった。
「ほら、もう保健室着くし静かに──ね?」
「ったく……!  帰ったら詳しく聞くからな」
何とか彼を諌めることに成功した。帰宅してからがうるさそうだが自業自得だと反省せざるを得ない。あの声に関しては不思議なことが多いのだからもう少し慎重に口に出すべきだったな、と。
ふと再び己の思考回路に迷いそうになっていた寸前でそれを振り切る。ひとまずこの話は後だと思い直し、到着した保健室の扉をノックした。



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