上 下
114 / 159
暗闇に届く一閃の -鍵を守護する者⑦-

水に映る影

しおりを挟む


ドビュッシー作曲、『映像第1集水の反映』。自室で高階に貸してもらったCDを流しながら勉強していると、窓の外が暗くなってきた事に気付いた。
(雨でも降るのかな……)
美都は椅子から立ち上がり窓際まで歩く。心なしか雲が分厚くなってきた。これから出かける予定はないので雨が降ったとしてもさして問題はない。のだが。
(……なんだろう)
妙に胸が騒つく。先程聴いた曲のせいだろうか。それはもう一つ貸してもらったCDに収録されていたものだ。高階との話題にも挙がっていたラヴェルの『水の戯れ』。彼の言うようにとても幻想的だった。だがそれ以上にもっと相応しい表現があるような気がしてならない。感情を掻き立てられるような。そんな曲に聞こえた。
(水を表現してるんだから当たり前なのかな……)
水が流れるように、旋律も波紋のように広がっていく。タイトル通りと言えばその通りだ。クラシックとは不思議なものだ。ポップスのようにわかりやすい歌詞があるわけではないのに旋律だけでタイトルを表現してしまうなんて。改めて作曲家は偉大だなと思わざるを得ない。
(マ・メール・ロワ──マザーグース……か)
同じ作曲家の曲について連想ゲームのように思い出す。マザーグースはイギリス圏の伝承童謡の総称だと聞いた。母親から子どもに受け継がれていくものなのだろう。
「水唯……」
ポツリとその名前を呟く。今度は母親という単語から彼のことが脳裏に浮かんだ。入院している母親としばらく顔を合わせていないという水唯のことを。先程メッセージを送ってあるのだが未だ返信はない。具合が悪く起き上がれない程でなければいいが、と眉を下げた。
『──美都?』
コンコンと自室の扉がノックされる。ハッとして振り返りその声に応じるためすぐさま扉まで歩いた。
「どうしたの?」
扉を開くと四季がスマートフォンを片手に立っていた。首を傾げ用向きを伺う。
「ちょっと下行ってくる」
「下ってエントランス?」
マンションのエントランスにはこじんまりとした椅子が二つ置いてある。ソファーという程仰々しくはないがベンチという程でもない。小さな打ち合わせスペースくらいだと思って良いだろう。なぜそんなところに行く必要があるのだろう、と眉間にしわを寄せると四季が計ったように応答した。
「瑛久さんと話したいことがあってさ」
「?  どっちかの家じゃダメなの?」
隣の家で暮らしているのにわざわざ下で話す理由が分からず、更に眉を顰める。
「急ぎで確認したいことがあるんだ。さっきまで電話しててもうすぐ着くって言ってたから」
「……そっか。じゃあわたしもついでに水唯の家行こうかな」
四季が出かけるのなら、と思いふと先程まで考えていた人物の名を口にする。すると玄関へと身体を向けようとしていた彼が不意に立ち止まった。一瞬目を見開くと険しい顔をして再度こちらに身体を捻る。
「──ダメだ」
少しだけ語気が強く感じる四季の言い方に思わず肩を竦めた。すると彼自身もその事に気付いたのかハッと口を押さえる仕種をする。
「……どうして?  授業のプリント渡しに行かないと」
「俺が帰ってきてからでもいいだろ?  急ぎじゃないんだし」
「そう、だけど──でも隣に行くだけだよ?」
遠くに行くわけではない。ただ隣の家で暮らす水唯の様子を見に行くだけだ。四季からは「別行動する際はどこへ行くか事前に報告して欲しい」という旨を伝えられている。今回はこれに該当するのではないかと首を傾げた。
すると四季が度重なる問答に苦い顔を見せる。いつもは鈍感な美都もさすがにおかしいと思ったのかついその疑問を口にしてしまった。
「……瑛久さんとの話って、もしかして水唯のこと?」
「ただ個人的に瑛久さんと話があるだけだって」
そう語る四季は一向に目を合わせようとはしない。その問いに対して否定しないということは少なからず水唯に関わることなのだと見ていいはずだ。それなのに壁を作るような言い方が気に掛かる。ピリッとした空気に怯んでしまったが自分も水唯のことが心配なのだ。
「ねぇ、水唯のお母さんに何かあったの?」
「──そうだとしても俺たちが干渉するようなことじゃないだろ」
先程よりも強い語気から只ならない雰囲気を感じた。まるでこの件に関わらせたくない、というような意志にさえ思う。だが今の四季の言い分はもっともだった。水唯の母親のことに関して、他者が干渉すべきではない。それは十分解っている。しかし溜飲が下がらず口を噤んだまま四季を見つめていると彼が堪らず声を上げた。
「お前、忘れてるだろうけど──あいつも同級生の男子なんだぞ」
「それは──!  ……でも」
「水唯が敵じゃないって、何か証拠があって言い切れるのか?」
畳みかけるように発される言葉に声を詰まらせる。「そんなことない」と言い返そうと思った矢先に四季から証拠を求められた。無論そんなもの持ち合わせていない。だがもし水唯が敵であるとしたらこんなに守護者の傍で暮らすものだろうか、と考えてしまう。それに彼の言い方はまるで──。
「四季は……水唯を疑ってるの?」
そうとしか聞こえなかった。だから無闇に近づくなと警告しているのかと。自分のこの考えが間違いであって欲しいと息を呑んで四季を見る。すると彼は一拍置いて改めて向き直った。
「疑ってるよ」
「っ……!」
「だってそうだろ。どう考えても一番怪しいのはあいつしかいないんだ」
彼の答えを聞いてようやく腑に落ちた。最近ピリついた空気を纏わせていたのは水唯を警戒していたせいか、と。青い顔のまま口元を押さえる。
「お前の夢の話にしてもそうだ。良くないものが近づいてる、って。あれはやっぱり水唯のことだったんだ」
「でも……!  それこそ証拠がないでしょう?  四季だって穿ち過ぎるのは良くないって──」
「もうそんな呑気なことも言ってられないだろ、この状況じゃ」
重ねられる言葉にどんどん言い返すことが出来なくなっていく。四季の言っていることは整合性が高い。あの夢のあとに実際水唯は転校してきた。不思議な影が現れ始めた時期とも合致する。彼の言葉を借りて反論してみたものの悠長に構えていられないのもまた事実だ。それにこれは自分に関わることなのだから。
「俺は守護者として──お前を危険な目に遭わせるわけにはいかない」
「──……っ、水唯って決まったわけじゃないんでしょう……?」
守護者としての彼から語られることに怯む。その通りだ。彼は至極真っ当なことをしているだけで。自分がただ受け入れられていないだけなのだ。だからなんとかこの状況を回避したいと思ってしまう。四季にそう問いかけたのもまだ水唯を信じているからだ。
「──それでもだ。間違いならそれでいい。でも怪しい奴を野放しにはしておけない」
「野放しって……一体どうするつもり──」
「決まってる。水唯と接触させない。それだけだ」
目を細めて、まるで警告のようにこちらに語りかける。その鋭さに息を呑んだ。既に四季の心は決まっているのだということが直ぐに理解できた。いつから考えていたかはわからない。だが彼の言い方から察するに、彼が己の意見を変えることはまずないはずだ。どうするのが良いのか、と混乱しながら考えていると今度は不意に四季が目を逸らした。
「本当はまだお前に伝えるつもりじゃなかった。もう少し外堀を埋めてからにしようと思ってたんだ。でも──」
赤茶色の瞳を揺らし、眉を顰める。苦々しい表情を浮かべて言葉が紡がれた。
「宿り魔の襲撃が再開された。だけど今回は今までと違うだろ。お前が所有者だって理解した上での行動だ。今日はたまたま俺が先に着いてたからよかったけど、あれは確実にお前を誘き出すための罠だ」
「……──っ」
「もう向こうもなりふり構っていられなくなってきたってことなんだろうな。また近々こういうことが起きるかもしれない。だから止めたんだ」
四季の説明を耳にしながら口元を押さえる。罠かもしれない、とは自分も考えた。それでもその実行者が水唯だとはもちろん考えが及んでいない。四季の仮説が正しかったとしたら、水唯は自分を陥れようとしているということになる。あの優しい彼が、と思わずにはいられないのが本音だ。
「……お前の考えてることはなんとなく解る。でもこればかりは俺も譲れない。お前が水唯を大切に思うなら尚更だ」
「どう……いうこと……?」
頭の中で思考が錯綜している。四季の言葉を上手く読み解くことが出来ず眉が下がった。
「昨日の話──お前が見た夢で『間違いを正せるはずだ』って言ってたんだろ。ならきっと平野の時とは違う。今まで仕掛けてこなかったのは、あいつも自分がしていることに後ろめたさを感じてるからじゃないか、って」
考えていたことを組み立てるようにして、四季がポツリポツリと口にしていく。その間も彼と目線が交わることはない。恐らくは彼も感じているのだ。水唯を疑うことについての後ろめたさを。
「だとしたらまだ話し合う余地はある。でもこれはただの俺の憶測なだけだ。もしそうでなかった場合、その状態であいつと接触するのがどれだけ危険かは……解るよな?」
最近四季が何かを話そうとしては口を噤んでいた理由はこれだったのか、とようやく理解した。友人を疑うことはこの上なく神経をすり減らす。それを彼は一人で抱えていたのだ。自分に話すことを控えていたのは、水唯と仲が良いからだろう。自分を動揺させないために。四季の思いを強く感じるのは今の説明で十分だった。
美都は黙ったままコクリと小さく頷く。彼の思いに背くことは出来ない。ここまで自分のことを考えてくれている彼の気持ちを無駄には出来ないと考えたのだ。俯き加減で唇を結んでいると不意に彼の大きな手が頭に優しく乗せられた。
「強く言ってごめん。お前の言うようにまだ決まったわけじゃないけど、ちゃんと──知っておいて欲しかったから。身の回りにある危険を」
「ううん。ありがとう、四季」
謝罪の言葉を口にする彼に首を横に振る。四季はあくまで自分のことを考えて取った行動だと分かっている。それに関して感謝こそすれ謝られることではない。むしろ自分よりも何歩も先回りしてくれているのだ。
ちょうどその時、彼が手にしていたスマートフォンに着信があった。瑛久からだろう。
「じゃあちょっと行ってくるから」
「うん……待ってるね」
その返事を聞くと安堵したような表情を見せ、今度こそ四季は玄関の方へと歩いていった。その背中を見送った後、再び自室の扉を閉めるとベッドへ仰け反る。
はぁ、と大きな溜め息が出た。思わず自分と四季を比べてしまったせいだ。
(四季はすごいな……)
彼の思考、そして行動力に圧倒されてしまった。同じ境遇にいるはずなのに自分はなんと情けないことだと。悠長に構えていた。その事実に辟易とする。しかし彼にとってはそれが当たり前なのかもしれない。
(守護者……だから)
守護者は所有者を守らなければならない。いつだって四季はその任を全うしてきた。自分の考え方が甘かったのだと思い知らされる。目を細めて天井を仰いだ。部屋の中には先程までかけていたドビュッシーの繊細な曲が流れている。
「ねぇ水唯──本当にそうなの?」
ポツリと独り言を呟く。隣の家で暮らす水唯に向けての疑問だが、当然答えが返ってくるわけはない。四季の話を聞いてもまだ信じられない。水唯が敵かもしれないと言うことについて。無論信じたくはない。そして何よりも、彼のことが心配だった。最近体調を崩して、まともに会話すら出来ていないのだ。
(羽鳥先生との約束があるのに──)
家庭環境を知ってしまった以上、水唯を一人にしておくことだけはしたくないのだ。事情を話してくれた羽鳥からも気にかけておいて欲しいと言われている。やはり四季が帰ってきたらまずはそのことを話さなければ、と思い至った。
ふと窓に何かが当たる音がして上半身を起こす。窓を見るとガラスに水滴が付いているのが確認できた。雨だ。部屋の明かりが窓ガラスに反射して外が見づらい状況だが、小雨が降り始めたらしい。
明日は体育の授業がある。雨が強くなればグラウンドが水浸しになり、使用が困難になるだろう。せっかくの体育大会の練習の機会が減ってしまうのは悲しいものだ。
(ひどくならないといいけど……)
と眉を下げた時だった。不意にベッドの上に置いたままのスマートフォンが鳴る。突然の着信音に肩を竦めた後、一旦心を落ち着けて発信者を確認するため画面を覗き込んだ。
「……!」
画面に表示された名前を見て息を呑む。それは今しがた話題に上がっていた人物からだった。
(水唯……⁉︎)
彼から電話がかかってくるのは初めてのことだ。だから驚いたのだ。先程四季から話を聞いたばかりだったのでどうしよう、と動揺する。しかし電話越しであれば問題ないだろうと判断し、迷った挙句その着信に応答した。
「もしもし水唯──?  どうかしたの……?」
平静を装い、普段電話をするようにひとまず発信者の名を呼んだ。しかしすぐに返ってくると考えていた声は一向に聞こえてこない。その様子に首を傾げる。
「水唯?」
誤ってかけてしまったのだろうか、と怪訝に思い再び彼の名をなぞる。もう一度応答がなければ切ろうと考えて。すると。
『……っ、ぅ──』
「⁉︎  どうしたの⁉︎  ねぇ水唯!」
電話越しから微かに呻き声が聞こえ、慌てて呼びかける。しかしやはり反応はない。
美都は青ざめたまま電話を見つめる。もしかしたらこれは水唯からの緊急信号なのではないかと。考えている暇はなかった。スマートフォンを握りしめたまま一目散に自室から飛び出る。まずは彼の安否を確認することが最優先だった。
(ごめん四季──!)
ひとまずは確認しに行くだけだから、と心の中で謝る。四季に報告する時間さえ惜しかった。
自室の扉を閉めるのも忘れ、美都はただ隣の家で暮らす水唯の元へと急いだ。


しおりを挟む

処理中です...