ぺトリコール

皓 气

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月が幾度となく貌を変え、迎えた移住計画施行当日。薫と葵は東京みらい宇宙センターに来ていた。一面は天然芝で覆われており、前日降りしきった雨によって日差しがより一層煌めきだっている。
「残念だったね」
「何が?」
「望月さんのこと」
「あぁ、うん」
あの後も望月は目を覚ますことなく、使命と人生を全うした。心電図が一定に鳴り続ける瞬間を薫と葵は、植物のように眠る彼の病室で見届けた。
鉛のように重たい足を運んでいると、場内アナウンスから女性の温度の無い声が聞こえた。
「場内にお越しの皆様に連絡いたします。本日午後二時に予定のロケット発射に向けまして、搭乗手続きと準備や説明かございますので、移住該当者の方は敷地内の東端にあります当センターの本部までお越しくださいませ。保護者や関係者の方は中央広場にて、もう暫くお待ちください。繰り返します──」
薫の耳の中で次第にアナウンスの声が小さくなっていく。もうすぐで葵は月に行ってしまうんだ。そう思うと心に棘が刺さって抜けない気分になり、視界が滲んでは霞み始めた。
「急いで本部に行ってくる」
「わかった。じゃあ僕は海岸にいるよ」
「うん。出来るだけ早く戻ってくるから」
そう言うと葵は南の方向へ歩いていく。
薫も背を向け海岸沿いへと向かった。
着くと壮大な海が果てしなく続いている、地球は青くて丸いと実感出来るくらいに。
どこに行っても世界は繋がっているのなら月とも繋がっていたらなぁと、そんな絵空事を描いていた。
さざ波が揺れるのを見ながら、葵へと想いを馳せていた。
昔からそうだったが潮騒に耳を澄ませると時間や悩みも波に掻き消される。思春期の頃は特に何かあると一人で海にやってきては夕方まで黄昏れることも多々あった。
「薫!」
どれだけの時間が経ったのか分からないが、手続きを終えた葵が戻ってきた。
「どうだった?」
「アナウンス通り手続きして、機内とか月面コロニー着いた後の動きとかの説明を聞いてた。最後に乗り込む時に持ち込む搭乗券と手荷物を渡された」
たしかに葵の左腕には丸められた毛布のようなものが抱えられている。首からはテレビ局に入るための許可証のような、おそらく搭乗券だろう。こうやって見るとお別れの時間が足音を立てて近づいているのを身に感じた。
「はぁ」
肩を落とす薫を見て、葵は笑い飛ばした。
「なに溜め息なんてついてんの?その分幸せが逃げるって言うでしょ?そんなんじゃ私がいなくなったらやっていけないよ。ほら、胸張って!」
そうやって励ます葵だって瞳の奥は寂しいって叫びたがってるじゃないか。そんなこと言っている余裕なんて薫には無かった。普段なら言ってるだろうなって思うと、いつもの自分を見失ってることに気づいた。
「大丈夫、私は大丈夫だから」
そう言って薫は葵の腕の中に包まれた。
辺りは緑が春風に靡いている。
柔らかい日差しと暖かな風。
茂みにポツンと虚しく咲く可憐な花。
岸壁に弾かれて飛沫上がった波。
そんな春を織りなす幾つもの味そっちのけで、薫の全神経は葵の感触と体温に引き寄せられていた。
これが最後と目を閉じて噛み締めていると、今まで我慢してきた感情が爆発し涙が止まらなくなった。
それを察した葵も言葉を詰まらせながら言った。
「私だって、出来るなら離れたくないよ。唯一の家族だもん。やっと出逢えたのに・・・・・・。もう独りになんかなりたくなかった。死ぬまで一緒にいたかった・・・・・・」
初めて聞いた葵の本音が薫の心に深く刺さったのか、互いを痛いくらいに強く抱きしめ直させた。
この時の感覚を二度と忘れることはないだろう、そう思った。
葵が月に行ってしまっては想ってたことも言えなくなるのだろう。その前に自分の気持ちを曝け出すべきだという気持ちが薫の背中を押した。
葵の両肩を優しく押し出し、面と向かって言った。
「俺も今だから言うけど、目の奥に希望みたいなものが何も感じられない、何も期待しないような、それでいて寂しいって叫びたがってるような、その葵の目が大好きだ」
「何よそれ」
悲しいから無理して笑っているのか、嬉しくて涙を流しているのかは分からない。
二人の間を爽やかな潮の風が通り抜ける時、場内アナウンスの電源が入ったであろうカチッという音がした。
「再び、センター本部からの指示アナウンスです」
二人にとって残り少ない時間に水を差すように、能天気な女性の声が場内スピーカーから聞こえた。
「午後一時半を迎えましたので、移住該当者の皆様はロケット発射台付近にお集まりください。保護者並びに関係者の方は専用ブースを設けていますので、係の誘導に従って発射をお待ちくださいますようお願い申し上げます。繰り返します────」
そろそろお別れの時間らしい。
その証拠に珍しく葵が表情を曇らせた。
「お別れだね。本当に出会えてよかった。生きてて良かったって初めて思えた。大袈裟とかじゃなく本当に」
コクリと頷いて薫は微笑んだ。
「そうだね、僕も同じだよ。ありがとう」
「ここでも頑張って早死にしないでよ」
「あぁ、頑張るよ」
最後の最後まで葵らしいな。そう思うといささか心が軽くなった気がした。
「じゃあね」
「うん、元気でな」
「うん!」
そう言って葵は強く歩き出したが、その瞬間に俯き腕で目を擦っている。肩も揺れている。一番落ち着いていた葵が一番辛いのだと背中が語っていた。
「向こうでも上手くやれよ」
誰にも聞こえぬ声で自然と呟いていた。
やがて葵の姿は影も残さず遠ざかっていった。

薫は関係者専用の特設ブースへとやって来た。ここだけでも凄まじい人数だ。一度の飛行では数万人の移住該当者たちが運ばれる。その家族や関係者が集まるのだから仕方がない。人混みに埋もれながらも、とりあえず場所は確保できた。
中に葵のいるロケットを見つめる。あんな巨大な鉄の塊が空高く浮かび月まで行く?メカニズムが分からず、事実なのに未だに信じられなかった。
そんなことを考えていると、またもやアナウンスが流れ始めた。
「午後二時の五分前となりました。もうまもなく出発です」
いよいよか。自分のことのように緊張してきた。心臓は張り裂けそうなほどに踊っていた。
そしてカントダウンが始まった。
「一分前」
相変わらずアナウンス担当の女性の声は死んでいる。家族や関係者も大声で時間を刻んでいく。
「三十秒前」
ますます場内のボルテージは上がっていく一方だ。薫も喉を枯らす覚悟で必死に叫んだ。ロケットの麓からは大量の煙が放出し始められていた。
「十秒前、九、八、七・・・・・・」
ここからは色のない女性アナウンスの声も周りにいる関係者のカウントダウンも、風も何もかも音が聞こえなかった。
その時だった。
「この匂い・・・・・・」
脳に微弱な電気が走った。
高速で過去の記憶にタイムスリップする。
「ぺトリコールだ」
珍しいかもしれないが、雨上がりの草木やコンクリートから這い上がってくるこの独特な匂いが薫にはたまらなかった。
それもそのはず、薫にとって特別な匂いだからだ。
十年以上前の丁度この日のこと。
薫が捨てられていたのは雨上がりの高架下だった。視覚的な記憶はないが、匂いだけは頭の片隅に残っていた。ここからは聞いた話だが、傘を差しやってきて拾ってくれたのが青谷らしい。
「いつも何かある時は雨か、皮肉だな」
そういえば葵と初めて会ったのも雨が小降りになってきた時で、今は亡き望月と手を組んでミサイル回避した日の前日も雨が降っていた。そんなことを回想していたら、周りの迫力ある声が耳に帰ってきた。
「・・・・・・二、一、発射!」
合図と共に発射台のストッパーは外され、噴射口から炎を吹き出しながらロケットは打ち上がった。天に突き刺さるように昇っていく。光芒が尾を引いていた。
ポケットの中からある物を取り出して胸に当てる。あえて見ないようにした。見ると辛くなるからだ。それは葵との思い出を片付けている時に唯一残しておいた二人で撮った初めての写真だ。まだ二人には妙な距離が空いており、薫の笑顔がぎこちない。そんな写真だけはお守りがわりに大切に持っていたかった。
「さようなら」
そう言い残した薫は背を向け打ち上げ会場を後にしようとした。
その時だった。
後ろから突然の爆音と衝撃波が薫を襲う。反射的に振り返ると瞳に飛び込んできた景色に暫しの間、見惚れてしまっていた。
薫が見上げた夜空には、大きい花火のようなものが美しく一輪咲いていた。
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