ひんな様

七海みなも

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第五話【完】

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悠真ゆうまッ!」
「アヤ? どうし——うおっ!?」
 注連縄を潜り、座布団の上で胡坐を掻く彼の胸へ体当たりする様に飛び込んだ。
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。内鍵を掛けたかどうかすら覚えていない。
 倒れ込みそうになりながらも受け止めてくれた彼が、落ち着け、と俺の背中を撫ぜてくれるが、息は弾む一方。
「どうしよう、ばれた……っ!」
「何がだ?」
「悠真に名前あげたって……叔母様に……!」
「……そっか」
「きっと挨拶の席でばらされる……もし悠真に会えなくなったら俺、おれ……っ」
「アヤ、落ち着けよ。な?」
「無理だよッ!」
 呼吸が浅くなって、ぼろぼろ涙が出て来る。
 事が露見すれば鍵を取り上げられるどころか、蔵にすら近づけさせてもらえなくなるだろう。
 本家の跡取りは気が触れたのだと、こっそり病院に入れられるかもしれない。
 いずれにせよ、悠真に会えなくなってしまう。
「悠真を取らないでよ…!」
「誰も欲しがりゃしねえから、ほら、ちゃんと息しろ」
「やだっ、離れたくない!」
「頼むから一度深呼吸しろって。……おいっ」
「直接会うしかないのに……ッ、悠真は此処から出られないのに——んうぅっ……!」
 大きな両手で顔を包まれ、唇を塞がれた。
 常なら入って来るはずの舌は入って来ない。
 ただ、口を塞ぐだけのキス。
 取り込める酸素の量が一気に減り、徐々に呼吸が落ち着いてくる。
 くちゅ、と彼の唇が俺のそれを食み、角度を変えて再び塞ぐ。
 柔く静かな口付けは、不思議な安堵感と愛しさをくれて。
 気づけば、大人しく享受していた。
 もう一度角度を変えて、静穏な口付けを交わした後。
 ゆっくりと離れた顔が穏やかに微笑む。
「落ち着いたか?」
「ん……ご免なさい、取り乱し過ぎた……」
 情けない姿を見せてしまった。顔だって酷い事になっているはずだ。
 今更だが羞恥心が湧いてきて、堪らず彼の肩に額を当てた。
「んな凹むなって。……俺だって、不安になっちまってんだからよ」
「悠真が…?」
 背中を優しく叩かれ、のろのろと面を上げると、厳しい顔をした彼が真っ直ぐに俺を見ていた。
 悠真も、不安なのか。言われても想像が出来ない。いつもどっしり構えてるから。
 濡れた頬を親指が滑り、涙を拭う。指先で目尻を撫でながら、彼は静かに口を開いた。
「前に話したよな、人形ひんな神の憑き方は強力だって」
「うん」
 それは覚えている。
 人間の欲望から作られたが故に、取り憑き方も強力なのだと。
「あの時は言わなかったけどよ……取り憑かれた奴は、死ぬ時に酷ぇ苦しみ方をして、最後は地獄へ堕ちるんだ」
 黙って話を聞く俺の頬に、彼の両手が掛かる。
 熱でも測るように額同士を合わせた彼が、小さく尋ねた。
「地獄へ堕ちる覚悟はあるか」
「かくご……?」
「人形神は一度憑いたら死んでも離れねえ。比喩なんかじゃなくてさ…死んだ後も離れてやれねえんだ」
 ——それでも、俺と居てえの?
 目の前の相貌を、じっと見つめる。金色の瞳こそ寂しさを宿しているが、歪む表情は痛みに堪えているようで。
 得体のしれない不安感に苛まれる。
「悠真は、どうなの?」
「俺?」
「そう……」
 逃げられぬように、頬を包む手の上に掌を乗せる。
 受けた問いに、彼の気持ちは無かった。悠真の気持ちが置いてけぼりだ。
 もし俺が断ったら、蔵に出入りしなくなったら、悠真はまた独りぼっちになってしまうのに。
 気味悪がるくせに、お供え物でご機嫌取りをした気になって。福をくれと強請る我欲の塊——毒人間しか残らないではないか。
 それは——ひどく哀しくて、苦しい。
「俺はね、悠真と離れたくないよ。悠真はどうなの? 俺と離れても良いって……思ってる?」
 悠真と離れるのは嫌だ。だがそれ以上に、悠真を独りにしたくない。
 これは、俺の我儘だ。
 掌から腕を辿り、背中まで手を伸ばす。彼の着物をきゅっと握ると、吐息で小さく笑われた。
「馬鹿だなぁ」
「んにゅっ」
 頬を挟み込まれて、変な声が出た。
 前も似たような戯れをした気がする。
 じとりと彼を見ると可笑しそうに笑い、尖った唇を軽く食まれた。
「二度と離してやれなくなるから、こんな狡い言い方してんだよ」
「……それ、卑怯じゃない?嬉しくなっちゃうじゃん」
「ふはっ、そうだよ。俺は卑怯で業突く張りな人形神なんだ」
 今更だろ、と彼は笑うが、そこまで欲深いとは思わない。
 寧ろ、俺の方が強欲だろう。
 赤らむ顔を見られたくなくて、厚い胸板に埋めれば、すかさずゆったり包まれる。
 こういうところが卑怯だって言っているのだ。
 無意識なのか知らないが、直ぐに俺を甘やかす。
「ねえ、悠真」
「なんだ?」
「みんな要らないから、一緒に居て」
「……要らない?」
「うん、要らない。悠真が居ればいい」
 未知の場所に対する恐怖より。
 明確な意思を持って離そうとする血縁者たちの方が、余程恐ろしく思う。
 俺たちの仲を引き裂くなら、全部要らない。
 頭の固い家人も、無意味な仕来りばかり強いてくる親類縁者も。
 分かった、という短い応えと共に、背中を二度叩かれる。
 何かを告げる時の、悠真の癖だ。
「注連縄、切ってくれるか」
「……ん」
 彼に請われるまま、階段の直ぐ脇、古い道具入れの中から小振りな斧を取り出す。
 何十年に一度。人形様を当代と共に火葬する際に使われるだけの、年季物。
 それを無造作に振り下ろす。札に彩られた注連縄が、重い音を立てて床に落ちた。
 何故か、これで自由だと思った。
 もう、悠真を蔵に縛り付けるものは無いんだ。
自由に動ける。
 何処へでも行けるのだ。彼の意思のままに。
 黒い足袋が注連縄を跨ぎ、観音扉の窓へ近付く。
 ——妙な胸騒ぎがする。
 真っ直ぐに歩いてゆく悠真の後を追う。大きな窓枠へ手を置く彼の背中に張り付いた。
 屋敷を見下ろす冷めた顔が、より不安を駆り立てる。
「家の連中はまだ寝てんのか」
「た、多分……」
「……ほんとに?」
 え、と声を上げるより早く、屋敷に明かりが灯った。
 一階の大広間だ。
 障子から透け出る明かりが、庭の地面に影を映す。
「……なんで……」
 まだ外も暗い早朝である。通常であれば朝のお供えがある俺しか起きてない筈なのに。
 何故、大広間に集まってるのだ。
「アヤ」
「っ、」
 ことん、と傾げるように回された首が、俺を見下ろす。
 にやりと口の端を上げる、知らない笑み。
 初めて見る笑顔に上手く反応が出来ず、ただ見つめ返すに止まってしまった。
「お前が初めて強請った欲だ、ちゃんと叶えてやる」
「おれの、よく……?」
「おう」
 がしゃん、と何かの壊れる音がした。
 眼を向けるよりも早く、悲鳴と罵声が耳を劈く。
 突然の喧騒に肩が跳ねる。
「始まったなぁ」
 のんびりと呟く彼の視線の先で、影が激しく形を変える。
 影絵で出来た映像のようなそれ。揉み合い、押し合い——得物を持った影たちが、抵抗する影らの首を、胸を、背を刺している。
 どれが誰だか判らないが、親類の誰かが、誰かを殺してる。
 身内が、殺し合ってる。
「——ひッ、」
 背後へ逃げるように踏鞴を踏むと、素早く背中に回った腕が俺をその場に縫い留めた。
 悠真だ。
 恐る恐る見上げれば、悠真はあの笑顔を浮かべたまま、顎で屋敷を指し示したり
「お前の欲だ。満足か? それとも、物足りないか?」
「おれ、の……」
「ああ。要らねえっつったろ?」
 言った。確かに言った。
 ならばこれは、俺が蒔いた種なのか。
 地面の上を踊る影たちが絡み合い、縺れ合い、倒れてゆく。消える直前、僅かに大きくなる声は、正しく断末魔である。
「ぁ、は……は、あははっ……!」
 醜く殺し合う影たちに、泣き嗤いが溢れて止まらない。
 何て愚かで無様なんだろう。
 これが俺の欲の形。
 彼が叶えてくれた、俺の欲望。
 かくん、と膝の力が抜ける。狂騒から目を離さぬままその場にへたり込み、壊れたように嗤っていると、背後に回った悠真がお腹に手を回して抱き締めてくる。
 固い胸に身体を預け、地面に描かれる狂気を眺める。
「どうだ、満足か?」
「ふふ……うん。満足だよ」
「そうか。なら良い」
 厚い舌が、頬を流れる涙を掬う。
 可笑しなものだ。自分で望んだ事なのに、こんなに涙が出るなんて、知らなかった。
 どれくらい、そうしていたのか。夜明けを感じさせる藍紫色が、屋敷の向こうから顔を覗かせる。
 何だか酷く疲れた。
 一生分泣いて笑った気がする。
 俺の首筋で遊んでいた唇が、ゆるりと耳元へ移動した。
「もう、今日の望みを訊けなくなっちまったな」
「んぇ?」
「これからは毎日アヤと一緒にいりゃ良いんだろ? 今日はどうするって言えねえよ」
「あ、ほんとだ」
 とん、と肩を押され、床に転がる。
 覆い被さって来る人形様が、涙の跡に口付け、わらった。
「あれ訊くの、結構好きだったんだけどな」
「ふふ……俺はね、大変だったよ」
「無欲な奴」
 そうでもないと思う。
 俺の欲はこんなにも残酷で自己中ではないか。
 怒号と悲鳴を背景に交わす愛の契りは、今までのどれよりも情熱的で、優しかった。



 世間を騒がせる集団殺人事件。
 有力者の一族がこぞって殺し合った、狂気の一夜。
 凶行に走った最後の一人は自害、生き残ったのは偶然蔵に篭っていた跡取りだけ。
 不幸の密が大好きで、噂話に貪欲な人間からすれば好餌である。今日も塀の向こうには人だかりが出来ている。
 どう報じられても構わないが、少々うるさい。
 近所迷惑になるし、生活を乱されるのは嫌だ。
 それが彼らの仕事だと理解しているが、一定の配慮はしてほしい。
 悠真に誘導された布団に転がると、温かい手が俺の前髪を梳く。露わになった額へ、触れるだけの口づけが落とされる。
 むず痒い愛しさにくふくふ笑うと、優しく頭を撫でられた。
 悠真は昔から頭を撫でたがる。もしかしたらお気に入りの所作なのかもしれない。
 俺は好き。凄く安心する。彼も同じ気持ちだと嬉しい。
 枕元に座る彼を仰ぎ見れば、どうした、と言うように片眉が上がった。
「ねえ、お引越ししない?」
「俺は構わねえよ。何処が良いんだ?」
「ふふ、まだ決めてない。一緒に決めたいの」
「はいよ」
 転居など些末な問題である。
 俺は、悠真が隣に居てくれれば、それで良いのだ。
 それだけで、良いのだ。
 この蔵に通っていた頃のような不安を抱かない分、今がどれだけ幸せなのかよく解る。
 もう人目を気にする必要はない。
 いつ何処へ行こうが、彼と離れる事はないから。
 俺だけの人形様にお願いしたのだ。
 いつまでも離れないで、と——。



 俺には宝物がある。
 大事な大事な、何にも代えられない宝物。
 不自由な蔵で出会った、不思議な彼——俺を造った忌々しい一族の時期当主——アヤ。俺に自由をくれた、愛しいヒト。
 幸せそうに笑うアヤに胸が満たされるも、砂漠へ落ちた水の様に一瞬で干上がってしまう。
 まだ足りないのか。
 やはり業突く張りである。
 住み心地の良い家も、美味いモンも、好みの服も。
 綺麗なアクセサリーや、可愛い小物だって。
 それこそ俺自身すら。
 アヤの望むものは何だってくれてやる。
 もういい、抱え切れないと音を上げるまで、いくらでも。
 その代わり——

 ——お前の全てを俺にくれ。


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