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第五話【完】
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「悠真ッ!」
「アヤ? どうし——うおっ!?」
注連縄を潜り、座布団の上で胡坐を掻く彼の胸へ体当たりする様に飛び込んだ。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。内鍵を掛けたかどうかすら覚えていない。
倒れ込みそうになりながらも受け止めてくれた彼が、落ち着け、と俺の背中を撫ぜてくれるが、息は弾む一方。
「どうしよう、ばれた……っ!」
「何がだ?」
「悠真に名前あげたって……叔母様に……!」
「……そっか」
「きっと挨拶の席でばらされる……もし悠真に会えなくなったら俺、おれ……っ」
「アヤ、落ち着けよ。な?」
「無理だよッ!」
呼吸が浅くなって、ぼろぼろ涙が出て来る。
事が露見すれば鍵を取り上げられるどころか、蔵にすら近づけさせてもらえなくなるだろう。
本家の跡取りは気が触れたのだと、こっそり病院に入れられるかもしれない。
いずれにせよ、悠真に会えなくなってしまう。
「悠真を取らないでよ…!」
「誰も欲しがりゃしねえから、ほら、ちゃんと息しろ」
「やだっ、離れたくない!」
「頼むから一度深呼吸しろって。……おいっ」
「直接会うしかないのに……ッ、悠真は此処から出られないのに——んうぅっ……!」
大きな両手で顔を包まれ、唇を塞がれた。
常なら入って来るはずの舌は入って来ない。
ただ、口を塞ぐだけのキス。
取り込める酸素の量が一気に減り、徐々に呼吸が落ち着いてくる。
くちゅ、と彼の唇が俺のそれを食み、角度を変えて再び塞ぐ。
柔く静かな口付けは、不思議な安堵感と愛しさをくれて。
気づけば、大人しく享受していた。
もう一度角度を変えて、静穏な口付けを交わした後。
ゆっくりと離れた顔が穏やかに微笑む。
「落ち着いたか?」
「ん……ご免なさい、取り乱し過ぎた……」
情けない姿を見せてしまった。顔だって酷い事になっているはずだ。
今更だが羞恥心が湧いてきて、堪らず彼の肩に額を当てた。
「んな凹むなって。……俺だって、不安になっちまってんだからよ」
「悠真が…?」
背中を優しく叩かれ、のろのろと面を上げると、厳しい顔をした彼が真っ直ぐに俺を見ていた。
悠真も、不安なのか。言われても想像が出来ない。いつもどっしり構えてるから。
濡れた頬を親指が滑り、涙を拭う。指先で目尻を撫でながら、彼は静かに口を開いた。
「前に話したよな、人形神の憑き方は強力だって」
「うん」
それは覚えている。
人間の欲望から作られたが故に、取り憑き方も強力なのだと。
「あの時は言わなかったけどよ……取り憑かれた奴は、死ぬ時に酷ぇ苦しみ方をして、最後は地獄へ堕ちるんだ」
黙って話を聞く俺の頬に、彼の両手が掛かる。
熱でも測るように額同士を合わせた彼が、小さく尋ねた。
「地獄へ堕ちる覚悟はあるか」
「かくご……?」
「人形神は一度憑いたら死んでも離れねえ。比喩なんかじゃなくてさ…死んだ後も離れてやれねえんだ」
——それでも、俺と居てえの?
目の前の相貌を、じっと見つめる。金色の瞳こそ寂しさを宿しているが、歪む表情は痛みに堪えているようで。
得体のしれない不安感に苛まれる。
「悠真は、どうなの?」
「俺?」
「そう……」
逃げられぬように、頬を包む手の上に掌を乗せる。
受けた問いに、彼の気持ちは無かった。悠真の気持ちが置いてけぼりだ。
もし俺が断ったら、蔵に出入りしなくなったら、悠真はまた独りぼっちになってしまうのに。
気味悪がるくせに、お供え物でご機嫌取りをした気になって。福をくれと強請る我欲の塊——毒人間しか残らないではないか。
それは——ひどく哀しくて、苦しい。
「俺はね、悠真と離れたくないよ。悠真はどうなの? 俺と離れても良いって……思ってる?」
悠真と離れるのは嫌だ。だがそれ以上に、悠真を独りにしたくない。
これは、俺の我儘だ。
掌から腕を辿り、背中まで手を伸ばす。彼の着物をきゅっと握ると、吐息で小さく笑われた。
「馬鹿だなぁ」
「んにゅっ」
頬を挟み込まれて、変な声が出た。
前も似たような戯れをした気がする。
じとりと彼を見ると可笑しそうに笑い、尖った唇を軽く食まれた。
「二度と離してやれなくなるから、こんな狡い言い方してんだよ」
「……それ、卑怯じゃない?嬉しくなっちゃうじゃん」
「ふはっ、そうだよ。俺は卑怯で業突く張りな人形神なんだ」
今更だろ、と彼は笑うが、そこまで欲深いとは思わない。
寧ろ、俺の方が強欲だろう。
赤らむ顔を見られたくなくて、厚い胸板に埋めれば、すかさずゆったり包まれる。
こういうところが卑怯だって言っているのだ。
無意識なのか知らないが、直ぐに俺を甘やかす。
「ねえ、悠真」
「なんだ?」
「みんな要らないから、一緒に居て」
「……要らない?」
「うん、要らない。悠真が居ればいい」
未知の場所に対する恐怖より。
明確な意思を持って離そうとする血縁者たちの方が、余程恐ろしく思う。
俺たちの仲を引き裂くなら、全部要らない。
頭の固い家人も、無意味な仕来りばかり強いてくる親類縁者も。
分かった、という短い応えと共に、背中を二度叩かれる。
何かを告げる時の、悠真の癖だ。
「注連縄、切ってくれるか」
「……ん」
彼に請われるまま、階段の直ぐ脇、古い道具入れの中から小振りな斧を取り出す。
何十年に一度。人形様を当代と共に火葬する際に使われるだけの、年季物。
それを無造作に振り下ろす。札に彩られた注連縄が、重い音を立てて床に落ちた。
何故か、これで自由だと思った。
もう、悠真を蔵に縛り付けるものは無いんだ。
自由に動ける。
何処へでも行けるのだ。彼の意思のままに。
黒い足袋が注連縄を跨ぎ、観音扉の窓へ近付く。
——妙な胸騒ぎがする。
真っ直ぐに歩いてゆく悠真の後を追う。大きな窓枠へ手を置く彼の背中に張り付いた。
屋敷を見下ろす冷めた顔が、より不安を駆り立てる。
「家の連中はまだ寝てんのか」
「た、多分……」
「……ほんとに?」
え、と声を上げるより早く、屋敷に明かりが灯った。
一階の大広間だ。
障子から透け出る明かりが、庭の地面に影を映す。
「……なんで……」
まだ外も暗い早朝である。通常であれば朝のお供えがある俺しか起きてない筈なのに。
何故、大広間に集まってるのだ。
「アヤ」
「っ、」
ことん、と傾げるように回された首が、俺を見下ろす。
にやりと口の端を上げる、知らない笑み。
初めて見る笑顔に上手く反応が出来ず、ただ見つめ返すに止まってしまった。
「お前が初めて強請った欲だ、ちゃんと叶えてやる」
「おれの、よく……?」
「おう」
がしゃん、と何かの壊れる音がした。
眼を向けるよりも早く、悲鳴と罵声が耳を劈く。
突然の喧騒に肩が跳ねる。
「始まったなぁ」
のんびりと呟く彼の視線の先で、影が激しく形を変える。
影絵で出来た映像のようなそれ。揉み合い、押し合い——得物を持った影たちが、抵抗する影らの首を、胸を、背を刺している。
どれが誰だか判らないが、親類の誰かが、誰かを殺してる。
身内が、殺し合ってる。
「——ひッ、」
背後へ逃げるように踏鞴を踏むと、素早く背中に回った腕が俺をその場に縫い留めた。
悠真だ。
恐る恐る見上げれば、悠真はあの笑顔を浮かべたまま、顎で屋敷を指し示したり
「お前の欲だ。満足か? それとも、物足りないか?」
「おれ、の……」
「ああ。要らねえっつったろ?」
言った。確かに言った。
ならばこれは、俺が蒔いた種なのか。
地面の上を踊る影たちが絡み合い、縺れ合い、倒れてゆく。消える直前、僅かに大きくなる声は、正しく断末魔である。
「ぁ、は……は、あははっ……!」
醜く殺し合う影たちに、泣き嗤いが溢れて止まらない。
何て愚かで無様なんだろう。
これが俺の欲の形。
彼が叶えてくれた、俺の欲望。
かくん、と膝の力が抜ける。狂騒から目を離さぬままその場にへたり込み、壊れたように嗤っていると、背後に回った悠真がお腹に手を回して抱き締めてくる。
固い胸に身体を預け、地面に描かれる狂気を眺める。
「どうだ、満足か?」
「ふふ……うん。満足だよ」
「そうか。なら良い」
厚い舌が、頬を流れる涙を掬う。
可笑しなものだ。自分で望んだ事なのに、こんなに涙が出るなんて、知らなかった。
どれくらい、そうしていたのか。夜明けを感じさせる藍紫色が、屋敷の向こうから顔を覗かせる。
何だか酷く疲れた。
一生分泣いて笑った気がする。
俺の首筋で遊んでいた唇が、ゆるりと耳元へ移動した。
「もう、今日の望みを訊けなくなっちまったな」
「んぇ?」
「これからは毎日アヤと一緒にいりゃ良いんだろ? 今日はどうするって言えねえよ」
「あ、ほんとだ」
とん、と肩を押され、床に転がる。
覆い被さって来る人形様が、涙の跡に口付け、わらった。
「あれ訊くの、結構好きだったんだけどな」
「ふふ……俺はね、大変だったよ」
「無欲な奴」
そうでもないと思う。
俺の欲はこんなにも残酷で自己中ではないか。
怒号と悲鳴を背景に交わす愛の契りは、今までのどれよりも情熱的で、優しかった。
世間を騒がせる集団殺人事件。
有力者の一族がこぞって殺し合った、狂気の一夜。
凶行に走った最後の一人は自害、生き残ったのは偶然蔵に篭っていた跡取りだけ。
不幸の密が大好きで、噂話に貪欲な人間からすれば好餌である。今日も塀の向こうには人だかりが出来ている。
どう報じられても構わないが、少々うるさい。
近所迷惑になるし、生活を乱されるのは嫌だ。
それが彼らの仕事だと理解しているが、一定の配慮はしてほしい。
悠真に誘導された布団に転がると、温かい手が俺の前髪を梳く。露わになった額へ、触れるだけの口づけが落とされる。
むず痒い愛しさにくふくふ笑うと、優しく頭を撫でられた。
悠真は昔から頭を撫でたがる。もしかしたらお気に入りの所作なのかもしれない。
俺は好き。凄く安心する。彼も同じ気持ちだと嬉しい。
枕元に座る彼を仰ぎ見れば、どうした、と言うように片眉が上がった。
「ねえ、お引越ししない?」
「俺は構わねえよ。何処が良いんだ?」
「ふふ、まだ決めてない。一緒に決めたいの」
「はいよ」
転居など些末な問題である。
俺は、悠真が隣に居てくれれば、それで良いのだ。
それだけで、良いのだ。
この蔵に通っていた頃のような不安を抱かない分、今がどれだけ幸せなのかよく解る。
もう人目を気にする必要はない。
いつ何処へ行こうが、彼と離れる事はないから。
俺だけの人形様にお願いしたのだ。
いつまでも離れないで、と——。
俺には宝物がある。
大事な大事な、何にも代えられない宝物。
不自由な蔵で出会った、不思議な彼——俺を造った忌々しい一族の時期当主——アヤ。俺に自由をくれた、愛しいヒト。
幸せそうに笑うアヤに胸が満たされるも、砂漠へ落ちた水の様に一瞬で干上がってしまう。
まだ足りないのか。
やはり業突く張りである。
住み心地の良い家も、美味いモンも、好みの服も。
綺麗なアクセサリーや、可愛い小物だって。
それこそ俺自身すら。
アヤの望むものは何だってくれてやる。
もういい、抱え切れないと音を上げるまで、いくらでも。
その代わり——
——お前の全てを俺にくれ。
了
「アヤ? どうし——うおっ!?」
注連縄を潜り、座布団の上で胡坐を掻く彼の胸へ体当たりする様に飛び込んだ。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。内鍵を掛けたかどうかすら覚えていない。
倒れ込みそうになりながらも受け止めてくれた彼が、落ち着け、と俺の背中を撫ぜてくれるが、息は弾む一方。
「どうしよう、ばれた……っ!」
「何がだ?」
「悠真に名前あげたって……叔母様に……!」
「……そっか」
「きっと挨拶の席でばらされる……もし悠真に会えなくなったら俺、おれ……っ」
「アヤ、落ち着けよ。な?」
「無理だよッ!」
呼吸が浅くなって、ぼろぼろ涙が出て来る。
事が露見すれば鍵を取り上げられるどころか、蔵にすら近づけさせてもらえなくなるだろう。
本家の跡取りは気が触れたのだと、こっそり病院に入れられるかもしれない。
いずれにせよ、悠真に会えなくなってしまう。
「悠真を取らないでよ…!」
「誰も欲しがりゃしねえから、ほら、ちゃんと息しろ」
「やだっ、離れたくない!」
「頼むから一度深呼吸しろって。……おいっ」
「直接会うしかないのに……ッ、悠真は此処から出られないのに——んうぅっ……!」
大きな両手で顔を包まれ、唇を塞がれた。
常なら入って来るはずの舌は入って来ない。
ただ、口を塞ぐだけのキス。
取り込める酸素の量が一気に減り、徐々に呼吸が落ち着いてくる。
くちゅ、と彼の唇が俺のそれを食み、角度を変えて再び塞ぐ。
柔く静かな口付けは、不思議な安堵感と愛しさをくれて。
気づけば、大人しく享受していた。
もう一度角度を変えて、静穏な口付けを交わした後。
ゆっくりと離れた顔が穏やかに微笑む。
「落ち着いたか?」
「ん……ご免なさい、取り乱し過ぎた……」
情けない姿を見せてしまった。顔だって酷い事になっているはずだ。
今更だが羞恥心が湧いてきて、堪らず彼の肩に額を当てた。
「んな凹むなって。……俺だって、不安になっちまってんだからよ」
「悠真が…?」
背中を優しく叩かれ、のろのろと面を上げると、厳しい顔をした彼が真っ直ぐに俺を見ていた。
悠真も、不安なのか。言われても想像が出来ない。いつもどっしり構えてるから。
濡れた頬を親指が滑り、涙を拭う。指先で目尻を撫でながら、彼は静かに口を開いた。
「前に話したよな、人形神の憑き方は強力だって」
「うん」
それは覚えている。
人間の欲望から作られたが故に、取り憑き方も強力なのだと。
「あの時は言わなかったけどよ……取り憑かれた奴は、死ぬ時に酷ぇ苦しみ方をして、最後は地獄へ堕ちるんだ」
黙って話を聞く俺の頬に、彼の両手が掛かる。
熱でも測るように額同士を合わせた彼が、小さく尋ねた。
「地獄へ堕ちる覚悟はあるか」
「かくご……?」
「人形神は一度憑いたら死んでも離れねえ。比喩なんかじゃなくてさ…死んだ後も離れてやれねえんだ」
——それでも、俺と居てえの?
目の前の相貌を、じっと見つめる。金色の瞳こそ寂しさを宿しているが、歪む表情は痛みに堪えているようで。
得体のしれない不安感に苛まれる。
「悠真は、どうなの?」
「俺?」
「そう……」
逃げられぬように、頬を包む手の上に掌を乗せる。
受けた問いに、彼の気持ちは無かった。悠真の気持ちが置いてけぼりだ。
もし俺が断ったら、蔵に出入りしなくなったら、悠真はまた独りぼっちになってしまうのに。
気味悪がるくせに、お供え物でご機嫌取りをした気になって。福をくれと強請る我欲の塊——毒人間しか残らないではないか。
それは——ひどく哀しくて、苦しい。
「俺はね、悠真と離れたくないよ。悠真はどうなの? 俺と離れても良いって……思ってる?」
悠真と離れるのは嫌だ。だがそれ以上に、悠真を独りにしたくない。
これは、俺の我儘だ。
掌から腕を辿り、背中まで手を伸ばす。彼の着物をきゅっと握ると、吐息で小さく笑われた。
「馬鹿だなぁ」
「んにゅっ」
頬を挟み込まれて、変な声が出た。
前も似たような戯れをした気がする。
じとりと彼を見ると可笑しそうに笑い、尖った唇を軽く食まれた。
「二度と離してやれなくなるから、こんな狡い言い方してんだよ」
「……それ、卑怯じゃない?嬉しくなっちゃうじゃん」
「ふはっ、そうだよ。俺は卑怯で業突く張りな人形神なんだ」
今更だろ、と彼は笑うが、そこまで欲深いとは思わない。
寧ろ、俺の方が強欲だろう。
赤らむ顔を見られたくなくて、厚い胸板に埋めれば、すかさずゆったり包まれる。
こういうところが卑怯だって言っているのだ。
無意識なのか知らないが、直ぐに俺を甘やかす。
「ねえ、悠真」
「なんだ?」
「みんな要らないから、一緒に居て」
「……要らない?」
「うん、要らない。悠真が居ればいい」
未知の場所に対する恐怖より。
明確な意思を持って離そうとする血縁者たちの方が、余程恐ろしく思う。
俺たちの仲を引き裂くなら、全部要らない。
頭の固い家人も、無意味な仕来りばかり強いてくる親類縁者も。
分かった、という短い応えと共に、背中を二度叩かれる。
何かを告げる時の、悠真の癖だ。
「注連縄、切ってくれるか」
「……ん」
彼に請われるまま、階段の直ぐ脇、古い道具入れの中から小振りな斧を取り出す。
何十年に一度。人形様を当代と共に火葬する際に使われるだけの、年季物。
それを無造作に振り下ろす。札に彩られた注連縄が、重い音を立てて床に落ちた。
何故か、これで自由だと思った。
もう、悠真を蔵に縛り付けるものは無いんだ。
自由に動ける。
何処へでも行けるのだ。彼の意思のままに。
黒い足袋が注連縄を跨ぎ、観音扉の窓へ近付く。
——妙な胸騒ぎがする。
真っ直ぐに歩いてゆく悠真の後を追う。大きな窓枠へ手を置く彼の背中に張り付いた。
屋敷を見下ろす冷めた顔が、より不安を駆り立てる。
「家の連中はまだ寝てんのか」
「た、多分……」
「……ほんとに?」
え、と声を上げるより早く、屋敷に明かりが灯った。
一階の大広間だ。
障子から透け出る明かりが、庭の地面に影を映す。
「……なんで……」
まだ外も暗い早朝である。通常であれば朝のお供えがある俺しか起きてない筈なのに。
何故、大広間に集まってるのだ。
「アヤ」
「っ、」
ことん、と傾げるように回された首が、俺を見下ろす。
にやりと口の端を上げる、知らない笑み。
初めて見る笑顔に上手く反応が出来ず、ただ見つめ返すに止まってしまった。
「お前が初めて強請った欲だ、ちゃんと叶えてやる」
「おれの、よく……?」
「おう」
がしゃん、と何かの壊れる音がした。
眼を向けるよりも早く、悲鳴と罵声が耳を劈く。
突然の喧騒に肩が跳ねる。
「始まったなぁ」
のんびりと呟く彼の視線の先で、影が激しく形を変える。
影絵で出来た映像のようなそれ。揉み合い、押し合い——得物を持った影たちが、抵抗する影らの首を、胸を、背を刺している。
どれが誰だか判らないが、親類の誰かが、誰かを殺してる。
身内が、殺し合ってる。
「——ひッ、」
背後へ逃げるように踏鞴を踏むと、素早く背中に回った腕が俺をその場に縫い留めた。
悠真だ。
恐る恐る見上げれば、悠真はあの笑顔を浮かべたまま、顎で屋敷を指し示したり
「お前の欲だ。満足か? それとも、物足りないか?」
「おれ、の……」
「ああ。要らねえっつったろ?」
言った。確かに言った。
ならばこれは、俺が蒔いた種なのか。
地面の上を踊る影たちが絡み合い、縺れ合い、倒れてゆく。消える直前、僅かに大きくなる声は、正しく断末魔である。
「ぁ、は……は、あははっ……!」
醜く殺し合う影たちに、泣き嗤いが溢れて止まらない。
何て愚かで無様なんだろう。
これが俺の欲の形。
彼が叶えてくれた、俺の欲望。
かくん、と膝の力が抜ける。狂騒から目を離さぬままその場にへたり込み、壊れたように嗤っていると、背後に回った悠真がお腹に手を回して抱き締めてくる。
固い胸に身体を預け、地面に描かれる狂気を眺める。
「どうだ、満足か?」
「ふふ……うん。満足だよ」
「そうか。なら良い」
厚い舌が、頬を流れる涙を掬う。
可笑しなものだ。自分で望んだ事なのに、こんなに涙が出るなんて、知らなかった。
どれくらい、そうしていたのか。夜明けを感じさせる藍紫色が、屋敷の向こうから顔を覗かせる。
何だか酷く疲れた。
一生分泣いて笑った気がする。
俺の首筋で遊んでいた唇が、ゆるりと耳元へ移動した。
「もう、今日の望みを訊けなくなっちまったな」
「んぇ?」
「これからは毎日アヤと一緒にいりゃ良いんだろ? 今日はどうするって言えねえよ」
「あ、ほんとだ」
とん、と肩を押され、床に転がる。
覆い被さって来る人形様が、涙の跡に口付け、わらった。
「あれ訊くの、結構好きだったんだけどな」
「ふふ……俺はね、大変だったよ」
「無欲な奴」
そうでもないと思う。
俺の欲はこんなにも残酷で自己中ではないか。
怒号と悲鳴を背景に交わす愛の契りは、今までのどれよりも情熱的で、優しかった。
世間を騒がせる集団殺人事件。
有力者の一族がこぞって殺し合った、狂気の一夜。
凶行に走った最後の一人は自害、生き残ったのは偶然蔵に篭っていた跡取りだけ。
不幸の密が大好きで、噂話に貪欲な人間からすれば好餌である。今日も塀の向こうには人だかりが出来ている。
どう報じられても構わないが、少々うるさい。
近所迷惑になるし、生活を乱されるのは嫌だ。
それが彼らの仕事だと理解しているが、一定の配慮はしてほしい。
悠真に誘導された布団に転がると、温かい手が俺の前髪を梳く。露わになった額へ、触れるだけの口づけが落とされる。
むず痒い愛しさにくふくふ笑うと、優しく頭を撫でられた。
悠真は昔から頭を撫でたがる。もしかしたらお気に入りの所作なのかもしれない。
俺は好き。凄く安心する。彼も同じ気持ちだと嬉しい。
枕元に座る彼を仰ぎ見れば、どうした、と言うように片眉が上がった。
「ねえ、お引越ししない?」
「俺は構わねえよ。何処が良いんだ?」
「ふふ、まだ決めてない。一緒に決めたいの」
「はいよ」
転居など些末な問題である。
俺は、悠真が隣に居てくれれば、それで良いのだ。
それだけで、良いのだ。
この蔵に通っていた頃のような不安を抱かない分、今がどれだけ幸せなのかよく解る。
もう人目を気にする必要はない。
いつ何処へ行こうが、彼と離れる事はないから。
俺だけの人形様にお願いしたのだ。
いつまでも離れないで、と——。
俺には宝物がある。
大事な大事な、何にも代えられない宝物。
不自由な蔵で出会った、不思議な彼——俺を造った忌々しい一族の時期当主——アヤ。俺に自由をくれた、愛しいヒト。
幸せそうに笑うアヤに胸が満たされるも、砂漠へ落ちた水の様に一瞬で干上がってしまう。
まだ足りないのか。
やはり業突く張りである。
住み心地の良い家も、美味いモンも、好みの服も。
綺麗なアクセサリーや、可愛い小物だって。
それこそ俺自身すら。
アヤの望むものは何だってくれてやる。
もういい、抱え切れないと音を上げるまで、いくらでも。
その代わり——
——お前の全てを俺にくれ。
了
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快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
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