彼は亡国の令嬢を愛せない

黒猫子猫

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8.嫉妬

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 人々が疲れ切って深い眠りに落ちる中、セシリアは目を覚ました。

 嫁いでからというもの、日々眠りが浅くなり、祖国が滅びてからというもの、特にその気は強くなった。寝床代わりにしたソファーからゆっくりと身体を起こし、近くで眠っている侍女達を起こさないように気を付けながら、窓の近くへ歩み寄った。

 主寝室の大きなベッドはキャロルが使い、他の部屋のベッドは産婆となる女性や高齢の者を優先している。女性達は主人を差し置いてベッドを使っていいのかと躊躇していたが、自分はどこで寝たところで一緒だと宥めている。現に、結局小さな物音がしただけで、目を覚ましてしまっているからだ。

 窓から外を見ると、いつのまにか雲が晴れて月が出たのか、仄かに明るくなっていた。そして、見えた光景に息を呑み、その場を離れると家を出て、裏手へと回った。

 アッシュはすぐに、セシリアに気付いた。

「まだ起きていたのか」
「え、えぇ⋯⋯貴方も?」

「そんなところだ」

 アッシュは軽く答えたが、セシリアの目は自分の姿を見るなり慌てて飛び去って行った飛竜を見逃さない。月夜となったこともあって、よく見えるのだ。

「あの子は何をしていたの?」

「⋯⋯誤解するな。別に危害を与えに来たわけじゃない。ここに余所者が来るのは珍しいから、興味本位で近づいてきたようだ。この近くで寝ている奴らには言っておいたんだが、ああいう悪戯好きの奴もいる。俺が威圧しておいたから、もう来ないだろ」

 アッシュの衣服は乱れていた。セシリア達の元に近づこうとする気配を敏感に察して、夜中だというのに急いで出てきたというのがすぐに分かる。

 セシリアの頬が薄っすらと赤く染まった。

「⋯⋯護ってくれたのね」
「当たり前だろ。お前たちを助けると約束したし、責任を持てともロイに言われている。何かおかしいことか?」

「そうではなくて⋯⋯夫と違うから、少し驚いて⋯⋯」

 言ってすぐに、セシリアは後悔した。夫が自分を省みなかったのは、向き合わなかった自分にも責がある。比べるような真似をするのは、恥ずべきことだと思ったからだ。

 目を伏せたセシリアは、急に眼前が暗くなったのに気づいて顔を上げると、アッシュがいつの間にか眼前に立っていた。その灰色の瞳が、怒りに染まっていた。

 浅ましい女だと、また失望されただろう、とセシリアは思った。強者である彼を利用するような真似をしていたし、傲慢と言われても仕方がない。

 ――どこに行っても⋯⋯だめね。

 無為な日々に何も感じなくなっていたはずの胸が、不意にずきりと痛んだが。

「お前、夫がいたのか」
「え、えぇ。ここには嫁いできていたのよ。でも、国が滅びたから離縁になって、送り返されるところだったの」

「⋯⋯そういうことか。どれくらい、その男と一緒にいた」
「五年⋯⋯かしら」

 政情不安もあって、セシリアは二十三歳で嫁いだ。祖国でいわゆる結婚適齢期と言われる年を、少し過ぎたあたりだ。白い結婚であったために、二十八歳になって未だに異性と関係を持った事もない。

「子供は」
「できなかったわ。諦めたの」

 できるわけがない、の方が正しいかと思って言い直そうかと思ったが、アッシュの空気が次第に不穏になっていくものだから、勢いに呑まれる。

「⋯⋯だから⋯⋯か」
「え?」

 セシリアは戸惑った。アッシュの顔が、今にも泣き出しそうなほど、苦痛に歪んでいたからだ。彼は握り締めていた拳を緩め、セシリアの手を取る。細く荒れた手を見つめ、さらに顔を強張らせた。

 重いため息を吐き、ゆっくりと彼女の手を持ち上げると、唇の近くへと寄せた。触れるか、触れないか。そんな僅かな距離であるために、アッシュの熱い吐息が指に絡みつく。

 ――これは、いったい、何が起こっているのかしら⁉

 長らく耐え忍んだ生活を送ってきたためか、セシリアの表情筋はいさかか働きが鈍い時がある。だから、表情は大して変わらないものだから、落ち着いているように見られることも多々あるが、事に恋愛に関しては、少女の域を大して出ていない。頭の中はパニックである。

 セシリアの身体が一気に緊張で強張ると、アッシュはぎりと奥歯を噛んだ。

「⋯⋯俺が焦っているのは分かるか?」
「わ、私もよ⁉」

 何だか恥ずかしくて手を引っ込めようとすると、アッシュに強く握り締められた上に、今度は引き寄せられる。気づけば腰に腕が回り、抱き寄せられていた。

 切れ長の鋭い眼差しが、セシリアを捕らえる。

「俺と結婚すると言ったな?」
「⋯⋯覚えているわ」

「好きにしろとも」
「⋯⋯えぇ」

「約束を守ってもらおうか」

 セシリアの目が大きく驚きに見開かれる。

 従者たちを匿ってもらうために、身を捧げると誓ったのは自分だ。彼は兵を遠ざけ、匿う地に連れてきてくれた。見返りを求められるのも当然であるし、セシリアも応じるつもりだった。

 ただ――少しばかり戸惑いもあった。

 アッシュは、無理を強いてきた女に、あまりに優しすぎるのではないだろうか。やせ細った女の身体は固くて触れ心地も悪いだろう。セシリアが返せるもの以上のことを、してくれている気がしてならない。

 今も、どこか甘く切ない声で囁かれ、抱きしめる腕は強いのに、それ以上の事を求めているにも関わらず、セシリアが受け入れるのを待っている。単なる欲望とはまた違った感情が垣間見え、見知らぬ感覚に誘われるように、セシリアは小さく頷いて、「いいわ」と呟いた。

 アッシュは腕を緩めると、もう一方の手でセシリアの顎を引き上げた。薄っすらと赤く頬を染めた彼女に目を細め、指先で唇を撫でる。

「ここはもう、俺だけのものだ」
「あの⋯⋯」

 ――あの人は、キスすらしなかったけれど⋯⋯。

 簡略化された結婚式で、神父に促されて面倒そうに頬にされたのが、最初で最後の口づけである。

「今からそれをよく教えてやる」

 初めて触れた彼の唇は硬く、それでいて熱い。軽く触れ合ったかと思うと、手が頭の後ろへと回されて、口づけが深められる。逃れようにも、背に回った腕が許してくれなかった。

 ようやく彼が唇を離してくれた時、セシリアの体から力が抜けていた。そんな彼女を抱きしめて、アッシュは微笑んだ。

「俺の家の場所は分かるな?」
「えぇ⋯⋯」

「俺は感想を求めた訳じゃない。お前に来いと誘っただけだ」
「⋯⋯それは⋯⋯気づかなかったわね」

「お前は妙な所で鈍いな」

 赤面するセシリアの手を取ると、アッシュは自分の家へ向かって歩き出した。


 平屋の家に入ると、アッシュは灯りを付けた。家具は一通り揃っていて、整然としているが、物が少ないためか、あまり生活感はない。本来の姿は飛竜である彼にしてみると、人間のように細々とした物は持ち合わせないのかもしれなかった。

 アッシュは寝室へとセシリアを招き入れると、ベッドに押し倒した。シーツは整ったままで、冷えてもいた。彼がずっとセシリア達のいる家を用心してみてくれていたのだと分かる。

「どうした?」
「シーツが冷たいと思って⋯⋯」

「寒いか」
「あの、そうじゃ⋯⋯きゃっ⁉」

 抱き寄せられたかと思うと、身体をくるりと反転され、セシリアは彼の体の上に乗せられた。男性の身体を跨ぐような格好となり、真っ赤になるセシリアを見上げ、アッシュは微笑んだ。

「これでいいだろ」
「⋯⋯⋯⋯」

 大きな手がセシリアの頬に触れる。慈しむような触れ方だ。何だか無性に泣きそうになりながら、セシリアは小さく頷いた。

 大空を制する飛竜は、誇り高く、時に荒々しい気性の主だ。彼もまた獰猛な姿を垣間見せ、容赦のない一面を持ち合わせながらも――優しい。

 だから、だろうか。
 彼に身を委ねても、怖くはなかった。
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