『本当にお気の毒様です』

ルミナス

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10話

 あれから、五年の歳月が流れた。
 
 帝国の峻烈な冬を五回越し、私はすっかりこの国の人間として馴染んでいた。
 花屋の「リィナ」としての人生は穏やかで、土をいじり、季節の移ろいを色とりどりの花びらで数える毎日は、何物にも代えがたい安らぎを私に与えてくれた。
 
 記憶の欠落を埋めようとする焦燥感は、いつしか消えていた。
 過去がないということは、何にも縛られずに今を愛せるということ。
 私は、自分の魂がかつて負っていたはずの「重荷」を忘れ、ただ一人の平穏な娘として生きてきた。
 
 けれど、運命という名の糸は、私が思っていたよりもずっと強く、そして残酷に私をたぐり寄せる。
 
「――ここが、お隣の『アルフレッド王国』ですか。とても空気が良いところですね」
 
 私は商談のために帝国の商団に同行し、国境を越えてかつての母国へと足を踏み入れていた。
 王都を囲む城壁が見えた瞬間、私の胸の奥が、言葉にできない奇妙な震えを覚えた。
 
 五年前、狂気の王太子が処刑され、国全体が血の粛清に揺れたと聞くこの国は、今や老国王の賢明な統治によって驚くほどの復興を遂げていた。
 道行く人々の表情には活気が戻り、市場にはかつて私が愛した――はずの――甘いお菓子の香りが漂っている。
 
「うむ。やはり、何も思い出さないか? リィナ」
 
 隣を歩くのは、帝国で私を雇ってくれた商団の長、ガルド。
 彼は私が記憶喪失であることを知りながら、娘のように慈しみ、今回の旅にも同行させてくれたのだ。
 
「はい。懐かしいような気もしますけれど、どこか遠い物語の舞台を見ているような……そんな不思議な気分です。でも私、後悔とか、多分してないと思いますよ」
 
 私は微笑んで答えた。
 偽りのない本心だった。記憶をなくした私に訪れたのは、呪いではなく救済だったのだと信じている。
 
「そうか。……なら、少し寄りたい場所があるんだ。付き合ってくれるかい」
 
 ガルドに導かれるまま、私は王都の外れにある、小高い丘へと向かった。
 そこは「鎮魂の丘」と呼ばれ、かつての政変で命を落とした者たちが眠る、静かな墓所だった。
 
 風が吹き抜け、青々と茂った草が波のように揺れている。
 丘の頂近く、一本の大きな樫の木の傍らに、目立たない墓標が刻まれた名さえも風化しかけている、公爵令嬢の墓。
 
 私は、その質素な石の前に立った。
 
「……ここは?」
 
「かつて、ある妹を救うために、自ら悪役になった女性が眠る場所だ」
 
 ガルドの言葉を、私はぼんやりと聞いていた。
 
 その時だった。
 
 視界が、急激に熱を帯びた。
 
 何の前触れもなく、視界が滲み、歪んでいく。
 心臓が、誰かに直接握り潰されたかのような、暴力的なまでの悲痛にのたうち回る。
 
「……っ、あ……え……?」
 
 私は戸惑い、自分の頬をなぞった。
 指先が、堰を切ったように溢れ出した涙に濡れる。
 
 止まらなかった。
 声を上げることさえ忘れ、私はその場に膝をついた。
 
 頭の中には、何の映像も浮かんでこない。
 この墓に誰が眠っているのか、彼女が自分にとって何者だったのか、魔法の霧に閉ざされた記憶は、依然として沈黙を守ったままだ。
 
 けれど。
 頭が忘れても、この「肉体」が、私の「魂」が、彼女を知っていた。
 
 震える指先で、私は墓標をなぞった。
 石の冷たさが、まるで遠い日に触れた、彼女の冷たい指先の感触のように思えて。
 
「……どうして……どうして、こんなに涙が出るの……?」
 
 嗚咽が漏れ、私は子供のように泣きじゃくった。
 
 このお墓に誰が眠っているのか、今の私には分からないけれど。
 
 けれど、分かったのだ。
 私が今、帝国の澄んだ空気の中で笑っていられるのは。
 私が今、こうして新しい名前で、新しい人生を歩めていられるのは。
 
 この冷たい石の下で眠る誰かが、命を懸けて、私という「未来」を守り抜いてくれたからなのだと。
 
「……お……様……」
 
 無意識のうちに、唇がその禁忌の言葉を形作った。
 魔法使いとの契約さえも超えて、私の奥底から漏れ出した、真実の響き。
 
 一陣の風が吹き抜け、私の涙を攫っていった。
 樫の葉がカサカサと鳴り、まるで「それでいいのよ、イリス」と囁くように聞こえた。
 
 私は、長い時間をかけて涙を拭った。
 立ち上がり、深く、深く、その墓標に頭を下げた。
 
 記憶は戻らない。
 私はこれからも「リィナ」として、帝国の光の中で生きていくだろう。
 
 けれど、私の心の一番深い場所には、永遠に枯れることのない瑠璃色の花が咲き誇っている。
 私を愛し、私を救った、名もなき人への、最高の供花として。
 
 私はもう一度、王国の青い空を見上げた。
 
 涙の跡は乾き、瞳には確かな決意が宿っている。
 
「……さようなら」
 
 私は二度と振り返らず、光の中へと歩き出した。
 
 その背中を、穏やかな陽光がどこまでも、どこまでも優しく包み込んでいた。

【完】
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