あのちんぽこよ、どこ行った - 僕のちんぽこの変化

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小学六年の頃のちんこ①

僕は小学六年生になった。

4月、廊下を歩いていると、真新しいランドセルを背負った一年生たちの姿が目に飛び込んでくる。まだ背も低くて、その小さな体はまるで幼稚園児のようだ。自分も5年前はこんなに小さかったのかと思うと、なんだか不思議な気持ちになる。自分の中では大きくなった実感などないのに、確実に時間は流れて、体は成長していたのだろう。鏡を見ても、昨日と今日で違いなど感じられないのに、気がつけば5年という歳月が過ぎ去っていた。

あの頃の僕にとって、入学式の時に手を繋いでくれた六年生は、まるで大人のように見えた。背が高い、その大きな手、落ち着いた雰囲気、すべてが自分とはかけ離れた存在に思えた。そして、小学校の六年間は果てしなく続く長い道のりのように感じられて、自分が六年生になる日なんて永遠に来ないような気がしていた。一年生から六年生までの距離は、子供の目には途方もなく遠く映っていたのだ。

でも気がつけば、その長く感じていた時間はいつの間にか過ぎ去り、今では自分が六年生として、あの時の自分が見上げていた立場に立っている。不思議なことに、かつて目にした六年生のような大人らしさは自分の中に感じられず、むしろ自分がまだまだ子供だということを、はっきりと自覚している。

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クラスのメンバーは5年生からそのまま持ち上がりで、顔ぶれに新鮮さはなく、先生も去年と同じだった。見慣れた顔、聞き慣れた声、変わらない日常。でも、この変わらない小学生としての日常も、来年には終わりを迎える。僕は中学生になる。中学生という響きは、なんだか大人びて聞こえる。でも、それがどんな世界なのか、今の僕には全然想像がつかない。この当たり前に思えた小学生の日々が、もうすぐ終わりを迎えるんだと思うと、なんだか胸がざわついて、落ち着かない気持ちになるのだった。

僕のクラスは、どちらかというと子供っぽい子が多かったんだと思う。小学六年生の一年間を振り返ると、性的な話題がクラスで話題に上ることはほとんどなかった気がする。もちろん、小学生らしくコロコロコミックに出てくるような幼稚な下ネタで笑い合うことはあった。誰かがおならをしたとか、うんこという言葉を言って笑うとか、そういうレベルの話だ。でも、それ以上に踏み込んだ、もっと生々しい話になることはなかった。

たとえば、「ちん毛が生えた」なんていう話題を口にする奴はいなかった。オナニーについても同様。そんな話題が出ないクラスだった。もしかしたら、クラスメイトの中にちん毛が生えた奴がいたかもしれない。それでも、それを恥ずかしいことだと感じていたから言わなかったのか、あるいは本当にまだ、僕ら全員がそういう段階に達していなかったのか。今となっては確かめようもない。

少なくとも僕の周りでは、そんな変化の兆しは一切感じられなかった。教室の空気は、今までと何ら変わらない、無邪気な子供たちの小学生の教室。男子たちは相変わらず鬼ごっこをしたり、サッカーに夢中になったりしていて、ただ遊ぶことに全力を注いでいた。そこに思春期の気配は、まるで感じられなかった。

だからこそ、「ちん毛が生える」という現象が、僕の中で全く現実味を帯びていなかったのだ。それは遠い未来の出来事、あるいは自分とは違う、大人という生き物だけに起こる現象。そんな風に考えていた。どんなタイミングで、どんな風に生えるのか。そんなことを想像したことすらなかった。いつかそれが自分の体に起こることだという実感も、その予感すらない。
ちん毛が、この僕のちんこに、本当に生えてくるのだろうか。その具体的なイメージが全く湧かなくて、そんな疑問すら抱くことなく、僕は最後の小学生の日々をただ過ごしていた。何も知らないまま、何も気づかないまま、時間だけが静かに流れていった。

ただ、こうした雰囲気は僕のクラスだけの特別なものだったのかもしれない。大人になってから、他の人の話を聞いたりして知ったことだけど、小学六年生の段階で「もうちん毛が生えた」とか、「昨日オナニーした」とか、そういう話題で盛り上がるクラスもあるらしい。体の変化を競い合うように話す子供たちもいるのだという。学校や地域によって空気が違うのか、クラスの性格によるものなのか、それとも時代の違いなのかはわからないけど、僕のクラスでは、そんなことは全然なかった。その当時は、それが普通だと思っていたけれど、今振り返ると、あのクラスは少し特殊だったのかもしれないと思う。

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小学六年生になり、少しだけ思春期という言葉を耳にすることが増えた。一応、僕も思春期らしいが、なんだか実感がなくて、その思春期という言葉を聞くたびに照れ臭い気持ちになった。

先生がその言葉を口にしたり、親が何気なく「思春期だからね」と言ったりする。でも、思春期って何?って言われると、まだ実感もなく、よくわからなかった。ただ言葉として知っているだけで、それが自分の体や心にどんな変化をもたらすのか、具体的にイメージできなかった。背がすごく伸びるとか、声変わりとか、反抗期とか、そういう漠然としたイメージはあった。実際に声変わりした子や、急に背が伸びていた子もいたから、思春期ってそんな感じかなって思っていた。
目に見える変化、外から観察できる変化、それが思春期なのだと理解していた。自分の中で起こる見えない変化については、まだ全く意識が向いていなかった。

同級生の男の子の中には、もう声変わりしている子もいた。音楽の時間、みんなで歌を歌う時、その子は明らかに声が出なそうにしていた。高い音が出ないのか、それとも声をコントロールできないのか、なんだか苦しそうな表情をしていた。喉を押さえるような仕草をして、小さな声で歌おうとしている姿が印象的だった。周りの子は少し騒いでいたけど、本人はきっと恥ずかしかったんじゃないかと思う。自分の体が思い通りにならない、そんな戸惑いが表情に浮かんでいた。声という、自分にとって当たり前だったものが、突然コントロールを失う。それは本人にとって、どんな気持ちなのだろう。

僕も声変わりしたり、背が急に伸びたりするのかなと思っていた。元から声は低めだったから、そんなに劇的に変わるのだろうかとか、変わったとしても周りに気づかれるほどなのだろうかとか、そんなことを考えていた。意外とそういう変化については、嫌な気持ちはなかった記憶がある。むしろ少し楽しみなような、大人に近づいている証拠のような、そんな風に感じていた。当時、ちんこが変化するのは嫌だと思っていたけれど、声変わりや背が伸びることについては抵抗がなかった。それはおそらく、性的な変化については、あまりよくわかっていなかったからかもしれない。というか、思春期の中にそういう性的な変化が含まれるのかどうかも、よくわかっていなかった。

声変わりや身長の伸びはあるとしても、性的な変化はもっと先にある、思春期とは別の段階で起こる変化のように思っていたのかもしれない。思春期が終わって、その次に来る何か、もっと大人に近づいた時、もしかしたら高校生や大学生になった時に起こることのように感じていた。それがいつなのか、何歳の時なのか、どんな風に起こるのか、そんなことはわからなかったけれど、少なくとも今じゃない、まだ先の話だと、漠然とそう思っていた。

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実際には性的な変化というものが、僕のちんこに密かに起こっていた。

その兆候は、小学五年生の頃から静かに現れ始めていた。僕の睾丸は徐々に膨らみ始めていたのだ。最初は目で見てもまったくわからなくて、触れて初めて気づく、ほんの僅かな変化だった。それは自分のちんこが、知らぬ間に新しい段階へと踏み出している静かな証だった。性という、まだ理解の及ばない領域への。

その頃の僕のちんこは、今の大人になった僕のちんこから振り返ると、信じられないくらい無垢で可愛らしかった。まだ、幼い子供の小さなちんこそのものだった。太さも長さも、生まれてからずっと変わっていないように見えていた。睾丸だけが僅かに膨らみ始めていたけれど、それも陰嚢の中に隠されて、外から見れば何の変化も感じられない。まだ幼さと無垢さに包まれた、子供のちんこだった。

睾丸は精子を作る場所で、いわば生殖能力のバロメーターだ。それが小さいということは、まだ性とは無関係な子供のちんこだということを意味している。赤ちゃんから小学四年生くらいまで、睾丸を含めて陰嚢全体が本当に小さくて、性的な機能なんて存在しなかった。

僕は小学五年生になっても、見た目だけでいうなら陰嚢の姿はまだ本当に小さかった。ちんこのすぐ下に縮こまっていて、淡い色合いの柔らかな皮膚でできた小さな袋だった。細かなしわが寄っていて、真ん中をまっすぐに走る縫い目のような筋が少し盛り上がっている。
それはどこまでも幼いちんこの姿だった。

陰嚢は睾丸の大きさに対してゆったりとしていて、だから内側で密かに成長を始めている睾丸の輪郭が、外から見て浮き出るようなことはなかった。睾丸はかすかに膨らみ始めたといえども、その重さはまだあまりに微々たるもので、陰嚢の薄く柔らかい皮膚を押し広げて垂れ下がるには到底至らない。だから陰嚢は相変わらず小さく、きゅっと縮こまったままに見えた。

それは、四年生の時から、いや、生まれた時から、ずっと変わらない姿を保っているように見えた。だから生殖能力なんてまるでないように見える。つまり無垢なちんこと言えるはずだった。けれどその中では確実に、少しずつ、何かが変質し始めていた。それが今までとの決定的な違いだった。

今思えば、僕の小学五年生の頃のちんこには妙な二面性があった。外側はまだ無垢な子供のちんこなのに、内側では性的に芽生え始めている。子供のままに見えるくせに、隠れて性的になろうとしている。その境界線上にある曖昧さが、今振り返ると妙に生々しくて、どこか危うい魅力があった。まだ子供でありながら、もう子供ではない。そんな不安定な状態が、そこにあった。

小学六年生になると、その変化は触らなくてもわかるようになってきた。睾丸が小学五年生の頃から確実に大きくなったおかげで、陰嚢も少しずつ膨らんで見え始めていた。中にある睾丸という二つの球が、外からでもわかるようになってきていたのだ。薄い皮膚の下で、それぞれの形がほんのりと浮かび上がっていた。鏡の前に立った時、ふと目に入るその変化に、胸がざわついた。

かといって、それがすごく大きいわけじゃない。大人の発達した睾丸は、その重みで陰嚢をだらんと垂れ下がらせている。中の大きな睾丸の輪郭が陰嚢の表面にくっきりと浮かんでいて、それは生殖能力があるという証だ。でも、僕の小学六年生の睾丸はそうではなかった。まだ体に密着するような位置にあって、垂れ下がるほどの重さはなかった。陰嚢も小さく引き締まったままで、だらしなく伸びるようなことはなかった。けれど、膨らみ始めているのが第三者にもわかるくらいにはなっていた。それは生殖能力が目覚めつつあることを意味していた。無垢さがないことを、少しずつ示しつつあった。まだ子供のちんこと大人のちんこの中間、どちらでもない曖昧な状態。その不安定さが、なんとも言えない居心地の悪さを生んでいた。

でも、当時の僕には、少しずつ大きくなりつつある睾丸がなんのために大きくなり、その中で何が起こっているのか、まったくわからなかった。教科書でしか見たことのない精子が作られ始めているなんて、思ってもいなかった。ただ、何かが違う、何かが変わっている、そんな漠然とした認識だけがあった。自分の体が、自分の知らない方向へ勝手に進んでいく。その事実が、どこか怖くて、受け入れがたかった。

こんな風に性的な変化は小学六年生の僕を少しずつ汚染し、変質させていった。でも、性的な変化だと当時の僕は認識していなかったし、むしろ意識的に遠ざけようとしていた節がある。認めることで、自分が何か見えない境界を越えてしまうのが怖かったのかもしれない。子供でいられる時間が、どんどん減っていく。そんな焦りと不安が、心の奥底にあった。

こういう変化は、僕にとっては「なんとなく気づいてしまった、みっともない変化」でしかなかった。お風呂に入った時、ふと目に入る自分のちんこが、以前より少し大きくなっている気がする。その変化が恥ずかしくて、まるで自分の体が勝手に何か恥ずべきことをしているような、そんな気持ちになった。その延長線の先に、ちん毛が生えることや、射精といった出来事が待っているなんてことは、想像すらしていなかった。そうした未来が自分のちんこに訪れるという実感は、まだどこにも存在していなかった。それはあまりに現実離れしていて、自分とは関係のない、遠い世界の話のように思えていた。でも、体は確実に、その遠い世界へと近づいていたのだ。

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小学六年生になった時、ふと頭をよぎった記憶があった。それは、かつて兄が小学六年生だった頃のことだ。
兄が小学六年生になるまでは、それは小さな子供のちんこだった。僕が知っている兄の姿は、それまでずっとそんな感じだった。でも、兄が小学六年生の時のちんこは明らかに違っていた。太さも長さもこれまでと全く違い、大きく変わっていた。その瞬間、子供のものではなく、何か別の存在に見えた。
当時小学三年生だった僕には、それがどういうことなのかよく分からなかった。ただ、目の前で起こった変化に驚きを感じながらも、それが自分にはまだ遠い未来の話だと思っていた。僕にとって六年生なんて、ずっと先のことだったからだ。
でも、気が付けば、その「ずっと先」はもう来ていて、僕は小学六年生になっていた。あの時の兄のちんこのように自分のちんこもなるのだろうか。それを考えると、心の中で嫌だという強い気持ちが浮かび上がってきた。僕はまだ子供のままでいたいのに、そんな風に変わるのが怖かった。
僕は兄が六年生だった時の背丈にはまだ全然及ばない。だから、もしかすると僕は兄のようにはならないんじゃないか。そんな風に思いたかった。自分だけは変わらずにいられるのではないかという、小さな期待を抱いていた。

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僕は、この頃、自分のことをまだまだ子供だと思っていた。でも、身体はそんな僕の意識を追い越すように先へ進んでいるようだった。六年生になった頃から、それを特に強く感じるようになった。その象徴的な出来事が、ちんこの勃起だった。
小学六年生になってから、その頻度が確実に増えているのを自分でもはっきりと感じていた。朝起きた時、一人で机に向かって勉強している時、何の前触れもなく突然起こるその現象に、どう対応すべきか分からなかった。ただ、それだけならまだよかった。もっと困ったのは、学校にいる時、予測できないタイミングでそれが起こることだった。
授業中、黒板をノートに写している時、教科書を読んでいる時、特に理由もなく、不意に始まる。誰かに気づかれてしまうのではないかという恐怖で、心臓が跳ねるように早くなる。僕はいつも緊張しながら、何とかやり過ごそうと必死だった。
学校だけではなかった。たとえば、お風呂で体を洗っている時。熱いシャワーが肌に触れているだけなのに、ふいに反応してしまうことがある。

勃起そのものは、以前からあった。小学校の低学年の頃にも、時々そうなることがあったのを覚えている。
でも、今はまったく違う。
まず、その頻度が圧倒的に増えた。低学年の頃はたまにしかない珍しい出来事だったのが、今では日常的に起こるようになっている。
それがただ頻度が上がっただけでなく、自分でコントロールできないことに困惑していた。どうしてこうなるのか、なぜ今なのか、その理由はわからないけど、確実に以前とは違う感覚があった。

僕は小学二年生くらいの幼い頃、ちんこをいじって勃起させて遊んでいたことがあった。その時、母親に見つかって「そんなことをしてはいけない」と強く注意され、恥ずかしくてそれ以来触るのをやめるようにしていた。その出来事は、子供心に深く残っていて、それ以来、ちんこに触ることにはどこか罪悪感を覚えていた。

だから、今また頻繁に起こる勃起についても、同じように触らないようにしていれば大丈夫だろうと思っていた。でも、触らなくても突然勃起してしまう。しかも、その状態がしばらく続くたびに、ちんこの奥の方からむずむずと何ともいえない不快感が湧いてくる。それはただの違和感だけではなく、じわじわと意識を支配するような感覚だった。

ある日、風呂に入っている時にふと考えた。父親は毎日風呂に入っていても、そんな様子を見たことがない。僕は、父親のようになれば、この現象もどうにかなるんじゃないかと思った。思い浮かんだのは、父親の亀頭が普段から露出している姿だった。もしかしたら、亀頭が露出していると勃起しなくなるのかもしれない、そう思った。
そこで、風呂から出た後に試してみることにした。亀頭部分を指でむき出しにして、そのままパンツを履いてみた。だけど、予想以上にその粘膜は敏感だった。パンツの布地が直接亀頭に触れると、ヒリヒリとした刺激が肌に伝わり、思わず声を出しそうになるほど痛かった。それ以上試すのは無理だとすぐに諦めてしまった。

僕はこの頃、ちんこがどうして勃起して硬くなるのか、その理由も意味も全く知らなかった。それが何のために起こるのかも分からないし、その先にどんな役割があるのかなんて、考えたこともなかった。

小学校六年生になってから、自分の体に今まで感じたことのない不思議な感覚が生まれてきた。ちんこのあたりからじわじわと湧き上がるような、どう言葉にしていいかわからないムズムズした気持ちだ。幼い頃にはなかったこの感覚は、初めて経験するもので、戸惑いも混じっていた。これが何なのか、どうしてこうなるのか、自分にはさっぱりわからなかった。ただひとつ言えるのは、この感覚が高まると自然にちんこが硬くなることで、その状態がどうしようもなく気になってしまうということだった。
硬くなったちんこに触れたくなる衝動に駆られるのも、何かに導かれるような感覚で、自分から意識的にそうしたいと思ったわけではなかった。しかし、そうしても一向に気持ちが晴れるわけではなく、どうすればこのムズムズが収まるのかもわからない。原因が何かも知らないまま、ただその感覚に振り回され、どうしようもないもどかしさを抱え込んでいた。

この新しい感覚は、日常生活の中でも思いがけない場面で突然襲ってきた。たとえば、机に向かって勉強をしようとしたとき。教科書の文字を追っているつもりが、いつの間にかそのムズムズに意識が引っ張られてしまう。頭の中がそのことばかりで占められ、勉強どころではなくなる。どうにかして集中しようとしても、その気持ちはしつこく体の中に居座り続けた。
仕方なく触ってしまうこともあったが、それでも完全に消えるわけではなかった。触れた後、自分は何をすればいいのかもわからず、中途半端な気持ちを抱え込んでしまうばかりだった。この感覚は、僕にとってなんだか得体の知れないものだった。今までの自分にはなかった新しい感覚に、体が変わっていくような気がして、自分の変化に驚きと戸惑いを感じていた。

当時の僕には、「オナニー」という言葉すら知らなかった。
耳にしたこともなければ、意味を知る機会もなかった。セックスについても、どこか漠然としたイメージしか持っていなかった。具体的に何をする行為なのか、全く理解していなかった。
性教育の授業で多少の知識は得ていたはずだが、それも断片的で、ましてや自分自身に結びつけて考えることはできなかった。
だから、小学六年生になってから頻繁に起こる勃起について、自分にはコントロールできないこの身体の変化に戸惑いつつ、その理由を知る手段もなく、ただやり過ごすしかなかった。

この頃の僕には、ちんこを誰かに見せたり、露出したりするのは絶対にやってはいけないことだ、という意識がしっかりと根付いていた。
だからこそ、勃起という現象そのものが他人に知られるのは何よりも恥ずかしく思えた。同時に、それを誰かに相談するなんて考えられるはずもなかった。自分の中の秘密として隠し通すべきものだと思っていたし、口にするだけで何かタブーを犯してしまうような気がしたのだ。

当時の僕は、この勃起という現象に性的な意味があるとは考えたことがなかった。まだ性について何も知らない僕は、ただ困惑しながら受け止めるしかできなかった。性的な欲求の表れだとか、そんな深い意味があるなんて、この頃の僕には想像もつかなかった。

この小学六年生になってからの頻繁な勃起には、思い返せば伏線があった。
小学五年生の頃、僕は自分のちんこに小さな変化が起きていることに気付いてた。
それは、誰にも気づかれないくらいの、ごくわずかな変化だった。自分の感覚として、睾丸が少しだけ大きくなったような気がした。ただ、それも「気のせいかもしれない」と思える程度の微妙なものだったし、見た目で言えば、全体的にはまだ子供のちんこそのものだった。

ただ、今になって思うと、その時すでに睾丸の中で何かが動き始めていたのだと思う。微量の男性ホルモンが分泌され始め、それが睾丸の成長を引き起こし、さらにその成長がホルモン分泌を促進するという循環が、僕の中で静かに進行していたのだろう。気づかないうちにその変化は加速していたのかもしれない。
小学六年生の始まり頃には、その進行が明らかになっていたのだろう。睾丸が以前より確実に大きくなっていたのかもしれない。その結果として男性ホルモンの分泌が高まり、ついにはちんこが勃起しやすい状態になってしまっていたのだと思う。

僕は、自分の睾丸の中で何が起きているのかなんて、あの頃はまったく知らなかった。でも今思えば、僕の幼いちんこは、知らないうちに生殖器としての役割を持つために作り替えられ始めていたのだと思う。
当時の僕の外見はまだ身長も低く、ただの子供にしか見えない。けれど、その身体の内側では、外見とは釣り合わない少し大きくなった睾丸が成長を始めていた。男性ホルモンを出し、精子を作る準備までも進めていたのだろう。誰からも、そして僕自身からも見えない場所で、着実に進行していた。
その頃の僕は、そんな変化が自分の中で起きているなんて想像もしていなかった。性という概念を理解する前に、僕の身体は僕の意識とは無関係に作り替えられていたのだ。

でも、これはきっと、僕だけの話ではなかったはずだ。クラスメイトの睾丸でも、僕と同じような変化が進行していたのだと思う。
休み時間に走り回って遊ぶ姿や、体育の時間に全力でボールを追いかける声は、間違いなく子供らしい純粋さに溢れていた。けれど、その内側では僕と同じように、男性ホルモンが分泌され、精子を作る準備が進み、彼らのちんこも次第に大人のものへと書き換えられていたのだろう。

僕たちはその時、自分自身に起きている変化に気づくこともなく、ただ日常の中で笑い合って、遊び、学んでいた。でも、その裏では、僕たちの体は少しずつ子供から大人へと変えられていたのだろう。僕たちの意思とは関係なく、静かに、確実に進む変化がそこにはあったのだろう。

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僕がこのくらいの歳だった頃、新聞の広告欄を眺めるのがなんとなく好きだった。特に興味があったわけではなく、時間つぶしのような感覚で、細かい文字がびっしり並んだその欄を何気なく追っていた。でも、その中に時々目に飛び込んでくる性的な単語が、どうしても気になって仕方がなかった。普段目にすることのないその言葉には、大人だけが知る秘密が隠されているような気がしたからだ。

その中でも特に覚えているのは、「インポ」という単語だった。初めてそれを見た時、何のことだか全然分からなかった。なんだろう、この言葉。どこか引っかかる感じがして、辞書を引いて調べることにした。 辞書に書かれていたのは「勃起不全」や「勃起しない病気」といった内容だった。
その瞬間、僕の頭に浮かんだのはらこの病気になりたいという気持ちだった。
当時の僕にとって勃起という現象は、とにかく厄介で恥ずかしくて、何よりも迷惑なものだった。
さらに、そうなれば僕のちんこの成長も止められるかもしれないと思った。僕は、ずっと子供のままの小さなちんこでいたかった。それは、成長していく身体への戸惑いや、変わっていく自分への抵抗のような感情だった気がする。
だから、辞書の説明を読んだ時、僕は不思議に思った。「なんで大人はこんな病気を治したいんだろう?」と。
でも、どうすれば自分が「インポ」になれるのかは全くわからなかった。ネットにも治療法らしきものが書かれていたけれど、そこに「なり方」なんて項目は載っていない。その言葉を見つめながら、僕はただ漠然とした願いと、抑えようのない戸惑いを抱えていた。

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小学六年生になって、僕の体と周りの世界が急に変わり始めた。それまで僕は、性というものにまるで縁のない、ただの子供の世界に心地よく浸っていた。でも、その平穏な世界は突然終わりを告げた。まるで扉が不意に開かれたように、「性」という未知の領域が目の前に現れたのだ。それは自分の意思とは無関係で、僕はその扉の向こうに無理やり引っ張られていくような感覚を味わった。
特に、自分の体に起きた変化は想像以上に衝撃的だった。その中でも最も大きな変化は、ちんこが頻繁に勃起するようになったことだ。それまでそんな現象はほとんど経験したことがなかったのに、小学六年生になった途端、自分では全く制御できず、何の前触れもなく勃起してしまう。それがどういう意味を持つのかもわからず、ただ戸惑うばかりだった。

僕はまだ「大人の世界」なんてものがどんなものかは全然わからない。ただ、その入り口に今立たされていることだけは、確かに感じていた。自分の中で何かが始まろうとしている。でも、それがどう進んでいくのか、僕には何一つわからなかった。

それでも、この変化は止められない。僕の身体は、僕の理解を待つことなく先へと進んでいくのだった。小学六年生のちんこの変化は、まだ始まったばかりだった。
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