『季節の錯覚 ―― 4月のスイカが問いかけるもの』

小川敦人

文字の大きさ
1 / 1

季節の逆説 —— 4月のスイカが映す消費社会の歪みと環境への代償

しおりを挟む
# 季節の錯覚 ―― 4月のスイカが問いかけるもの

スーパーの青果コーナーで足を止めた。目の前には、艶やかな緑の縞模様を纏ったスイカと、その小さな兄弟のような小玉スイカが並んでいる。4月初旬。桜の花びらがまだ舞う季節に、真夏の象徴であるスイカが当たり前のように陳列されている光景に、私は思わず眉をひそめた。
かつて青果部門で10年間働いていた私にとって、この光景は単なる違和感以上のものを呼び起こす。米価が高騰し、多くの家庭の食費を圧迫している今、季節外れのスイカの存在は何を意味するのだろうか。そこには現代の食文化の歪みと、私たちの「当たり前」が危険な方向へ崩れつつある現実が映し出されているように思えた。

## 青果担当者の目から見た季節感の崩壊

私が青果部門で働き始めた15年前、まだ店頭に並ぶ野菜や果物には明確な季節感があった。スイカは7月から8月の商品であり、夏のピークを象徴する果物だった。梨は秋、いちごは冬から春。それぞれの果物が持つ季節の物語があり、私たちはその物語を顧客に伝えることも仕事の一部だった。
「今年の梨は甘みが強いですよ。これから秋が深まるにつれて、種類も変わっていきますから、その変化を楽しんでくださいね」
そんな会話が、青果コーナーでは当たり前だった。季節感は単なる自然現象ではなく、人々の生活リズムや文化、そして食への期待と結びついていた。
しかし、年を追うごとに状況は変わっていった。最初は「少し早い時期の入荷」から始まった変化は、やがて季節の概念そのものを崩壊させるまでになった。技術の進歩と流通のグローバル化によって、季節という自然の制約は次々と打ち破られていった。

## 顧客と仕入れの間で

青果担当者として、私は徐々に矛盾した立場に追い込まれていった。一方では、季節外れの商品を求める顧客の声があった。
「クリスマスにスイカを出してほしい」
「冬でもナスが欲しい」
「なぜトマトが年中同じ値段じゃないの?」
そして他方では、利益を追求する企業の論理があった。季節を無視した商品展開は、年間を通じた販売機会の拡大を意味する。技術的に可能なことを、なぜビジネスとして活用しないのか——そんな議論に抗うことは次第に難しくなっていった。
私は葛藤した。プロとしての誇りは「本当においしい時期に、本当においしいものを提供する」ことにあったはずだ。しかし、時代の流れは「いつでも何でも」を可能にする方向へと急速に進んでいた。

## 消えゆく「待つ」喜び

最も残念に思ったのは、「待つ」喜びが失われていくことだった。
青果を扱っていた頃、私は初物の入荷に特別な喜びを感じていた。その年初めての国産メロン、初物のさくらんぼ、新物の栗——それらを店頭に並べる時、私自身が季節の移り変わりを体感していた。
そして顧客もまた、その喜びを共有していた。「今年の桃はいつ頃入りますか?」「さくらんぼはまだですか?」という問いかけには、期待と待ちわびる気持ちが込められていた。待つことで、味わいはより特別なものになっていたのだ。
しかし今、4月のスーパーに並ぶスイカを見ていると、その「待つ」文化が根本から覆されていることを実感する。欲しいものはいつでも手に入る——その便利さの裏で、私たちは何かとても大切なものを失っている。

## 生産者の苦悩と富裕層向け農業の矛盾

青果担当として働いていた頃、私は多くの生産者と接する機会があった。彼らの多くは、季節と共に生きることの意味を体現していた。春の雨、夏の日照時間、秋の朝霧、冬の寒さ——それらの自然のリズムに寄り添いながら、最高の作物を育てることに誇りを持っていた。
「この土地のこの気候だからこそ、このトマトの味が生まれるんです」
そう語る生産者の顔には、自然との調和の中で培われた知恵と誇りがあった。
しかし、季節外れの作物への需要が高まるにつれ、生産現場には新たな分断が生まれた。一部の資本力のある大規模農家は、高額な設備投資を行い、ハウス栽培や人工光源による栽培へと転換した。そうした設備投資が可能なのは、多くの場合、既に経済的に余裕のある生産者や企業だけだ。彼らは一部の富裕層や高級レストラン向けの高付加価値商品を生産し、高い利益率を確保していた。
一方で、伝統的な栽培方法を守る小規模農家は、その存在自体が危機に瀕していた。彼らが生産する季節の野菜や果物は「当たり前のもの」として扱われ、適正な対価を得ることが難しくなっていた。市場が「特別なもの」「季節外れの贅沢品」に高い価値を見出す中で、「当たり前の旬のもの」の価値は相対的に低下していったのだ。
「季節外れのイチゴを買う金持ちがいるから、うちのような小さな農家は苦しいんだ」
あるベテラン農家はそう嘆いていた。季節外れの高級農産物に流れる資本は、本来なら旬の作物の適正価格を支える経済循環から抜け落ちている。それは単なる市場競争ではなく、食文化の歪みを反映した不公正な構造なのだ。
そして今、別の業種に転職した私は、4月のスイカを見ながら、かつての生産者たちの苦悩を思い出す。彼らの多くは、季節を無視した生産が持つ本質的な問題を理解していた。エネルギー消費の増大、病害虫リスクの上昇、そして何より、富裕層の気まぐれな欲望に左右される不安定な市場構造。

## 失われる風土と食文化

日本の食文化は、風土と密接に結びついていた。各地域の気候風土が育む旬の食材と、それを活かす調理法が一体となり、豊かな食の景色を形作ってきた。
青果を扱っていた頃、私はその地域性の尊さを実感していた。関東と関西で微妙に異なる野菜の好み、東北と九州で異なる果物の収穫期。そうした違いは、単なる地理的条件の差ではなく、長い歴史の中で育まれた文化的な深みを持っていた。
しかし、季節感の喪失は同時に地域性の喪失でもある。全国どこでも、いつでも同じものが手に入る均質化された食環境は、地域の食文化の多様性を危うくしている。
4月のスイカに象徴されるその変化は、一見便利さをもたらしているように見える。しかし私は元青果担当者として、その変化の裏側にある喪失の大きさを痛感せずにはいられない。

## 富裕層のための食と歪んだ価格構造

スーパーで目にした4月のスイカには、確かに通常のスイカよりは高い価格がついていたが、その特別感を考えると驚くほど「手の届く」価格だった。一方で、米や小麦など誰もが必要とする基本的な食材の価格は高騰している。この矛盾は、私たちの社会が抱える不平等の縮図ではないだろうか。
青果を扱っていた経験から、私はこの現象の本質を見抜いている。季節外れの贅沢品がますます多くの人々に「手の届く」価格になる一方で、主食の価格は上昇し、多くの家庭の食費を圧迫している。これは富の再分配の歪みを示している。
かつて季節外れの果物は、一部の富裕層だけが楽しむ特別な贅沢品だった。それが当たり前だったのは、その生産には膨大なコストがかかることを、誰もが理解していたからだ。ハウス栽培のための暖房費、照明費、あるいは輸入品であれば長距離輸送のための燃料費。それらのコストは適正に価格に反映され、その結果として一般の人々には手が届かないものだった。
しかし今、企業は「誰でも贅沢を」というスローガンの下、大量生産と価格競争によって季節外れの果物を「民主化」している。表面上は消費者に選択肢を与えるように見えるこの戦略は、実は新たな消費文化を創り出すためのマーケティング戦略に他ならない。
そして最も深刻なのは、この見かけの「民主化」の裏で進む真の不平等だ。季節外れのスイカが比較的手頃な価格で提供される一方で、その環境コストは社会全体に、特に最も脆弱な立場にある人々に押し付けられている。気候変動の影響を最も受けるのは、社会的弱者だからだ。
本来、食べ物の価格には「適正さ」があるはずだ。旬のものは豊富に収穫できるため安く、季節外れのものは希少であるため高価になる——そんな自然な市場原理が働いていた。しかし今やその原理は崩れ、価格は食べ物の本質的な価値やコストを反映しなくなっている。代わりに、富裕層の気まぐれな欲望と、それに応える企業の利益追求が価格を決定している。
米価が高騰する一方で、4月のスイカが比較的手頃な価格で手に入るという現実は、私たちの食システムが「必要なもの」より「欲しいもの」を優先する歪んだ構造を持っていることを示している。そしてその背景には、一部の特権層の欲望を満たすために構築された経済システムがある。

## 特権的消費文化への抵抗

青果の世界を離れた今、一消費者となった私には何ができるだろうか。
スーパーでスイカを前に立ちすくむ私の脳裏に、かつての同僚や生産者たちの顔が浮かぶ。彼らは日々、市場の要求と自分たちの信念の間で揺れている。季節感を無視した商品展開を進めるべきか、それとも旬の本質を守るべきか。そして私が最も悩ましく感じるのは、こうした季節外れの果物が、本来誰のために提供されてきたのかという点だ。
かつて季節外れの高級果物は、一部の富裕層の象徴だった。彼らは「普通の人には手に入らないもの」を所有し消費することで、自らの社会的地位を確認していた。しかし今、その特権的消費文化は「誰でも手に入る贅沢」という欺瞞的な装いをまとった大量消費文化へと変質している。
私個人の選択は明確だ。4月にスイカを買うことはない。それは単なる頑固さからではなく、こうした特権的消費文化と、それを「民主化」という名目で大衆に広げようとする資本の論理に抵抗したいという思いからだ。旬のものを旬の時期に味わうことは、自然のリズムを尊重するだけでなく、必要以上の消費を煽る市場の圧力に抗う政治的な行為でもある。
同時に、消費者として声を上げることも大切だろう。「旬のものを適正価格で」「必要なものに適正な対価を」という当たり前の要求が、市場を少しずつ変えていく可能性もある。実際、近年は季節感や地産地消を重視する消費者も増えつつある。しかし、それが単に新たな「エシカル消費」という富裕層向けの市場を作り出すだけにならないよう、常に警戒が必要だ。

## システムを問い直す

しかし、個人の選択だけでは解決しない問題もある。4月のスイカを可能にしているのは、より大きな食のシステム全体だからだ。
青果業界で働いていた経験から、私はその構造的な問題を理解している。大量生産・大量流通・大量消費を前提とした現在の食システムは、効率と利便性を優先する一方で、季節感や地域性、そして食の本質的な豊かさを犠牲にしてきた。
この状況を変えるためには、食のシステム全体を問い直す必要がある。生産者が適正な対価を得ながら旬の作物を育てられる仕組み、流通過程での環境負荷を最小限に抑える方法、そして何より、消費者が食の本質を理解し尊重する文化の構築。
私が青果の仕事を離れた理由の一つは、個人の努力だけではこのシステムを変えることの難しさを痛感したからだ。しかし、別の視点から食の問題に関わることで、新たな変化の可能性を探りたいと考えている。

## 終わりに ―― 富の再分配から考える食の未来

スーパーで見かけた4月のスイカは、私に多くのことを考えさせてくれた。かつて青果部門で働いていた頃の記憶が鮮やかに蘇り、変わりゆく食環境への懸念が改めて心を占めた。
米価の高騰と季節外れのスイカという対比は、私たちの社会が抱える根本的な問題を映し出している。それは単なる食の問題ではなく、富の分配と社会正義の問題だ。「必要なもの」よりも「欲しいもの」、「多くの人のための基本」よりも「一部の人のための贅沢」が優先される社会の歪みが、食の領域にも浸透している。
技術の進歩によって可能になった「いつでも何でも」の世界は、一見民主的な豊かさをもたらしているように見えるが、その実、それは富裕層の特権的消費文化を大衆向けに薄めただけの、本質的には不平等な構造を持っている。私たちは季節感や待つ喜び、食の本質的な豊かさだけでなく、限られた資源を公正に分配するという社会的責任も失っているのではないだろうか。
10年間青果と向き合ってきた経験から、私は確信している。本当においしいスイカは、やはり真夏の太陽の下で育ったものだ。人工的な環境で育てられた4月のスイカには、決して真似できない自然の恵みがある。それは単なる懐古主義ではなく、食べ物と自然の本質的な関係に基づいた真実だ。そしてもう一つ確信しているのは、こうした季節外れの贅沢品よりも、社会全体が「必要なもの」に適正にアクセスできる経済構造の方が、はるかに重要だということだ。
今日の選択が、明日の食卓を形作る。私たちは今、食の未来への分岐点に立っている。富裕層向けの過剰な選択肢と贅沢を優先する道を進むのか、それとも基本的な食料への公平なアクセスと、季節と風土を尊重する本来の食の豊かさを取り戻す道を選ぶのか。
スイカの縞模様を眺めながら、私はそんなことを考えていた。4月の青果コーナーで、かつての同僚たちや生産者たちの顔を思い浮かべながら。そして、私たちの社会がどんな「豊かさ」を本当に必要としているのかを自問しながら。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

友人の結婚式で友人兄嫁がスピーチしてくれたのだけど修羅場だった

海林檎
恋愛
え·····こんな時代錯誤の家まだあったんだ····? 友人の家はまさに嫁は義実家の家政婦と言った風潮の生きた化石でガチで引いた上での修羅場展開になった話を書きます·····(((((´°ω°`*))))))

さようなら、たったひとつの

あんど もあ
ファンタジー
メアリは、10年間婚約したディーゴから婚約解消される。 大人しく身を引いたメアリだが、ディーゴは翌日から寝込んでしまい…。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

『二流』と言われて婚約破棄されたので、ざまぁしてやります!

志熊みゅう
恋愛
「どうして君は何をやらせても『二流』なんだ!」  皇太子レイモン殿下に、公衆の面前で婚約破棄された侯爵令嬢ソフィ。皇妃の命で地味な装いに徹し、妃教育にすべてを捧げた五年間は、あっさり否定された。それでも、ソフィはくじけない。婚約破棄をきっかけに、学生生活を楽しむと決めた彼女は、一気にイメチェン、大好きだったヴァイオリンを再開し、成績も急上昇!気づけばファンクラブまでできて、学生たちの注目の的に。  そして、音楽を通して親しくなった隣国の留学生・ジョルジュの正体は、なんと……?  『二流』と蔑まれた令嬢が、“恋”と“努力”で見返す爽快逆転ストーリー!

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

婚約者を奪った妹と縁を切ったので、家から離れ“辺境領”を継ぎました。 すると勇者一行までついてきたので、領地が最強になったようです

藤原遊
ファンタジー
婚約発表の場で、妹に婚約者を奪われた。 家族にも教会にも見放され、聖女である私・エリシアは “不要” と切り捨てられる。 その“褒賞”として押しつけられたのは―― 魔物と瘴気に覆われた、滅びかけの辺境領だった。 けれど私は、絶望しなかった。 むしろ、生まれて初めて「自由」になれたのだ。 そして、予想外の出来事が起きる。 ――かつて共に魔王を倒した“勇者一行”が、次々と押しかけてきた。 「君をひとりで行かせるわけがない」 そう言って微笑む勇者レオン。 村を守るため剣を抜く騎士。 魔導具を抱えて駆けつける天才魔法使い。 物陰から見守る斥候は、相変わらず不器用で優しい。 彼らと力を合わせ、私は土地を浄化し、村を癒し、辺境の地に息を吹き返す。 気づけば、魔物巣窟は制圧され、泉は澄み渡り、鉱山もダンジョンも豊かに開き―― いつの間にか領地は、“どの国よりも最強の地”になっていた。 もう、誰にも振り回されない。 ここが私の新しい居場所。 そして、隣には――かつての仲間たちがいる。 捨てられた聖女が、仲間と共に辺境を立て直す。 これは、そんな私の第二の人生の物語。

ちゃんと忠告をしましたよ?

柚木ゆず
ファンタジー
 ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。 「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」  アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。  アゼット様。まだ間に合います。  今なら、引き返せますよ? ※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。

魅了の対価

しがついつか
ファンタジー
家庭事情により給金の高い職場を求めて転職したリンリーは、縁あってブラウンロード伯爵家の使用人になった。 彼女は伯爵家の第二子アッシュ・ブラウンロードの侍女を任された。 ブラウンロード伯爵家では、なぜか一家のみならず屋敷で働く使用人達のすべてがアッシュのことを嫌悪していた。 アッシュと顔を合わせてすぐにリンリーも「あ、私コイツ嫌いだわ」と感じたのだが、上級使用人を目指す彼女は私情を挟まずに職務に専念することにした。 淡々と世話をしてくれるリンリーに、アッシュは次第に心を開いていった。

処理中です...